テュルク(1)

東欧史

トルコ族

露土戦争

現代のロシアとトルコはキツネとタヌキの化かし合いの如く武器は取り合わず首脳同士はよく会話している。けれども、ロシアがロマノフ朝でトルコがオスマン朝だった頃には、『露土戦争』と認識された回数だけでも12回に及ぶほど両国は仲が悪く戦争に明け暮れた。

露土戦争の最初=第1次露土戦争は1568年~1570年に行われ、現在のところ最も新しい第12次露土戦争は、第一次世界大戦時のカフカ―ス戦線を含む1914年~1918年である。現在は、双方とも王朝国家ではなくなった。しかし、『大統領』の気分次第でもありもっと危険かもしれない。

そもそも、ロシア人(多種多様)とトルコ人(多種多様)の戦争は、露土戦争が繰り返された約350年間に限らず、有史以来止む事無く繰り返されたことである。どれだけ殺し合っても憎悪が尽きないという最悪の関係は、ロシア人、トルコ人のどちらかが、或いは両方が、この地球上ら消えて亡くなるまで続くのでしょう。個人的には、ロシア(の軍事力)に怯えている(腰が引けている)日本とは真反対に、エルドアン・トルコ共和国大統領が、プーチン・ロシア連邦大統領に対して、一歩も引かない強い姿勢でいる姿は羨ましくもある。それは、ウクライナのウォロディミル・ゼレンスキー大統領がプーチン大統領にビビっていないことにも相通ずる話である。国家国民を背負っている代表ってのは、そうじゃなくっちゃね。

トルコ人とは?

ところで、民族の出自を踏まえた上でトルコ人とは何者か?を説明するのは凄く難しい。

「トルコ人」とは、主に、アナトリアトラキア(現在は東トラキアのみがトルコのヨーロッパ部)に暮らす人達のことを指します。が、多民族多言語で構成される”トルコ人”の説明は容易ではない。 人種の坩堝と言われるこの一帯全てのトルコ人を説明するのは、当のトルコ人でさえ難しいと云われるし、日本人の不肖私如きが明瞭簡潔に書けるわけもない。そこで一書、故・浅井信雄氏の著書『民族世界地図』に頼ってみます。

(引用開始=>「今日、トルコ族の足跡は、中央アジア、シベリア、西アジア、北アフリカ、インド北部、東南アジア、欧州の一部という広範な世界に及んでいる。 ~~中略~~ 彼らは各地で、さまざまな民族と混血を繰り返してきたため、明確なアイデンティティを認めにくいが、言語と宗教の二点で共通の特性を備えている。言語とはアルタイ語系のテュルク語(チュルク語)、宗教はイスラムである。トルコ共和国で使われるトルコ語は、テュルク語の一種である」<=引用終わり)

浅井信雄さんがトルコ族と表現し言明した対象は、あくまでもテュルク系民族の一般的な見方。なので、トルコ人=トルコ国民のことではない。現代のトルコ共和国国民として最も多数を占めている人達が、”トルコ族”=テュルク系民族であることは間違いない。しかし、古代よりアナトリアには以下の人々が絶え間なく流入し混血していった。

シュメール人(古代シュメールからの移住)
古イラン人(エラムの人々の移住)
セム語派諸族(アッカド=アッシリア人、フェニキア人、ヘブライ人、アラム人=バビロニア人)
アナトリア語派諸族(ハッティ=ヒッタイト人、リュキア人、フリル人、リュディア人、ギリシア系カリア人、ギリシア系フリギュア人、他)
古イラン系遊牧騎馬民族諸族(キンメリア人、スキタイ人)
ラテン人(ローマ人)
ゲルマン人(東ローマ帝国樹立以降特に活発に移住)
スラヴ語派諸族(同上)・・・

まだまだあってきりがないけど、太古の昔より以上のような多民族が入り乱れて覇を競ってきたのがアナトリアという土地柄であり、今に至るトルコです。
だから、テュルク=トルコ民族が現代のトルコ共和国国民の主民族ではあるけれど、土着していた以上のような人々を国民として吸収していったことも間違いは無い。

