ペルシアの興りと人種区分

民族・部族興亡史

人種区分

ヒトの起源を研究する人達は、必要に応じて(人種の)区分け作業を行う。ヒトの属性に関連する様々なことが分かり、遺伝子研究などに生かされ、何より、医療技術の進化に大きく役立っている。が・・・

人種を区分することで生じた研究結果は政治利用(悪用)されたり人種差別の根拠に悪用されたり等々、極めてデリケートな問題を生んだ。

例えば、『インド・ヨーロッパ語族』や『アーリア人』という言葉を、人種の「優位性」に於いて、最も優位(優秀)な側に位置付け、政治的に悪用したヒトラーは、それに同調する他国の指導者達を巻き込み大戦争を引き起こした。ヒトラーに限らず、人を差別したがる人は世の中に 多くいる。そういう人と接すると感情を揺さぶられることもあり、けっして気分の良いものじゃない。

「けっして気分の良いものじゃない」なんていう範囲を遥かに超えて、物凄くムカつく主張をしたのが1816年生まれのフランス貴族主義者・アルテュール・ド・ゴビノー。没年は1882年で、150年以上に世を去った人だから「ムカつく!」って言ったところで間に合う話じゃない。でも、こういう人(小説家で外交官でもある)の超ムカつくような思想が、指導的立場の人に悪い影響を与えて大きな戦争を引き起こす事だってある。どんな事かと言うと、ゴビノーこそがこの世界に「人種論」のようなものを広めた悪祖と位置付けられていて、堂々と、『人種不平等論』を提唱した。その内容はと言うと・・・

~~~ゴビノーの人種分け~~~
黒色人種 「知能が低く動物的」
黄色人種 「無感動で功利的」
白色人種 「高い知性と名誉心を持ち、中でもアーリア人は白色人種の代表的存在で、主要な文明はすべてアーリア人が作った」

これが、近代フランスの貴族主義者の心の中。舐めてるよね。容姿に対する個人の好き嫌いは誰にだってある事だしそれをどうこう言わないけれど、思ったことをストレートに言って良い場合と悪い場合は絶対に有る。影響力のある人は、自分の思想が万人の心を揺り動かす可能性について慎重であるべき。

アーリア人の優位性に対するゴビノーの決めつけは、イギリスがインドを支配することの正当性に悪用され、ドイツ国粋主義が「自分達(ゲルマン民族のドイツ人)こそがアーリア人の最高傑作」と主張してヒトラー率いるナチスの台頭を生んだことに繋がった。因みに、当時のドイツ人は、第二次世界大戦の同盟国であるハンガリーに加えて、日本人も「名誉アーリア人」と呼んだ。名誉アーリア人・・・意味分からん!

この『アーリアン学説』に傾倒した政治指導者の一人が、パフラヴィー朝イラン第2代皇帝モハンマド・レザー・シャー(1919年10月26日~1980年7月27日)。日本でも、通称「パーレヴィ国王」として結構有名だった人。
父であり、パフラヴィー朝初代皇帝のレザー・シャー・パフラヴィーにも増してアーリアン学説を強く支持したこの人によって、イランは、今も続く反米主義へと向かう。しかし当の本人は、パフラヴィー朝イランの体制崩壊を招き、僅か2代目にして王朝国家を潰した(現在のところ)イラン最後の皇帝になってしまう。

キュロス・シリンダー

ところで、1971年に開催されたイラン建国2500年祭典に於いて、モハンマド・レザー・シャーは、(イランこそが)「人類史上最初の人権宣言を行った国家である」と演説した。その際に、その証として出展されたのが『キュロス・シリンダー』(キュロスの円筒)のレプリカ。

そのシリンダー=円筒は、1879年の、古代都市バビロンのマルドゥク神殿発掘事業で発見された。35行からなる古代アッカド語で刻まれていたのは、アケメネス朝(ペルシア帝国)の大王キュロス2世の功績を称える文章。それは聖書でも書かれていて全世界の多くの人に知られていることだけど、『キュロスがバビロン捕囚でバビロンに移住させられたイスラエルの人々を解放して、(エルサレムに)神殿の再建を許した』というもの。聖書の内容が裏打ちされたということにはなりますが、現代のイラン=イスラム教シーア派とユダヤ教のイスラエルは宗教上では犬猿の仲。その事には触れなかったのでしょうね。これが史実だとして、捕囚を解放したことがどうして人権宣言に結び付くのかは不肖私の脳みそでは理解出来ませんが続けます・・・

農耕民族と騎馬民族・・・この分け方ってどう?

キュロス2世と言えば、マッサゲタイ遠征に失敗(敗北)し敗死。女王トミュリスの眼前で首を刎ねられた(紀元前529年)。(ヘロドトス著『歴史』/参考絵画ピーテル・バウス・ルーベンス作「女王トミュトリスとキュロスの生首」)。尤も、キュロス2世が率いた遠征軍は敗北したが、アケメネス朝がマッサゲタイに敗北したわけでもない。

