成る業を成らぬと捨つる人の儚さ

時を紡ぐ~Japan~

為せば成る、為さねば成らぬ。成る業を成らぬと捨つる人の儚さ

為せば成る、為さねば成らぬ。成る業を成らぬと捨つる人の儚さ
この言葉は、戦国時代を代表する武将・武田信玄の言葉とされる。(実は、「誰々の言葉」というのは好きではありません。言葉くらい誰だって言えるし、言葉に特許権なんてものはない。ま、いいや。堅い事言わずに先を進めます。)

武田信玄の行く手に大きく立ち塞がったのが、同じく、戦国時代を代表する武将・上杉謙信。「為せば成る」と強く心に誓った信玄の天下統一の野望(大望)は、謙信という大敵が隣国越後に存在したことで大きく時間をロスして遂に成し得なかった。殆どの識者(史家)が日本史的にそのように評価しています。

戦国時代、大名が上洛する(京の都へ行く)事は簡単なようで簡単ではない。大軍を率いて上洛するということは、倒幕(当時は、室町・足利幕府)して天下に号令を掛ける行動と見做される。なので、上洛行軍で通る地域を治める領主達は、幕府に従う立場なら全て敵。だから、いくさ行軍となる。相当な大軍で一気に突き進まないと大抵の上洛戦は失敗する。大群ゆえに兵糧が尽きるのも早い。食い物が必要だから行く先々で無理な略奪を繰り返す。当然嫌われる。簡単じゃない。「東海道一の弓取り」と謳われた今川義元でさえも(油断があったのでしょうけど)失敗した。

但し、幕府や朝廷の要請があれば、逆に上洛行軍を途中で邪魔する方が”中央政府”から見たら敵として見做される。長尾景虎(上杉謙信)が二度上洛を果たしたのも、幕府・朝廷の命があったから。

話を戻します。信玄の”軍事”上洛の野望が成し得なかったのは”後門の狼”として越後・上杉の存在があったからというのは日本史として定説。でも、徳川家康を主題とするドラマでは、家康の存在が大きかったように描かれるし、織田信長を主題とするドラマでは、信長なら備える時間も地の利もあり、信玄を阻止出来た可能性があるように描かれる。謙信を”狼”と書いたので、織田・徳川軍は”前門の虎”。どっちを(戦う相手に)選んでも簡単じゃない。取り敢えず、信玄の野望にとって物凄く重たい存在が謙信であったという定説に基づき話を進めますと・・・

もしも「為せば成る・・・」という言葉を信玄の信条(心情)とするならば、自分(武田信玄)という強者と渡り合うくらいに実力を持つお前(謙信)は、どうして天下を望まない?何故、最初から成せるかもしれないことを為そうとしない(捨てている)?大望を持たない者(謙信)が、それを持つ者(自分=信玄)の行く手を阻むとは憐れな事だ。という忸怩たる思いを滲ませた言葉かもしれませんね。

個人的には幼少期より謙信に興味があり、特に、謙信=女性説が出て来て以降はますます魅かれて、そうであったら(=姫武将)という説に基づき論じたことも一度や二度ではありません。けれども、謙信が婚姻せずに仏門(神門)に傾注し過ぎの、ただ”義将”と持て囃されただけの男子であるなら、領民や近隣諸国にとっては、”傍迷惑はためいわく“な「酒と戦が好きなだけの人」。という評価を下す史家が少なくないことも頷ける。

「出来る事、出来なければならない事からつい逃げてしまうのが人の儚さである」というのが信玄の信条。「出来る事から逃げるような人には何事も成せない」という(自らを含めての)戒めの言葉。人の儚さは、”愚かな人”とか”情けない人”という意味にも取れます。

信玄は、天下に号令をかけるという宿願を何としてでも”成そうとした人”ですが、川中島(北信濃)”領有権”に執着して遂に成せなかった。北信濃に見切りをつけて、もっと早く東海方向へ抜けていれば”成せた”かもしれない。

そもそも、北信濃が欲しかったにせよ、それ以外の地域にしても、”天下人”となった暁には切り取り放題出来たかもしれないのに。と言う人も少ないかもしれない。でも、そうではないでしょう。

