信長と家康の同盟、その前に”弾正同盟”あり

時を紡ぐ~Japan~

民に対して、「栄えて見せろ」と鼓舞した織田信長

民に対して、「儂の栄を見よ」と誇示する豊臣秀吉

民に対して、「共に栄えよう」と手を取る徳川家康

信長よりも信長らしかった?男一代・松永久秀

松永久秀とは?

室町・足利幕府は、15代、約237年もの長きに渡って日本政治を差配した。しかし、第10代~第12代の将軍達は、管領・細川氏(細川京兆家)の傀儡であり、実質上「細川政権」と呼ばれた。その細川政権下で力を付けた三好氏族が、第13代将軍・足利義輝を推戴し「三好政権」を樹立する。この時、三好宗家に君臨していたのが三好長慶みよしながよし(大永2年/1522年~永禄7年/1564年)。織田信長よりももっと早く、(足利一族以外の人間として)足利将軍を御輿に担いで天下を牛耳った最初の人です。

長慶は、細川氏と幕府を敵に回して複数回勝利を収め、最盛期には、畿内6ヶ国(摂津、河内、大和、丹波、山城、和泉)、四国3ヶ国(阿波、讃岐、淡路)の合わせて9ヶ国。更に、播磨、伊予、土佐の一部を支配する天下一の大大名であった。長慶がもう少し健康的で、あと5年でも10年でも長生き出来ていたならば、その後の日本の歴史はまるで違っていたとも言われるが、働き盛りの42歳でその生涯を閉じた(長慶については、後述します)。

長慶亡き後の新たな三好政権の中心には、長慶の甥に当たる三好義継(天文18年/1549年~天正元年/1573年)が座る。しかし、長慶の嫡子ではなく養子であり、まだ14、5歳と幼かった義継では、大きくなり過ぎた三好軍団を束ねられるわけもない。随って、長老・三好長逸みよしながやす、三好宗家の重臣・三好宗渭みよしそうい、同じく重臣・石成友通いわなりともみちという、いわゆる三好三人衆が義継の後見となった。そしてもう一人、この三人衆と共に新・三好政権で”連立”を組んだのが、三好長慶の側近中の側近として大いに知られた松永久秀(永正5年/1508年~天正5年/1577年)である。

ところで、松永久秀に対する評価はけっして高くない。高くないどころか、この上ない悪人(と言うか、小悪党)のような評価を下す人さえ見受けられる。長慶には嫡男でその将来を嘱望されていた義興があったが、義興は長慶よりも先に早逝してしまった。これが三好家の不幸の始まりだが、義興の死には毒殺の疑いもあり、それが久秀の仕業とも言われるが全くの出鱈目話。それ以外でも、久秀には妬みや僻みによる黒い噂が付き纏う。それらの噂話は誇張され語り継がれる。現代の日本では、織田信長に対する評価が異常に高いが、信長に屈した人々や屈せず敗死した人を、まるで自分が信長にでもなった気になって不当に見下している。と言うわけで、今回もちょっと妄想エッセイ気味の似非同盟話で、不当に低い評価とは真逆の久秀像、及び三好氏族の権勢を書いてみます。

久秀は、出自が不明です。成り上がる過程で何処かの家督を継いだこともなく、男一代・松永久秀として台頭し、三好長慶に気に入られて側近中の側近に大出世した稀有な人物です。戦国・下剋上時代ですから、大出世を果たした人は少なくはない。けれども、その大半は、出世の過程で役職者や重臣の家の家督者となっている。つまり、それ相応の氏姓を得て出世していく。しかし久秀が名乗った松永姓は、三好家譜代のものでもなんでもない。久秀が生まれつき名乗っていた姓なのか、思い付きで名乗ったのかは定かでないが、家柄に頼ることなく長慶に仕え、また長慶も有力家督などに拘らず能力判断で久秀を抜擢した。長慶の期待以上の働きと忠臣ぶりで久秀は大出世していく。相当な英才にして武勇にも優れキレ者。且つ礼儀も弁え嗜み事にも精通していた。特に茶の湯(茶道)に於いては秀でていて、茶器を見る目も確かだった。それも仇となり、信長の面前で茶器と共に爆死を遂げるが何とも豪胆な最期。と言うのはちょっと早過ぎたので紹介を続けると、正に文武両道の手本のような人である。故に、三好家と朝廷や幕府の折衝・仲介役として欠かせない存在となった。

