南北朝時代への螺旋(1)~後嵯峨天皇の即位~

時を紡ぐ~Japan~

『治天の君』とは

日本に大和朝廷が成立して以降より現在に至るまで、国家君主として『天皇』という呼称が用い続けられている。

ところで、古代末期から中世にかけての朝廷では、必ずしも『天皇』が当主として全権を掌握していたとは言えない時代が数多くある。天皇が幼帝である場合は言うまでもなく、成人年齢の天皇であっても経験不足などを理由に、政務の実権を太上天皇=『上皇』が握っていた時が至極当たり前に存在する。

だったら譲位して上皇とならずに、ずっと天皇のままで在った方が混乱せずに済んだものを、と思われるようなケースも数々見受けられるが、譲位せずにはいられない朝廷事情もあったのでしょう。

『天皇』か『上皇』かに関わらず、政務の実権を掌握していた朝廷当主を指す”用語”が『治天の君』である。

治天の君として君臨する朝廷当主=天皇である場合、治天の君によって引き起こされた政治的な問題は原因が『天皇』にあることがハッキリしている。

一方、治天の君が院政を敷く『上皇』である場合に於いては、上皇と天皇、或いは、天皇と皇太子、皇太子と皇子達など、その地位や後継を巡る争いが政治的問題に発展するという事も起きやすい。付け足せば、各人の取り巻き達による権力・主導権争いが複雑に絡み合い、朝廷内外に禍根を残す事態が屡々しばしば繰り返されて来た。

因みに、上皇が『治天の君』である場合には、天皇は『在位の君』と呼ばれることになる。

上皇が『治天の君』として行う治政は「院政」と呼ばれ、これに対して、天皇が『治天の君』として政務に当たることを「親政」と呼ばれる。

『治天の君』の復活

そもそも『治天の君』の「治天」という言葉は、古代期の大和朝廷に於ける君主への尊称である「大王」の正式名称「治天下大王(あめのしたしろしめすおおきみ)」に由来する。つまり、『天皇』呼称よりも古く用いられていた君主尊称が『治天の君』である。ということは、昔の人は、『天皇』を敬ってはいたけれど、『治天の君』が上皇である場合は、『上皇』を『天皇』よりも敬っていた事になる。

律令の整備が進んでいた5世紀後半頃から、藤原氏族による摂関政治が行われていた時代は『治天の君』呼称を暫く使用されていない。しかし、藤原氏の絶対権力が失墜し、天皇家への権力集中が望ましいという考え方が出て来ると、『上皇』による院政が開始される。それに合わせて、『治天の君』という呼称が使用されるようになった。そのきっかけとなったのは、白河上皇の院政と云われる。天皇の母方であった摂関家に対し、天皇の父方である上皇が、その権力を奪い返した証が『治天の君』復活である。

究極の世襲

官司請負制

10世紀辺りから顕著になった動きですが、畿内では、官司業務を特定氏族がその権力によって独占・寡占するようになり、官職とはいうものの、ほぼ家職になったものが少なくない。この状態を指して「官司請負制」と呼ばれる。その業務の事をよく理解している氏族内で幼少期より学ばせるので大きな失敗も起きない代わりに、いわゆる”美味しい部分”を恣意的に閉じられることによる弊害は数多起きた。

主な世襲官職は、例えば・・・
太政官の弁官局は第11代垂仁天皇の皇子を始祖とする小槻氏。
同じく太政官の外記局は第8代孝元天皇の縁戚とされる中原氏、及び”海神”(=綿津見命)を祖とする安曇族系清原氏が世襲的に請負・継承していた。
小説や映画などで結構有名な陰陽師は当時では技術系官職で、三輪氏系朝臣の賀茂氏と第8代孝元天皇の皇子を祖とする安部氏。安部氏の安部晴明は超有名人。
大宰府に左遷されたことで有名な菅原道真の菅原氏や、”天孫”とされる天穂日系土師氏が家職としていた大学寮紀伝道(文章博士)。
第65代花山天皇の皇孫・延信王を始祖とする白川伯王家(=白川家)による神祇伯(神祇官の長)。
等々が有名ですが・・・

関白や摂政も(藤原摂関家のような)大臣家も世襲された場合が多い。現代の議員(地方も中央も)も世襲だらけ。将軍や”殿様”、武術・芸術の家督等々なども世襲が進み、何もかも「世襲はダメだ!」とは勿論言えない。

因みに、官職に関しての任命権は朝廷にあり、大きな失敗や不正発覚などの場合には世襲は廃止されることもあったようですが、だからこそ、そうならない為に政略婚や賄賂も横行した。

君主の世襲

特定の官職・役目が氏族・一族によって寡占状態になることが、公・武・民でごく当たり前になったが、世襲も簡単ではない。嫡男と言えども必ずしも受け継げるわけではなく、逆に、継ぎたくない場合もあるでしょうから。しかし、継ぎたくないと言っても、継ぐために生まれて来たのじゃ!と逆らえないのも、その家に生まれた者に課せられた宿命、天命である。

世襲の家督権は100%絶対を保証されるものではなく、家が潰れたらそれで終わる。が、その家の者でなければ絶対に継承出来ない絶対権力が日本の場合は皇室の当主たる『治天の君』(天皇、上皇)。

『治天の君』こそ、絶対的な権力者であり、だからこそ、それを受け継ぐ資質が本当に備わっている人に継いで頂きたいですよね。だから、『治天の君』の最も重要な果たすべきことは、後継者指名です。

因みに、結構若い年齢で天皇位を譲位されて上皇となられる場合も有り、同時代に、複数の上皇が併存する状態もあった。けれども、「治天」である人はただお一人のみということは確立されていて、天皇位を争うよりも、『治天の君』の地位を争うことは幾度か起きている。

