草原の覇道 ~ユーラシア・ステップ~(2)

民族・部族興亡史

スキタイとは?

スキタイは部族名ではなく地域名・・・でしょ?

前回、非常に面倒な話から始めてしまった当タイトルのエッセイですけど、非常に面倒な「スキタイ」から、改めて書き始めます。けれども、早速問題が。

不肖私には、遊牧騎馬民族の雄「サカ」とギリシアの人々が民族的に同じとは思えないけれど、ヘロドトスの著書『歴史』には、「ギリシア系スキュタイ人」という名称が出て来ますよね。何ですか、それ。他にも、農耕スキタイとか農民スキタイとか遊牧スキタイとか王領スキタイとか・・・

多分、ヘロドトスが用いた「スキタイ」という名称は、部族を指すものではなく、地域とか地方を指すものだったのでは?大昔の日本列島で言えば、正式住所がまだ付けられていない遠く離れた未開の「番外地」みたいな誰が住んでいるのか分からない怖い場所とか、アイヌ人の領域、蝦夷の領域、安曇の領域、大和朝廷の領域、反大和朝廷の領域・・・みたいな。例えば、ギリシア系スキタイはギリシア系植民市、農耕スキタイはプロト・スラヴ人領域。遊牧スキタイは差し当たってサカの支族。王領スキタイは差し当たってキンメリアとか・・・

ヘロドトス的にはそういうつもりでの「スキタイ」分けだったのが、いつの間にか勝手にスキタイ=スキタイ族とかスキタイ人になっちゃった?そういう事でしょう。それだと理解し易くなる。

因みに、サカ族は東方に在って西へ勢力を拡げていった。ところが、内紛勃発。下剋上が起きた。其処其処で勝ち残った者か或いは負けて見捨てられた者かは知らないけれど、「サカ」「サカラウロイ」「トカロイ」「マッサゲタイ」「アシオイ」「バシアノイ」「ダアイ」「アオルソイ」「サウロマタイ」その他、分裂したサカの支族は、色んな部族名を名乗って居着いた。そして、取り敢えず一番遠くまで旅した者達が黒海沿岸まで辿り着いて其処(例えば、遊牧スキタイと云われる領域)を根城にした。
尚、シルクロードの隊商として名高い「ソグディアノイ」のソグド人は、遊牧民ではなく完全な農耕民族と云われる。そもそも商人として生きていく人が多数出るので戦闘部族でもない。サカに近い場所を本領としているけれど非サカ人と見られている。

『歴史』引用

取り敢えず、先述のくだりを『歴史』の内容を引用して書きますと・・・
ヘロドトス曰く、「以下の話は伝聞によってできる限り遠隔の地にわたり正確に、しかも知り得たところを剰さず述べる内容」とのこと。だから、それは嘘だ!知ったかぶりだ!と言われたって、そんな苦情はヘロドトスさんに言ってくれって話です。

ボリュステネス(現在のドニエプル川)河畔の住民たちの通商地を起点とすればーこの港がスキュティア全土の沿海地域のちょうど中央部に当るからであるー
(1)先ず、カリピダイというギリシア系スキタイ人が住んでおり、その向こうにはアリゾネスという名の民族が住む(・・・アマゾネスだったら面白いのに)。このアリゾネス人もカリピダイ人も、大体においてスキュタイ人とその風俗習慣を同じくするが、ただ彼らは穀物を栽培し食用にしており、穀物のほかに玉葱、にら、扁豆、粟なども作る。

(2)アリゾネス人の向こうには「農耕スキュタイ人」が住むが、彼らが穀物を栽培するのは、自分たちの食用のためではなく、他に売却するのが目的なのである。つまり、農耕スキタイ人は、自分達の食糧以外の製品としての穀物を栽培する「農業」を商いにしていたことになる。尚、農耕スキタイ人は、プロト・スラヴ人と目される(参照記事)。

(3)その向こうにはネウロイ人(ポーランド人の祖と云われる=スラヴ人=ヴァンダル人)が住む。ヘロドトスは、ネウロイ人の北は無人、未開の地だと教えられたようです。因みに、ネウロイ人には狼男伝説があるらしい。要するに、怖い奴らだから近付かない方がいいという警告。