松永弾正少弼久秀と織田弾正忠信長

朝廷や公家からも絶大な信を得ていた久秀は、恐らくは時の将軍・第13代足利義輝(義輝の幕府は、三好長慶の傀儡政権と言われる)からの推挙もあっての事でしょうけど、永禄3年には弾正少弼に任官した。織田信長も、代々弾正忠を名乗れる家に生まれ育ったが、久秀は、親の力も頼れる家名も何もなく自分一代でそうなった。しかも、信長の弾正忠よりも上の弾正少弼である。そりゃそういう人は他にもいるでしょうけどね、ここは素直に褒め称えましょうぞ。大したもの、天晴れです。

興福寺

同年(永禄3年)に、大和国の有力武将・筒井順慶を追い落とした久秀は、更に、興福寺の僧兵軍団にも勝利して大和一国をほぼ手中に収めた。久秀は、主君である三好長慶を出し抜こうという気持ちはその生涯に於いて一度たりとも持たず、大和国の実権も全て長慶に差し出すつもりでいたのだが、長慶は、大和一国の管理を久秀に委ねた。というわけで、久秀は、守護大名無き大和国・・・・・・・・・の実質国守となった。

古くから大和国には守護職が置かれていない。やはり、奈良に都が置かれていた時代からの名残でしょうね。それで『大和守』が名義上の管理者であったが、事実上の管理者は興福寺だった。戦国時代の『大和守』家は清州城主の織田大和守家(=織田守護代家)であり、当時は八代目の織田信友です。永禄3年と言えば、本来は織田大和守家の家臣筋であった弾正忠家の信長が桶狭間で今川義元に勝利した年です。以後、信長は急速に力を伸ばし、主家筋の大和守家をも駆逐する。

信長が色んなことに興味を持っていたのは間違いない。主家筋の織田大和守家は、有名無味とは言うものの大和国の名義上の管理者であり、大和守家をぶっ潰せれば、自分こそが大和守を名乗って畿内進出の足掛かりとする。その程度の夢なら早くから持っていたでしょう。多くの武将が天下(畿内)を目指していた時代。畿内の彼方此方の山門には大勢の僧兵が陣取っていることも誰もが知っていた。勿論、信長も。やがては比叡山を焼き討ちした信長ですから、大和進出の際には興福寺の僧兵達を皆殺しにするくらいのこともイメージしていたでしょう。一刻でも早く尾張を統一して守護代家から(名義だけでも)『大和守』を奪い取れば其処・・へも行き易くなる。大いに夢を見ていたところが、松永久秀によって大和の統一が成された。

信長にしてみたら、「目の前に置かれていた極上の料理を知らぬ誰かに取って食われた」感じです。松永久秀とは誰ぞや?信長の事ですから、久秀に対する情報を仕入れ回った可能性はあります。

久秀も、桶狭間の戦い以降は、織田信長という名前くらいは知っていたでしょうけど、この頃は信長よりも遥か先を突っ走っていた。まだ然程気にするほどの相手では無かったと思います。信長のことを本当に気にし始めるのは、やはり、信長が大和守家を打倒して以降でしょうね。

足利将軍家と久秀

将軍・足利義輝にとっても、大和国を手に入れた久秀は、けっして軽視出来ない存在となった。それで義輝は、久秀を側用人的に用いるようになり、更に手懐ける為だったのか、久秀に対して源氏を称することを強く勧める。久秀は、朝廷との折衝時に一時的(便宜的)に藤原姓を名乗っていた。これは、儀礼的且つ限定的なものだったでしょうけど、正式に源氏を名乗ることが許されるのなら武将として生きていく上では全く損はない。久秀は、ここは素直にそれを受け入れる。一代で築き上げたと言って過言ではない久秀流松永氏は源氏氏族の末端に加わります。更に、実際は国持大名でもないし公家でもない久秀ですが、従四位下という異例の昇叙を受けた。この官位は、主君の三好長慶や長老・三好長逸と同格だった。こうなると、三好内部では、久秀に向かって対等に物言える者が少なくなっていく。久秀の台頭を面白くないと思う者は多くいたでしょうけど、兎に角、長慶の寵臣であり、朝廷や将軍とも密になって行った久秀に対して一目置かざるを得なくなった。それはやはり、久秀が主君・長慶を欺こうとせず常に一歩下がった位置で仕え続けたからでしょう。「実るほど、首を垂れる稲穂かな」という姿勢を久秀は貫いた。

