ユネスコに世界遺産登録されたパルミラは、パルミラ王国とローマ帝国支配期の”文化”を遺す都市遺跡。偏った表現になるけれど、ローマと共に歩んだ歴史期があったからパルミラは世界的に価値がある国家だった。もっと言えば、パルミラはローマを敵視するべきではなかったし、ローマを共存共栄の相手として前進していれば、パルミラこそが第二のローマ、或いは新ローマになれた。(つまり、コンスタンティノポリス=イスタンブールの未来の姿は、本来は、パルミラが果たすべきものであった。)
パルミラ(=シュメール語でTadmor)は、シリア砂漠の中にあり、現在のシリア首都ダマスカスから北東約230キロ。砂漠の山脈アブ・ルジマインの南麓、東西を二つの涸れ川が走るオアシス。ゼノビアは、砂漠の薔薇と称された美女王ですが、オアシス都市パルミラには、本当にバラが咲いていたと言われる。けれどパルミラは、雪崩れ込んだローマ兵によって略奪の限りを尽くされ荒廃した。更に現代に入っては、ISによって遺跡群が破壊された。惜しい限りです。此処には間違いなく、ローマを彷彿させる、いや、それ以上のローマ(文化)があった筈なのに。そして、パルミラがローマの継承者たり得たならば、文化破壊をするようなろくでなしの宗教人間やゴミ人間を生まなかったかもしれないのに・・・。
さて、本題へ。今回一気に仕上げです。
エメサ会戦
ローマ皇帝アウレリアヌスは、自身の即位時には前4人の皇帝同様に、ウァバッラトゥスが東方皇帝を僭称する事も、母ゼノビアが東方女王を宣言した事も容認する考えを持っていた。帝政ローマ史研究の第一人者であるE・ギボンは、確信を持って書いている。が、パルミラがエジプトを手に入れた時に(ローマから見れば奪われた)看過出来なくなった。長年エジプト支配を続けていたローマ皇帝の立場としてはそうなる。しかし・・・
ゼノビアにとっては、祖先と仰ぐクレオパトラ(7世)の国で、自分こそがエジプトの支配者に相応しいと信じて疑っていなかった。だから、自分が果たすべき宿命としてエジプトを手に入れた。
ローマにとってもパルミラにとってもエジプトは「自分達のもの」であって譲れない。クレオパトラ7世は、カエサル(ガイウス・ユリウス・カエサル)やマルクス・アントニウスと深い因縁を持ち、ローマと共に在るエジプトを築き上げて来た。同じように、アウレリアヌスは、クレオパトラ7世の後裔を自認するゼノビア(蘇ったクレオパトラ)を手に入れ、カエサルをも凌ぐ歴史的ローマ人になろうとしたのかもしれないが、いや、きっとそういう思いがあったに相違ない。
エメサは、パルミラ本国(都市国家パルミラ=Tadmor)から真っ直ぐ西へ約150キロくらい?の位置にあり、現在は、ホムス県の県都ホムスと称されている。パルミラ王国は、本国(=都市国家パルミラ)以外に、ローマの属州シリアの首都的都市だったエメサを含む形でのパルミラの首都化を図ったと考えられ、これも、ローマ側が看過出来ない要因の一つ。そして、アンティオキア会戦に匹敵する大激戦がエメサで繰り返された(273年)。
アンティオキア近郊で大敗北を喫したゼノビアは、一旦、パルミラへ退いた。そして、アウレリアヌスも無理に追撃せずにエメサへ入り、一時の休息を求めた。恐らくこの時、ローマとパルミラは停戦協定か何か交渉に入ったものと考えるのが普通だが、この一時の間が何であったのかはよく分からない。兎も角、アウレリアヌスとしたら降伏の使者を待っていたのに、エメサへ来たのは、ボロボロに傷つきながらも必死の形相で血走った眼をしたパルミラ軍だった。勿論、その先頭には軍装を纏う美女王ゼノビアの姿があった。
しかし、 平生は上ドナウ地方に常駐していて、アレマンニ戦争など特別な戦争でその強さを証明済だった老練且つ最強のローマ軍団は、アンティオキア近郊会戦で既にパルミラ軍の戦法を見切っていた。それまで負け続けたローマ軍は何だったのか?と思わせる程のローマの完勝だったという。
ウァバッラトゥスは捕らえられた。その後、ローマへの連行途中かそれ以前にウァバッラトゥスは殺された。一般的には、 ウァバッラトゥスの最期は戦死として扱われている。
