ヴァンダル(3)~マルコマンニ戦争2~

東欧史

ヴァンダル・アラン同盟 VS ローマ (165年~)1

前回の続きです)

165年頃から戦況が思わしくなくなったパルティアの要請を受け、パルティアと同じイラン系のアラン族は同盟相手のハスディンジィ・バンダル族と共に、ローマ属州ダキアに侵攻する(どんなに早くても165年。166年~167年と考えた方が無難)。

この侵攻には、複数の部族が加わったことは間違いないようですが、その中には、ゴート族に付き従うラクリンギ族の半分が加わった。ラクリンギの残り半分は、ゴート族によるローマ属州パンノニアへの侵略(166年頃~)に加わった。この少数部族ラクリンギから裏切りの連鎖が起こるのですがそれは別途記載します。

ラクリンギ族は、当時のゲルマニアの東南部の一角に暮らしていた。ラクリンギ族の周囲は全てシリンジィ・ヴァンダル族の領域だったが、ヴァンダル族はラクリンギ族の領域を侵さなかった。その理由はゲルマニアの西半分をゲルマン系諸族が占めていて、中でも、ゴート族の力が抜きん出ていた。そのゴート族に敗北した経験を持つヴァンダル族は、ゴート族の庇護下にあったラクリンギに下手に手を出してヴァンダルと争いごとになることを避けていたのでしょう。

面白いことに、ゲルマン人もローマ人も、ゲルマニアの東半分をスラーヴィア(スラヴ人の土地)と呼び、其処には大勢のヴァンダル人が住んでいたが、ゲルマン人はゲルマニアの全部を欲しがらない代わりに、ラクリンギという楔を打った形にしたのでしょうか。だったら、ゲルマニアの半分とか言わずに、ゲルマニアとスラーヴィアにしとけって言いたいよね。なんか複雑怪異です。ゲルマン人は、もともとのゲルマニアにスラヴ人=ヴァンダル族が侵入して来たようなイメージを持っていたのかもしれませんけど、ヴァンダル側にしてみたら、ゴートに押し出されて移動したと思っている。どっちが正しいのかはよく分かりません。

ハディング一族は、現在のポーランド南部からスロバキア、ウクライナ西部、ハンガリーというかなり広範囲を領していたと言うから、やっぱりスラヴ(ヴァンダル)の大首長(=王)だったのでしょう。そして、ドナウ川を挟んだ先のローマとは交流していたようですが、その交流というのが友好関係か敵対関係かは不明。そして、ハディング家一行は東へ進みアラン族と仲良くなった。

さて、ローマとの戦争です。ゴートはパンノニアを攻撃してヴァンダルはダキアを攻撃。その両方にラクリンギが参加。ということは、この頃のゴートとヴァンダルは、連携し合っていたのでしょう。

ゴート VS ローマ (165年~)

166年の或る日、ゴート族は、ラクリンギ族とウビイ族を従えてローマ属州パンノニアを攻撃した。ところが、満を持したこの戦いで、ゴート族はローマの第1軍団「アディウトリクス」に呆気なく敗れ去った。これは、ゴート族の動員能力を遥かに下回る兵力での攻撃だったが、尚更、ローマにとっては急襲された筈だった。しかし、ローマの防衛布陣はこの攻撃を完全に読み切っていたようで情報が筒抜け?だったかもしれない。先述したが、ヴァンダルを裏切るラクリンギ族が、此処でも裏切ってローマへ情報を送っていた可能性はかなり高い。

あまりにも一方的な敗北だったようで、疑心暗鬼に陥ったゴート側は戦意喪失した。そして、マルコマンニ族の王バルロマルに対し、ローマ側のパンノニア総督イリウス・バッススとの和解の為の仲介を申し入れた。そして休戦協定が結ばれた。あくまでも休戦協定の範囲だが・・・

ヴァンダル・アラン同盟 VS ローマ (165年~)2

ゴート族敗北の報はヴァンダル陣営に届いたでしょうけど、それで怯むようなら最初っから大人しくしとけって話であって、ヴァンダル・アラン同盟軍はダキアへ進軍する。その動きはすぐさま皇帝マルクス・アウレリウスに伝えられるが、何せ戦争嫌いで軍を動かすことに不慣れな皇帝は「取り敢えず様子見」を命じてローマ側から攻撃することをしなかった。

