民族・部族興亡史

東アジア史

民族・部族興亡史(8) =匈奴5=

匈奴は、遊牧騎馬民族で間違いない。しかし、呼韓邪単于の時代には親漢傾向が顕著となり、反漢派は民衆の支持を得られなくなっていった。 武力的には呼韓邪を圧倒していた兄・郅支は、漢からは敵と見做され匈奴を追われるように出て西進。康居と手を結ぶ。
東アジア史

民族・部族興亡史(7) =匈奴4=

遊牧騎馬民族匈奴は、長い長い漢帝国との戦いの中で政治的には漢に近くなった。 つまり、部族ではなく「国家」的な集団になったわけだけど、だからこそ権力争いが激化する。 そして、男と女の愛憎が絡み、個人の好き嫌いに左右され、牧歌的面白味は欠けた。
東アジア史

民族・部族興亡史(6) =匈奴3=

漢帝国には、優秀な人材が大勢いた。武帝の治政期も人材豊富だった。 しかし、皇帝の非を指摘出来ない取り巻きに囲まれた環境で、武帝の治政には過ちも目に付いた。 一方匈奴は、漢帝国の高官や将軍を好条件で帰順させ、漢の政治や軍略を導入していった。
東欧史

テュルク(2)

テュルクの足跡を辿れば、中央アジア、シベリア、西アジア、北アフリカ、インド北部、東南アジア、東欧の特に黒海周辺~パンノニア平原~ボヘミア辺りまで、 ユーラシア大陸の6割くらいに及ぶ。それだけの広範囲にテュルク系の部族史や国家史が刻まれている。
東欧史

テュルク(1)

多民族多言語で構成されるトルコ共和国。人種の坩堝と言われるこの国の主軸となるのがトルコ族。外国語風に言えば「テュルク」である。 トルコ国民=トルコ人を説明するのはトルコ国籍保有者で説明も何も簡単に済むが、テュルクの歴史説明は容易ではない。
民族・部族興亡史

草原の覇道 ~ユーラシア・ステップ~(2)

サカ族は東方に在って西へ勢力を拡げていった。ところが、内紛勃発。 「サカ」「サカラウロイ」「トカロイ」「マッサゲタイ」「アシオイ」「バシアノイ」「ダアイ」「アオルソイ」「サウロマタイ」他、分裂したサカ支族は、色んな部族名を名乗って居着いた。
民族・部族興亡史

草原の覇道 ~ユーラシア・ステップ~(1)

ユーラシアのいくつかの地域で農耕が始まったのは、約1万2千年ほど前。 しかし、広大な草原地帯は農耕地としてはけっして最適じゃなかった。が、牧畜にはこれ以上最適な場所は無かった。 そして、農耕と牧畜のハイブリッド族「遊牧騎馬民族」が登場する。
民族・部族興亡史

マッサゲタイの女族長 vs ペルシアの大王 

紀元前529年か528年頃、ヘロドトス曰く「この一戦こそは、外国人同士が戦った合戦の数ある中で、最も激烈なものであったと私は考えている。」という 女族長トミュリス率いるマッサゲタイ族と大王キュロスが率いるペルシアとの一大決戦が行われた。
民族・部族興亡史

キンメリア族の終焉とオリエント世界の興亡史(紀元前1200年のカタストロフ以降~アッシリア滅亡まで)

アッシリアは、サルゴン朝以降急拡大し、オリエント世界に覇を唱えた。 エラム、バビロニア、フリギュア、ウラルトゥなどの挑戦をことごとく退けた。 更に、キンメリア族を服従させると、エジプトをも征服した。が、アケメネス朝に取って代わられる。
民族・部族興亡史

キンメリア族のアナトリア乱入

キンメリアは、紀元前9世紀頃の黒海北岸の草原地帯に何処からともなく移動して来た遊牧騎馬民族。 現在の南ウクライナの黒海沿岸部を領土化したが、キンメリアの治政が国家と呼ぶに値するかどうかは懐疑的。 但し、歴史的な部族であったことは間違いない。