マッサゲタイの女族長 vs ペルシアの大王 

民族・部族興亡史

マッサゲタイ族とは・・・

マッサゲタイが確実に存在していた時代は、紀元前6世紀から紀元前1世紀の約500年間。その前半期を最もよく記したのはヘロドトスしかいないので、今回もまた大部分を『歴史』に頼ります。

(全く以てあれですね。ヘロドトスやらストラボンやらの有名書を頼るしかないBLOGエッセイを読むくらいなら、その人たちの書を、中古本で買うか図書館で借りて読めば良いって話だけどね・笑)

マッサゲタイ族の概要を『歴史』に求めて引用すると・・・

この民族は東方アラクセス河のかなたにイッセドネス人と相対して住み、人口も多く勇猛な民族であるといわれている。この民族はスキュタイ人と同人種であるとする人もいる。(中略)

マッサゲタイ人の服装はスキュタイ人の用いるものによく似ており、その生活様式も同様である。戦いの際には馬を用いるものも、用いないものもあるー彼らには騎兵も歩兵もあるのである。また弓兵、槍兵もあり、戦闘用の両刃の斧を構えるのがこの国の慣習になっている。彼らは万事に金と青銅を用いる。槍の穂先、やじり、戦斧には専ら青銅を用い、頭飾り、帯、コルセットなどの装飾には金を使う。馬についても同様に、馬の胸当ては青銅製のものを用いるが、轡、馬銜、額飾りなどは金製である。鉄と銀は全く用いない。この国では、金と青銅はともに無尽蔵であるが、鉄と銀の産出は全くないのである。(中略)

農耕は全くせず、家畜と魚を食料として生活している。魚はアラクセス河からいくらでも採れるのである。また飲料にはもっぱら乳を用いる。
神として崇敬するのは太陽だけで、馬を犠牲に供える。馬を供える心は、神々の中で最も足の早い神には、生きとし生けるものの中で最も足の早いものを供えるというのである。

~引用終わり。

当時の中央アジアに於ける騎馬民族の大体の装備・装飾や食文化は以上の文が最も参考になる。そして、鉄器が殆ど無いということで、前回の「マラトンの戦い」に於ける、(鐵具を用いる)重装歩兵のギリシア軍に対して、ペルシア軍の騎馬民族傭兵部隊が機能しなかったことが窺い知れる。極論、鉄文化に乗り遅れていた遊牧騎馬民族にさえ苦労させられていたペルシアは、ギリシアには勝てなかった。と断定出来なくもない。

他には、一夫多妻制であることや、高齢になると殺される(病気で死ぬ方が不幸と考えられていた)ということが書かれている。その殺され方が少し惨くて、縁者が皆集まって殺す。殺した後は、家畜の肉と一緒に焼いて食う。流石に・・・ちと怖いのである。
済みません。誤解があるといけないので私情を付け足すと・・・「死ななければならない」その時、人が皆集まって殺したというのは、マッサゲタイの基準として高齢に達した”死にゆく者”のその時に立ち会った。寄って集って嬲り殺しにしたのではなく、その時をちゃんと皆で見送って、その後は、皆でその人を忘れないようそれぞれの体内に収めたって事でしょうから、「人の肉を食ってたなんて!」と気味悪がる話でもないと思うのです。

大王キュロスの思い上がり・・・

左、キュロスシリンダーのレプリカ、、、右、ルーベンス作「トミュリス女王」(但し、イメージ的にトミュリスは女王ではなくやっぱ自ら戦う女族長)

ヘロドトス曰く、キュロス(キュロス2世)をこの遠征に促し駆り立てた動因は以下の二つ。
第一には、自分は尋常の人間ではないという信念(即ち、自分を特別視していた)
第二には、これまでの戦で数多く収めた成功体験(即ち、如何なる民族も自分を倒せない)

完全なる思い上がりにより、マッサゲタイの広大な領域を手に入れるのは当然という姿勢。謙虚さを失った人間は何処までも強欲になるということの典型的な例。「敗けろ!」と思うよね。大丈夫、負けるから・笑