エメサを攻囲したものの、此処でもまた大敗北したパルミラ軍は立て直しが利かない状態に陥り、女王ゼノビアの権威は大きく失墜した。最早、パルミラを支持する周辺都市国家はなく、まだ幾許かは残っていた同盟者達も雪崩を打つようにローマへ寝返った。
新兵力の編成は不可能と知ったゼノビアに残された最後の砦はパルミラ本国だけとなった。ゼノビアが心底欲し手に入れたエジプトには、アウレリアヌス麾下の将軍では最も勇猛とされたマルクス・アウレリウス・プロブスが派遣される。
プロブスは属州パンノニア出身で、出世を夢見て少年兵として志願した叩き上げの軍人。軍才あふれるプロブスは早くから開花し、物凄いスピード出世で軍団長となり、ローマ最強のドナウ軍団を率いて(ローマから見て)蛮族との戦いに勝利し続け、未来を嘱望された男。
そしてエジプトはローマ属州として戻った。話を飛躍させると、プロブスの天敵と言えばマルクス・アンニウス・フロリアヌス。フロリアヌスは、アウレリアヌスの次の皇帝に成るが僅か3ヶ月で暗殺された。そして、パルミラとの戦いに於いて最も功労のあった者として称えられたプロブスは、フロリアヌスの次の皇帝と成る。
話を巻き戻します・・・
パルミラ陥落
逆転勝利・・・寸前
首都パルミラの城壁内に後退せざるを得なかったゼノビアは、それでも強力な抗戦準備を残らず整えると不屈の女傑らしく、「治世の最後はそのまま生命の終わりとなる」という旨を公然と宣し籠城戦へ突入する。
パルミラ軍はただ指を銜えてローマの進軍を見ていたわけではない。ゲリラ戦法でやられたパルミラ軍は、自分達に理の在る砂漠で数々の奇襲に打って出た。大軍団の時の重装備とは打って変わって、ゲリラ戦に転じたアラブ人達はローマ軍を遥かに凌駕する速さを見せ、ローマ軍の追撃など簡単に躱した。その迅速さを大会戦では機能させ切れなかったのが何とも不思議な話だが、ローマ軍は、パルミラを攻囲するまでに相当傷ついた。それでも何とか、女王ゼノビアが待ち構える城壁を取り囲んだ。そして、両軍の最後の死闘が開始される。
アウレリアヌスも、軍人皇帝の誇りを賭けて前面に立ったのだが、投げ槍を食らって九死に一生を得る始末。この時、アウレリアヌスは元老院宛ての親書を送った(恐らく、援軍要請)。その内容が、この時のパルミラ軍をよく語っているので引用します。
====『ローマ帝国衰亡史』より、以下引用(アウレリアヌス帝の親書)====
「余(アウレリアヌス)がいま、一女性を敵として闘っているこの戦いを、ローマ人は軽蔑をもって口にするが、それはただ彼等がゼノビアなる人物の性格と実力を知らぬ故である。石、矢、その他彼女の擁する数々の飛道具類は、あげて数うるにたえぬばかり。至るところ、城壁には、必ず二、三基の弩機が装置されあるもののごとく、これら兵器より発射される火箭が雨下するのである。膺懲への怖れが、彼女に自棄の勇を与えているものと見える。しかし余は、いまもなおローマ守護の神々を信ずる。これまでも余のあらゆる拳に対し、つねに加護を垂れ給う神々なるが故である」
====以上、引用終わり====
動かない本国(元老院)の対応に痺れを切らしたアウレリアヌス帝は、元老院からの回答を待つことなく戦争の早期終結を目指して講和を提案する。その条件として・・・
●女王ゼノビアには名誉ある退位を(つまり、退位後の名誉と身分を保障)
●パルミラ市民には旧来の特権承認(つまり、今までと何ら変わらない経済活動の保障)
ローマ(引いては皇帝アウレリアヌス)を信用するか否かだが、条件としては悪くない。この講和申入れは、パルミラが後世にまで輝きを保つ最後の機会だった。が、E・ギボン曰く、 女王ゼノビアは、その講和提案に対して、侮辱を伴う拒否回答を送り付けた。どのような侮辱の言葉が伴われたのかは、衰亡史には書かれていないので、不肖私にその言葉を書ける筈がない。
勝算は崩れた
ゼノビアは、ただ意地を張って講和を拒否したわけではない。
●砂漠の中の滞陣が長引けば、やがてローマは糧食難に陥り、再び砂漠を横断して撤収する他はないだろうという目論見。
●それでも踏ん張っていれば、ローマによる東方支配拡張を望まない諸王による援軍期待。取り分け、最も自然な盟邦たるペルシアに対しては、過去の経緯はどうあれ来てくれると信じていた。
