民族・部族興亡史(8) =匈奴5=

東アジア史

単于乱立

紀元前58年の匈奴では、簒奪者・握衍朐鞮単于が世を去った。すると、本来の正当な単于継承者であった筈の稽侯狦けいこうさん(虚閭権渠単于の嫡子)が、呼韓邪単于こかんや・ぜんうとして即位宣言したにも関わらず複数の”単于”が即位を主張し合って戦う。

屠耆単于ずぎ・ぜんう (握衍朐鞮単于の従兄。本名は薄胥堂はくしょとう。即位宣言前の官位は日逐王)
烏藉単于うじゃく・ぜんう (即位宣言前の官位は烏都尉)
呼掲単于こけち・ぜんう (ウイグルの一部である呼掲の王)
車犁単于しゃらい・ぜんう (狐鹿姑単于の甥。漢に下った先賢撣の兄)
更に・・・
呼韓邪の兄・呼屠吾斯ごとごしも郅支骨都侯単于(郅支単于しちし・ぜんう)として即位を主張する。

そもそも、握衍朐鞮が単于位を簒奪して即位した際、共に命の危険に晒された兄弟は、弟・稽侯狦妻の父・烏禅幕の庇護を受けて生き延び、兄の呼屠吾斯は平民となることを受け入れて生き延びた。やがて、稽侯狦が呼韓邪単于として即位を果たした時、兄を呼び寄せて左谷蠡王として東方の重要官職(二番目に高い地位)を任せたのだが・・・
どうせ東方の官位をくれるのなら、左賢王(東方では最も高い地位)にしてくれたら・・・みたいな不満を持ったのだろうか。一度平民に落とされた身を救ってくれた弟に感謝するどころか、その地位を妬み、自分の地位を軽んじて反旗を翻す。ろくでもない兄ちゃんや・笑

単于位争奪戦

先ず最初に動いたのは握衍朐鞮単于の弟で前・烏藉都尉の右賢王と左大且渠の都隆奇という兄弟。二人は、新たに単于となった呼韓邪から処刑されることを恐れ、甥の薄胥堂を対抗単于(=屠耆単于)として即位させる。そして、「やられる前にやる」を実践して呼韓邪を先制攻撃。呼韓邪は敗走し、屠耆が新単于として中枢を掌握した。

翌年(紀元前57年)の秋、屠耆単于は、先賢撣の兄・右薁鞬王と烏藉都尉に大軍を預けて東方に駐屯させ、呼韓邪の反撃に備えた。この時、呼掲王が唯犁当戸と共謀して、屠耆単于に「右賢王が単于となろうとしている」と嘘を吹き込んだ。屠耆単于は、よく確かめもせずに自分の恩人である右賢王父子を殺したが、これが冤罪であったことを知ると、今度は唯犁当戸を殺し、都隆奇には深謝して財宝を贈り和解した。

呼掲王は、自らも処刑されることを恐れ、それならと単于宣言(呼掲単于)する。これを聞いた右薁鞬王が車犁単于となり、烏藉都尉も烏藉単于となった。という具合に合わせて5名が単于として並立する。

しかし、屠耆単于と都隆奇の甥・叔父コンビが序盤戦を優位に展開する。屠耆軍は東の車犁単于を攻撃し、都隆奇軍が烏藉単于を攻撃。共に勝利した。が、敗走した烏藉単于と車犁単于は、呼掲単于に合流して総勢4万の大軍となった。ここで、烏藉と呼掲が単于号を棄て車犁に一本化。車犁単于と屠耆単于、そして呼韓邪単于の三つ巴となる。

最も多くの兵を有していた屠耆は、約8万の軍勢を東方に駐屯させて呼韓邪単于に備え、自らが4万騎を率いて西方の車犁単于と激突した。この戦いにも勝利した屠耆は、この時点で対立単于の全てに勝ったことになる。が、息の根を止めたわけではない。

紀元前56年の春になると、呼韓邪軍がようやく軍勢の立て直しを終えた。東方にいた筈の呼韓邪の弟・右谷蠡王らが西方へ移動し、屠耆単于の屯兵を襲撃。1万余人を殺略したとされる。

屠耆単于はこの報を受けると、呼韓邪単于の本軍が手薄になったと判断し、自らが6万騎を率いて呼韓邪軍と激突した。しかし、数的有利にあった屠耆軍は、恐らくは遠征疲れで呼韓邪軍約4万に惨敗する。屠耆は、捕らえられる寸でで逃げ落ちたが、逃げ切れないと悟ると処刑されるよりはと自害する。甥の敗死にショックを受けた都隆奇は、屠耆の末子らとともに漢へ帰順した。また、車犁は呼韓邪に降った。

