古代ギリシア人による古代のヨーロッパの民族・部族区分
古代ギリシア人は、ギリシア以外のヨーロッパ世界を現在のウクライナ辺りから東にスキタイ諸族。スキタイ諸族より西側に住むギリシア人以外の人を総称してケルト諸族と呼んだ。つまり、古代のギリシア人は当時のヨーロッパの人々を、「ケルト」「ギリシア」「スキタイ」の三つに大別したわけで実にシンプルです。
スラヴ人
スキタイ諸族の子孫が確実にそうなのかどうかは言い切れませんけど、今で言うところのスラヴ人の出自領域とほぼ重なると思います。今回は、スラヴ人には触れませんが、スラヴ人は以下の3つに大別される。
●東スラヴ系=>ウクライナ人、ベラルーシ人、ロシア人 ※旧ノヴゴロド公国辺りを北スラヴと呼ぶ場合もある。
●西スラヴ系=>スロバキア人、チェコ人、ポーランド人
●南スラヴ系=>クロアチア人、セルビア人、ブルガリア人、他
●ヴァンダル人 ※ヴァンダル人が何系のスラヴ人かは、当記事では取り敢えず未確定。
ケルト人
初期の古代ローマ人(王政の頃や共和政初期のローマ人)は、古代ギリシア人の単純明快な三分別の内のケルト諸族を以下のように細分化する。
●オーデル・ヴィストゥラ諸族=>東方ゲルマン系諸族。
●ゴート人(西ゴート/東ゴート)※クリミアゴートという部族もあるらしい。
●ブルグント人
●ジャトランド・デニッシュ諸族=>西方ゲルマン系諸族。
●アングル人
●サクソン人
●ジュート人
●フリース人
●アラマンニ人
※他にも記されていますけど、主要部族のみ羅列しました。
●フランク人・・・今回の主役
●ライン諸族=>ガリア系諸族。
●アクィタニア人
●ケルタエ人
●ベルガエ人
●エルベ諸族=>アルプス系諸族。
●フランケン人
●アレマン人
●バイエルン人
●スイス人
●オーストリア人
●他(フランス東部人/イタリア北部人 etc)
古代ローマ人は、現在のデンマーク・ユトランド半島から、ドイツ、ポーランド、チェコ、スロバキア辺りを指して『ジャトランド(=ユトランド)・デニッシュ』と呼び、やがては「ゲルマニア」と呼んだ。ゲルマニアの西域、現在のスイス~フランス辺りは「ガリア」と呼んだ。ガリアの住民達が総じてガリア人と呼ばれた事に対して、ゲルマニアの人々はゲルマニア人ではなく、総じてゲルマン人と呼ばれた。
ゲルマン人の”民族性”の始まりを、紀元前3千年よりもっと古い時代のユトランド半島やスカンジナビア半島辺りに求めて、その頃の彼らを”原始ゲルマン人“と称す場合もあるらしい。ところで・・・
スカンジナビア半島全体とユトランド半島に展開しその各所に居着いた人々は総じてノルマン人と呼ばれる。現在のノルウェーを中心に定住したノール人とスウェーデンを中心に定住したスウェード人(スヴェーア人)に大別される。更に、ユトランド半島に居着いた人々はデーン人と呼ばれデンマーク人の祖となる。
ゲルマン民族の大移動
イラン系遊牧騎馬民族のアラン族やスラヴ語系のヴァンダル族(=ルギイ族)などを従わせた出自不明でミステリアスな遊牧騎馬民族のフン族が東方ゲルマン系諸族の居住地を襲撃する。ゲルマン系諸族は為すすべなく敗れ、ブルグント人は西方へ、ゴート人は東ゴートと西ゴートの二手に分かれ、東ゴートはギリシア~ローマ方面へ、西ゴートはゲルマニアへと逃走劇を敢行した(※クリミア・ゴートを含めたら三方へ逃げた)。西ゴート族も必死になって死に物狂いの形相でのゲルマニア乱入で何の余裕も無かった。彼らの乱入を受けたゲルマニア各地のゲルマン人達は押し出されるように西へ南へと逃げ出した。更に、フン族の攻撃も受けたゲルマン人達はガリアや、海を渡った先のブリテン島へ行かざるを得なかった。海へ出たゲルマン人諸族(アングル人、サクソン人、ジュート人・・・いわゆる、アングロ・サクソン人)には、もっと古い時代にブリテン島やアイルランドへ渡っていた『島嶼のケルト』との戦いが待っていた。
兎に角、皆、恐ろしい騎馬民族から逃れることに必死だった。(ゲルマン民族の大移動)
彼ら(ゲルマン人)は、隣接したガリア人やアルプス人、スラヴ人、そして騎馬民族とも婚姻を繰り返したが、ゲルマンと混血した地域や部族には、文化・風習の多様化が起きた。そして何より、見た目や言葉も似て来た。しかし、多様化したが故の価値観の相違が生まれて、それを認めるか認めないかという些細な、いや実に重要な部分かもしれないが、無数の争いを生むことに繋がる。多様性を認めるということはそれまでの「法」を有名無味にすることでもあり、実にややこしい問題だ。