以上二つの希望は可能性として十分にあった話。現に、嘗てゼノビアから攻撃され首都陥落寸前にまで追い込まれたペルシア・サーサーン朝のシャープール1世は、パルミラへの援軍を向かわせた。ところが、それを命じてすぐにシャープ―ル1世は急死する(ローマからの刺客?)。あまりにも突然な出来事で、これによりペルシア国内が混乱する。パルミラ救済軍の士気も著しく低下して、その挙句に、何とローマ軍から買収された。更に、ローマに靡いたシリア各地から、アウレリアヌス帝の陣へ補給食糧などが続々届き、糧食難に陥るどころか宴さえ見せ付けられた。その宴には、エジプトを奪還した将軍プロブスも加わって大いに盛り上がる。
自分の読みが全て崩れた事を悟ったゼノビアですが、「潔さ」は見せず、投降の呼び掛けに一切応じずに脱出を図った。しかし、すぐに見抜かれて追っ手に捕らえられ、アウレリアヌス帝の足もとへ引きずり出された。
パルミラの全破壊は食い止められたが、アンティオキアとは違い、略奪は勝者の権利としてアウレリアヌスが容認。宝飾を施された武具、駱駝、馬、馬車、夥しい金銀財宝、宝石類、全て、戦利品としてローマ軍が”受け取った”。パルミラ市民は自分達の君主も誇りも豊かな生活も何もかもを失い、ただ泣き崩れるしかなかった。
破壊と略奪に見舞われたパルミラでは、裸同然の市民達が亡霊のように漂う異様な光景となった。アウレリアヌス帝は、僅か6百名ほどの弓射兵だけを守備隊として残して、そそくさとエメサへの帰途に着いた。手錠と鎖で繋がれたゼノビアとその側近達は、尋問が待っているエメサ迄、砂漠の道を延々と歩かされたのでしょう。
面前に引据えられたゼノビアに対し、ローマ皇帝(アウレリアヌス)自らが激しく詰問した。そして、これまでのローマの歴代皇帝に対して敵対の刃を向けた事を責められたゼノビアは、ギボンの言葉を借りると(以下、『ローマ帝国衰亡史』よりそのまま引用 => )「かのアウレオルス、またガリエヌスのごとき人物を、帝として仰ぐことは、とうてい堪えられなかっただけのこと。 征服者として、また君主として承認しますのは、貴帝ただ一人だけ」(<=引用終わり)。と答えを返した。(※ガリエヌスは、皇帝ガッリエヌス。アウレオルスは、ガッリエヌス麾下の将軍。)
要するに、「貴方様には敵いませんわ。貴方様になら、従うことが出来ますわ。」と、ゼノビアがアウレリアヌスに媚びた。ということをギボンは主張しているわけですが、ギボンは、このゼノビアの態度を以下のように表現している。(以下、『ローマ帝国衰亡史』よりそのまま引用=>)「だが、所詮は女の剛さ、それにはたいてい無理がある。それだけに、一貫して毅然、などという例はまず稀といえる。ゼノビアの勇もまた、裁きの座で崩れた。即刻処刑を、と叫ぶ兵たちの怒声に、さすがの彼女も恐怖に慄え、日ごろ鑑として口にしていたクレオパトラ女王、最後のあの絶望的高貴さすら忘れてしまった。そして事実恥ずべきことに、その名声と同志たちとを代償に、いわば生を願ったことになる。」(<=引用終わり)
どのようにひれ伏して赦しの言葉を並べたか、演技の涙は何粒か・・・。そういう事は読者各自が想像してくれよ。とでも言いたげなギボンの文章をずっと羅列した方が分かり易いのですが、あとは不肖私が続けます。
ギボンの書いた通りのゼノビアなら、「全ては側近達が仕組み、自分は担がれた神輿に過ぎない。だからどうか赦して下さい。二度と逆らいませんし、何処へでもついて行きます。賢明なるご裁断を」みたいなことを必死で訴え、命乞いを図ったことになる。ゼノビアに恋焦がれた世の男性諸氏、また憧れた女性陣の心を、奈落の底に沈めるようなもの。ですが、ギボンが史料として読んだ書には、それに近いものが遺されていたのでしょう。ゼノビアを褒め称えたギボンもまた、最後にプライドを捨てて命乞いをしたゼノビアの態度(ギボンが思い浮かべた態度だが)に対して、殴り書きをするような感じで文章を書いたかもしれない。女王としての輝きは、もう二度と戻らない。
賢哲ロンギヌスの最期
