イラン

民族・部族興亡史

マッサゲタイの女族長 vs ペルシアの大王 

紀元前529年か528年頃、ヘロドトス曰く「この一戦こそは、外国人同士が戦った合戦の数ある中で、最も激烈なものであったと私は考えている。」という 女族長トミュリス率いるマッサゲタイ族と大王キュロスが率いるペルシアとの一大決戦が行われた。
民族・部族興亡史

ペルシアの興りと人種区分

パフラヴィー朝第2代皇帝、通称パーレヴィ国王は、初代皇帝の父レザー・シャーにも増してアーリアン学説を強く支持した。 アーリア人の国を意味する「イラン」という言葉は古代~中世にはなく、歴史的にはエラムであり、メディアであり、ペルシアであった。
民族・部族興亡史

イランの興りと遊牧騎馬民族

『イラン』という名前は、イラン人曰く「アーリア人の国」を意味する言葉。 『ペルシア』という名は、アケメネス朝当時の首都ペルセポリスと周辺地名「パールス(パールサ)」という二つが由来。 でも、紀元前6千年から5千年以上の間、『エラム』だった。