マッサゲタイは、中央ユーラシアの遊牧民が興したいわゆる騎馬民族国家。マッサゲタイの他にも幾つもの遊牧民部族が『国家』と見做される領土を有していた。但し、領域的には国家と呼ぶに相応しい規模であっても、政治体系的に国家と呼ぶに値するかどうかについては疑わしい部族・集団もあるようです。

さて、遊牧騎馬民族を系統的区分けを行うならば、「イラン系」、「テュルク系」、「モンゴル・タタール系」、「チベット系」、「ツングース系」などに分類される。ですが、少々疑問に思う。「騎馬民族」と「農耕民族」という分け方にはかなりの無理が生じているのでは?
定住型とされる農耕民族も元々何処からか移動して来た民族であり、更に遠くへ移動していった民族も多々ある。移動型(遊牧型)とされる騎馬民族も定住して国家的な領域を持ち、農耕を営んだ形跡を遺している。しかも、不肖私が知識不足で知らないだけでしょうけど、遊牧騎馬民族国家という呼ばれ方はあっても農耕民族国家という呼称をで受けた国はあるのかな。イチイチ、農耕民族国家とは呼ばなくても「分かるだろう!」って事かな、知らんけど。そして、定住型の農耕民が大多数を占めるような国家であっても、強力な騎馬軍団を持っていることも少なくない。その逆もまた然り。

そもそも、例えば古代に於いてイラン系遊牧騎馬民族の集合体と目されるスキタイやサルマタイよりも古い時代や同時代に「イラン」という名称の国家は恐らく存在していない。イランという国名は、1925年にパフラヴィー朝初代皇帝に即位したレザー・シャー・パフラヴィーが、1935年に「アーリア人の国」宣言をして「イラン」という国号を用いたことが最初の筈。古代のスキタイ部族やサルマタイ部族に「あんたらはイラン系遊牧民なんですよね?」って尋ねたら口、ポカーンとされるよ。前回の記事にもそう書いたけど、「イラン系遊牧騎馬民族」は「エラム系遊牧騎馬民族」に改める方が良いと思う。それもおかしいなら、せめて「古イラン系…」ではどうやろか。

ペルシアと遊牧騎馬民族

マッサゲタイ

●ヘロドトスの『歴史』には、「マッサゲタイをスキュタイと同種であるとする人もいる」と書いているが、「スキュタイ人は、はじめアジアの遊牧民であったが、マッサゲタイ人に攻められ悩まされた結果、アラクセス河(=ヴォルガ川と考えられる)を渡り、キンメリア地方に移ったという。」とも書いている。その事に因り、多くの歴史家が、「スキタイ人は東方諸族に属す人達であり、マッサゲタイ人もそれで間違いないが、マッサゲタイの方がもっと東方より移動して来た」と考察している。
●『地理書』で知られる古代ローマ時代の地理学者ストラボンは、「カスピ海あたりの住民をダアイ(=スキタイに属する部族)と呼び、それよりもっと東方にはマッサゲタイ、およびサカイが住む。」としている。(※サカイはギリシア人が使った言葉で、ペルシア人は「サカ」と呼んだ)
●ソ連時代の歴史研究家達から出て来た説では、スキタイ=月氏、マッサゲタイ=大月氏という考え方もあるらしい。そうなると匈奴と絡む話にもなります。

アケメネス朝の興り

ペルシア人がエラム人から派生した人たちではない、という理由がイマイチよく理解出来ていない。取り敢えず、何処からともなく現れて、現在のイラン南西部パールス地方に住み着いたインド・イラン語派に属するペルシア語を話す人たちがペルシア人の祖となった。それが紀元前8世紀前後の話。

紀元前6千年頃には既にイラン高原に出現して、現在のイランのほぼ全土に分布していたであろうエラム人は、ペルシア人がパールスに居住することに対してどう感じていたのか是非聞いてみたい。という事はさて置き、紀元前7世紀後期になると、ペルシア人達にも王族のような・・・・存在が明らかになっていく。

その頃のペルシア人達の中でも最も有力な氏族の名が『ハカーマニシュ』だったと伝えられている。ペルシア語のハカーマニシュは、ギリシア語では『アカイメネス』と聞き取られ、それが『アケメネス朝(ペルシア)』として認識されていく。

テイスペスという名の嫡男がハカーマニシュ家を率いるようになった頃、エラム人達はアッシリアの侵略を防ぎきれなくなり弱体化。首都をスーサからザグロス山脈の山間の町アンシャンへ移し再起を図っていた。アンシャンは、現在、テぺ・マルヤーンという地名で、ファールス州の州都シーラーズから更にザグロス山脈を北西へ約35km向かった先に在る。そのアンシャンをティスペスとペルシア人達が襲撃し、エラム人は新首都を失いスーサへ戻らざるを得なくなる。

