公衆衛生は大切

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ここ数年、変異と言えばコロナウイルス。「またか?」とうんざるするほど次から次へと変異して、なかなか収束してくれない。予防ワクチン注射を何度打っても感染の危険性は継続している。まだ一度も罹っていないことの方をラッキーと受け止めるしかないのかもしれない。いつかは罹ってしまうことを前提にその時の対処法を事前学習しておくのも大事なことでしょうね。

そして、歴史的にはコロナウイルスよりも遥かに古く長い歴史を持つのがインフルエンザ。このインフルエンザこそ感染ウイルス変異の権化と言える。姿かたちを変え、又は復活して見せて、毎年必ず世界の何処かで”流行”する。日本でも、季節性インフルエンザに毎年多くの人が感染するし、命を落とす人も確実に出ている。だから、インフルエンザに対するワクチン接種を毎年受けているという人が少なくない。毎年じゃなくても、大流行の兆しが見えた際にはワクチン接種を行うという人を含めると、日本に於けるインフルエンザワクチン接種率は、毎年49%程度いるという事だ。そして意外な数字だが、米国でも例年45%近くの人がインフルエンザワクチン接種を受けているという。その事を踏まえて今回の雑記ですが・・・

インフルエンザワクチンの国内接種率が毎年50%前後という数値。それが多いか少ないかはどうでもいいけど、恐らく、インフルエンザ・ウイルスは地球から消えて滅することはないでしょう。インフルエンザに限らず、感染症を引き起こすウイルスの多くは死滅しないし変異・”進化”を遂げている。今回のコロナ・ウイルスのような新種も登場する。

新型コロナ感染ウイルスは、この先、半永久的に地球上に居座る事になるというのが世界中の学者からの多くの声。インフルエンザ同様に、ずーっと警戒行動を取り続けなければならない。しかも、新しい感染症だから流行の兆しが読み辛い。インフルエンザのように季節性流行に対し事前に備えることも出来るなら良いけど、随時変異流行なので厄介です。マスク生活と完全に切り離せるのはまだ先の事。労働の仕方も、学業の仕方も、男女の付き合い方も・・・と、生活様式が変わったし、今後も色々と変わっていくでしょう。

「死」の危険性を伴う感染症の大流行は、人同士の接触を密ではなくす。故に、見知らぬ誰かに触られる(痴漢行為)とか、レイプ・暴力被害などを減らすかもしれない。しかし、誰とも接触しなくても生活可能な社会を築いていくことによって、見知らぬ誰かが見知らぬ誰かを然も知っているかのように錯覚させることも起こり得る。知りもしない誰かを勝手に好きになり、嫌い、憎しみを持つ。そのような一方的身勝手な感情が引き起こす”迷惑犯罪”が多発していく。ヒト社会は全く謎である。

感染症

インフルエンザやコロナに限らず、ペストやコレラやチフス、SARS、エイズ、ハンセン病など、超危険な感染症と戦ってきたのがホモ・サピエンスの歴史。ヒト以外の動物や鳥にもウイルス性疾患は起こるけれど、それも含めて感染症は、私たちの食・生活や経済生活と隣り合わせにある。

感染症や疫病に関する太古の記録として、バビロニアの『ギルガメシュ叙事詩』の中に、四災厄のひとつと刻まれている。人類で最も早く進化した古代オリエント・メソポタミア文明に於いて、既に、感染症は脅威であると認識されており、感染症は、人類を公衆衛生に目覚めさせる強いきっかけとなった
現代日本社会の三大疾病と言われる、癌、急性心筋梗塞、脳卒中は誰にも罹る可能性がある病だが、遺伝性があっても感染はしない。健康に注意して生活を送ればある程度防げ、早期発見も可能。しかし、感染症は健康診断では防げない。