ゼノビアの側近達の名前は殆ど知られていない。ところが、ロンギヌスだけは現代でも知られている。これもまたギボンが書いた通りになった(ギボンが書いたから現代人も知っている?)。その部分はまた、ギボンの文章を借ります。( 以下、『ローマ帝国衰亡史』よりそのまま引用=>)「例の哲学者ロンギヌスも、やはり彼女の恐怖心がつくり上げた夥しい、しかもおそらくは無辜の犠牲者の一人だった。ただ、さすがに彼の高名は裏切った女王はもとより、断罪した暴帝のそれをも史上はるかにこえて、後生長く生きつづけるはず。精神も学問も、この無学無筆、ただ勇猛だけが売物の武人帝を動かすことはできなかったのだ。だが結局それらはこの哲人の魂を、美しい調和にまで高めることには見事役立ったらしい。」(<=以上、引用終わり)
ソクラテスを崇敬していたと云われるロンギヌスは、元来、気の好い陽気な哲学者、且つ修辞学者だった。213年に生まれたという事なので、パルミラが陥落した273年には60歳になる。人生の多くの時間をアテネで過ごしたロンギヌスは、自らの強い意志で、ゼノビアを最高の指導者として”育てる”べくパルミラへやって来た。そして、ゼノビアが女王として君臨したパルミラに「東方帝国」の名を冠させる多大な功績を遺した。半分ほどの年齢だったゼノビアを、時には娘のように愛し、ゼノビアに史書を書かせた師でもあった。しかし、最後はゼノビアとパルミラ国家が行った”ローマに対する”罪を全て引き受ける羽目になる。が、“シリアのソクラテス”とも称されたロンギヌスは、その愛称に相応しい堅実さと陽気さで処刑宣告を受け入れた。ここでまたギボンの表現を借りると「彼(ロンギヌス)は、ただの一言不服を訴えるでもなく、むしろ不幸な女王を憐れむとともに、悲歎の友人たちには慰めの言葉すら与えながら、静かに死刑執行人のあとに従ったという。」
パルミラ破壊
ゼノビアは、身代わりとなったロンギヌスによって処刑を免れたが、ローマへ連行される事になった。既に、金品財宝の殆どを奪われ、更に精神的支柱を奪われたパルミラ市民はローマを憎悪。アウレリアヌス親征軍がローマへの帰途に着き、ボスポラス海峡を越えてトラキアへ入った頃に、パルミラ市民は暴動を起こし、新しい知事と守備隊は鏖殺(皆殺し)された。一度は恭順の意を示したパルミラ市民が叛旗を翻した報を受けアウレリアヌスは怒り心頭に発し、即座に反転。パルミラの再制圧へ向かった。またしても通過点になったアンティオキアでは「すわ、何事!」と人々は恐怖したが、アンティオキアも攻撃対象だったかどうかは『ローマ帝国衰亡史』では分からない。兎も角、ローマ軍の怒りが凄まじかったことだけは読み取れる。
そりゃそうでしょうね。やっと我が家へ帰って平穏な暮らしへ無事戻れると思っていたのに、また戦争だ。皇帝も怒っていたが、何より兵士達が荒れていた。逆らえば、血祭の対象とされる。アンティオキア市民は、パルミラに同情を寄せても加勢する選択肢は無かった。全ての都市国家はアンティオキア同様で、孤立無援のパルミラは運命を受け入れる以外にない。それをゼノビアも見せ付けられたかどうかは分からない。が、権力を失って何も出来ない元女王がその場を見ていたのなら、”辛い”では済まない状態だったでしょうけど。でも何となくですが、ゼノビアが奪還される可能性がゼロではないので、彼女は、そのまま先にローマへ連行されたと考えられる。その後、彼女の祖国を破壊し尽くしてローマへ凱旋して来る皇帝軍を出迎えさせられる、という屈辱を味わった。
パルミラに対してアウレリアヌス帝が命じた攻撃内容は、アウレリアヌス帝の直筆書状一通がギボンの時代までは遺されていて、ギボンはそれを読んだと記している。それに依ると、(以下、『ローマ帝国衰亡史』よりそのまま引用=>)「このときの恐るべき処刑は、当然それに値する叛乱将兵のみならず、老人、子供、農民たちにまで及んだことを、公然と述べている。」(<=以上、引用終わり)
この書状内容は、『皇帝列伝』第26巻31節に書かれてあるが、これは偽作であるという注意書きも『ローマ帝国衰亡史』には記されている。う~ん、それならば、ギボンは老人、子供、農民にまで及んだ処刑を信じていない?ちょっと、内容的に読み取り方が難しい。が、商業と学芸と、そして類稀なる女王ゼノビアが君臨したパルミラの本拠は見る影もない寒村と化した。そして、E・ギボンが、1773年に『ローマ帝国衰亡史』を書き始めた頃も(完成は1776年頃)蘇ることは無かった。現在も、此処がパルミラだったという残骸だけが遺るのみ。