上洛を果たせても、すぐに全国制覇出来るものではない。その事は、後の織田信長や豊臣秀吉の行動を見ても明らか。天下に号令をかけて以降は、それに従わない者に対して戦わざるを得ない。そして勝たなければならない。そうじゃないと、”下の者”は誰もついて来ない。
信長は信玄亡き後の武田を滅亡させ、越後と対峙し、四国や中国への侵攻を敢行するがその途中でクーデターを受け夢破れた。
秀吉は小田原北条を駆逐し、四国・中国を従わせ、九州を征圧した。更に野望は膨らみ朝鮮半島へまで食指を伸ばす。が強欲過ぎて実質一代で栄華は枯れた。
信玄が北信濃をそのままにして上洛した場合、そこを謙信に完全に奪われていたとするなら、本国・甲斐へ戻る事にも一苦労しただろうし、ずっと戦続きで早々に疲弊し天下掌握は完成しなかった。なので、一度ひとたび北信濃を手に入れようと動いた以上は、何度だってそれを成すために動かざるを得なかった。謙信に勝てないという事実を引き摺ったままでは天下人の称号なんて手に入らない。だから、川中島の戦いに固執したのではなく、固執せざるを得なかったわけですね。
謙信はもっと酷い泥沼に嵌まり込んだ。下野の佐野昌綱攻略に十度も挑んで最後まで果たせず終い。「佐野にさえ勝てない」「北条にさえ勝てない」そして「武田にさえ勝てない」関東管領・上杉謙信を関東の諸将達は明らかに見縊り出した。名が売れ始めた当初は、多くの民や武将から、鬼神・戦神と畏敬の念を受けていた謙信ですが、やるからにはぶち殺すという非情さが少し足りずに、いつだって八分の勝ちで止めてしまう。佐野昌綱に対しても、一度は跪かせたのに強く処断せず、結局は従わせることが出来ずに泥沼化させた。因みに昌綱は、謙信を(好敵手として)敬っていたことも事実のようです。
謙信率いる越後軍は強かった。それは否定出来るものではない。が、謙信の戦には完全勝利とか、敵領地の殲滅みたいな勝ちが少なく、それ故に兵達への恩賞も少ない。だから離反者も多く出た。現代の史家の評価がイマイチなのは仕方ない部分ですね。謙信では天下は取れないというのも定説です。

信玄は、「もっと頑張れば(謙信に勝つ事が)出来るのだ」と自分や家臣団を信じていたのでしょう。結局、謙信に勝つ事は出来なかったものの、北信濃を大方手に入れたのは武田だった(それも束の間で終わるが)。
次代(武田勝頼)で、甲斐・武田家が滅んだ事を想えば釣り合わないでしょうけれども「人は石垣、人は城、(人は堀)、情けは味方、仇は敵」「風林火山」等々の言葉と共に、武田信玄の名は多くの日本人の心に刻まれ、現代まで語り継がれている。
父親(武田信虎)から疎まれ、家督相続さえも危ぶまれた少年期を思えば、その父を強い意志を持って追放して甲斐を率いた。天下に号令を発する時間は持てなかったけど、”成せた人”だと思えます。

為せば成る、為さねば成らぬ何事も、成らぬは人の為さぬなりけり

上杉鷹山の言葉

後に、米沢藩(上杉家)の家督者となった上杉鷹山が詠んだのが次の有名な言葉です。
為せば成る、為さねば成らぬ何事も、成らぬは人の為さぬなりけり

鷹山が、藩主となった当時、米沢・上杉家の財政は火の車。正に破綻状態で、藩政改革の先延ばしは許されない状況にあった。このことは有名な話です。鷹山は、謙信に繋がるこの名家の家臣団に対して、極めて辛辣に「出来ないのは、その人のやる気の無さである」と叱咤した。「成し遂げる意思(覚悟)を持って行動しない人には(何も)成せる筈がない」という戒めです。

鷹山は、日向・高鍋藩から米沢藩へ婿養子に入った人なので、上杉家に生まれ育ったわけではない。そして、上杉家が神君・英主として崇め奉る謙信の好敵手、武田信玄の言葉を借りて改革を鼓舞した。上杉家の旧臣達にとって、”信玄の言葉”で叱咤されたとあっては面白くない。それを百も承知で”喧嘩を売った”のだから、鷹山の強い意志と度胸を感じられて面白い逸話です。

鷹山が招かれる以前の米沢藩の経済事情

上杉家は、高家こうけ・吉良氏と縁が深い。”忠臣蔵“では敵役かたきやくの吉良上野介(=正式名は、従四位上・左近衛少将・源上野介義央)の子が、上杉家の養子に入った上杉綱憲(米沢藩第4代目)ということはよく知られている。