感染症は、異なる民族・部族や異なる文化との接触や交流によって、瞬く間に拡大する。現代社会は、飛行機という短時間の移動手段を持った故、その伝染スピードは過去とは比較にならない位に早まったが、反面、医療・衛生面の充実により、その拡大はある程度抑える事も出来ている。しかし、兎に角、公衆衛生意識が薄く、抗生物質なども無かった時代では、多くの感染症が迫り来る死の病として恐れられた。

公衆衛生の歴史

市井の個人の公衆衛生に対する意識は薄くても、「公衆衛生」の起源はとても古い。

汚染水や塵芥の処理がなされないまま居住区に放置されると伝染病が発生する。ということを人は古くから社会的通念として知っていた。だから、トイレの位置が定められたり、汚い水は避けたり、ハエや蛆虫が嫌われたりした。

古代に起源をもつ宗教の多くは、伝染病との戦いの中で発生したと言って言い過ぎない。イスラム教が豚を嫌ったのは、生煮えで豚肉を食った挙句に何らかの強力な感染症が発生し、人々が大量死した事に起因するのは間違いない。日常の食物規制や飲酒・性的関係の制限を行ったのも、全ては感染症対策に相違ない。

健全な生活こそが、人間の健康を作り、社会を清浄化する。という事が意識付けされて、それを規範や教義として内包し習慣づけた結果が宗教の誕生だと考えられる。

宗教としてではなく、行政面でそれ(衛生)を意識していたローマでは、既に王政の頃から、適切な汚物の排出は都市における公衆衛生の常識として理解されていた。

14世紀のヨーロッパを恐怖支配した黒死病(ペスト)の大伝染に於いて、その死体を遠ざけておくことが感染を遠ざけると信じられたが、これは、結核や水痘(=疱疹)がこの頃には認識されていたことの裏返しかもしれません。けど、ペスト自体は飛沫感染やネズミなどによる媒体感染なので死体を遠ざけても一定の効果はあっても完全な防止にはならない。が、距離を置く事は感染予防の有効策である事は今でも変わらないから、現代でも、強力な感染症(例えばエボラ出血熱なども)に対しては先ず隔離政策が執られます。

科学的な疫学を最初に提唱した人はジョン・スノウ

1854年に、ロンドンでコレラが大流行しますが、ジョン・スノウは、公衆の井戸水が原因であるとして、当時主流であった瘴気説に対抗して細菌説を説いた。細菌に対する公衆予防の生みの親は、ジョン・スノウと言える。

公衆衛生が大切な事を知っている人は多い筈だが、自ら積極的に清掃等に参加したりする人は少ない。不肖私は、学校や職場の掃除を嫌がる人間を信用しません。そういう人達に限って、自分の部屋は小奇麗に片付けているとか言うが信用しない。学校や職場の掃除がどうして必要か?衛生意識が足りていない者には何をどう言っても無駄なのでイチイチ諭すこともしませんが、本当に、自分の机さえ拭かない者が多過ぎる。そういう人達は、町のあちらこちらに落書きされている事にも無頓着に決まっている。

落書きを許すべからず!の理由

落書きを軽視するとろくな事にはならない。町全体が暗くなり、暗くなった町は必ず衛生面が悪くなり、ろくでもない疫病に冒されて死の町になる。という歴史を人類は繰り返している。そういう歴史は誰もが簡単に知ることが出来るのに、自分には関係のない事だと考える人があまりにも多過ぎる。公衆衛生こそが町づくりの基本中の基本です。それを強く言えない政治家もつまらないし信用出来ない。兎に角、落書きは禁止するし、重罰を与えて然るべき。

自分には関係ないと軽く見ている人達は大勢いるが、落書き一つ許さない事から始めないと、本当の町の防衛など出来やしない。戦争ばかりが防衛論ではなく、本当の安全は、衛生面の保障から生まれる。だから、自分の職場や自分の家庭の掃除が出来ない人達は、公衆衛生を理解出来ないという意味に於いて反社会的な人間だと思う。不衛生な事を見過ごす事は許されない。必ず痛い目に遇います。

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