現代のトルコ共和国の祖と言える大セルジューク朝ルーム・セルジューク朝、そしてオスマン朝の為政者達は、いわゆる『トルコ国民』という呼び方には大変な苦労をしている。大セルジューク朝は、伝説の太祖オズクを敬うあまり、その分派の末端に過ぎなかったセルジューク家の名が大きくなり過ぎるのを嫌った多くのテュルク人(トルコ人)が各地に乱入して統制が全く効かなくなり、アナトリアに限ったルーム・セルジューク朝として再出発する。それでも統制出来ずにやがてオスマン家に全てを委ねるしかなくなった。

オスマン帝国は、確かに軍事大国であったが、意外と繊細で細やかな心遣いが出来るファミリー(オスマン家)だったのか、多民族を一つの国民としてまとめ上げる事に対してやり方としては優しかった方だと思う。大セルジューク朝の頃や、現代の共産党政権も含む中国王朝、ソ連以降の現代のロシア、インドなどの多民族国家では、主軸となった民族が多民族に対する宗教・思想弾圧や人種差別を平然と繰り返してきた。大虐殺も起こした。それらに比べれば、オスマン帝国はよくやった。
確かに、現代のトルコ共和国はクルディア(クルド人)問題を抱えているし、アルメニアとの歴史的和解も出来ていないし、多民族国家故に犯罪も少なくないし治安もけっして良くない。でも、オスマン帝国時代には今よりは統制が取れていたような印象を受けます。勿論、その時代を知らんけどね。

テュルク系遊牧騎馬民族としてアナトリアに流れ着いた人達も、アナトリア興亡史に名を刻んで来た人達の流れを汲む人達も、或る程度の自由思想・信教の自由を(表面上は)認められている。テュルク系の人が全てイスラームかと言うとそうでもないらしい。だから尚更「トルコ族=テュルク系民族」とは何かは説明し辛い。これがトルコ国民だと、「トルコ共和国に「国籍」を持って暮らしている人達で、民族としてのルーツは様々あり、宗教・思想も様々である。」という説明で済む。

じゃあ、そういうわけで宜しく!で終われば良いものを、「テュルク系」をもっと深く知りたいとか思うわけですよ。・・・今回のエッセイは絶対に間違い多発のエッセイになりそう。

トルコ族の故地とモンゴロイド系語族

北をロシア、西をカザフスタン、南を中国、東をモンゴルという4ヶ国に跨るアルタイ山脈や、アルタイ山脈から東へ延びるサヤン山脈(東西サヤン山脈/殆どの部分が現在はロシア領)が、テュルク系トルコ人の故地である。
太古の昔、アルタイ語族(テュルク諸語/モンゴル諸語/ツングース諸語)が発祥した地域ですが、トルコ族はアルタイ語族に属するテュルク語系民族に含まれる。
また、アルタイ語族とウラル語族(サモエード諸語/フィン・ウゴル諸語)を同列に並べて、ウラル・アルタイ語族と位置付ける学説もある。その論拠としては、ウラル語の特にサモエード諸語民族がアルタイ語族と同様のモンゴロイドであることに因るらしい。フィン・ウゴル語諸族は、モンゴロイドとコーカソイドのハイブリッドが大半らしいけど、そのことを考えると、フィン・ウゴル語系の人々とは、アルタイ山脈方面から西へ降りて来た人達がカザフステップを更に西進して、ウラル山脈を越えて行こうとした時にコーカソイドと交配して誕生したのでしょうかね。

フン族から始まる物語

アッティラの怪死事件

過去に「大王」と呼ばれた人は何人も何十人も、地域限定大王迄含めると五万といるでしょうね。が、フン族を率いてユーラシア大陸の西半分を席巻したアッティラは、誰もが認める「大王」でしょう。フンは国家じゃなく部族だから国王じゃないのでアシカラズ。

西暦405年か406年にアッティラは生まれた。それよりも30年以上早く、フン族は中央ユーラシアに於ける遊牧騎馬民族の頂点に君臨した。が、その出自は全く以てハッキリしない。ツングース系なのか、チベット系なのか、テュルク系なのか、モンゴル・タタール系なのか。でも、古イラン系では無いようだ。

フン族は、370年頃には現在の中国西域からロシアのヴォルガ川以東の実質支配者であった。そのフン族がヴォルガ川を越えてパンノニア平原や小アジアへ姿を現した時、スラヴ語派系諸族やゲルマン民族系諸族、そして東西のローマ帝国はこの上ない恐怖に遭遇した。例えば、許しを乞う為に王族の姫を差し出し、領土を割譲し、若い男子は奴隷となり従属し、それでも許されない場合は皆殺しにされた。

