日本人ですから、日本について何かしら書きたいのですよ(笑)
公家も武なり、武家も公なり
源氏や平家は天皇家を出自として代表的武家となった。公家も武家を誕生させた。
例えば、西園寺家から四国へ下った者達は十五将となった。
我が国の貴族達も、外国の貴族達と同じように血を流し戦った。「お公家様」は作られたイメージに過ぎない。
筑後川の戦いが齎した九州の武将諸事情(1)
少弐頼尚は足利尊氏にとっては人生を救ってくれた大恩人の筈。
しかし尊氏は、頼尚の人の良さに付け込み利用するだけ利用して、恩を仇で返すが如き仕打ちを行った。
頼尚が、尊氏を救わず、後醍醐帝側に付いていたらもっと違う九州、もっと違う日本だった。
観応の攪乱と大内・少弐・大友、それぞれの事情
足利尊氏は、鎌倉幕府を倒すまでは英雄と言えたかもしれない。
しかし、西国の武将たちにとっては、けっして好ましい人物ではなかったかもしれない。
尊氏と後醍醐帝の争い、尊氏・直義の兄弟喧嘩などに振り回され、少弐氏などは破滅の道を歩む事になる。
信長と家康の同盟、その前に家康と秀吉の謎(2)
家康と秀吉の両方に深く関わった者達は尽く消えて行く。俗に言われる「家康の陰謀」。
松下之綱と家康と秀吉の関係は、之綱の松下家と縁を結んだ柳生家に門外不出の極秘文書として伝わった。
それが、柳生新陰流の真の秘伝書・・・なんて事なら凄いけど・笑
信長と家康の同盟、その前に家康と秀吉の謎(1)
豊臣秀吉と徳川家康。この二人に微妙に絡む松下之綱。この3人の関係性を知るには、鎌倉時代まで遡らなければならない。
歴史は単純じゃない。血脈を知らないと理解出来ないことがたくさんある。
全ての事象に歴史的な意味がある。人の縁は実に不思議だ。
信長と家康の同盟、その前に”織田・浅井同盟”あり
楽市・楽座は信長の発案ではなく、その初見は天文18年(1549年)の近江・観音寺城城下に於ける楽市令とされる。
始めたのは当時の近江守護職・六角定頼。
定頼の嫡男承禎は、後に安土で楽市楽座を行う信長と幾度となく戦い、名門六角は終焉する。
円の話
1871年に1米国ドル=1日本円でドル円相場はスタートした。
150年以上が過ぎた現在、1米国ドルは150日本円前後で推移している。物凄い円安である。何故こうなったのか。
通貨のマジックなのだけど、兎に角、自国通貨の弱さを喜ぶ国の未来は暗い。
信長と家康の同盟、その前に”弾正同盟”あり
三好長慶は、畿内6ヶ国、四国3ヶ国の計9ヶ国。更に、播磨、伊予、土佐の一部を支配下に収めた大大名。
そして、信長よりも先に将軍家を傀儡にして天下を掌握した。
長慶の最重臣・松永久秀は、家柄もなく実力だけでのし上がり、次の天下人を狙える位置にいた。
信長と家康の同盟、その前に武田あり
武田信玄と織田信長は、お互いを良く知っていた。
何故なら、美濃遠山氏が武田と織田に両属していて、情報の受け渡し役をしていたから。
信玄から信長へ、今川義元の動きは全て知らされていた。桶狭間の戦いは、信玄抜きでは語れないものである。
信長と家康の同盟はあったのか?
歴史物語では、信長と家康は幼馴染で旧知の仲だったとか、「桶狭間」の後、すぐに同盟関係が構築されたとか、
二人は近しい間柄のように描かれていますけど、それほど近しい間柄では無かったのでは?
寧ろ、余所余所しい関係だったのでは?という雑文です。