民に対して、「栄えて見せろ」と鼓舞した織田信長。
民に対して、「儂の栄を見よ」と誇示する豊臣秀吉。
民に対して、「共に栄えよう」と手を取る徳川家康。
松下加兵衛と秀吉の怪説
太閤、豊臣秀吉の生誕年(1537年3月17日)と死没年(1598年9月18日)と同じ年度を生き、秀吉と深く関わった人の話です。
その人とは、1537年に生まれ、1598年4月5日に亡くなった松下加兵衛之綱(没時=従五位下石見守・遠江久野藩主)です。
秀吉の出自には諸説ある。全く分からない。ほぼ確実なのは、晩年に「大政所」と呼ばれる母と誰かの間に先述の日に生まれた(この日付も真実かどうかは分からない)。その誰かは、農民、木こり、足軽、様々あって分からない。生誕地は尾張の中村?幼少名は日吉丸?取り敢えず、少年期に尾張を出て三河を抜けて遠江へ。そこで初めて仕えた家が「松下家」。此処から、何となくぼんやりとした秀吉像が築かれていく。
秀吉の伝記も様々あるが、その中には、松下之綱が最初の主であったように書かれているものもあるようですがそれは間違いでしょう。松下家の下僕として奉公が叶ったとしても、相手は之綱の父・松下長則と見るべきではないですかね。
(秀吉と名乗るずっと以前からの話になるので、取り敢えず、藤吉郎で書き始めますが)藤吉郎が、どのようにして松下家へ奉公出来たのかは分かりません。秀吉を題材にした伝記は物凄く多くのプロ作家、アマチュア作家が書いていて、松下家への奉公経緯や年齢も様々。つまり、秀吉の幼少期~少年期の謎の部分であり、好き勝手に想像するしかないのですね。不肖私も勝手に怪説します。
取り敢えずは藤吉郎を無視して、松下家に関連する話から紐解いていきます。
清和源氏の血脈
鎌倉時代に始まる話
松下家は、近江源氏六角氏(近江守護職家)の遠縁筋という事ですが、大昔にそういう事であってもその頃には六角氏との付き合いは無かったと考えた方が良い。誰々の遠縁を言い出したら、誰もが有名人に繋がっていく。
長則の頃の松下家は三河国碧海郡松下に在った。嫡男之綱もそこで生まれた。つまり、1537年時点の松下家は三河に在って、この碧海郡は、松平家直参の超個性派軍団『安祥譜代』七家が仕切っていた。安祥譜代七家とは、酒井家、大久保家、本多家、阿部家、石川家、青山家、植村家。後に家康を支えていくことになる錚々たる面子です。そういう場所で在りながらも、松下家は松平氏配下ではありません。
鎌倉時代、足利義氏が三河国幡豆郡吉良荘(現在の西尾市吉良町)の地頭職を得た。この職位が庶長子長氏に譲られ、この足利長氏が吉良長氏を名乗ることから吉良氏が始まった。古矢作川流域に東西へ広がっていた吉良荘では、川東を「東条」、川西を「西条」と呼んだ。長氏は西尾城を本拠として西条を領し、弟の義継に東条を分与。義継の系統は東条氏(東条吉良氏)と呼ばれる。が、南北朝時代に東条吉良氏は陸奥に移り奥州吉良氏となった。
やがて長氏は隠居するが、その隠居地が幡豆郡今川荘(現在の西尾市今川町)。此処を、次男・吉良国氏が継承して今川国氏を名乗る。この国氏が今川氏の始祖である。
南北朝・室町時代
南北朝時代、足利本家(=足利尊氏)と後醍醐帝のゴタゴタに巻き込まれ、吉良家も北朝と南朝のどちらに付くかで右往左往する。そして当時の当主・吉良満義、嫡男・満貞が各地を転戦している間には、旧東条吉良家領地を巡ってお家騒動も勃発。満貞の末弟で幼少の義貴を担ぎ出した一派が、(新)東条吉良家を主張。
それを討伐するに至らずあやふやにして和睦。以降、吉良本家と東条家は百年に渡り対立していく。因みに、東条吉良を力で征圧しなかった理由は、一時的に南朝方に与した吉良家に対して、足利尊氏が義貴擁立を望んだものと考えられ、義貴は尊氏より偏諱を受けて吉良尊義を名乗った。故に、吉良本家も尊氏方に戻ったものの、東条吉良を討つことは尊氏に弓引く行為と見做される為に和睦せざるを得ず、吉良家と新たな東条家(東条吉良家)が吉良荘に並立することになった。