越後を本拠とした長尾家は、本家分家が入り混じり同族同士の争いに明け暮れていたが、長尾景虎の時代に漸くまとまった。景虎が、関東管領上杉家の跡を継ぎ、やがて謙信と号し「上杉謙信」の名は周辺諸国に大きく轟いた。謙信の跡を継いだ養子の景勝は、豊臣秀吉の命に逆らえず会津へ移封。しかし、会津は越後に勝るとも劣らない実り豊かな所領地であった。しかし、徳川家康とは曽利が合わずに結果として敗北した景勝は、会津から米沢への強制転地を承服せざるを得なかった。大藩から小藩へと大転落した上杉家は、これにより収入を大きく減らす。以降、米沢・上杉藩は恒久的な赤字が続く。尤も、「強い上杉」「大国上杉」の”偉い人”でいたかった役職者達が、藩政改革のようなものに対して一切興味を示さず非協力的であったことが赤字体質の大きな要因でした。そして・・・

そのようなお先真っ暗な状況を何とかしようとした後の藩主、上杉定勝(綱憲の外祖父に当たる)は、「他家の風を真似ず、万事質素にして律儀ある作法を旨とする」という藩令を制定します。ところが、名家・吉良で育ったお坊ちゃま・綱憲が藩主となると、藩政改革の言葉は聞こえなくなる。

我慢とか倹約とか質素などの言葉が最も似合わない綱憲でしたが、名家・吉良との”縁”の力は期待されていた。『忠臣蔵』などを知る限り、上杉家にとっては大いにあてが外れた?綱憲の治世期には藩財政の赤字体質を更に”大幅に”悪化させています。
しかし、文化人だった父・上野介の影響を強く受けていた綱憲は、教学振興に努め、越後や米沢などでの上杉家の歴史編纂には物凄く執心した(でも、改ざんされたことも数多い?)。
元禄10年(1697年)。 綱憲は、現在の米沢興譲館高校の前身となる藩学館(聖堂・学問所)を建設しています(藩儒兼藩医の矢尾板三印の自宅敷地内)。聖堂の扁額は「感麟殿」と称されたが、この年に謙信と景勝の年譜は完成となる。
謙信と景勝の歴史を”しっかり創った”綱憲に対して家臣の評判は上々だったが、翌年(元禄11年)の塩野毘沙門堂や禅林寺(現・米沢法泉寺)の文殊堂、その他の社寺の大修理や、米沢城本丸御書院、二の丸御舞台、麻布中屋敷新築などの建設事業を行うなど、財政事情を考慮しない”無駄遣い”が顕著となる。加えて、(上野介の意向もあったか?)参勤交代を華美にして「上杉家ここにあり」的なデモンストレーションにも強く拘った。

定勝の藩令に対して大きく逆行した綱憲は、心ある家臣からの支持を得られなくなる。それでも、博打打ちに対する死刑制度を始めるなど道徳や規律を守らない者達への対応は極端に厳しかった。民に対してのみではなく、風紀を乱した譜代家臣に対しての追放処分を行うなど、公平・公正な面を見せはしたものの、堅苦しさも際立った。そのことで、伝統的な(頭の硬い)家臣にはウケ・・が良かったが、藩政改革の声には耳を貸さない(=批判の声が届かない位置に祀り上げられた)。綱憲の側近には、伝統ばかりを重んじる(変化を嫌う)守旧派で固められ、改革派は遠ざけられていく。
しかも、赤穂・浅野家との争いが原因で失脚した実父・吉良上野介に対しても、財政状況が苦しい中で援助(=公金の私費流用)。その事が、旧浅野家家臣による仇討ち事件(いわゆる”忠臣蔵”)で明るみになった事で、上杉藩の評判はガタ墜ち。何処からも支援の手など伸びて来なくなった。だからと言って、旧態依然の重臣達には財政を好転させる手段が何もない。ただ悪戯に時は過ぎた。