433年。西ローマ帝国は、当時のフン族の大首長ルーアに大敗北を喫し屈服した。属州パンノニアと属州イリュリクムの一部を割譲する和解案を示したところが、ルーアは翌4434年に突然死。嫡男が無かったルーアの後継として白羽の矢が立ったのが甥のブレダ(兄)とアッティラ(弟)。二人はフン族の共同統治者となる。が、15歳以上の年の差があった兄弟はあまり仲も良くなく、遊び癖があったブレダよりも、弟のアッティラの方が家臣の信を得た。

パンノニアを拠点化したフン族は、取り敢えず和睦した西ローマを捨て置いて、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の攻略へ向かう。

大王アッティラに率いられたフン族は、古イラン系遊牧騎馬民族としては最強部族と見做されたアラン族や当時のゲルマン系諸族の中では間違いなく最強だったゴート族を一蹴。ゴート族は、東と西に大分裂することになる。フン族は勢い止まらず、ローマ帝国領のガリア・ベルギカを陥落させ、遂にローマ(西ローマ帝国)本土へと迫った。

この時、ゲルマン系諸族はローマ(西ローマ帝国)に付くか、新たな盟主としてアッティラを選ぶのか大いに悩んだと思う。既に、アラン族とスラヴ系の一大部族であったルギイ族(ヴァンダル族)は、フン族と行動を共にしていた。そして、ゲルマン系諸族の動向は以下のようになった。

西ローマ帝国と同盟した部族(西ゴート族、サリ・フランク族、ブルグント族、サクソン族)

フン族と同盟した部族(東ゴート族、ゲピド族(ゴート族と同族)、アレマン族、ヘルリ族、スキリア族、バスタルナエ族、他少数部族多数)

アッティラと握手した中には、バスタルナエ族やヘルリ族のように、古くからローマ帝国と戦い続けていた部族が多かった。つまり、フン族と握手したと言うより、フン族を利用してローマに対する積年の恨みを晴らそうとする人達だった。しかし、ヴァンダル族=ルギィ族にはゴート族(東ゴート族)に対する恨みもあったので、この同盟が上手く機能したかどうか疑問である。
一方のローマ側には、何のかんの言っても地域の規律を守ろうとする使命感による結束があったと考えられる。

大王アッティラは、ローマ帝国領のガリア・ベルギカを陥落させ、遂にローマ帝国(西ローマ帝国)本土へと迫る。451年6月20日カタラウヌムの戦い(現在のフランス、シャロン=アン=シャンパーニュ付近)で両者は激突するが、初めて、アッティラは負けた(戦記上では引き分けだけど、実質、フンは敗退している)。

アッティラは、(眉唾だけど)50万以上の大軍を率いていた。しかし生涯初・唯一のまさかの大敗北に一時は自殺まで口にするほどのショックを受けたと云われる。だが、そこは「大王」である。その後は大いに巻き返し、現在のミラノ辺りまで侵略してローマ帝国を陥落寸前にまで追い込んだ。ところが、何故か(とまで言う事もないが)ローマ教皇(レオ1世)と会見して和解案を受け入れる。その和解案の中の一つが、ゴートの王女・イルディコとの婚儀。噂によれば、まだ10代前半の稀に見る美少女であったイルディコをアッティラが見初めて、和解案の中に無理矢理入れさせた。そして史上最大のミステリーである。結婚式の宴中(或いは寝室)にまだ40歳だったアッティラの急死事件(453年)が起きた。新婦によるものか妬んだ正室によるものかその他の妻たちか・・・何れにせよ毒殺か刺殺らしい。

アッティラ暗殺の謎をモチーフにしたとも言われているのが『ニーベルングの指環』。イルディコは、その物語では、ゴート族ではなくブルグント族の王女・クリエムヒルトとして描かれている。もしかするとその通りで、ブルグント族の王妃かもしれない。

もしも、毒殺でも刺殺でもないとしたら、美少女イルディコの寝室での姿態にあまりにも興奮し過ぎて脳溢血か腹上死か・・・それだと大王アッティラの恥部になるので毒殺とかに見せ掛けた?まぁ、謎だらけの最期です。