更に、ヘロドトス曰く、ヒュパニス(現在のブーク川)河畔の住民達は・・・
(4)ボリュテネス河を渡って、海辺から北上すれば、まずヒュライア(「森林地帯」)があり、ここからさらに上れば「農民スキュタイ人」が住む。ヒュパニス河畔のギリシア人はボリュステネイタイ(ボリュステネス人)と呼ぶが、彼ら自身はオルビオポリタイ(オルビア市民)と称している。この農民スキタイ人は東方に向かっては(恐らく馬で)三日間の旅程を要する地域にわたって居住しており、パンティカペスという河に至る。また北方にはボリュテネス河を遡航して十一日間を要する地域にわたっている。(つまり相当広い)。

(5)この先(農民スキタイの先)には広漠たる無人の荒野がつづいているが、この無人地帯を過ぎたところにアンドロパゴイ人(「食人種」)が住んでいる。これは特異な民族で、スキュティア系では全くこれより先は正に無人の地で、われわれの知る限りでは、もはやいかなる人間の種族も棲息していない。

※人肉食に関してはマッサゲタイの因習としてあった(参照記事)。 ヘロドトスは、マッサゲタイを知っていたので、スキュティア系とは相容れないように書いているのも変な話である。マッサゲタイもサカもスキタイも皆一緒であり、その人肉食の因習がマッサゲタイだけにいきなり現れたとは考え辛い。
マッサゲタイの人肉食について触れた時は「むごい話」という言葉を添えた。けれども、人が皆集まって殺したというのは、マッサゲタイの基準として高齢に達した”死にゆく者”のその時に立ち会った。寄って集って嬲り殺しにしたのではなく、その時をちゃんと皆で見送って、その後は、皆でその人を忘れないようそれぞれの体内に収めたって事でしょうから、「人の肉を食ってたなんて!」と気味悪がる話でもないと思うのです。

(6)農民スキタイの居住地から東に向い、パンティカペスを渡河すれば、そこははや「遊牧スキュタイ人」の世界で、彼らは種も蒔かねば耕す術も知らない。そしてヒュライア地方以外は、全土に一本の樹木もないのである。この遊牧スキュタイ人は、東方に向って十四日の旅程にわたる地域に住み、ゲロス河畔に至る。

(7)ゲロス河以遠は、「王領のスキュティア」で、このスキュタイ人は最も勇敢で数も多く、他のスキュタイ人を自分の隷属民と見做している。

(8)王領のスキタイ人の南(現在のクリミア半島)にはタウロイ人の国(タウリア)があった。

という具合にまだまだ延々と続くのですが、まだこれ以上を知りたければ『歴史』の文庫本でも買って読んだ方が早いです(笑)

以上のようなことで何を感じ取れるかですが、どんなに壁(領域)を持っても隣は見える。自分達と見比べるし良いものは欲しくなる。欲した時、欲された時、どのような態度で接するかを間違えれば戦いになるし、間違わなければ良い具合に混じ合えるし、お互いの領域を認め合えるし、お互いの領域を無くし合える。

中央ユーラシアの遊牧騎馬民族諸族とアナトリアやメソポタミアやヨーロッパの各民族・部族が、様々に交配し合い、『国家・国民』を強く意識するような第二・第三のステージへ向かって行った。

スキタイ vs メディア

キンメリア族が黒海沿岸を追われ逃走劇を開始した時、それを追撃したスキタイの部族(取り敢えず、スキタイ人としか書きようがない)がメディア族の領域へ迷い込んだ。(参照記事

新アッシリア帝国黄金期最後の国王アッシュルバニパルが紀元前631年に崩御すると、抑圧されていた人々=被征服民の内乱が相次ぎ、新アッシリア帝国の栄華は怪しいものとなっていった。その抑圧されていた側に在った一つがメディア族。

メディア族は、アッシュルバニパル崩御後すぐにアッシリアからの支配を脱すると、同じようにアッシリアに支配されていたペルシア人の国アンシャン王国を襲撃。アンシャンの支配者はアッシリアに代わりメディア族となった。