ところで、カザフスタン映画の『女王トミュリス 史上最強の戦士』は良く出来てるけど、トミュリスが女王になるまでの話や夫や息子を失う話は、ヘロドトスが触れている内容とは随分違う。この映画に近しい内容の史料がカザフスタン他にあるのなら、その史料を是非読みたい(日本語で・笑)。今のところ、映画だけの話で、それをいくら何でも利用出来ないので『歴史』の記述を参考に・・・

大王キュロス率いるペルシア軍遠征当時のマッサゲタイには、夫を失った(即ち未亡人の)トミュリスが女首長として君臨していた。キュロスは、トミュリスに対して求婚。(二人の結婚によるマッサゲタイの平和を約束する)から、一回訪問させて欲しいと伝聞する。が、当然と言えば当然で、自分のことを好きになったと言うならいざ知らず、領土が欲しいから結婚してくれなんて「馬鹿にするな!」という話です。だから「来んでいいよ」と拒絶した。

婚姻による平和的併合が出来ないのなら、力づくで。ということで、ペルシア軍はアラクセス河畔へ進軍し、あからさまにマッサゲタイへの武力侵入を示唆した。

トミュリスは警告し、撤兵を促した。が、どうしても退かないと言うのなら、仕方がない。戦争をしよう。但し、そちら(ペルシア)側で迎え撃つのか、こちら(マッサゲタイ)側で戦うのか選択しろ。こちら側に出向いて来ると言うのであれば、ペルシア軍が河を渡って安全に対陣出来るまでは攻撃しないことを約束する。というような提案を行った。

この提案に対し協議した結果、ペルシアは、マッサゲタイの領土で戦う事に決する。この決定に重要な役割を果たしたのは、ペルシアから滅ぼされたリュディアの元国王クロイソスだった(と、『歴史』には記してある。つまり、クロイソスは命を奪われなかったどころか、その後は、血縁者でもあるキュロスの客将的臣下となっていた)。

クロイソス曰く、ペルシア領で戦うのは危険過ぎる。万一敗れでもしたら一気に国は蹂躙される。下手すれば滅亡である。勝ったにせよ、其処からマッサゲタイを攻撃するまでに相手は防衛手段が取れる。マッサゲタイ領で戦えば、万一負けても備えられる。勝ったら一気呵成に攻め滅ぼすことが可能。「どうせ、マッサゲタイを手に入れるのが目的なら、向こうが来いって言ってるんだから遠慮なく乗り込もう。大王ともあろう人が、女族長如きに怯えてどうしますかね」と、正論を述べた。

更に、クロイソスは献策した。「食の誘惑」作戦だ。マッサゲタイの強さは認めた上で、しかし、身なりの貧しさなどを指摘し、「豪華な食事と酔わす為の強力な酒」作戦が効果的だと述べた。この策も採用される。そして、キュロスは万一に備えて王位を嫡男カンビュセスに譲位した上でマッサゲタイとの決戦に向かった。

其処が、既に危険な戦場の一部であるにも関わらず、到着するや否や、ペルシア軍はわざと大袈裟に宴を催して、マッサゲタイ軍の襲撃を待った。トミュリスは、危険な匂いを感じ取りつつ、先ずは、ふざけた態度のペルシア軍に対する攻撃を命じる。ペルシア軍は予定通りに慌てて逃げ出すふりをした。そして岩場から、マッサゲタイ軍の様子を隠れ見た。その作戦に見事に嵌まったマッサゲタイ軍は、飲めや歌えやのどんちゃん騒ぎ。気持ち良く酔っ払っているところを満を持したペルシア軍に逆襲され、壊滅的打撃を被った。マッサゲタイ軍の三分の一が討ち取られたり捕虜となる。捕虜となった中には、トミュリスの嫡男スパルガビセスもいたが、大勢のペルシア兵に侮辱され、それを恥じて自害して果てた。