此処に、ようやく本来の正当な血筋である呼韓邪単于による匈奴族の再統一が成された。そのように誰もが思ったのだが・・・

しかし、度重なる内乱に嫌気を指した呼韓邪単于の左大将・烏厲屈と、その父・呼掲累烏厲温敦が数万の民を率いて漢帝国に降った。それとほぼ同時に、一旦は単于号を取り下げていた烏藉都尉が、再度、単于宣言。しかし、このクーデターは短期で収められ烏藉は斬首された。

更に、屠耆単于の従弟・休旬王が左大且渠を敗死させ閏振単于にんしん・ぜんうを宣言。西辺に陣取った。その後、上述したように、呼韓邪の兄・呼屠吾斯が郅支骨都侯単于(郅支単于)として即位を主張し、東辺に陣取った。これで匈奴はまたもや三分裂する。

兄弟対決

紀元前54年、西辺の閏振軍と東辺の郅支軍が激突。閏振単于は敗死して、その兵は全て郅支軍に編入されることとなった。勢いに乗った郅支単于は、一気呵成に呼韓邪単于を撃破する。

敗れた呼韓邪単于は、漢帝国に救いを求めて嫡子・銖婁渠堂を入朝させた。その噂を聞きつけた郅支も、実子で右大将の駒于利受を入朝させた(紀元前53年頃)。漢帝国の支援を得られるのは弟か、それとも兄か、という事が勝利に欠かせない鍵となったが、紀元前53年に呼韓邪は(漢帝国の)五原要塞を自ら訪ねて、2年後(紀元前51年)正月に、単于自らが入朝する旨を願い出た。今の時代なら、大統領や首相が相手国を訪問する外交は何ら珍しくもないが、それが歴史的出来事のように伝承されているので、当時は異例の事だったのでしょうね。
そしてその通りに呼韓邪単于が入朝すると、漢の宣帝は甘泉宮で接見。(匈奴の)単于が、諸侯王よりも上位に位置するものであると決められた。つまり、最恵国待遇のような位置付けでしょうけど、匈奴の単于が漢帝国の皇帝に対して臣下の礼を取った・・・って事でしょうね。特別な称臣と位置付けられ、冠、衣服、黄金の璽などが授与され、更に、派兵と兵糧支援が約束された。

同じ年、郅支単于も遣使奉献し、漢帝国は郅支にも厚遇を約束する。それに気を良くした郅支は、翌年(紀元前50年)も遣使朝献したが、結果的に、呼韓邪からの遣使より低い待遇であったと記されている。

紀元前49年。この年も、弟(呼韓邪)が漢に入朝したことを聞き、郅支は東方の備えを半減させてその分も含めて西域の烏孫攻略に大軍を投入した。ところが、遠征途中で屠耆単于の小弟で、屠耆亡き後に単于宣言していた伊利目軍と遭遇。戦闘となったが、伊利目単于は敗死。伊利目は、兵5万余人を有していたがその多くを郅支が吸収した。

いつかは漢軍と共に弟は戻って来る。その時の為に出来るだけ兵力を温存したいと考えた兄・郅支は、烏孫を力づくで平服させる方針を改め、同盟を求め平和的使者を小昆弥(烏孫の君主号)の烏就屠へ送った。烏就屠は、呼韓邪の方がより強く漢と結んでいることを理由に同盟を拒否。使者を殺して、その頭を送り付けた。郅支は怒り心頭に発し進軍。8千騎で迎え撃って来た烏孫を一蹴した。
深追いせずに北方へ転じ烏掲を侵攻。降伏させた兵を吸収し更に西進しテュルク系遊牧騎馬民族の堅昆を撃破。更に、同じくテュルク系(と言うよりテュルクそのもの)の丁令を下す。烏掲・堅昆・丁令という3つの大部族を併合した郅支は、その後も何度か烏孫と交戦し勝利し続けたが、烏孫は徹底抗戦を続けた。何としてでも烏孫を手に入れたい郅支は、堅昆の地に遷都して烏孫を圧し続けた。

紀元前48年に、漢帝国では元帝が皇帝即位する。暫くは和平が保たれていたが、紀元前44年に大きな事件が起きる。漢からの使者に対して何か気に入らないことがあったのか郅支が斬首した。元帝は、兄の無礼な態度を弟の呼韓邪に八つ当たりし、即刻、郅支を討つよう命じて、「討つまでは入朝させない」と呼韓邪を半ば追い出した。まぁ追い出したは大袈裟でしょうけど、紀元前43年に、呼韓邪は漢の大軍と共にモンゴル高原の単于庭へ帰陣した。既に、郅支は都を堅昆へ移していたが、単于庭の人々は、呼韓邪を歓迎する。

