ヴァンダル(2)~マルコマンニ戦争~

東欧史

マルコマンニ戦争と第6次パルティア戦争の関連性

ローマ皇帝アントニヌス・ピウスが崩御し、マルクス・アウレリウスが即位したのは161年。

第6次パルティア戦争の勃発は同年(161年)

マルコマンニ戦争の始まりは翌年(162年)

第6次戦争パルティア戦争でローマに侵略されたイラン系王朝(アルケサス朝)パルティア。その窮地を救うべく、同じイラン系の遊牧騎馬民族集団・サルマタイ(ローマ人は、総じてヤジゲ族と呼んだ)と共にハスディンジィ・ヴァンダル族ローマ属州ダキアに侵攻したことがマルコマンニ戦争を誘発した。ということに関しては歴史学者の多くが認めている。なので、アラン族コストボキ族などとヴァンダルの同盟軍がアラマンニ戦争に加わった・・・・という説を時折見掛けれるけどそれは誤りだと思います。そして・・・

ヤジゲ族(主力はアラン族)&ヴァンダル族がローマ帝国の属州ダキアに侵略したことをきっかけにして、ローマの圧に苦しめられていたスラヴやゲルマン諸族が各地で反乱を起こした。それが約20年にも及んだマルコマンニ戦争の真実。マルコマンニ族が一番最後までローマの敵側にいたのでその名称になっただけでしょう。

ハディング一族が中心になって率いていたハスディンジィ・ヴァンダル族に対して、シレジア(シリンジィ・ヴァンダル族)からも多くの支援者がドナウ川周辺に集結した事により、ローマはパルティアとの戦争だけに集中することは困難な状況に陥った。それもあって、パルティアとの戦争は共同皇帝のルキウスに一任され(前回参照)、皇帝(正帝)マルクス・アウレリウスはドナウ川方面へ向かった。

ローマvsゲルマン諸族

カッティ族=スエビ族

マルコマンニ戦争を、一つの地点での戦争として見ようとすると開始時期や場所に戸惑う事になる。古代に於ける第二次世界大戦みたいなものであり、超大国ローマに対してあらゆる地域で局地戦が(同時代に)多発した。それらを全て併せてマルコマンニ戦争と呼ばれる。

ゲルマニアでは、現在のドイツ・ヘッセン州の中央部と北部、ニーダーザクセン州南部、ヴェーザー川の上流沿いエーデルとフルダ地域の谷と山に住んでいたと云われるゲルマン系カッティ族が積年の恨みを晴らすべく挙兵した。但し、かのユリウス・カエサルの『ガリア戦記』には、カッティ族についての言及はなくローマを長年苦しめていたスエビ族の支族が其処ら一帯に住んでいたように記している。だからきっとそうなんでしょう(カッティ=スエビ)。更に付け足せば、ローマが第11代皇帝ティトゥス・フラウィウス・ドミティアヌスの治世期に、カッティ族(スエビ族支族)はローマ軍に大敗北を喫して殆ど全て(男も女も金品も)を略奪されて長い間貧窮に苦しんだ。そういう事なので、何とかしてローマに一矢報いたいと考え復讐の機会を待っていた。
そして162年、現在のドイツ南部のローマ側の属州ゲルマニア・スペリオル=高地ゲルマニアとライティリア(ラエティア)=上ゲルマニアを攻撃した。

高地ゲルマニア=現在のスイス西部、フランスのジュラ山脈やアルザス地域、およびドイツ南西部。
上ゲルマニア=現在のスイス東部~中央部、ドイツ・バイエルン州南部~ドナウ川上流部、オーストリア・フォアアールベルク州、オーストリアとイタリアにまたがるティロル地方の大部分、およびイタリアのロンバルディア州の一部。

以上のようなかなりの広範囲を同時に攻撃するのは難しい。しかも、一つの部族ではとても無理。というわけで、カッティ族と行動を共にしたのが後述するカウキー族。恐らく、他にも呼応した部族がいた筈です。