お家騒動を何とか鎮めた吉良家は、足利一門の筆頭高家の身分は保たれ、渋川氏、石橋氏と共に足利御三家ではあった。が、何故か、守護職とか大きな領地を得られず、東西の吉良家は共に悶々とした歳月を送る。一方、今川を名乗った吉良分家筋は大出世を果たして駿河守護職に封じられた。
これでは差が有り過ぎる。という苦情を申し入れたのか分かりませんが、吉良家には、遠江に浜松荘を領することが許され、近接する、酒匂荘や懸川荘にも一定の所有権が与えられた。やがては、遠江一国は吉良家に与えられる約束でもあったのかもしれないが、遠江守護職は斯波氏であった。
そして、この時から浜松荘の代官に任ぜられたのが吉良家譜代の家臣であった飯尾氏。そして、この飯尾に仕えていたのが、後に藤吉郎を雇う松下家。松下家が遠江と縁を持つきっかけは此の時から生まれた・・・と言いたいところですが、まだこの頃の松下家は飯尾本領の三河にあった。
吉良家に話を戻すと、親戚筋の斯波と協調関係を保ちつつ、時代は応仁の乱へ。ここでも、東西の吉良家はそれぞれに分かれたが、三河内で抗争したことはないように見受けられる。が、応仁の乱が各地へと飛び火して拡大・長期化する中、吉良本家と共に東軍(幕府方)に付いていた駿河守護今川義忠は、西軍に付いていた斯波義廉の征討を命じられる。条件として、酒匂・懸川荘を与えるというものだった。そして今川軍は遠江へ侵攻する。
この時、主家(吉良本家)が東軍であった故、浜松荘代官の飯尾長連は今川軍に加勢する。ところが、斯波軍に大敗北を喫する。今川義忠も飯尾長連も斯波勢に討ち取られて敗死。
紆余曲折の末、斯波氏も東軍に与した斯波義寛が遠江守護職に就いたことで幕府は遠江に於ける斯波氏の支配を回復させる。吉良も浜松荘代官を親今川だった飯尾氏から親斯波の大河内氏に交替させて守護家=斯波氏との和睦を成した。
戦国時代へ
永正5年(1508年)。応仁の乱の復讐戦か、今川の家督を継いだ氏親が遠江へ侵攻する。そして斯波は敗北。遠江の守護職は(元々の予定通りに)今川家に移された。すると、吉良氏も浜松荘の所領安堵と引き換え条件で再び代官を飯尾氏に交替させた。この時、解任された大河内氏は反乱を起こし、引間城(浜松城)を奪われたが、やがて今川氏親によって大河内氏は滅ぼされる。
この時の、吉良本家の支援が無策過ぎて浜松荘代官の飯尾賢連は吉良家に大きな不信感を持った。それで、吉良家を見限り、浜松荘と共に今川家に属する事になる。吉良家はこれで遠江の所領を失った。これは1517年頃の話。
その後、今川家は大国化していくが吉良家は三河に小さい所領を持つ言うなれば没落貴族のような感じになる。『高家筆頭』という言葉の家格だけが唯一の誇り。しかし、今川から見たら本家筋なので無碍にすることはせず、三河・吉良を守る為に尾張斯波氏(引いては織田氏)との対立へと向かう。
それで、吉良家としても、パトロンと化した今川家を怒らせない為に、裏切った飯尾の三河の本領を奪することはしなかった。その飯尾に仕えたのが松下家ということ。前置き長かったですね・笑
三河・松平氏
清和源氏系新田氏(始祖は新田義重)の嫡流であった義貞が、新田義重から始まる系譜では支流である足利氏の尊氏に敗北して以降、新田氏は急速に縮小する。それに伴い、新田義重の末子から始まった世良田氏(新田荘世良田郷=現在、群馬県太田市世良田町を本領とした)も不遇の時を過ごす事となる。また、世良田氏は新田荘得川郷(現在、群馬県太田市徳川町)も得ており、時と場合によっては、得川氏と名乗ることも度々あった。
