民族・部族興亡史(7) =匈奴4=

東アジア史

壺衍鞮単于の即位”事件”

即位迄の経緯

紀元前85年。匈奴は、狐鹿姑単于が病に臥せると漢帝国に和親を求め、その年の内に狐鹿姑は重篤となるが、その相続争いは揉めに揉めた。
賢者として多くの信を集めていた側室の子である左大都尉(=東方の副長)を推す声が聞こえる中、 狐鹿姑は、流儀として正室である母閼氏との嫡子・左谷蠡王(=東方の長)を後継指名していたので、重臣達の中には左谷蠡王の即位が当然と云う声が多かった。ところが、壺衍鞮の産みの親である筈の母閼氏が、腹違いの子である左大都尉の単于即位を望んだ。母閼氏は、晩年の狐鹿姑とは不仲であり、それに対する腹いせと考えられた。しかし、やっぱり我が子可愛さで方針転換し、狐鹿姑との不仲の要因となった側室と左大都尉に対し殺害命令を下しそれは実行された。・・・女の恨みは怖いね。
それで事は収まるかと思いきや、生前の狐鹿姑が今わの際に於いて漢から帰順して匈奴の重臣となっていた衛律や顓渠閼氏など主だった側近を呼び寄せ「我が子(=壺衍鞮)はまだ幼い。まつりごとは出来ない。それまでは(壺衍鞮が成人するまで)我が弟である右谷蠡王(西方の長)を単于に立てよ」と遺言し息を引き取った。

というわけで、右谷蠡王が単于即位するのかと思いきや、衛律も顓渠閼氏も母閼氏と通じていた。彼らは左谷蠡王の即位を謀り、狐鹿姑が亡くなったことを伏せて生前譲位として、左谷蠡王を壺衍鞮単于ごえんたい ぜんう(在位:紀元前85年~紀元前68年)として即位させる。更に、幼い単于であることを理由に漢帝国に理解を求めて和親を進めた。

即位後の確執

戦争が停止され平和になることは良いことだよ。しかし、和親で誤魔化すな!と許せない人もいたわけで・・・

幼い壺衍鞮は何も知らない中で起こっていた事ではあるが、摂政となった母閼氏や衛律、顓渠閼氏などの謀もやがては知れるところとなり、その噂を耳にした右谷蠡王や、殺された左大都尉の兄弟達は漢帝国と結んでのクーデターを考えた。が、和親が成ったあとの漢からそのことが事前に漏れることを恐れた彼らは方針転換。西域の烏孫(キルギス族)を頼ろうとする。

この計画は、盧屠王(恐らく、西方を所轄する官職)によって報告され、右谷蠡王やその他は尋問を受けるが冤罪であると言い逃れて、幼い単于も叔父たちの報復を恐れてそれ以上の詰問をせずに無罪放免となった。が、疑いが全て晴れたわけではなく、右谷蠡王らはそれ以降の龍城会議(匈奴に於ける国会のようなもの)への出席を停止させられた。でも、任を解かれることは無かったようなので、自ら、会議への参加をボイコットしたとも考えられる。

蘇武の帰国の真相

2年間の停戦期限が過ぎると、紀元前83年に匈奴は代郡(現在の河北省蔚県辺り)を侵略する。が、これは衛律らが知らない予期せぬ出来事だったようで、この件に関しては漢帝国が相当にブチ切れた?大規模反撃も予想された中で、衛律は、19年間抑留していた蘇武の解放~漢への帰国を条件に和平交渉したと云われている。これで一時的に和平はなったが、1年持たずに再び匈奴と漢は戦闘状態へ。実際に蘇武が漢帝国への帰国を果たせたのは紀元前81年と云われる。

その時、蘇武には匈奴の身分のあまり高くない女性との間に子を生していた。既に、母国では家族を失くしていた蘇武を不憫に思った漢の宣帝は、匈奴からその子(蘇通国)を呼び寄せさせて郎に引き立てたとされる。