===以下、『歴史』より引用===
マイオティスの湖(今日のアゾフ海)からパシス河(今日のリオン河)畔の、コルキス人の国(コルキスは、現在のジョージア東部)までは、軽装の旅人ならば三十日の行程である。コルキスからは程なくメディア領に入るが、ただこの中間に一つだけ民族が住んでおり、その名をサスペイレス人(サスペイレスは、現在のジョージア西部)というが、この民族を過ぎればもうメディア領である。ただし、スキュタイ人はこの路を通って侵入したのではなく、もっと上方(東方)のこれよりも遥かに廻り道になる道筋を通り、コーカサス山を右手に見つつ侵入してきたのである。ここにおいてメディア人はスキュタイ人と交戦したが、戦いに敗れて支配権を奪われ、スキュタイ人は全アジアを席巻したのである。
===以上、引用終わり===

メディア族の族長キュアクサレスが、当時のアッシリア帝国の首都ニネヴェを攻囲している最中に、族長不在のメディアに忽然と現れたのがスキタイ人だった。スキタイ軍を指揮していた人物はマデュエスという名であったと『歴史』には記されている。この時のスキタイ軍は、キンメリア人をヨーロッパから駆逐して、その余勢を駆って(キンメリア族を滅亡させるための追撃中に)誤ってメディアの領域に侵入してきたものらしい。尚、キンメリア族はアッシリアを頼っての逃走だった。

キュアクサレスは急ぎ戻ってスキタイと対峙するが、豪勇で知られたキュアクサレス率いるメディア軍よりもスキタイの騎馬軍団の方が戦闘能力で遥かに上回っていた。キュアクサレスは、降伏しスキタイの軍門に下る。マデュエスは、キュアクサレスを殺さず降伏を受け入れ、メディアはスキタイに服属する。この関係は、約28年間続いた。

スキタイ vs エジプト

メディア族に支配されていたアンシャン王国を併せて従わせたスキタイは、その進路を西へ取りエジプト制圧へ向かう。キンメリアもアッシリアもメディア・ペルシアも敵わなかったスキタイの西進に対して、その進路上のパレスティナやシリアも恭順の意を示す以外に無かった。そのシリアに出向いて来たのが当時のエジプト王プサンメティコス1世(第26王朝:在位紀元前664年~紀元前610年)。
ヘロドトスの記述に拠れば、この時プサンメティコス1世は、「贈物と泣き落し戦術で、それより先へ進むことを思いとどまらせたのである。」

プサンメティコス1世は、第25王朝がアッシリア帝国の大攻勢を受けて衰退していく中、アッシリア王エサルハドンに従属する格好で第26王朝の開祖となったネコ1世(在位紀元前672年~紀元前664年)の子として知られる。そして、紀元前653年頃までにはアッシリアの宗主権下から脱しているので、スキタイのエジプト遠征はそれ以降の話ということになる。
更にプサンメティコス1世統治期の第26王朝は、紀元前616年、アッシリアが、メディアと新バビロニア王国の同盟軍に攻撃された時、アッシリア防衛の為に進軍したとされる。ということは、紀元前616年以前に、スキタイによるメディア・ペルシア支配は終わっていることになる。

アケメネス朝とスキタイ人の帰郷

メディア・ペルシアを28年間支配したスキタイですが、その統治方法は乱暴で投げやりなものだった為に(特に)メディア族の居住領域は荒廃に帰してしまった。スキタイ人は、メディア人の一人一人に課税して取り立て、貢税させた上に個人資財を掠奪した。当たり前だが嫌われる。28年間辛抱し続け反撃に機会を待っていたキュアクサレスは、或る時、宴を催してスキタイ人達を招待する。そして泥酔させた上で彼らの大部分を殺した。メディア族は一斉に立ち上がってスキタイ人に逆襲。遂に、自分達の所領を取り返した。