トミュリスは、スパルガビセスが捕虜となった時、「卑怯な手段で勝っても何の意味も無い。それはもう済んだことで許すから息子を返せ」と要求し交渉したが、それが叶わなかったことで静かに、しかし強く、キュロスを血祭りにする決意を固めた。

ヘロドトス曰く、「この一戦こそは、外国人同士が戦った合戦の数ある中で、最も激烈なものであったと私は考えている。」と述べている。激しい弓矢の射ち合いが続き、射尽くすと白兵戦へ突入。双方譲らないまま長時間殺し合い、遂に、マッサゲタイが勝利し、キュロス2世を敗死させた。戦場で見つかったキュロス2世の遺体は女王の前に差し出された。その首が落される様子を描かれたのがルーベンスの絵画。首を落とす際、ヘロトドスはトミュリスの言葉として次のように綴っている。

「私は生き永らえ戦いにはそなたに勝ったが、所詮はわが子を謀略にかけて捕えたそなたの勝ちであった。さあ約束通りそなたを血に飽かせてやろう。」

ペルシアの言い訳とオマケ(映画の話)

この戦争の行われた年を詳しくは書かれていない。が、キュロス2世の在位は紀元前529年までとなっているので、紀元前529年、或いは紀元前528年に行われたのでしょう。

おさらいしますが、マッサゲタイとの戦争で、大王と呼ばれたキュロス2世は敗死した。首を取られた。但し、そういう予見もあっての事か、マッサゲタイへの遠征以前に、アケメネス朝の君主は、キュロス2世から嫡男カンビュセス2世へ譲位されていた。つまり、ペルシア国家が敗れ去ったわけではなく、あくまでも引退した前王が個人的に遠征したのみ。ペルシア国家としてマッサゲタイ族に宣戦布告した覚えはない。という事だ。

その後、マッサゲタイがペルシアに侵略した歴史もなければ、アケメネス朝がマッサゲタイを攻撃した歴史も見当たらない。

因みに、キュロス2世の亡骸(生首)は、トミュリスからカンビュセス2世宛てへ”丁重に”届けられたと云われている。そして、アケメネス朝建国当時の王都パサルガダエにキュロス2世が眠る墓がある。

トミュリスがいつ頃まで生きていたかも不明です。カザフスタン映画のトミュリス役の俳優さんは美人さんですよね。って言うか、カザフスタン映画、迫力あって映像も綺麗で結構いいですね。

(※カザフスタン映画では、トリュミスは元々族長の一人娘で、裏切りに遭い、族長の父を含む家族やその後は親族もすべて亡くした。サルマタイ族に救われた彼女は、たった一人から、やがてマッサゲタイの族長になり、ダアイ族の族長の息子と結婚。でも、夫と息子はペルシアに騙し討たれる・・・というストーリー。)

その後のマッサゲタイ

さて、キュロス2世率いるペルシア軍を跳ね返したマッサゲタイ族は、やがて、新たなる大王アレクサンドロス率いるマケドニア帝国と対峙する(紀元前4世紀後期)。これは、先ず、紀元前330年頃にアレクサンドロスの遠征でアケメネス朝が滅亡。アケメネス朝と共にあったソグド人やバクトリア人が旧アケメネス朝の残党と共にマッサゲタイを頼ってきた。この人達を守る為のものだったが、嘗ての仇敵であるアケメネス朝とマッサゲタイ族が手を携える時が来たわけです。が・・・

大激戦の末、事実上マケドニアが勝利した。ソグド人、バクトリア人はマケドニアに投降。マッサゲタイ族は、共に戦ったスキタイ族(スキュタイ)と共にステップへ向かったが、それを追撃するマケドニア軍に対し、ソグド人を率いていた元アケメネス朝の将軍スピタメネスの首を送り届け、マケドニアと全面戦争を行う気が無いことを示した。激戦により、マケドニア側も相当ダメージを受けていて、アレクサンドロスは和睦を承諾。その後、マッサゲタイとスキタイは併合したものと見られている。

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