アッティラとイルディコの話こそ興味深いのですが、先を進めます。

ゲピドとアヴァール

ゲピド

あまりにも偉大過ぎたアッティラを前触れなく失ったフン族は大混乱に陥った。しかも、息子たちは一つにまとまるどころか遺産争いを勃発。勝ち残った嫡男エラクも全然”偉くなく”て、翌454年のネダオの会戦で、これもまたまさかの敗死。この時のフン族側もまだ30万以上の大軍だったと言われるが、その10分の1程度だったゲピド族(東ゴート族支族)に大敗する。アッティラの時代には服属させていた一部族の反逆に遇い、アッティラ後継が誰もいなくなったフン族は一気に求心力を失う。支配下に置いていた遊牧騎馬民族系諸族、スラヴ語派系諸族、ゲルマン系諸族は次々と離反した。

一方、増長したゲピド族は、東ゴート族の族長テオドリックの逆鱗に触れ攻撃を受けて、元々の領域ゲピディアを奪われる(504年頃)。故郷を捨て流浪したゲピド族は、530年代後半くらいになると勢力拡大。元々のゲピディアは、現在のポーランド北部辺りの狭域に過ぎなかったが、その故地を追われて移動した先は現在のセルビアの首都ベオグラード辺り。其処で頑張って四半世紀で急伸。現在のセルビアからハンガリーの一部、ルーマニア、スロバキア辺りまで領域を広げ、ゲピド王国と呼ばれた。因みにゲピド王国の首都は、西ローマ帝国から奪ったシルミウム(属州パンノニア/現在のセルビア共和国西部スレムスカ・ミトロヴィツァ)。

但し、其処まで伸し上がる迄のゲピド族は、東ローマ帝国と同盟するランゴバルド族からの度重なる攻撃に悩まされていた。が、クニムンドの父であるトゥリシンドや弟のトゥリスムンドなどもランゴバルドの戦いで敗死している。そして、567年。ランゴバルドに奪われた領土の回復を賭けて、新王クニムンドは、ランゴバルド族の族長アルボイヌスと一大決戦に及ぶ(アスフェルド会戦)。しかし、結果は一部、東ローマ帝国の支援も受けたアルボイヌス率いるランゴバルド族がゲピド族を殲滅させる。

ロザムンダの復讐劇と愛憎劇

アルボイヌスは、敗死させたクニムンドを斬首しその頭蓋骨で盃を作った。更に、クニムンドの王女ロザムンダ(546年生)を強引に妻とする。その祝宴で、父(クニムンド)の頭蓋骨に注ぎ込んだ酒を無理矢理にロザムンダに飲ませるなど、新妻への酷い虐待を繰り返したと云われる。

この後、ロザムンダは、夫(アルボイヌス)を暗殺することを決意する。元々の恋人・ヘルミキスと密会しそのことを打ち明ける。ヘルミキスはゲピド族随一の強者として知られていたペレデオを計画に引き込むことを提案した。が、ペレデオは、既にランゴバルドに高額で受け入れられる約束を取り交わしていてそのことを拒否する。

暗殺計画がペレデオから夫へ伝わることを恐れたロザムンダはペレデオを誘惑。ペレデオは、憧れの姫と関係を持ってしまい、今度はそのことが新たな雇い主であるアルボイヌスに知られることを恐れ、暗殺計画に加わることを合意する。

或る日の宴会の後、アルボイヌスは酩酊し床に就く。ロザムンドは、夫の剣を枕元に縛り付け、直ぐには抜けないようにした。アルボイヌスは、襲われた時に目を覚ましたが、武器を手にすることが出来ずに殺害される。殺害者については断定されていない。ロザムンダかもしれない。

この後、ヘルミキスは王位簒奪を謀り、ロザムンダとの婚姻を主張。しかし、ランゴバルドの重臣たちに拒否され、ペレデオの動向も気掛かりとなった二人は東ローマ(ビザンツ帝国)への亡命を決意。ビザンツ帝国には、この暗殺計画の加担者であるプレトリア総督ロンギヌスがいた。実は、ロザムンダはロンギヌスとも愛人関係にあった。そして、この亡命のシナリオはロンギヌスが書いた。

ヘルミキスとロザムンダは、異母娘アルブスインダ(アルボイヌスの遺産相続者)を半ば強引に伴い逃亡。その途中のラヴェンナの教会で結婚式を挙げたと云われるがその真実性は不明。ロンギヌスは、ロザムンダに毒薬を渡していた。二人は邪魔になったヘルミキスをラヴェンナで暗殺する計画まで立てていた。ところが、ヘルミキスはその先手を打ってロザムンダを毒殺した。その後のヘルミキスの行方は分からない。