マルコマンニ戦争には、大小合わせて25前後のゲルマン系諸族とサルマタイを構成したイラン系遊牧騎馬部族の幾つかが、反ローマ同盟(マルコマンニ同盟)を組んでローマ軍と戦った。

ランゴバルド族(ロンバルド族)も参戦した。ランゴバルド族は、やがてイタリア半島にロンバルディア=ランゴバルド王国を建国する。更に、イベリア半島にガリシア王国(409年~585年)を建国したり、アラマンニ公国(シュヴァーベン公国)を建国したりしたスエビ族(シュヴァーベンは、スエビが訛った言葉)も含まれる(※スエビ族は、個人的にはスヴェーア人と同じ人達だと思っている)。

ランゴバルド族とスエビ族は、共に、スカンジナヴィア半島南部を出自として、スエビ族はバルト海南部を支配し、ランゴバルド族も後を追うようにエルベ川流域へと向かい、両族を中心にスエビ部族同盟が出来上がっていた』と、ガイウス・ユリウス・カエサルは、『ガリア戦記』で書いている。
ヴァンダル族が、紀元前200年頃にスカンジナヴィアから南下し始めたゴート=ロンバルド族(=ランゴバルド族)に敗北したことはよく知られている。それにより、ヴァンダル族は少しだけ東へ流れ西を譲った。ヴァンダル族を押し退けてエルベ川左岸のリューネブルク地方からメクレンブルク地方を本拠地としたゴート=ロンバルド族(=ランゴバルド族)とスエビ族が連合したわけだから、ユリウス・カエサルと言えども簡単には勝てない。更に彼らは、アルミニウスを総司令官としたトイトブルク森の戦い(西暦9年)で、プブリウス・クウィンティリウス・ウァルスが率いたローマ軍を全滅させた(トイトブルク森の戦いは、後でもう一度書きます)。

ディディウス・ユリアヌス

カッティ族が進撃した高地ゲルマニアを管轄していたのはローマ第22軍団「プリミゲニア」。その事に対処するために、この「プリミゲニア」の若き司令官として派遣されたのが、後のローマ皇帝マルクス・ディディウス・セウェルス・ユリアヌス

現在のミラノは、その頃はメディオラヌムーと呼ばれていた。そのメディオラヌムーで最も高名な貴族家の一つセウェルス家にディディウス・ユリアヌスは生まれた。母方もローマ皇帝の系譜という正に上流貴族である。将来を嘱望されていたディディウス・ユリアヌスは、かなり若くして異例の抜擢を受け、財務官や造営官を歴任すると、162年当時には法務官に就いた。正に、若い頃のユリウス・カエサルのような出世です。そして、カッティ族の侵略に遭っていた高地ゲルマニアに赴任。相当な軍功を挙げたものと考えられる。何故なら・・・

170年。37歳のディディウス・ユリアヌスはガリア・ベルギカ総督となった。高地ゲルマニアで失敗していたら、この昇格は有り得ない。

カウキー族

ガリアで、当時最大の勢力を誇っていた部族の一つであるカウキー族は、ヴェーザー川の両側、ヴェーザー川上流まで内陸部まで広がるエムス川とエルベ川の間の低地に住んでいた古代ゲルマン部族です。ローマ人からは、住んでいる地域によって「大カウキー族」(ヴェーザー川とエルベ川の間に住む者達)、「小カウキー族」(エムス川とヴェーザー川の間に住む者達)と呼称分けされていた。

カウキーとローマの戦争は、紀元前12年からしか記録としては残っていない。彼らは、西暦9年の「トイトブルク森の会戦」でゲルマン諸族側の主力メンバーとしてケルスキ族の族長アルミニウスに協力したことで名を馳せた。ケルスキ族・マルシ族・カッティ族・カウキー族らが連合して、当時のローマ・ゲルマニア総督軍を全滅させた。この報を受けた時、初代皇帝アウグストゥスは発狂するくらいに総督プブリウス・クィンクティリウス・ウァルスを罵ったが、当のウァルスは敗軍の将として既に自害して果てていた。