メディアから命からがら逃げ帰ったスキタイ人達を待っていたのは、28年間も好き放題にやっていた男達に対する更なる苦難だった。ヘロドトスは、以下のように書いている。
===以下、『歴史』より引用===
帰国してみるとそこには彼らに刃向う優勢な軍勢が待ち受けていたのであったが、事の起りはスキュタイ人の妻女たちが、夫の不在が長期間にわたったため、奴隷と情を通じていたからである。(中略)
スキュタイ人の妻女と奴隷との間に生まれた子供たちが成長し、やがて自分の素性を知ると、メディアから帰還したスキュタイ人たちに敵対した。(中略 ※一進一退の膠着状態が続いた中、旧世代スキュタイ人の中から以下のような言葉が発せられる)。
「諸君、われわれはなんということをしているのだ。自分たちの奴隷たちを相手の戦いでは、こちらが殺されれば同胞の数が減り、相手を殺せば、今後われわれの家来が少なくなることになる。そこでわしは思うのだが、今から槍や弓は捨てて、各自馬の鞭をもって敵に近付いてゆくのがよかろう。それというのは、われわれが武器をもっている姿を見ている限り、彼らもわれわれと対等で素性も同じと考えていたわけだが、われわれが武器に代えて鞭をもっているのを見れば、自分らがわれわれの奴隷であることを悟り、それに気付けば抵抗もするまい。」
この言葉をきいたスキュタイ人たちはそのとおりに実行したのである。すると奴隷たちはこの行動に度肝を抜かれ、戦うことも忘れて遁走していった。
===以上、引用終わり===

メディアから帰還したスキタイ人達は、このようにしてようやく故郷に受け入れられた。

ところで、ローマ神話(ローマ建国史)にも、敵に酒を振る舞って泥酸させて勝利する話や、サビーニ族が遠征している間にその妻や娘達を略奪婚する話が出て来る。この話は、スキタイ人の遠征帰還話に相通ずる。ローマ神話を知っていたヘロドトスがスキタイの歴史を脚色したのか、スキタイの話を『歴史』を読んだローマの史家達が自分たちの建国史に応用したか、そのどっちかだろうけど。

一方、メディア族はやがてペルシア人にその座を取って代わられるが、メディア人とペルシア人の両方の血を受け継ぐキュロス2世によるペルシアの台頭なので、メディア人も従い易く、総じてペルシア人を名乗ることになった。そして、新生ペルシア王国(アケメネス朝)には、エラム人達のエラム文化も取り入れられたと云われている。

アマゾネス + スキタイ = サルマタイ

スキタイは、マッサゲタイ族による攻撃に悩まされ続け、それから逃れようとして黒海の北部沿岸に住み着いた。という説が最も信を置けるとヘロドトスは書いている。
その辺りと、大敵であるマッサゲタイやイッセドネス人との間には、サウロマタイ人の領土が広がっていた。

ツィムリャンスク湖を中心に大小多くの河川が走る肥沃な土地を領したサウロマタイ人は、スキタイ人と同じ血統である。以下、ヘロドトスの記述を参照にして書きますが・・・

伝説の女族アマゾネス(アマゾン族)に対し、テルモドン河畔の戦いで勝利したギリシア人は、三隻の船に捕らえたアマゾンを乗せられるだけ乗せて引き上げる。奴隷にしようと思ったのだろうけど、スキタイ語で「男殺し」を意味するオイオルパタと呼ばれ恐れられた彼女達は一筋縄ではいかなかった。船上でアマゾン族が逆襲し、ギリシア人達を皆殺しにしてしまう。ところが彼女たちには操船術がなく波任せ。漂着した先がマイオティス湖畔(アゾフ海沿岸)の通商地クレムノイだった。そこで馬の群れを奪った彼女たちは馬賊と化し掠奪を始めた。

スキタイ人は、最初、何が起きているのか理解出来なかったが、兎に角、言葉も服装も違う見知らぬ種族の”男達”に大いに戸惑った。兎に角、戦うしかない。ところが、戦い後に”手に入れた”敵の死骸は何と女だった。噂だけかと思っていたオイオルパタが本当にやって来た事に驚いたが、”評議”の結果、決してアマゾン人を殺さない事に決し、生き残ったアマゾン人と同じ数の若い男達を彼女らの潜んだ先へ差し向けた。つまり、アマゾネスとの結婚を望んだわけだ。
妻にしようとする相手を傷つけるわけにはいかない。まして殺すなどとんでもない。というわけで、アマゾン人が潜む近くに野営したスキタイの青年軍団は、彼女たちを観察しながら、彼女たちを刺激しないように”遊んだ”。アマゾン人が襲って来ると戦わずに一目散に逃げた。アマゾン人が追撃を止めて戻ると彼らも野営地に戻る。この繰り返し。アマゾン人は、スキタイの青年達が害意を持っているわけではないことを知ったので、彼らを気にせず構わなくなった。「気にせず」ではなく、実は気にはしていたので、双方は距離を縮めて行く。
スキタイ人も農耕をしないので、アマゾン人と同じ行動を取る。彼女たちが狩猟と掠奪を行って生活をするのと同様に、彼らも彼女らの首領領域を侵さないように獲物を追い、そして彼女らが襲う相手以外から掠奪した。