遅れてラヴェンナへやって来たロンギヌスは、ロザムンダの遺体の傍にいた少女・アルブスインダを手懐ける(って、何したんだろうね?)。アルブスインダはそのままビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルへ連れて行かれ、ビザンツ側の王族の誰かと婚姻させられたと考えられている。つまり、ランゴバルドを親ビザンツ国家として関係強化する為の政治利用ですね。

アルブスインダに関するこれ以上の情報はないらしい。

アヴァール

少し話を戻せば、ゲピド族は、その多くはランゴバルド族に従い、残りはビザンツ帝国に捕らえられたが、あと一つの「その後」の人達があって、アヴァール族の中に吸収された。

アヴァールも出自がよく分からない遊牧騎馬民族ですが、突厥に追われたアヴァールは、北カフカスに逃げ込んで、其処ら一帯を領域化していたアラン族の仲介でビザンツ皇帝ユスティニアヌス1世(在位518年~565年)と契約し傭兵となった。

561年頃、アヴァール族はドナウ川下流域を拠点に西進。ウティグル族、クトリグル族、サビル族などを服属させた。そこで、ユスティニアヌス帝にドブロジャ(ドナウ・デルタを含むドナウ川下流域から黒海にかけての一帯)の領国化と定住許可を申し出るが拒否される。

当時のユスティニアヌス帝は、地中海沿岸部の様々な部族を駆逐し、嘗てのローマ帝国の権威を取り戻しつつあった。そういう中で、アヴァールを国家として認めるわけもなかったが、アヴァールに交換条件を出す。

561年にサリ・フランク族(メロヴィング朝)のクロタール1世が亡くなり息子4人が相続する事になるが、初代クローヴィスが亡くなった頃と同じように国が4分割相続される。長男ジギベルト1世は王国の東部広域とプロヴァンスを相続するが、ユスティニアヌス帝はこのジギベルト1世さえ駆逐すればサリ・フランク族の力を奪うことが可能だと考えた。が、ビザンツ帝国が直接動けばゲルマン人他の反感を買う恐れもあり、それでアヴァール族に対し、ジギベルトの統治する領土(ジギベルトによってアウストラシアと名付けられた)への攻撃を命じた。恐らく、ブルグントかアウストラシアの一部を領土として与える約束が取り交わされたものと考えられる。

562年。アヴァール族はジギベルト1世率いるアウストラシア軍と激突(テューリンゲンの会戦)。しかし、そうは上手く行かずアヴァール軍は敗北。それでも、その強さは十分に示せたことで評価を受け、アヴァール族はランゴバルド族と同盟する。

5年後(567年)、アヴァール族はランゴバルド族に加担してゲピド族を滅ぼした。その後、ランゴバルド族の族長アルボイヌスが暗殺された混乱に乗じてゲピド族の領土を殆ど奪った。此処に、アヴァール可汗国の樹立を宣言。

翌568年。ビザンツ帝国の意を受けてランゴバルド族はイタリア半島に移りランゴバルド王国を建国。ランゴバルドの旧領はアヴァール河汗国のものとなり、ハンガリー平原全域も手に入れる。アヴァール可汗国の最大版図は、ボヘミア~セルビア~ハンガリー~ルーマニア~モルドバを経て南ロシアにおよぶ広範となった。

同じ年、コンスタンティノープルに突厥の使節団が現れ外交関係の樹立を望む。この頃のビザンツ帝国にとって最大の同盟相手はサーサーン朝(ペルシア帝国)。しかし、サーサーン朝は不安定な同盟相手であり(実際に、その後、長い戦争期間に入る)、サーサーン朝を軽く凌駕するくらいの大領域を誇っていた突厥と友好条約を結べることはビザンツ帝国にとっては渡りに船。ビザンツは突厥と握手する。

突厥と東ローマとアヴァール

突厥との同盟により、ビザンツ帝国は(元々嫌っていた)アヴァールに対して上から目線が復活。崩御したユスティニアヌス1世に代わって即位したユスティヌス2世(在位565年~578年)は強硬姿勢となり、アヴァールからの貢納要求を拒否する。要するに、突厥に追われて逃げて来たアヴァールと付き合うより突厥との関係を重視したわけですが、これは突厥からの条件であったかもしれない。

