西アジア史

東欧史

テュルク(2)

テュルクの足跡を辿れば、中央アジア、シベリア、西アジア、北アフリカ、インド北部、東南アジア、東欧の特に黒海周辺~パンノニア平原~ボヘミア辺りまで、 ユーラシア大陸の6割くらいに及ぶ。それだけの広範囲にテュルク系の部族史や国家史が刻まれている。
東欧史

テュルク(1)

多民族多言語で構成されるトルコ共和国。人種の坩堝と言われるこの国の主軸となるのがトルコ族。外国語風に言えば「テュルク」である。 トルコ国民=トルコ人を説明するのはトルコ国籍保有者で説明も何も簡単に済むが、テュルクの歴史説明は容易ではない。
民族・部族興亡史

キンメリア族の終焉とオリエント世界の興亡史(紀元前1200年のカタストロフ以降~アッシリア滅亡まで)

アッシリアは、サルゴン朝以降急拡大し、オリエント世界に覇を唱えた。 エラム、バビロニア、フリギュア、ウラルトゥなどの挑戦をことごとく退けた。 更に、キンメリア族を服従させると、エジプトをも征服した。が、アケメネス朝に取って代わられる。
民族・部族興亡史

キンメリア族のアナトリア乱入

キンメリアは、紀元前9世紀頃の黒海北岸の草原地帯に何処からともなく移動して来た遊牧騎馬民族。 現在の南ウクライナの黒海沿岸部を領土化したが、キンメリアの治政が国家と呼ぶに値するかどうかは懐疑的。 但し、歴史的な部族であったことは間違いない。
民族・部族興亡史

ペルシアの興りと人種区分

パフラヴィー朝第2代皇帝、通称パーレヴィ国王は、初代皇帝の父レザー・シャーにも増してアーリアン学説を強く支持した。 アーリア人の国を意味する「イラン」という言葉は古代~中世にはなく、歴史的にはエラムであり、メディアであり、ペルシアであった。
民族・部族興亡史

イランの興りと遊牧騎馬民族

『イラン』という名前は、イラン人曰く「アーリア人の国」を意味する言葉。 『ペルシア』という名は、アケメネス朝当時の首都ペルセポリスと周辺地名「パールス(パールサ)」という二つが由来。 でも、紀元前6千年から5千年以上の間、『エラム』だった。
東欧史

ヴァンダル(2)~マルコマンニ戦争~

ローマに苦戦するイラン系王朝パルティアからの要請で、 同じイラン系の遊牧騎馬民族集団(総じてヤジゲ族)は、隣接するヴァンダル族と共にローマ属州ダキアに侵攻した。 同時期、ゲルマニアの諸族が次々とローマに反抗。これがマルコマンニ戦争と呼ばれる。
東欧史

ヴァンダル(1)

スラヴ系国家ポーランドは、ピャスト朝として建国された。その国家の始まりからポーランドを支えた民がヴァンダル人である。 ヴァンダル人は、その昔シレジアに在って、シリンジィ・ヴァンダルとも呼ばれた。やがて彼らは西ローマ帝国を滅亡へと追い込む。
西アジア史

「水」と「情報」の価値を知るユダヤ人

イスラエルは、水の為、情報の為なら命をかける。 「水」と「情報」。この二つの価値を世界で最も知るイスラエルは、この二つを駆使してパレスチナを抹殺しようとしている。 「水」も「情報」も無料で手に入れる日本人は、無料の恐さを知ろうともしない。
西アジア史

パルミラの女王ゼノビアと帝政ローマの戦い(4)~パルミラの落日とローマの貴婦人~

手錠と鎖で繋がれた美麗女王ゼノビアの敗北とパルミラの落日。 ローマと共に歩んでいたなら、パルミラは恐らく世界を変えた。 パルミラこそが第二のローマ、或いは新ローマになれたであろう。そして女性史は大きく変わり、女性の地位問題なども無かった。