ヤジゲスに率いられたヤジゲ族=サルマタイの騎馬軍団(中心主力はアラン族)が、防御姿勢のローマ軍に襲い掛かると、ダキア総督カルプルニウス・プロクルスが戦死するなど、ローマ軍はいきなり大混乱に陥った。防戦一方のローマ軍でしたが、パルティア遠征から戻った第5軍団「マケドニカ」が、パルティア戦争の疲れを見せずに奮闘、何とか立て直しに成功する。以降、小競り合いは何度も起こった。ヴァンダル・アラン同盟側は繰り返しダキアに侵入し、略奪行為も繰り返されたがローマ軍も踏ん張って押し返した。

168年。パルティア戦争で功績を挙げた(表面上ですけど)共同皇帝ルキウス・ウェルスが凱旋帰国。アクイレイア市に設置された本陣に、久々に二人の皇帝が着陣し蛮族に対する今後の協議が行われた。それにしても、無能な筈のルキウス・ウェルスに対するローマ市民の称賛は異常だった。ルキウスは、真の功労者であるガイウス・アウィディウス・カッシウスをしっかり称えることもせずに栄光を独り占めした。それでは、カッシウスを慕う軍人たちの不満は募る一方となる。

二人の皇帝は揃ってアルプス山脈を越えてイリュリア地方へ進軍し、カルヌントゥム(現在のオーストリアの首都ウィーンとスロバキアの首都ブラチスラヴァの中間地点辺り)に本陣が移された。親征軍の規模は反ローマ軍の想像を遥かに超えていた。それを脅威に感じた者達は、ローマとの停戦交渉を望んだ。

ルキウスは、冬のアルプスを嫌ってアクイレイアに帰陣。何故、そんな勝手をするかな?と苦情の声が上がったかどうかは知らんけど、ルキウスは急死する。無能なくせに市民や元老院を欺いたルキウスをアウレリウスが命じて謀殺した。という見方を多くの歴史研究家がしているけれど、この”事件”の真相は闇の中。多分、アウレリウスは共同皇帝がいなくなることはイヤだったろうし、一応は娘婿だから、ルキウスを殺さないだろう。暗殺を行うとすればカッシウスでしょうね。一旦ローマに戻った皇帝主宰で、ルキウスの葬儀は粛々と行われた。

英雄ティベリウス・ポンペイアヌス

それにしても、政略結婚に”使われる”しかなかった頃の高貴な女性達は大変ですね。夫の死を哀しみ時間さえ与えられない。

ルキウスの妃となっていたルキッラは、父(アウレリウス)に命じられるままその年の秋に再婚。相手は、叩き上げの軍人ティベリウス・クラウディウス・ポンペイアヌス

ポンペイアヌスは、シリア属州アンティオキア出身で貧しい家の出と云われる。が、軍人として相当有能な人だったようで、次々と軍功を挙げ軍の司令官となり、更に上院議員に当選した。161年に。共同皇帝ルキウスと共にパルティア戦争へ向かい、そこでも大きな軍功を挙げた。

ポンペイアヌスの評判は皇帝アウレリウスにも届き、アウレリウスは、蛮族との戦いに欠かせない指揮官としてポンペイアヌスを強く希望しパルティア戦線から戻して、属州パンノニアの軍事総督に大抜擢した。ポンペイアヌスはその期待通りに働き、パンノニア総督バッススを支えて、上述したようにゴート=ロンバルド族の侵入を敢然と阻止してローマに大勝利を齎せた。

更に、属州ダキアが大苦戦した時もパンノニアから駆け付けたポンペイアヌス軍はサルマタイの騎馬軍団を押し返した。このような功績により、ポンペイアヌスはルキッラの再婚相手に選ばれた。ということで、ポンペイアヌス自身は貴族でも何でもなく政略結婚かどうかで言えばそうじゃない。しかも、皇帝の娘婿となり、アウレリウスから共同皇帝に就くよう何度も要請されたが断り続けた。それで、取り敢えずアウレリウスは元老院を説き伏せ、ポンペイアヌスを異例の執政官に任じた(173年)。

執政官となって以降も、ポンペイアヌスは軍人としてマルコマンニ戦争の現場に関わり続ける。

それでどうでもいい話だけど、ちょっと羨ましい事に、ルキッラは未亡人とは言えまだまだ少女のように若い年齢で、ポンペイアヌスは正確な生年は分からないけれどかなりの高齢だった。ルキッラは、それでも夫となったポンペイアヌスを愛した。愛した故に、夫に比べたら遥かにろくでなし=人殺しが趣味?の兄を殺そうとする。

という話はこの次に。

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