さて、当たり前だが、当時は野営地に簡易トイレなどを設営していない。野ションして野糞する。アマゾン人が女性であっても同じこと。年頃のアマゾン人は、用足しの際に一人乃至二人ずつバラバラになって、お互い遠く離れて用を足していた。彼女たちを観察していたスキタイ人の青年達もその真似をした。男は”連れション”したりするが、アマゾン人が一人で用を足すのなら、スキタイ人の青年もそうするようになった。或る日の或る時、距離を縮めたスキタイ人の青年が、独りで用便していたアマゾンの側で同じように用便する。二人は、お互いを「同じ人間」と認め合い、その若いアマゾン人はスキタイ人青年のなすがままに身を任せた。
二人は互いに言葉は通じないので会話にはならなかったが、感じ合うことで知り合いになれた。青年スキタイ人は、アマゾン人女性に対して、翌日も会いたい、出来れば今度は二人で来て欲しいと手真似で次のデートを誘った。

青年は、野営地に戻るとその一件を仲間に話す。そりゃあ最初の一人になったので興奮して嬉しそうに話したのでしょうけど、早速、次の一名が決められて、昨日と同じ時、同じ場所に二人で向かった。もう一人の青年は半信半疑だったでしょうけど、アマゾン人が先に二人で来ていて待っていた。アマゾン人も、昨日の一件を仲間に話して、賛意を得て二人で来ていたのだ。ヘロドトスは、後は想像してくれとばかりに、他のスキタイの青年達とアマゾン人の他の女性達も同じような”出会い”を行っていったと書いている。

言葉は通じないが、体は通じ合った彼らと彼女らは、別々になっていることが無意味となり、双方の野営地を一緒にして住み始めた。青年たちはそれぞれ初めての相手を妻にした。
男達はアマゾン人の言葉を覚えるのが下手だったが、彼女たちはスキタイ語を理解するようになった。洋の東西を問わず、他言語理解能力は女性の方が長けていることはこの話でもよく分かる。やがて、意志の疎通が叶うようになった時、男たちはアマゾン人に次のように言った。

===以下、『歴史』より引用=== 
「われわれには親もあり財産もある。だからこのような生活をこれ以上続けるのはやめ、皆のいるところへ帰って住もうではないか。われわれはお前たちを妻にし、決してほかの女を娶るようなことはせぬ。」
するとアマゾン人たちが答えていうには、
「私たちはとうていあなた方の国の女たちと一緒に住むことはできますまい。私たちとお国の女たちとは習慣が違うのです。私たちは弓も引き、槍も投げ、馬にも乗りますが、女のする仕事は習っておりません。ところがお国の女たちは今言ったようなことは何もせぬ代りに、狩りにもゆかず、ほかにも外出はせずに、いつも車の中にいて女の仕事に精を出しています。ですから私たちにはとてもあの人たちと折合ってゆくことはできそうにありません。もしあなたがたが私たちを妻にしておきたいと思われ、しかも誰の目にも恥ずかしい振舞いをせぬことをお望みなら、親許へいって財産の分前を貰っていらっしゃい。その上でまたここへ帰ってきて、私たちだけで生活しましょう。」
===以上、引用終わり===

アマゾネス、戦う女性というだけではなく実に理に適って賢い。アマゾン人も、スキタイ人をただ襲撃していただけではなく、その生活ぶりを観察していた。そして、あの生活は真似出来ないと悟っていた。真似出来ない事なので自分達の文化に取り入れる必要も無いから掠奪した。その時代は、掠奪も生業だったのでその罪を今の時代が問うても仕方ない。
自分達が真似することが出来ない相手とは容れない。それが解っていたアマゾネスは一緒になりたいのなら国を出て来てくれと願った。