匈奴族の多くは、既に、漢民族の文化に慣れ親しんでいたのだが、郅支は、西へ西へと向かい、テュルク系の遊牧騎馬民族との文化交流を重視した。故に、郅支と民の間には大きな溝が生じていた。匈奴の人々は、漢帝国との戦争が繰り返されないことを望み、漢と大きなパイプを持った呼韓邪を支持する声が大勢を占め、郅支陣営から大量の離反者が出て、遂に匈奴は呼韓邪単于の下に平定された。

一方、多くの民を失った郅支には、テュルク系遊牧騎馬民族の康居(現在のカザフスタン南部に陣取っていた)から同盟話が舞い込んできた。康居は、烏孫からの度重なる侵略に苦しめられていて、その烏孫を攻め立てていた郅支を頼ったというわけだ。西へ西へと領域拡大を図っていた郅支単于はこの申し入れを喜び康居への移住を決意する。ところが、その道中で大寒波に遭い、康居まで辿り着いた時にはわずか3千人に激減していたとも云われる。しかし、康居王は約束通りに娘を郅支に娶らせ、郅支もまた自分の娘を康居王に娶らせて同盟は成立した。

郅支は、康居の兵を率いて烏孫攻撃を再開すると早速大勝利を収める。それまで、なかなか烏孫に勝てずにいた康居族の兵達は郅支を大いに持ち上げ、郅支は傲慢な態度を見せるようになった。が、康居王の方も、匈奴には戻る場所が無い郅支を次第に疎んじるようになっていた。両者の間には溝が出来、軽視され始めたことに怒りを覚えた郅支は、娶った康居王の娘や貴人、人民数百人を殺し、その死体を切り刻んでバラバラにすると都頼水(タラス川)に棄てるという暴挙に打って出た。

この脅しが思いのほか効いて、康居王の方が謝罪する。図に乗った郅支は、都頼水のほとりに自らの城が造られることを要求するがこれも受け入れられ、2年後に完成する。郅支は、まるで康居の支配者のような差配を振るい、烏孫との間にある大宛を朝貢国とするや否や、同じように西に隣接する奄蔡(アオルソイ)も従わせた。康居王にとっては、しっかりと結果で返す郅支を手放すわけにもいかなくなっていたのでしょう。

しかし、郅支が我が世の春を満喫していた時も永遠には続かなかった。郅支は、漢帝国と戦う考えはとうに捨て去って、だからこそ西へ西へと向かったわけだが、漢帝国側は、憎むべき郅支を葬り去るということを何ら諦めたわけではなかった。

漢帝国の西域都護(西域を管轄する官職)・甘延寿は、同盟相手の烏孫に在って、郅支が隙を見せるのを待っていた。そして、紀元前36年の秋にチャンスが到来したが、先ずは、皇帝・元への上奏を経ようとする。それとは反対に、副校尉の陳湯は、皇帝からの返事を待っていたのでは機会を逃すので先に独断で攻撃するべきだと主張。両者は真っ向から意見が対立し、埒が明かないと判断した陳湯は、皇帝からの命令と偽って同盟相手へ参戦を促し、康居への進軍を指令した。甘延寿は慌てて止めようとしたが、陳湯に恫喝され従った。そして、漢帝国の西域軍と烏孫兵などを率いて郅支軍を攻撃。遂に、郅支は首を取られた。

後始末を終えた甘延寿と陳湯が帰国したのは紀元前33年。しかし、当初は偽りの皇帝命令問題を指摘されて恩賞無という厳しい裁定が下されようとした。が、高名な学者である劉向が進言し、元帝は、甘延寿・陳湯に罪を問わず、甘延寿は列侯(義成侯)に封じられ、陳湯は関内侯に昇進した。

呼韓邪単于は、兄の脅威が完全に去ったこと喜んだが、同時に、自分が兄の討伐を果たせなかったことを糾弾される状況となるのを恐れ、同年(紀元前33年)に入朝した。この時、呼韓邪は、元帝の婿となることを懇願した。当時の元帝には適切な姫がなく、代わりに、後宮の女性達の中から王昭君を選び、呼韓邪の閼氏(単于の妻)として賜った。

絶世の美女と謳われた王昭君を妻とした喜びはこの上ないものであったでしょうけど(羨ましい・笑)、それから2年後の紀元前31年に呼韓邪はこの世を去った。

嫡子の雕陶莫皋が復株累若鞮単于として後を継いだが、呼韓邪の親漢方針も引き継がれ、匈奴と漢の平和な関係は続いた。

今回はこれで〆です。次回は少し間を空けて、ちょっと匈奴以外を書きます。

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