ゴビ砂漠の由来

紀元前82年。匈奴は東西からそれぞれ2万騎程が漢帝国の国境地帯を荒らし回った。漢軍はこれを追撃し、9千人を斬首獲虜し甌脱おうだつ王を生け捕った。

という記録が残っているとのこと。甌脱は、「おうだつ」って読むけど、”何もない所”という意味の「ゴビ」という読み方もある。正に、何もない砂漠であるゴビ砂漠の「ゴビ」でもある。因みに、人類が誕生するずーーーっと以前、中生代のゴビ砂漠は、砂漠ではなく緑に覆われた場所だった。草食恐竜に食い荒らされた?それだけではないのだろうけど大砂漠と化した。でも、重要なオアシス都市はいくつもあって、甌脱王とは、そのオアシス都市を支配している王だったのでしょうか。

匈奴は、甌脱王が漢帝国に捕まったことに対して恐れを抱いたという話になっているけれど、そこら辺の意味がイマイチ不明。

衛律の死

衛律は、漢帝国を出て匈奴に帰順した人ですが、その事を蘇武から侮蔑されたとも云われる。衛律は、蘇武を守った一人であり、蘇武の漢帝国帰国を実現させた人である。

衛律は、漢帝国との和親を説き続けたが、匈奴の中には反漢派が多くそれ(和親)がなかなか長続きせずに常に戦っていた。それでも衛律が生きていた間は、和親を望む声も少なからずあって、例えば壺衍鞮単于の弟・左谷蠡王などは国境を侵す行為には加担しなかった。しかし、その衛律も紀元前81年頃に世を去った。

多分、衛律は、漢帝国との付き合い方に対して口煩いタイプの人だったのかもしれない。衛律が亡くなるとすぐに、匈奴は国境付近に軍を進めて酒泉や張掖の奪還を図ったが失敗する。そればかりか、「やっぱり匈奴は信用出来ない」と、当たり前だが漢帝国の怒りを買う。漢の大将軍・霍光は、匈奴殲滅の命を受け、匈奴軍を追った。

東胡生き残りの片割れ(烏桓族)の滅亡と匈奴滅亡の危機

嘗て、東胡族は、遊牧騎馬民族としては匈奴よりも遥か上の位置にいた。しかし、徐々に立場が逆転。遂に、冒頓単于によって(大部族としては)滅ぼされた。その時どうにか生き残った人々を二手に分けて、一方は烏桓山へ、もう一方は鮮卑山に逃れて生き延びて復活を時を期していた。因みに、烏桓山で生き延びた人々は烏桓族うがんぞくと呼ばれ、鮮卑山で生き延びた人々は、鮮卑族せんぴぞくと呼ばれた。
烏垣族も鮮卑族も生き残る為に匈奴の配下となり、基本的には「牛」「馬」「羊」など家畜を貢ぎ、それが不足した年には女・子どもが連れ去られるという屈辱的日々を耐えていた。やがて紀元前90年頃を境に、力を取り戻していった烏垣族は、匈奴への復讐(報復)の機会を伺っていた。

烏垣族は、過去自分達を虐げた匈奴の歴代単于達への復讐の意味で、彼ら(歴代単于)の墓を暴いて回った。この事に対して壺衍鞮は激怒。2万騎を発して烏桓山を制圧した。

漢の大将軍・霍光は、匈奴軍が烏桓制圧へ動いた報せを受けてすぐさま中郎将の范明友に出陣させた。范明友は、騎兵3万を率いて烏桓山へ向かったが、到着時には既に匈奴は引き揚げた後だった。代わりに、匈奴に惨敗した烏桓に追い討ちをかけ、6千人を殺し、3人の王の首を掲げて帰還した。

大将軍・霍光と中郎将・范明友の攻撃を恐れた壺衍鞮単于は漢に対する侵入・略奪行為を一切停止。その代わりに、元々支配していた西域の烏孫(東トルキスタン)を攻撃。車師を奪還した。烏孫は、同盟相手の漢に救援要請し、漢は大軍を投じて匈奴を一斉攻撃する。匈奴の被害は甚大だった。この機に乗じろとばかりに、北の丁零族、東の烏桓族、西の烏孫族などが匈奴を同時攻撃すると、防戦一方となった匈奴からは更に離反する部族が続出する。匈奴は壊滅的打撃を被り存亡の危機に見舞われた。