やがて、1300年代の或る時、世良田氏の後裔を名乗る時宗の僧侶が三河に現れる。そして、加茂郡松平郷(現在、愛知県豊田市松平町)の領主だった松平信重と昵懇になり信重の娘婿となって、松平親氏を名乗った。この親氏が、後の家康を誕生させる松平氏の中興の祖となる。
延文5年(1360年)〜 永和3年(1377年)に新田氏の後裔・新田義高が三河の守護職であった時代があるけれど、親氏が三河に現れたことと関係があるかどうかは分からない。でも、奇遇ではある。
三河の混乱期
新田義高の後は、吉良氏の支流である一色氏が三河守護職となる。(どうして、吉良本家にはこの役が来なかったんだろうかね。不思議です)。
一色範光から一色義貫まで、四代約60年間、一色家は守護職として三河に君臨した。三河どころか、若狭・丹後に加え尾張の知多・海東の二郡、伊勢の守護職も兼任し、完全に本家(吉良家)を凌駕した。この世の春を謳歌していた一色氏ですが、その勢力拡大及び永享の乱での反抗など足利将軍家に強く警戒される。
足利将軍家の大番頭・細川氏(細川吉兆家)は一色潰しに打って出る。と言うより、細川阿波守護家の当主・細川持常と武田信栄は、第6代将軍・足利義教より一色義貫暗殺の密命を受ける。永享12年(1440年)5月15にそれ(義貫殺害)は実行された。
義貫殺害を大喜びした将軍義教は、武田信栄に丹後、若狭、尾張2郡の守護職を与え、細川持常に三河を与え、残りは斯波に与えられた。その約1年後に将軍・義教は赤松氏の反乱で殺害される。一色はこの事件の後に一度は勢力を盛り返すが、結局は没落していく。
三河守護職を得た細川氏だが、足利氏族の家格的には、足利支流の細川家よりも御三家筆頭の吉良家が上。しかも吉良一族の一色氏から分捕った守護職の座を、吉良色が濃い三河が歓迎する筈もなかった。これに対し、足利家の筆頭家老的立場にあった細川氏は、家格がどうあれ吉良を目上に立てることなどプライドが許さないところ。というわけで、三河に居て吉良家にイチイチ大きな顔をされる事を嫌ってか三河の政は放ったらかし状態になった。と言うより、吉良本家ではなく東条家を守護代職に祀り上げた。しかし、1467年に勃発した応仁の乱で細川氏はかなり大打撃を受け勢力が著しく縮小。それに応じて、三河守護代東条家も有名無味となり三河の統制は破綻した。
三河国内は荒れて行き、東の今川氏と西から尾張・織田氏が侵略の意図を隠さなくなった。そういう情勢下に於いて、1542年、三河・岡崎城主の松平広忠の嫡男として家康(幼名・竹千代)が誕生する。
人質・竹千代(家康)
松平広忠は、所領安堵の約定を得るために嫡男・竹千代を今川家へ人質として差し出すことになる(1547年)。ところがその旅程で裏切り行為に遭い、竹千代の身は、尾張の織田弾正忠家へ移送された。織田信秀は、松平広忠に対して同盟(という名の家臣)を結ぶよう迫ったが、広忠は頑としてその要求を拒み、竹千代に人質としての価値はなくなりいつ殺されてもおかしくない状態となる。が、それを救ったのが今川義元だった。
当時の三河安祥城主・織田信広(信秀の庶長子で、織田信長の異母兄)を攻撃して捕らえ、信広と竹千代の人質交換を成した(1548年)。竹千代(家康)は、生涯に渡りこの時、義元に命を救われた恩を忘れなかったと云われている。このようにして、改めて竹千代は今川家の駿府城へ人質として向かう事になるが、1549年に父・広忠が病死。三河安城の所領と岡崎城を含む三河松平の家督は竹千代が相続することになった。というわけで、竹千代は、家督者の嫡男ではなく、家督者本人として今川預かりとなった。このことで、単に人質と言うよりは手厚い庇護を受けられる立場となり、しっかりと教育も受けられた。竹千代は、今川の重臣となるべく育っていった。そして・・・桶狭間へと向かう。
(続く)
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