皇帝凱旋式とその後のゼノビア
パルミラを破壊したローマ軍(皇帝親征軍)は、帰途のついでにアレクサンドリアで皇帝僭称し暴動を主導したフィルムスを粛清するべくエジプトへ立ち寄った。フィルムスは、オダエナトゥスやゼノビアと懇意にしていた人物という事ですが、架空の人物とも云われる。親パルミラ派が少なくなかったエジプトを完全に掌握する為に、ローマがでっち上げた事かもしれないが、あっさり完敗した”フィルムス”は死刑に処されたという話。架空の人物なので触れる必要も無かったけれど・・・
アジアとエジプトを完全制圧(掌握)した皇帝アウレリアヌスは、意気揚々とローマに凱旋。ギボン曰く「ローマ建国このかた、アウレリアヌス帝ほど天晴れ凱旋行事にふさわしい将軍はいなかったし、また事実それは未曽有の盛儀と誇りをもって執り行われた。」そして、まだ夜の引明け時に始まり、夕方第9時になっても終わらず・・・という、その日の壮大な凱旋式の様子を、まるでタイムマシンに乗ってつぶさに見て来たかのように『ローマ帝国衰亡史』には、約5ページに渡って書かれている。多分、異例の内容ですが、その日の凱旋式は、それほどのページを割いてでも書くに値する歴史に刻まれる凱旋式だったという事でしょう。
そして、他の皇帝達や将軍達の凱旋式同様に、ローマの捕虜となった敵将達が見世物として行軍させられたが、その日の捕虜行軍の”主役”は只者ではなかった。一人は、ガリア帝国の僭称皇帝テトリクス(と、その家族達)。そしてパルミラの女王ゼノビア。テトリクスその他の人達はや凱旋式の様子はさて置き、兎に角、この日のゼノビアにのみ光を当てると・・・
===以下、『ローマ帝国衰亡史』より引用===
ゼノビアは、美しい肢体に黄金の手枷足枷をはめられ、頸にも同じく黄金の重い鎖を巻かれ、奴隷の一人がやっとこれを支えていた。全身それこそ宝石ずくめ、重味に耐えかねほとんど倒れんばかりの有様だった。かつてはみずから戦車に駕してローマ市城門を潜ることを夢想していた彼女も、いまはその壮麗な戦車の前をトボトボ徒歩で歩まされる始末。
===以上、引用終わり===
嘗て、無数の敗北者達が凱旋式の見世物として歩かされ、凱旋行列がカピトリヌス丘を登り終えると、あとは直ちに獄中で絞首、或いは斬首というのが通例。ところがこの日の主役両名に対しては違った。共に、これまでの凱旋式に類を見ない特別な凱旋式に相応しい、格別な、敬うべき敗者として扱われる。その事が事前に伝えられていたのかどうかは分からない。が、テトリクスの一家には、元の位階、財産をそのまま返され、カエリウス丘上に宏壮な邸館を新築、竣工することさえ許された。このような厚遇を受けて感謝しない敵はいないでしょう。テトリクスとアウレリアヌスは無二の親友ともなったとされる。そして・・・
ゼノビアは、首都から約20マイル離れたティブルに洒落た別荘を与えられ、(オダエナトゥスの妻であった時以来)ローマ市民としての名誉が回復された。また、相手は明かされていないものの、元老院の有力議員が再婚相手となり、ゼノビアの娘達はそれぞれ名家に嫁ぐことが出来たと云われる。娘がいた?三人の子供たちは本当だったのか・・・
彼女の血筋からは、それが真実ならば皇后も誕生している(東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世の皇后テオドラは、ゼノビアから数えて9代目と云われている)。更に東ローマ帝国のヘラクレイオス王朝や西ゴートの王族へと血は受け継がれていったとされる。ゼノビア自身が、アウレリアヌス帝よりも数段長生きしたと云われるし血筋も遥かに拡大した。「オリエント世界屈指の女傑」の血流は、今、何処をどのように流れているのだろうか?
ということで、何の感動もなくお終いです。今回(最終回)は、特にエドワード・ギボンの言葉に頼りっ放しになりました。けれども、ゼノビアについてこれだけ深く触れている作家は、ギボンを置いて他にいない筈ですからアシカラズ。
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