アマゾン人の言うこと(=自分達が妻とするべき女性達の主張)は尤もだ、と納得したスキタイ人の青年軍団は親たちを説得して財産分与して貰い、アマゾン人の許へ戻って来た。そして正式にプロポーズする。ところが賢いだけでなく、人間として間違っていないアマゾネスは再度願い出る。
「私たちはあなた方を親から奪ったばかりでなく、お国をさんざん荒した身で、この土地に住まねばならぬと思うと、恐ろしくもあり心配でならぬ気もします。今は私たちを妻にしてよいという気持になられたのですから、どうか私たちと一緒にこうして下さい。さあこの土地を立ち去って、タイナス河の向こうへ移って住みましょう。」

本当に好きになった女の言葉だからこそ納得して親から離れた。この女となら共に生きて行けると思ったからこそ、自分達から始まる家庭を築こうとしている。そこまで覚悟してくれたのなら、本当の親離れをしてくれないか?と最後の決断をアマゾネスは迫った。彼女たちが「一緒に行こう!」と行った先は、自分達とは別種のスキタイ人や罪びとや、そして恐ろしいイッセドネス人や、先祖を苦しめたマッサゲタイ人に近付くことになる場所なのだ。アマゾン人はスキタイ人の言い伝え「北や東には近付くな」を知らないかもしれないが、スキタイ人の青年たちは幼少期からそのような神話を聞かされ育っている。このまま、親達が守ってくれそうな安全な領域で暮らす方が楽に決まっているが・・・

そして、スキタイ人の青年たちは愛してしまったアマゾン人と共に新天地で自分たちの未来を切り拓くことに賭けた。博打のような賭けではなく、妻と、新たに生まれて来るであろう子供たちと共に、親たちとは別の領域に根付いていくことを覚悟した。
これはあれですね。蝦夷地へ行くか、地元に拘って縮小していくか、二者択一を迫られた江戸後期の各地の武士達が、彼らからすれば極寒の蝦夷(北海道)へ向かい、未来を切り拓いた話に通じます。

夫が全てを受け容れてくれたことで、アマゾン人は自分たちの祖先の生活様式を新天地でそのまま守ることが出来た。馬に跨って、或いは男と共に、或いは女達だけでも狩猟に出掛け、男達と同じような服装をして戦場へも行った。そして新たな世代は、スキタイもアマゾンも名乗らずに「サウロマタイ」を名乗った。

===以下、『歴史』より引用===
サウロマタイ人はスキュティア語(スキタイ語)を用いるが、昔からその言葉には訛りがある。アマゾンたちが正確にスキュティア語を覚えなかったせいである。この国では婚姻について次のような風習がある。どの娘も敵を一人打ち取るまでは嫁にゆかぬのである。中にはこの掟を満たすことができぬため、嫁にゆく前に老い朽ちて死ぬ娘もある。
===以上、引用終わり===
掟とはかくも厳しいもの也です。

やがてサウロマタイはサルマタイとなり、サルマタイは黒海沿岸を征服する(つまり、自分達の先祖であるスキタイ人などを駆逐する)。が、それはまた次回にでも。

傑女アマゾンを妻とし未来の母体とするべく親や祖国と訣別したが元々はスキタイの血。スキタイはやがて自然消滅するものの、その血は現在に至るまで何も途切れていないし、アマゾネスの血も洋の東西に息づいている。だから、どの土地にも女族神話が残っているのでしょう。

人間である以上用を足す。そしてまた物を食う。人間としての違いは何ひとつない。しかし、食う為の営みや生活様式、思考が違えば無理して相容れることは出来ない。それをお互いが受け容れ合えるのなら結婚もする。が、二人が良くても親兄弟の理解と違うのなら互いの故地からは出て行って新天地で二人の新たな営みを始める。スキタイ人は、物の理を分かっているアマゾン人を理解出来た。それを理解出来ないギリシア人はアマゾン人に駆逐された。なかなか深い話です。

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