この事に対して怒り心頭に発した当時のアヴァール王バヤン・カガンは、ゲピド滅亡時にビザンツ帝国が占拠したシルミウムを攻撃。属州パンノニアの再整備を目論んでいたユスティヌス2世だったが、アヴァールに太刀打ち出来ず、慌てて貢納要求を受け入れる。

すると、ビザンツがアヴァールとの貢納関係を再開させたことに対して突厥が態度を硬化させる。両国関係は一気に悪化。突厥は、クリミア半島のビザンツ帝国領をあっという間に征服した(576年)。

突厥は、そのままビザンツやアヴァールの殲滅を考えていたかもしれないが東アジアが忙しくなる。577年に北斉を征服したが、その残党が、突厥の庇護下にあった北周を荒らし回り、突厥はその始末に多忙になってビザンツの件は後回しになった。それをようやく制圧すると、今度は族長(他鉢可汗)が病に臥せりそのまま崩御(580年)。その後継争いが勃発し、やがて突厥は東西に分裂する。

この突厥分裂という大事件こそが、『テュルク系遊牧騎馬民族』という言葉の誕生となったと考えていますけど、取り敢えず東西分裂ということで一休みして頂いてアヴァール話へ・・・

アヴァールとスラヴ語派諸族の蜜月

ビザンツ帝国は、ユスティニアヌス1世の時代からスラヴ語派諸族の侵入にも悩まされていた。ユスティニアヌス2世の後を継いだティベリウス2世(在位578年~582年)は、アヴァール族にスラヴ語派諸族の侵入行為を阻止するよう依頼する。しかし、アヴァールの族長バヤン・カガンには、既に、ビザンツ皇帝からの高飛車な「命令」に従う気はサラサラ無くて、尤も命令形式では無かったでしょうけど依頼であっても突っ撥ねた。逆に、スラヴ語派諸族と手を組み、ビザンツ(ローマ)の属州、トラキア・イリュリア・ギリシアの各地に侵入して略奪行為を繰り返し、更に、要塞都市シルミウムを2年間攻囲して陥落させた。

プリスクス

以上のような事が大きく影響しティベリウス2世は心労で倒れそのまま崩御。その後を継いだ娘婿のマウリキウス(在位582年~ 602年)が流れを変えた。

プリスクスという人の名前が史料登場する最初は、587年後半か588 年初頭。オリエンテム治安判事として、東方の脅威ペルシア人に対する指揮を執る任務に就いた時。しかし、初めて責任ある立場を得て気負ったプリスクスは、赴任直後から兵士たちと話が嚙み合わず度々諍いを繰り返す。また、悪いタイミングで軍人給与が4分の1もカットされるという法令が発布された事に対して、588年4月18日の復活祭当日に兵士たちが反乱を起こす。それを鎮圧出来なかったばかりか、プリスクスは逃走。コンスタンティノープルへ勝手に帰還する。皇帝マウリキウスは、呆れて、前任者フィリピカスを指揮官に復帰させた。

しかし、名誉挽回の機会を与えられたプリスクスは、同年夏に彼はトラキアの軍務官に就任。アヴァール人制圧の命を受けた。ところが一方的敗退を繰り返す。多分、戦場の現場指揮官としての才能は無かったのでしょう。けれど、狡賢さ(策略ですね)は持ち合わせていた。

アヴァール軍に数日間包囲され命運も尽きたかのようだったプリスクスは、奇策を思いつく。アヴァール側の斥侯に、わざと偽情報が記されている機密文書のようなもの・・・・・・を盗ませた。その内容は、空前絶後の大艦隊を率いて皇帝マウリキウス自らが乗り込んで来るというもの。更に、それにはサーサーン朝と突厥も加わるというものだった。

この偽情報はアヴァール本陣に届き、突厥やペルシアの大軍襲来を恐れたアヴァール軍は即時停戦・和睦を提案して来る。プリスクスは、嘘がバレる前の合意を取り付ける為に自分で勝手に和睦後の貢納金額も決めてしまう。一応は値下げには成功したという。それまでは約10万ソリディ(金1200ポンドくらい?)で新条件は約6万ソリディ(金800ポンド)。