ガリア
カエサル(=シーザー)著『ガリア戦記』で、ガリアの3つの地域が以下のように記されている(先述の繰り返しになるけれど)。
【カエサルが区分けしたガリアの三地域】
●北東部「ベルガエ」
●南西部「アクィタニア」
●ベルガエとアクィタニアに挟まれた中域「ケルタエ」
ガリア・ベルギカ
『ガリア戦記』には、ベルガエは、ゲルマニアとも領域を接していたが、ベルガエ人はゲルマン人系のキンブリ族やテウトネス族の侵入を単独で撃退したと書いてある。カエサル曰く、「ベルガエ人は、ガリア3地区の中では最も勇猛な人達」だった。「ベルガエ人は元々はゲルマン系で、ライン川を渡ってガリアへ住み着いて、土着のガリア人は追い出された。」とも記している。この記述通りなら、ベルガエ人も大移動した人たち。
ローマは、最も勇猛な相手であるベルガエ人を殲滅する事に対して躍起になり、激闘の末にそれは成される。現在のベルギー、ルクセンブルク、北東フランス、ドイツ西部までが「ガリア・ベルギカ属州」としてローマに支配された(※オランダは、フリース人が大移動してきて占拠していた)。ゲルマニアとガリア・ベルギカの境界は、ライン川の流れとなった。早い話、ライン川を挟んで、ローマとゲルアニアは睨み合ったって事ですね。その後、カエサルが亡くなり帝政が始まったローマでは、ケルタエだけを指してガリアと呼ぶようになります。
時は流れ、ローマ属州・ガリア・ベルギカには、現在のオランダ北東部からドイツ北西部辺りからフランク人系サリ族が移住して住み着いた。と言っても、サリ族が勝手に侵入したわけではなく、358年当時のローマ皇帝ユリアヌスに”招致”されての移入というのが真実だと云われている。
サリ・フランク
ローマと同盟したサリ族は、現在のベルギー・トゥルネーを本拠地として発展。フランク人を統合(併合)して「サリ・フランク族」を”成立”させる。5世紀頃のことです。ところで、ベルガエ人は何処へ行ったのか?皆殺しという事でも無いでしょうけどね・・・ま、いいか。
サリ・フランク族は、サリの中心的存在だったクローヴィスを王として国家宣言する(=フランク王国/481年)。しかし王国と言ってもまだ確固たる首都(王都)を持たないままの船出だった。
メロヴィング朝
ベルガエから東へ領域拡張を開始したフランク王国は、現フランス北部シャンパーニュ=アルデンヌ地域圏のマルヌ県辺りに於いて、レミ族と激突(西暦497年~498年)。クローヴィス率いるサリ軍は圧倒的な強さでレミ族を壊滅状態に追い込み、レミ族の本拠地ランスを占領する。クローヴィスは、ランスをフランク王国の王都とすることを検討。ところが、レミの族長、若しくは族長に近い筋?のランス大司教レミギウスは一筋縄ではいかない人だった。クローヴィスより30歳ほど年長者だったと云われるが、レミギウスは、”征服者”クローヴィスに対して怖じ気付くことなくカトリックの教えを説いた。
教会の荘厳さと司祭たる者の姿勢を気に入ったクローヴィスは、カトリックへの転宗を合意。レミギウスから洗礼を受ける。王が洗礼を受けたのだから、サリ・フランク族の貴族達も次々と洗礼を受ける事になり、フランク王国はカトリックを守護する国家という立場を確立させた。
連戦連勝したクローヴィスによって、メロヴィング朝の支配領域は拡大の一途を辿りますが、クローヴィスは、領土統治の大半をレミギウスに委ねます。レミギウスは統治を成功させる為に教会を利用。フランク王国領内には次々と教会が建ち、その中心となったランスは、フランクの王都に留まらずカトリックの聖都として都市の地位を向上させる。(元はローマ人が建てたものだけど)マルス門=凱旋門は王を迎える栄えある入場門となり、ランスは神聖なる王が治める聖域となった。
ランスが、フランク王国の最初の王都になったことに由来し、現在の「フランス」という国家名が誕生した(多分)。
聖都の趣きを兼ね備えた王都ランスの誇りが、彼らに”神聖国家”を名乗らせる原動力となり、カトリック教会(ローマ教皇)からの信頼も絶大なものとなり、ローマの名をフランクに委ね、神聖ローマ帝国が誕生する。ローマ・カトリック教会の権威が強大化するのも、ヨーロッパの地位が他地域に比して圧倒的に向上したのも、神聖ローマ帝国の誕生に起因すると言ってけっして言い過ぎではない。