親漢路線

虚閭権渠単于

紀元前68年。壺衍鞮単于が世を去り、は死去し、弟の左賢王が虚閭権渠単于ころごんご・ぜんうとして即位した。壺衍鞮に子がいたかどうかは知りません。

虚閭権渠は、即位するなりそれまでの正室・顓渠閼氏と離縁して右大将の娘を大閼氏だいえんし(=皇后)として娶る。娘(顓渠閼氏)が離縁されたことで自らの影響力も低下することを恨んだ顓渠閼氏の実父である左大且渠の先賢撣は、この年の内に漢帝国へ亡命する。しかも、娘や息子は残したままで。実に勝手気ままな父である。

表現は良くないけれど、娘が皇后になり損ねた程度で敵国へ亡命するような輩が要職に就いていたのだから、この頃の匈奴が規模を著しく低下させたことは理解出来る。因みに、その亡命には、他に2名、重要な地位にあった者も加わっている。

その後の匈奴は、西域のオアシス都市や烏孫、丁零などとの戦が続き、ますます疲弊していった。虚閭権は、何としてでも漢との和親を成すことを望んだが遂に叶わず、紀元前60年に亡くなった。

握衍朐鞮単于

顓渠閼氏が離縁させられた事には重大な理由があって、それは右賢王・屠耆堂ときとうとの不倫。それに気付いた夫(後の、虚閭権渠単于)と不仲になった。つまり、妻の方が不貞を働いたのであって、にも関わらず妻の父(左大且渠)は逆恨みして漢に帰順した。何とも我が儘な裏切り行為なのである。そして、この話には大きな続きがある。

顓渠閼氏は、前夫である虚閭権渠単于が亡くなると、自分の愛人である右賢王の屠耆堂を単于として即位させようとする。顓渠閼氏と漢に亡命した父に代わって左大且渠となっていた顓渠閼氏の弟の何らかの工作によって、屠耆堂は、握衍朐鞮単于あくえんくてい ぜんう(在位:紀元前60年~紀元前58年)として即位を成す。

単于として即位した握衍朐は、漢に亡命した愛人の父・先賢撣を通じて和親を図る。そして、実弟・伊酋若王を漢王朝に入朝させた。その一方で、虚閭権渠単于時に政治中枢にいた者達や虚閭権渠単于の弟達を尽く粛清した。その代わりに、愛人の弟である左大且渠や、自分の子弟を重用した。命の危険があった虚閭権渠単于の嫡子・稽侯狦は、妻の父である烏禅幕に匿われた。

なりふり構わず身内だけで政権中枢を固める握衍朐鞮に対し、多くの者が反感を抱いたが、握衍朐鞮による専横は留まるところを知らず暴虐殺伐を繰り返した。

紀元前58年。烏桓族が匈奴東辺の姑夕王を襲撃。しかも、住民達の多くは烏垣族に受け入れられることを望み匈奴に決別を宣告。握衍朐鞮は当たり前だが激怒し、攻撃を示唆する。しかし、それを待っていたかのように姑夕王は、烏禅幕や左地貴人らと共謀して、虚閭権渠単于の嫡子である稽侯狦を立て、呼韓邪単于こかんや・ぜんうとして即位宣言させる。

匈奴族は真っ二つに分かれて、呼韓邪は4~5万の軍勢を率いて、握衍朐鞮単于討伐に向った。ところが、握衍朐鞮単于側の兵は戦わずして敗走。孤立した握衍朐鞮単于は怒り怨んで自害した。

この後、単于乱立時代になるが、程なくして呼韓邪単于の安定時代が到来し、この間の匈奴は、漢と平和な関係を維持出来ることになるがその話は次回へ。今回はこれで〆。

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