トイトブルク会戦以降、カウキー族は事あるごとにローマの邪魔をしていたが、基本的には好戦的な部族ではなく、ゲルマニクスやクラウディウスに対しては、味方になったりした時もあったようだ。ローマ側も、カウキー族とは共存共栄を望んでいたようでもある。しかし、協定を結んでは皇帝が代わる度に方針転換して約定を反故にして裏切るローマに対して、カウキーは疑心暗鬼になっていく。そりゃそうだよね。

カウキー族は海戦を得意にしていた部族でもあり、度々ベルギカの海岸を襲撃してはローマの輸送船に対する略奪を行った。それが度重なると、自分達が蒔いた種にも関わらず、ローマ人はカウキーを憎悪して局地戦に突入。という繰り返しだった。

ディディウス・ユリアヌスがガリア・ベルギカ総督だったのは175年まで。この間に、カウキー族を征圧して、更に手が足りないで困っていたゲルマニアにも軍を展開し、カッティ族による何度目かの反乱も征圧して見せた。この軍功によって、低地ゲルマニア総督を兼任し、更に、ダルマチア総督として(マルコマンニ族と戦っている)ローマ皇帝軍を後方支援する。

その後のディディウス・ユリアヌス

ディディウス・ユリアヌスの登場は今回は此処までなので、ついでにその後の人生を書いておきます。

ローマ帝国史上最も悲運な皇帝と称されるディディウス・ユリアヌス。競売で手に入れた(つまり金で買った)皇帝に即位後僅か3ヶ月で暗殺された。けれども、この人は極めて優秀な指揮官であり本当に優れた政治家だった。

誰もなるべき者がいなくて仕方なく競売にかけられた皇帝位を、合法的に手に入れたにも関わらす、「金で皇帝位を買った」その事だけで民衆(愚衆だな)に敵視された。競売に示した金額よりも何十倍もの個人資産を貧しいローマ市民や軍人達に寄付・分与するなどの他、本当に福祉的な支援も行って軍人貴族達からも凄く高い支持を得ていた篤志家だったのにね。ローマ市民は誰かがそう言っただけの噂を誇大にばら撒く愚か者になり果てていた。だから、後々の皇帝達もローマを嫌って遂に遷都に踏み切るわけだけど、現在の日本にも当て嵌まりそうな話。

マルコマンニ戦争本格化

先述した、カッティ族やカウキー族の戦争はあくまでもゲルマニアやガリアで起きていた事。それに対応したローマ側の総司令官はディディウス・ユリアヌス。そして最終的にはローマ側が勝利した。

此処から書くヴァンダル族とヤジゲ族による攻撃は、あくまでもダキアで起きた事。それに対応したローマ側の総司令官は皇帝マルクス・アウレリウス。まだ、マルコマンニ族は関係していない。

ヴァンダル族は、この先にやって来るフン族とは肌合いが悪く、(フン族と肌合いが悪かったのは、何もヴァンダル族に限った話では無いが)同盟相手と言うよりは服従させられた関係だった。でも、遊牧系騎馬民族と肌合いが悪かったというわけではない。
ヴァンダル族は隣接するサルマタイを構成するイラン遊牧民系騎馬部族(総じてヤジゲ族)とは上手く付き合えていた。そして、ヤジゲ族の支援を受けて帝政ローマによる領地侵略を防いでいた。ヤジゲ族にとっても直接的にローマと向き合う事を避けられていて、ヴァンダル族の存在は有り難かった。

165年頃、パルティアの本領に対してローマが進軍し、セレウキアとクテシフォンが陥落させられた。(前回参照)。これは大きな出来事で、パルティア国内は大きく動揺した。それでパルティアは、同じイラン系のサウロマタイへ通達し、兎に角、ローマ軍をパルティアから引き揚げさせるような動きをやってくれというような事を強く依頼したものと考える。

サウロマタイを実質束ねていたアラン族は、その要請を受けヴァンダル族に参戦を打診。ヴァンダル族の長・ハディング家はそれに呼応していくつかの部族を誘ってアラン族と共にローマ属州ダキアを攻撃した。(続く)

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