聖都ランスに対して、それ(聖都)に相応しいシンボリックなものが求められた結果、12世紀に建築されたのがノートルダム大聖堂。ノートルダム大聖堂が建てられた場所には元々大教会があった。しかし火事で焼失。それで燃えない教会を目指し、本格ゴシック建築様式の大聖堂が建てられ、現在ではユネスコの世界遺産となっている。他にランスに在るのは、クローヴィス1世の洗礼~戴冠式の祭祀を執り行った聖レミの名を冠するサン=レミ聖堂(バシリカ=最上位教会堂)やトー宮殿など。
聖都ランスは、やがて政治的権威をパリに奪われる。ランスの名を由来に建国されたフランス国家も、今では王国ではなくなった。
ベルギー
ネーデルラント
1300年ほど時代を一足飛びさせて1815年。サリ族の発展地となった現在のベルギーやネーデルラント(=オランダ)に、ネーデルラント連合王国が誕生します。が、北部(ネーデルラント側)を中心に事が進められたので、南部(ベルギー側)の住民は釈然としないものを感じていた。そもそも、宗教が違う。北部ではプロテスタント信者が圧倒的多数を占め、南部ではカトリック信者が多数を占めた。王室中枢は北部にあり、『ネーデルラント』という国名に対して王族や北部の住民は満足かもしれないが、南部には何の愛着も感じない名前だった。
不屈のベルギー王国
“南部愛”に拘る人達は、古来の名称『ベルガエ』に因む『ベルギー』での独立を声高に叫んだ。名称よりも、根底に宗教対立があり簡単には修復出来なかった。遂に、ネーデルラント連合王国の設立から僅か15年後、独立戦争を勝った南部の彼らはベルギー王国を成立させる。
ザクセン公家(ヴェッティン家)の三男レオポルド1世を担いで、新生ベルギー王家(ザクセン=コーブルク=ゴータ家)が発足。王国として独立した当初は、隣国フランスやネーデルラント(=オランダ)と常に一触即発の緊張状態が続き不安定な政治状況にあった。そういう状況下で国家経済を作っていくには、大国の支援を得ることが絶対に欠かせない。ベルギー王国の初代国王に即位したレオポルド1世が頼ったのは、オーストリアと大英帝国だった。
ザクセン公家の血縁力は侮れない。ベルギー国家創設に動いた人達もその力に目をつけて、国王にレオポルド1世を望んだものと考えられる。レオポルド1世の曽祖父、祖父、父と連なる系譜の中で、ザクセン公家は、ロシア、ブルガリア、オーストリア、大英帝国等々、ヨーロッパの各王室に対してその跡継ぎ候補達を作り出すなど密接な関係を保っていた。レオポルド1世は、実家(ザクセン公家)の血縁力を最大限に活用する。
当時、”ヨーロッパ一の美女”と謳われたレオポルド1世の娘マリー=シャーロットは、”美の帝国”ハプスブルク家のマクシミリアン=フェルディナント大公に見初められ妻となる。この婚姻で、オーストリアという絶対的な後ろ盾を得たベルギー王国は、オーストリアと親密なハンガリーや、ザクセン公家の縁戚筋ブルガリアとも協力関係を構築します。更に、後のイングランドのヴィクトリア女王とその夫となるアルブレヒト殿下は、共にレオポルド1世の姪と甥という間柄。二人を結婚させて、大英帝国の女王夫妻と成せたことで、レオポルド1世率いるベルギーは、海の直ぐ向こう側の大国を強力な味方に付けることが出来た。
“新生”ベルギー王国は、フランスやオランダの反撃を断つ事に成功して、王室もそのままに現在に至っている。
因みに、ザクセン=コーブルク=ゴータ家は現在へ続く王家ですが、姓は単純な姓に変えられて、現在ではベルギー家が王家の姓。ベルガエ人の故地であることが誰でも忘れないように出来るネーミング。明快な国家名と王家名を堂々と名乗るベルギー家の王国を、絶対に一度は訪れたい。実現出来るかな?
ヨーロッパ各国の王室や為政者と深く繋がっているベルギー王国は、現在の国家歴史は浅く、国家領域も狭い。しかし、政治的な影響力は絶大なものを持っています。故に、EU本部も置かれているのですが、2000年以降、ベルギーの主要各都市がテロリストに攻撃されることが増えて来た。EUの中枢国家、 『ワン・ヨーロッパ』のシンボルであるベルギーをテロの標的にするということは、ヨーロッパ全てを敵に回すことに他ならない。テロリスト側は、百も承知でそれをやっているのでしょうけど、わざわざイスラム教信者をヨーロッパ中から嫌わせるように仕向けて、何が嬉しいのかねェ。不屈のフランデレンが国家建設の基礎にもなっているベルギーは、テロに屈する筈もない。でも長くなったので今回はこれでお終い。
※当エッセイ文は、『フランデレンとベルギー王国』を別視点で書き直したものです。
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