テイスペスは、息子たちにアンシャンの支配を任せた一方で、エラム人の都市造りを参考にした自分たちの首都ペルセポリスを構築する。つまり、アンシャン家(分家)とハカーマニシュ家(本家)という二つがアケメネス朝を支えていくことになる。ところが・・・

アッシリアを警戒していたペルシア人達の前に、新たな脅威となって現れたのがアッシリアを滅亡に追い込んだメディア人。
メディア族は、新バビロニアを除く旧アッシリア領とイランの大部分を支配し、エラム人もペルシア人もメディアに服属した。そして、エラムとペルシアとメディアという3つの部族(民族)は婚姻を重ね『新しいイラン人』の礎が出来上がっていく。そして、新しいイラン人を統べるのがキュロス2世。

紀元前550年のアンシャン家の家督者キュロス2世は、メディア族長アステュアゲスの孫(アステュアゲスの娘マンダネとアンシャン家の当主カンピュセス1世の子)に当たり、メディア人とペルシア人両方の血を引いていた。

ハルパゴスの怒り

ハルパゴスとは、アステュアゲス配下の中でも極めて有能な将軍で王の右腕的存在だった。或る日、アステュアゲスは悪夢に魘された。その不吉な夢の対象であったまだ生まれたばかりの孫キュロスを殺すようハルパゴスに命じる。

アステュアゲスは気分屋であり、人を欺いては罪を擦り付ける悪質な王であった。ハルパゴスは、王の孫である赤子のキュロスを殺害した後に「そんな命令を下すわけがない!」と、全ての罪を背負わされて処罰されることを予感した。しかし、王の命令は絶対である。実行しないわけにもいかず、せめて、自分が直接手を下すことは避け、牛飼いのミトリダテスに赤子を預け手を下させようとした。ところが、赤子を哀れんだミトリダテスは、先に死産で亡くした実子の代わりとして誰にも明かさずキュロスを育てる。

しかし、このことは知った王はハルパゴスを問い詰める。真実を話したハルパゴスを何ごともなく許したかに思えた王だが、ハルパゴスの13歳になる一人息子をハルパゴスが気付かないままに殺害する。それだけでは終わらず、その遺体を調理させ、宴に招いたハルパゴスに食させる。食後、宴の料理の味を問われたハルパゴスは美味であったと返答する。が、王はハルパゴスの前に切り取った息子の首を運ばせ、食させたのが誰の肉であったのかを見せつけた。この時、はらわた煮え繰り返る思いであったろうけど、努めて冷静を装ったハルパゴスは息子の遺体の残りを持ち帰ったと云われている。そりゃ、とんでもない憎悪が生じるよね。

ハルパゴスが、その後も変わらず忠勤したことで、アステュアゲスはキュロスに手を下すことはしなかった。

成人しアンシャン家を継いだキュロスは、この話を知りハルパゴスに深く同情して生涯恩人として接することを誓う。牛飼いのミトリダテスがどうなったかはちょっと分からない。この地域にはミトリダテスという名を持つ有名人が多くて変な詮索するのはやめときます。

ハルパゴスを支持するメディアのリーダー達は、ハルパゴスと共にキュロスを新しい時代の王として擁立する動きに向かう。そして、「時が来た」キュロスはペルシア全軍を率いて、祖父であるアステュアゲスに対して反旗を翻す(紀元前552年)。この時はまだ、内実を分かっていなかったアステュアゲスは、ハルパゴスをペルシア制圧軍の総司令官に任命した。メディア軍を率いたハルパゴスは、キュロス率いるペルシア軍と対峙するが、メディア兵の多くはハルパゴスの心情を理解していて、ペルシア軍とは殆ど交戦らしい交戦をせず、ペルシア軍がメディア領内へ向かうことを阻止することは無かった。

紀元前550年。メディアは敗北。捕えられたアステュアゲスは、ハルパゴスの裏切り行為を強く詰った後、収監され飢え死にの刑に処されたと云われている。

メディアは壊滅したが、殆どのメディア人はメディアの血を引くキュロスの配下となりペルシア人化した。ハルパゴスも、ペルシアの将軍として仕えることになる。

メディアを統合した功績でアンシャン家のキュロス2世は『アケメネス朝』の国王に即位し、大王と称された。メディアを統合し急拡大を遂げたアケメネス朝は、西の大国リュディアとも領域を接するようになる。そして、スパルタやエジプト、新バビロニア、他アラビア地域の大小の部族が支援するリュディア軍に対して、キュロス2世とハルパゴスが率いる新進気鋭のペルシア軍がオリエントの盟主の座と国家の存亡を賭けて大激突するテュンプラ会戦(紀元前547年)へと向かう。

でも、その話は次回へ続く。

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