ところが、武闘派で知られる将軍・義輝は、頭のキレ過ぎる文化人・久秀に対し癇癪を起すことが度々あって、大方は、久秀が一歩下がって叱られ役に徹したものの、時折、久秀は義輝を強く諌めるような言葉をはっすることもあった。普通は、相手が将軍でありなかなか口答えも出来ないものでしょうけど男一代・久秀は違った。しかし、けっして愚弄するものではなく、義輝も久秀を頼りにしていたのは間違いない。何故なら、義輝は長慶が大嫌いで、もしかしたら長慶をやっつけてくれるかもしれないと思って久秀を側に置いたのだから。

永禄7年に(まだ若くして)三好長慶が逝去すると、久秀は三好とも将軍家とも少し距離を置いて、大和国の経営に重きを置くようになる。長慶亡き後の家督を継いだ三好義継に対しては、嫡男・松永久通が直接仕え、三好好長、三好宗渭石成友通という三人衆との連立政権(というが実際は権力争い)が始まった・・・と思った矢先、義継と久通、そして三人衆が揃って将軍家を襲撃する(永禄8年/1565年5月19日:永禄の変)。

三好家の実力

三好氏族は、清和源氏小笠原流を出自とするらしい。ということは信濃源氏ということになるが、その名が大きくなっていくのは信濃ではなく四国・阿波である。小笠原氏が四国・阿波の守護職となったのは承久の乱(1221年)以降であり、小笠原の庶流家が阿波三好郡に本拠を構え「三好姓」を名乗るようになった。

やがて、室町幕府が興ると阿波守護職は管領・細川家のものとなるが、三好氏は細川家の被官となり徐々に勢力を拡大していく。そして、応仁の乱に東軍を指揮した管領・細川勝元に従った三好之長が知勇兼備の将として称えられ、三好家の名は京を中心に畿内各地に轟いた。之長は、細川京兆家の直臣に登用され、三好氏のその後に対して大きな足跡を刻んだ。之長は、京兆家の重臣とはなったものの、阿波・細川家にも仕え続けるという両属が認められ、この事が三好の勢力を一気に拡大する基となった。

時は流れて、長慶(大永2年/1522年生)が、三好宗家の家督を相続したのは享禄5年(1532年)。僅か10歳の時だった。長慶の父・元長は管領・細川晴元の重臣だったが、主君である晴元の策略によって殺された。この事もあり、家督を継いだ長慶は、12歳の時には晴元と戦場で相見えた。勝利には至らなかったが、末恐ろしい只者ではない感を十分に見せつけた少年・長慶は、仲介案を受け入れて和解。父同様に晴元の家臣となった長慶はそれ以降、目覚ましい活躍を見せていく。

・・・で、ずーーーっと書いていくといつ終わるとも分からなくなっていくのでメッチャ端折ります。兎に角、大躍進した長慶は、天文11年(1549年)に、嘗て父を陥れた主君・晴元と当時の将軍・足利義晴らを相手に反旗を翻し勝利する。これで、三好氏の名はますます高まり押しも押されぬ戦国大名となった。その後も、義晴の後を継いだ将軍・義輝の軍勢にも勝利して、最大勢力範囲は、畿内6ヶ国(摂津、河内、大和、丹波、山城、和泉)、四国3ヶ国(阿波、讃岐、淡路)の合わせて9ヶ国。更に、播磨、伊予、土佐の一部を支配する天下一の大大名となった。それまで、世間の人が口にしていた「細川政権(足利将軍家は傀儡で、実際は、細川氏が実権を握っていた状態)」になり代わり、「三好政権」と謳われるようになる。傀儡にされたのは、長慶に敗北して和睦させられた足利義輝だった。

三好家vs松永家

武闘派将軍・義輝の最期

以上のように、偉大な足跡を刻んだ先人達(特に、叔父・長慶)に負けまいと、15歳という若い年齢で三好のトップに座った義継が、若さゆえの暴走や自惚れを抱いたのは仕方ない。が、義継の破天荒な行動は全て、長老・長逸辺りに操られての仕業とも言われている。