「治天」と自他ともに認められる”資格”要件として欠かせないことは、『天皇』になること。だから、『天皇』家に生まれなければチャンスは絶対にないし、現天皇の直系尊属である必要がある。そして、『治天の君』によって天皇として認められなければならない。だから、『治天の君』=父母(女性天皇)・祖父母(女性太上天皇)・兄弟姉妹=と大喧嘩するなど愚の骨頂。本当に嫌われたら干される。

レアケースは存在するので、上述の件も絶対ではないがほぼ絶対要件と言える。

『治天の君』争いが事の発端と思しき南北朝時代の始まり

後醍醐帝の近しい先祖達

1318年3月29日に第96代天皇として即位され、南北朝分裂後の南朝初代天皇となられた尊治親王=後醍醐天皇(1288年11月26日~1339年9月19日)も、「天皇にさえ成ってしまえばこっちのもの。全て自分の思い通りに」とばかりに「治天」を目指された方であろう。

第91代・後宇多天皇の第二皇子として尊治親王が誕生された頃、朝廷は、大覚寺統(のちの南朝)と持明院統(のちの北朝)という二派に大別されていた。

持明院統は、第89代・後深草天皇の直系子孫

大覚寺統は、第90代・亀山天皇の直系子孫

何故、そういう状況(二つの統)になったのか。そして、やがては同時代に二つ(南北)の朝廷が存立するという歪な時代(南北朝時代)となっていくのか。

天皇家がきな臭くなっていくのは、第77代・後白河天皇(1127年10月18日~1192年4月26日/天皇在位1155年~1158年)が、上皇(法皇)として34年にも及ぶ長期院政を行ったことに対し、そもそもの要因を求めたい。ところではあるが、そんなところから書くと長過ぎて終わらない。端折って・・・

後嵯峨天皇

第88代・後嵯峨天皇(=邦仁親王:1220年4月1日~1272年3月17日)は、承久の変(1221年6月)前年に生まれた。父である土御門上皇は、この戦には加担していないことは明らかであった。ところが、後鳥羽上皇(土御門帝の父/隠岐へ流刑)、順徳上皇(土御門帝の次弟/佐渡へ流刑)の二人のみが罪を問われたことに対し異を唱え、自ら土佐へ流刑となった。

後鳥羽帝から始まる血筋は本流を外され、まだ3歳に満たなかった幼帝・仲恭天皇も退位。高倉天皇の代の血筋にまで遡り、高倉天皇の第二皇子・守貞親王(=後高倉院)の末子・茂仁王が、第86代・後堀河天皇として異例の即位となった。

幼い邦仁親王(=後嵯峨天皇)は、母方の大叔父に当たる中院通方・土御門定通に預けられた。が、土御門家一門も承久の変の影響を受け没落。邦仁親王は食うにも困るような苦しい日々を送った。時が過ぎ、20歳となっても出家するわけでもなく、まして元服式も迎えられず、天皇の実子としては何とも辛い人生になっていた。

1242年。第87代・四条天皇が実子も兄弟も無いまま12歳で崩御(事故死)。公卿たちは、順徳上皇の皇子で仲恭天皇の異母弟・忠成王の即位を求めた。しかし、鎌倉幕府執権・北条泰時と六波羅探題・北条重時は、承久の変に加担した順徳上皇の直系血筋に難色を示すなど皇位継承は混乱し難航する。そして、幕府方が提案したのが邦仁王の即位。土御門上皇の皇子とは言え、長い間、朝廷を離れていた邦仁王の擁立に関しては、今度は九条道家を中心とする公卿側が強く非難した。が、幕府側は、鶴岡八幡宮の御託宣があったとして譲らず、11日間の空位の末、遂に、邦仁王が後嵯峨天皇として即位を果たす(仁治三年の政変)。

北条(幕府)が邦仁王の天皇即位を強く主張し譲らなかった理由は、土御門定通の側室が北条重時の同母妹であり、天皇と北条家が縁戚関係になれるという狙いがあった。また、当時の鶴岡八幡宮の別当・定親が土御門定通の弟であったとか云われるので、鶴岡八幡宮の御託宣なんてどうにでもなった?

それにしても、天皇となる為の教育とか心構えなど殆ど備わっていない邦仁王である。いくら何でも無謀な擁立であり、だからこそ、周囲からの助けが重要となる。

邦仁王の即位には反対派の急先鋒だった九条道家に対し、道家の正室の父である(つまり義父)西園寺公経は、縁戚筋の四条隆親邸に邦仁王を迎え、1242年1月20日に践祚せんそ(皇嗣となった者が天皇位を受け継ぐこと)を執り行った。更に、自分の娘である西園寺姞子を邦仁王に嫁がせた。西園寺家は、明らかに天皇権力を利用して、九条家の追い落としにかかったわけだ。即位式(3月18日)より7日後には天皇権限により、道家の娘婿・近衛兼経であった関白の座も、公経が庇護していた二条良実に与えられた。

宮中の事をあまり良く分かっていない後嵯峨天皇は、西園寺家、引いては幕府の操り人形と化した。が、上皇の存在も無い後嵯峨帝は、『治天の君』でもあった。

中宮となった姞子との間には四男二女が生されるなど仲睦まじくもあったけど、大変な美貌の持ち主と謳われた先帝・四条天皇の掌侍・平棟子を寵愛。棟子の方が、姞子よりも先に親王を生した。その後の棟子は大出世し、後年には、破格とも言える従一位准三后にまで昇り、京極殿に居住していたことに由来し京極准后と呼ばれ尊敬された。

~続く~

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