双方軍を退き、意気揚々とコンスタンティノープルへ凱旋したプリスクスだが、皇帝マウリキウスの不興を買った。そして後数年間(何処か僻地で)冷や飯を食わされる。が、593年までに地位を回復したプリスクスは、帝国最高の名誉階級とされるパトリキオスを授与される。しかし、軍を率いる資質はまだ無かった。

593年の春、プリスクスはトラキアの騎兵司令官に再任され、歩兵を率いるゲンツォン将軍と共に赴任。プリスクスは総司令官という立場でもあった。ビザンツ軍はドナウ川沿いのドロストロンで、渡河するスラヴ軍を待ち構えた。アルダガストゥスとムソシウスという二人の将軍が率いていたスラヴ軍は気付かれないよう夜半に川を渡った。が、渡り切ったところでこの作戦の情報を事前察知していたビザンツ軍の奇襲を受け殲滅された。プリスクスにとっては、初めてと言っていい快勝だったが、戦利品の分配などを巡り兵士たちと罵り合った。
結局、プリスクスは良くない上官のままなのか、と思いきや、皇帝の意に反し(命に背き)、凍える寒さのドナウ川の北岸での越冬令に従わず、少しでも暖かい南岸へと渡って越冬した。 更に、勝手に休戦協定を結び、約5千人の捕虜をアヴァール族へ返還する。自分勝手な判断を繰り返すプリスクスは総司令官の任を解かれる。

594年後半、ビザンツ軍はスラヴ軍の逆襲に遭い大敗を喫する。危機に瀕したビザンツ皇帝は、解任したプリスクスを再び呼び戻してトラキア軍政令に任命する。その後数年間継続してその職に就いた。

一進一退が続いた597年秋、アヴァール族は大規模な侵攻を行い勝利寸前に迫ったが、しかし、疫病が蔓延し壊滅。もうこうなると戦争どころじゃない。双方歩み寄りすぐに条約が締結され、年貢12万ソリディの増額と引き換えにアヴァール族は撤退する。

599年の夏、プリスクスは10日間の戦いで3度勝利し、合計2万8千人のアヴァール族を殺害した。更にアヴァール族の本拠地、パンノニアに侵攻。ティサ川付近で4度目の戦いが行われたが、これにも勝利。更に、旧ゲピド族領の3ヶ所を奇襲攻撃し全滅させた(約3万人が殺害され、投降した多くの者が捕虜となった)。19日後、アヴァールとスラヴ同盟軍は大軍勢で”復讐戦”を挑んだが、これもビザンツ軍が制し、この年の戦いは決した。
プリスクスはアヴァール族約3千、スラヴ語系約8千、更に、アヴァールやスラヴと行動を共にしていた他部族約6千を捕虜とし、奴隷とするべくコンスタンティノープルへ送還した。ところが、皇帝マウリキウスは、完全な勝利を理解出来ずに捕虜全員を、アヴァールとの新たな条約(600年に国境が制定された)の証として解放を命じた。

この時、アヴァールは既に死に体に等しく、この一連の戦争失敗でスラヴ語派の反ビザンツグループとの間にも大きな亀裂が入っていたがその修復の為にアヴァール族は再度立ち上がる。

602年。東ローマ皇帝マウリキウスは、再びトラキア駐留軍に対して寒いドナウ川北岸での警備越境を命じた。この役目は兵士達には最も不評であり、故に、プリスクスは皇帝の意に反した行動も取ったのだが、この時、プリスクスは新たな任務でアルメニアとの交渉に当たっていた。新たにトラキア駐留軍を誰が率いていたのかはよく分からないけれど、コメンティオロスかもしれない。

トラキア駐留軍は、皇帝マウリキウスに対しクーデターを起こす。これに各軍が同調してコンスタンティノープルを包囲。皇帝は逃亡を図ったが捕らえられ家族もろとも処刑された。そして、新たな皇帝には、最初のクーデター首謀者だったトラキア駐留軍の百人隊長(つまり、将軍でも何でもない低階級者)フォカスが就いた。

マウリキウスが処刑されたことに対し、当時はビザンツ帝国の同盟者であり、マウリキウスの推薦によってサーサーン朝の皇帝位にあったペルシア皇帝ホスロー2世はフォカスを強く非難。ペルシア軍はマウリキウスの復讐戦として東ローマ領へ進軍する。これに対してフォカスは、兄のコメンティオロスを総司令官に任じてペルシアとの戦争に突入するが、とんでもなく長い戦いとなった(東ローマ・サーサーン戦争/602年~628年)。