剣の使い手・武闘派将軍として名を馳せた足利義輝ですが、多勢に無勢で殺害される。この大事件の黒幕は松永久秀ではないかという疑惑もあるみたいですが、大方は否定されている。何故なら、三好三人衆と久秀はあまり仲の良い関係ではなかったから。しかも、三好義継は襲撃以前の名は義重(永禄8年5月1日に義輝から偏諱)。この名を襲撃直後に義継と改めた。この改名行為自体、足利義輝の後継者を自称した(自称させた)に等しく、天下簒奪目的で行われた襲撃であり、張本人が義継と義継を後見していた三好三人衆であることは明白です。

次期将軍争い勃発

三好三人衆は、義継を新将軍に据える(=足利になり代わり、三好家が将軍家になる)夢を見ていたかどうかは分からない。が、義輝の血筋を断つ為に義輝の子を懐妊していた侍女を殺害(義輝の嫡男は幼くして病没して男子はいない)。更に、義輝の実弟・足利周暠を処刑した。あと一人の弟・足利義昭(この当時は僧籍に入り、覚慶と号していた)は、当時は興福寺の別当として暮らしていた。

覚慶(=義昭)に一番近かったのは、嘗て、興福寺を攻略した大和国の実権者である久秀だった。久秀は、将軍・義輝が殺害された一報を受け取るとすぐさま興福寺に覚慶を幽閉した(幽閉と言っても、監禁ではなく物凄く緩い軟禁状態)。三好三人衆からは、覚慶の身柄引渡し、或いは処刑を求める通達が行われたと察するが、久秀は拒否。そして覚慶に対しては書面にて命の保障を約束している。

久秀は、義輝とは対立することもあったが、源氏を名乗らせてくれたり、官位叙任への口添えを頂いたりで感謝こそすれ誅殺を考える相手ではなかった。寧ろ、義輝が盤石な将軍でいられるよう三好家の動きをけん制していたフシもある。しかし、義輝は殺された。

不肖私メは、史実とは違った見方が好きなので・・・

久秀は、義昭(覚慶)を表向きは幽閉という手段で実は匿った。そして、唯一の正当な血筋者として新将軍に擁立して、その補佐役となって天下を掌握するという考えが脳裏の片隅に少しはあった。だから、その拠点となる大和国をもっと強固に揺るぎなき体制とする為に興福寺との完全和解を図った。その為の覚慶幽閉だった。興福寺としても、後の将軍を護った寺となれば畿内のどの寺社よりも優位に立てる。だから久秀との完全和解に応じようとしていた。ところが・・・

久秀の目論見は外れてしまう。越前の朝倉義景などが裏で糸を引いたと言われるが、義輝の近臣だった細川藤孝と一色藤長によって覚慶が奪われる(見方によっては、救い出されたとなる)。そして覚慶は還俗宣言して(一時的に)義秋を名乗り、次期将軍を目指すと宣言。その書状を全国に触れ回す。

この動きに焦った三好義継や三人衆は、義継を将軍にという路線を転換して、阿波平島荘で逼塞ひっそくしていた足利一門・堺公方筋の足利義栄あしかがよしひで(天文7年/1538年~永禄11年/1568年)を第14代将軍として擁立し、新たな傀儡政権を発足させる動きに出た。これは、三好にとっては全く予定外の事だったが、覚慶(=義秋)を葬り去ることが出来なかった以上、仕方ない選択肢だった。そして、この不測の事態を招いた張本人として久秀を三好家から追放(破門)。父がそのように処分されては留まることが出来なくなった久通も三好家から離れて久秀の下へ戻る。そして・・・

信長と久秀

元々は自分が担ごうと思っていた義秋(=義昭)を実際に御輿として担いだ織田信長に対して、久秀は救いの手を求めざるを得なくなる。いくら久秀が強くても、全三好軍団相手に勝てるほど甘くはない。久秀は自惚れが強い人でも何でもなく、常に分を弁え、自分の置かれた立場を冷静に分析出来る人だった。その久秀が織田の傘下に入る決心に至ったのは、信長が、引き続き大和国を久秀に任すことを約定した事に因る。信長は、久秀が何も言って来なければ大和を分捕る気満々でしたが、三好と戦うには三好内部を良く知る久秀と手を結ぶことが最良の策となる。大和が欲しくて織田守護代家(大和守家)を追い落とした信長ですが、ここは冷静に久秀を立てた。二人の関係はその後も良好だったのですが…

というわけで、これまたずーーっと終わらなくなりそうなので今回はこれでお終いです。

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