人は一代、名は末代

時を紡ぐ~Japan~

名こそ惜しけれ」。平安末期とも鎌倉初期とも云われるが、”武”を生業とする人たち、即ち、武士として生きることが可能となった時、「ご先祖様の名を汚さぬ生き様(=死に様)」を心掛けるという、日本人の精神文化が芽吹いた。

日本の古代姓制度

武士は、天皇の孫、曾孫、玄孫達が、朝廷予算が足りずに”民間人”となることを強いられたことで誕生した。そうそう、天皇家が誕生して相当早い古代期から皇籍離脱(臣籍降下)が行われていたことは、多くの人が歴史の授業などで学んで知っています。ですから今更の話なのですが、不肖私個人の備忘録として、ざっと”おさらい”しておきます。

天皇家を出た人たちには姓(カバネ)が用意された。その姓を名乗ることにより「元を糺せば天皇家の血筋の人」という証になる。因みに、古代期当初に興った天皇家由来の姓は、臣(オミ)、君(キミ)、別(ワケ)、連(ムラジ)、直(アタヒ)、他およそ30種弱とされる。これらの姓はやがて住む場所や地方に応じて変化し、更に臣が富などに変わり、中臣氏が中富氏になっていたりもするわけですよね。君姓からは君原とか君山とかの姓が出たでしょうし、別姓からは別所や別杵(変字して戸次になったり)、連は村治姓になったり、直姓からは直江姓が出たり、等々、姓は様々に変化して現在に至ります。ようするに、多くの日本人が天皇家と同じDNAと言えなくもないので、国外の人達には少し理解が困難な程に、(左翼的な人であろうとも)天皇家を想う魂が宿っていて、皇室は心の拠り所となっている。(そうは言っても、それもだいぶん薄れているだろう!という意見を否定はしません)

大宝律令が発せられるより少し前からは、「八色の姓やくさのかばね」制度が実施されていて、姓については、身分や職業などに応じた形で与えられるようになります。そこら辺の話には改めて触れる機会があるでしょうから、今回はスルーして先を急ぎます。

武士の信条

武士が興った当初、彼らの姓は「平氏」又は「源氏」であった。特に、キッパリと都(天皇家)とは縁を断つ思いで、遠く坂東(=関八州=現在の関東地方)へ向かったいわゆる”坂東平氏”たちの生き様によって「武士の境地」は開花した。
“平何某(たいらの・なにがし)”を高らかに名乗ることで、「儂は武士じゃ!」と、武を生業として生きる心意気を彼らは示した。それが、敵味方入り乱れて殺し合う戦場いくさばであっても名を名乗り合ってやり合う”武士の伝統”となる。「人は一代、然りながら名は末代。儂から始まる家こそ築く」という強い思いを刀に込め、命を賭けて運命を切り開いて行ったのが武士である。

桓武平氏と宇多源氏

代表的平氏の一つ桓武平氏の話を・・・
桓武天皇の子には、三人の天皇(第一皇子:平城天皇/第二皇子:嵯峨天皇/第七皇子/淳和天皇)と数多くの親王があった。男子の親王と女子の皇妃の人数は合わせて35名以上と言われています。「それでは”子育て予算”も足りなくなりますね」という現代的な心配はさて置き、日本全国を天皇血脈で管理統制しようとしていた頃ですから、たくさんの子を欲しがったのは当然。ですが、全ての人を”公費で食わせる”朝廷官職に留め置くことは難しい。なので、一定のルールの下で臣籍降下して頂くことは致し方ない。但し、賜姓皇族となって以降も朝廷の要職を務める人だって数多いらっしゃいます(公家源氏や公家平氏、藤氏(藤原氏)、橘氏などは代表的な例)。いらっしゃいますが、民間人となられる人だって同じように数多いらっしゃいます。そうじゃないと、平民なんてほんの少数の妙ちくりんな国家になるからですね。

第三夫人・多治比真宗は、6人の子を生します(※皇后、側室妃、の次に位置するし、のが夫人で、夫人の下が女御、宮女、女嬬と続く。つまり、お妾さんや愛人や一夜限りや通りすがりや・・・という相手も子を生せば名が残る)。
葛原親王は、その6人の中の長子(長男)で、全体の中では第三皇子(第四、第五皇子説まであるけれど)ですが、天皇即位は果たせません。恐らく、皇后或いは側室妃、よっぽど幸運でも第二夫人の子までしか即位のチャンスは無かったのかもしれませんが、そこまでは分かりません。因みに、平城天皇と嵯峨天皇は皇后の実子、淳和天皇は第一夫人の実子です。

葛原親王は勿論朝廷に残りますから”親王”であり姓は有りません。葛原親王の二人の王子(高棟王と善棟王)も朝廷内に残り官職を務めています。が、二人の兄より武勇に優れ、朝廷への謀反を企てた「民部卿宗章朝臣」を討伐するなど貢献度が高かった筈の末子(第三王子)高望王は、臣籍降下を命じられる。尤も、この臣籍降下が”降下”のような意味合いだったのか、名誉を称えられて”独立を認められた”恩賞のようなものなのか、こればかりはその時代にいないので確信めいたことは書けないです。但し、確かな事として言えるのは、「あんたは今日から平民」みたいな突き放しではないこと。即ち、平氏の”平”は、平民の”平”では無いという事ですね。ま、当たり前ですが。

正式には寛平元年(889年)5月13日。従五位下、上総介・平朝臣高望たいらのあそんたかもちと名乗ることになった賜姓皇族であった高望王ですが、板東武者の祖と言われるほど帰京命令も聞かずに板東に居座り続けた理由をちょっと勝手に想像します。

「平」は朝臣姓として賜ったものですから悪くはない。しかし、上総守かずさのかみ(上総太守)ではなく上総介かずさのすけとは何だ!国司としてなら”守”ではないのか?と、この役名がどうにも気に入らなかったのではないのかな?と勘繰ってみました。
上総守は、809年に任じられた多治比全成を最後に任官がない。それに代わり826年から上総太守が始まり875年に任じられた惟彦親王以降は空位のようです。「守」「太守」は現在なら県知事、「介」だと副知事。働きが認められての国司任官なら何故、上総守ではなく上総介で留める?それが、武に優れた高望だからこそイラついた?