帝国の西側の防衛が重要となった中、ドナウ川方面は手薄になった。この機に乗じてアヴァール族は猛攻に出る。

ビザンツ側の守備隊は次々に敗北し、続いてやって来たスラヴ語派の人々がバルカン半島へ大量移住する。この事態を防げなかった指揮官たちを処刑したフォカスは、嘗ての上官(雲の上の存在だった)プリスクスに再びアヴァールとスラヴに対する総司令官を任ずるが、その条件として、フォカスは一人娘のドメンティアをプリスクスに嫁がせる(607年頃)。身分の低かったフォカスは支持基盤を何も持たなかったが、その不安からか次々と軍幹部や政治家を処刑したと云われる。そういう中で、プリスクスだけは大事にした。それは、プリスクスがドナウ川河畔での越冬に対し兵士側に立って皇帝の意に逆らったことに対する恩義と信頼によるものと云われるが・・・

608年、カルタゴ総督ヘラクレイオスがフォカスに反旗を翻す。立場上、フォカスの娘婿だったプリスクスですが、ヘラクレイオスと交渉してフォカス打倒を支援した。味方がいなくなったフォカスは逃亡したが捕縛され処刑された。ヘラクレイオス朝になったビザンツに於いて、プリスクスは、611年から612年にかけて対ペルシアの総司令官に任じられたが敗北を重ね解任され、剃髪された上で恐らく処刑された。か、自害して果てた。

アヴァール vs スラヴ

反ローマ(ビザンツ)で利害が一致したサーサーン朝は、アヴァールとスラヴを支援する。そして623年、三者同盟はビザンツの首都コンスタンティノープルを海と陸から攻撃する。しかし、ビザンツ帝国守備隊もよく耐えて陥落は免れた。

同時期、スラヴ語派民族の国家・サモ王国(623年~658年)がボヘミアに樹立。サモ王国国民は、アヴァール族とは一線を画す。

626年のコンスタンティノープル包囲戦は、アヴァールとスラヴの不和が顕著となり、サーサーン朝ペルシアと同盟を組んだのはアヴァールだけとなる。が、海に不慣れなアヴァールは海戦で役に立たず、ペルシア海軍はビザンツとの海上戦で敗北を喫する。それをきっかけにビザンツが逆襲し戦局は混迷。遂にサーサーン朝は撤退した(628年)。

ビザンツ皇帝ヘラクレイオス(在位610年~641年)は、アヴァールとスラヴを完全に分断させる為にスラヴ語派のクロアト族(クロアティア人)、セルブ族(セルビア人)と同盟。クロアトとセルブは、イリュリア戦線でアヴァール軍と対峙する。

ブルガール

突厥(西突厥)の出と目されるドゥロ家のクブラト(少年期をビザンツ帝国で過ごし、ローマ風の教育と洗礼を受けている)は、その後はアヴァール族に属していた。が、620年代後半にアヴァールを抜け、ブルガール族の族長となって独立。更に、アヴァール族の弱体化を見て取ると、パンノニア平原に戻ってアヴァール族と対峙。次々と領土拡大し、遂に、632年にクブラト・ハンとして即位。大ブルガリア国の樹立を宣言する。そして着実に力をつけていく。

635年。ビザンツ皇帝は、クブラト・ハンと同盟。アヴァールは、ビザンツ、大ブルガリアという包囲網に閉じ込められた。が、包囲網の主軸であるビザンツ帝国は、サーサーン朝ペルシア、イスラム軍(正統カリフ)、イスラム軍(ウマイヤ朝)という複数の大敵と対峙していて、アヴァールを本格攻撃するまでには至らない状況が続く。

アヴァールは、危機を脱する為に先ずはサモ王国に照準を合わせ、658年に滅亡させる。が、これでまたスラヴ語派系諸族の怒りを買い幾つものグループがアヴァール領内へ侵入を繰り返すようになる。それでもしぶといアヴァールは持ち堪えていたのだけれど、791年からフランク王国が東征を開始。804年頃までにドナウ川中流域までを征服する。

フランク王国に備える必要に迫られた大ブルガリアやスラヴ系諸族はアヴァール領に雪崩込み、最終的には、アヴァール可汗国領は、フランク王国、大ブルガリア国、スラヴ語派諸族の三者に分割され滅亡する。

(続く)

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