同じ頃、当時の帝である宇多天皇の孫(第八皇子敦実親王の三男)雅信も”予算切れ”なのか、皇籍離脱を余儀なくされた。しかし、宇多帝は、自分の直孫である雅信と高望王を区別する。
雅信には「もとは儂の血筋ぞ。何かあれば頼れ。」と「源(もと=みなもと)」姓を授け源雅信を名乗らせて叙任(従四位下)し、朝廷の官職を与え都で十分な暮らしが出来るような配慮を行った。
高望王には、「姓はくれてやるが明日からは平民として生きていけ。」とばかりに、朝臣であることは認めつつ”平民”の「平」を姓に渡し、平高望を名乗らせた。位も、雅信よりも2ランク低い従五位下。そして上総”介”。任地先は遥か遠い坂東。
因みに、最終的には正一位という官位トップに上り詰めた源雅信から始まる源氏を宇多源氏という。

※葛原親王と高望の関係は、父子ではなく、祖父と孫という説もある(高望の父に、無官の高見王という存在があるという説ですが、無官位の子という説に信ぴょう性を持てないので、当BLOGでは高望は桓武天皇の孫ということでアシカラズ。異論もあるでしょうけれど、此処はあくまで私的エッセイを書いているサイトなのでほんとアシカラズ)

平高望こそ、日本武士団の祖・・・という事でいいんじゃない?

高望王改め平高望は、家族を伴い坂東へ下り、一応は定められていた任期を過ぎても京へは戻らずに長期間坂東に居座った。その間、自分の息子達、孫達が、坂東で生きていける強固な地盤を築き上げた。そして、平高望から始まる平氏を桓武平氏、或いは坂東平氏という。晩年になって高望は西海道国司となり、九州・大宰府で生涯を閉じます。

高望が、坂東の豪族たちをまとめあげ結成した武士団は、やがて坂東八平氏の基礎を成すこととなり、更に鎌倉幕府の中枢を成した。正に、高望が一代で命を賭けてやったことが、末代まで大きく名を残す事になったわけです。平氏と言うと源氏贔屓の日本人が多くて何かと嫌われることもあるが、武士が武士らしくなったのは高望が覚悟を極めて坂東で生きたからこその結果。地位、名誉、領土、他多くを用意された源氏のプリンス達(例えば、嵯峨源氏、清和源氏、村上源氏など21流あるとされる)のような世襲武士団とは一味も二味も違った。

「命を惜しむな、名こそ惜しめ」の檄は、源氏や平氏や武家藤原その他問わず、様々な人たちが使用した。最初にその言葉が出て来たのは保元の乱とも云われるけれど、言葉とか文章なんてものは、心を持つ誰からも似たようなものが出て来るものなので、最初に言ったのが誰だったのかなんて意味がない。そして、「逃げ回って生き残ることは恥であり、精一杯戦った末に命を落とすことは名誉である」という意味と共に「家名を汚すな」という意味を含むなどという一般的な解釈では楽しくない。

自分が命を貰ったこれまでの家系(=先人達)よりも、自分の名から始まるこれからの命(=子孫達)の未来こそを大切にせよ」ということだと理解したい。特に、武士たちの間から出て来た言葉とされる以上、その最も武士らしかった坂東平氏が、天皇や宮家の血筋とは縁を切って、自分達から始まる家系を築き上げて行ったことこそ重視してそのように受け取りたいのである。

自分の不名誉は、死んだ者達の栄光を汚すかもしれないが、それ以上に、自分の名を背負わされる子ども達の方が苦しめられる。だから、働きに於いて不名誉な恥を晒すな、ということでしょう。親が名誉ある死であった場合、子ども達の未来はそれを知る者達によって支援される。しかし、恥晒しの親を持つ子ども達は、後ろ指を差され続け、それを払拭するには相当な苦労を強いられる。
今、親である者ばかりではなく、これから親となっていく者達に対しても、逃げ回って(不名誉な)生き残り方をしたらならないという意味が「命を惜しむな、名こそ惜しめ」の短い檄文の中に強く込められている。ということが一番しっくり来る。

現代の平民は・・・

現代の日本国家は、法の支配を受ける法治国家です。悪法や悪条例を是正或いは廃し、良法や良条例を作り運営するには国会議員や地方議員に議会審議させることが必要です。しかし、今の日本人は考え方がちょっとおかしくて、「誰がやっても政治は一緒」と嘯く人がやたらと多い。だから、何も変える気が無い世襲議員達がずーーーーっと政治の中枢に居座っていて二進も三進もいかなくなっている。
何も変える気が無い世襲議員達しか選べない日本の平民たちの現在を見たら、旧い因習を切り裂いて次々に変えて行った”平民”武士達はきっと物凄く悲しむし、物凄く叱責されるよね。

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