鷹山と上杉の関係

財政再建の目処が何も立てられないまま、忠臣蔵事件で世間からの評判を大きく落とした綱憲は隠居(元禄16年/1703年)。庶長子・吉憲が第5代藩主の座に就いたが力及ばず、恐らく心労が重なった吉憲は39歳の若さで薨去する(享保7年/1722年)。
吉憲の嫡男・宗憲が第6代藩主(幼君)となるがこちらも重圧に倒れ、殆ど君主らしい仕事も出来ずに22歳の早死(享保19年/1734年)。宗憲の弟・宗房が第7代藩主となり、こちらは少年君主ながら頑張って倹約令を発令するなど改革着手に向かうものの29歳で他界(延享3年/1746年)。
藩主が続けざまに短命で終わるという不吉感が漂う中、第8代藩主になったのが宗房の弟 (吉憲の四男) 重定です。しかし、最早どうにもならない程、藩財政はズタズタだった。思い余った重定は、幕府に領地を返上して、領民全てを徳川家預りにすることまで考えていたという。

そして、藁にも縋る思いの重定が藩再建の助力を願った相手が、米沢とは遠く離れた九州・高鍋藩主の秋月家でした。

古来、筑前秋月を所領していた秋月家でしたが、豊臣秀吉の九州征伐軍に大敗北を喫した後に日向・高鍋への移封を命じられる。所領していた筑前秋月は、福岡黒田藩の支藩となった。しかし、秋月の領民達は旧領主(秋月家)への思いが強く、新領主(秋月黒田家)をよそ者としか見ない。所領の運営が上手く行かないでいた黒田家は、打開策として秋月家と親戚となることを望む。また秋月家としても思い入れのある旧領との復縁が叶うという事で、両者の思惑が一致して婚姻に至った。

そして時が経ち、宝暦10年(1760年)。上杉重定は、当時の高鍋藩(日向秋月藩)第6代藩主・秋月種実の次男で、後に「若くして賢才」と謳われる秋月治憲(=鷹山)を、先々で九代目の米沢藩主として迎えるべく養嗣子とする。実娘・幸姫の娘婿とする条件付ですが、この時はまだ幼名・松三郎(寛延4年7月20日/1751年9月9日生)だった鷹山は8歳か9歳の少年。類稀なる英主になる器かどうかなんてまだ何も分かっていない。しかし、上杉の家督を継ぐ条件は備えていた。

松三郎は、早くして生母(秋月種実の正室・春御前=筑前秋月藩第4代藩主・黒田長貞の娘)を亡くし、この頃は、母の実家である筑前秋月で、祖母・瑞耀院の養育を受けていた。そして、松三郎を上杉家の家督者とする話は、瑞耀院から重定へ持ち込まれた話。

春御前の母・瑞耀院(=豊姫)は、何と上杉綱憲の実娘で、重定の叔母。つまり、鷹山と米沢上杉家は何の縁も無かったどころか、名君・鷹山は、悪名高き綱憲や、綱憲の父・吉良上野介の血を受け継いでいる事になります。実に因果で面白い。日本の歴史上、嫌われ役として十指に入りそうな吉良上野介から五代後に、日本の歴史上、尊敬される人物として十指に入りそうな上杉鷹山が誕生する。

男子の実子がいなかった重定は、叔母・瑞耀院の申し出を受け、恐らく江戸藩邸に居たと思われる松三郎と面談。利発な松三郎を気に入って、この話はトントン拍子で成立する。

鷹山の改革

鷹山が正式に上杉の家督を継いだのは、治憲と改名した明和4年(1767年)で15~6歳だった。元服は前年(明和3年)。家督を継ぐまでの間は江戸住いで、儒学者(折衷学派)・細井平州に師事しています。折衷学とは、つまり、様々な学問の”良いとこどり”をしていることだが、時間がない鷹山にはそれが良かったのでしょう。平州は、いよいよ米沢へ向かう事になった鷹山に対して、「勇なるかな勇なるかな、勇にあらずして何をもって行わんや」という言葉を送った。要するに、勇気がなければ何事も成せないと鼓舞した言葉である。それを強く心に刻んだ鷹山は、旧態依然の家臣達が待つ米沢へ向かう。因みに細井平州は、改革の目玉として人材育成に着手する鷹山が、藩校を立て直す為に米沢へ来てくれることを切望し、寛政8年(1796年)、69歳の老骨に鞭打って来訪した。そして「(米沢)興譲館」と名付けたのは平州と言われる。

江戸の町民でさえ笑い話にするくらい疲弊・落ちぶれてしまった米沢上杉藩で、鷹山が最初に行ったのは人事。自分の意に沿う人材を、身分・年齢に関係なく登用する。これに対し、重役たちの多くが猛反発。その不満を隠居した重定へ持ち込むが、そこは重定も大したもので、「他家から来た者とは言え、我が娘婿であり君主である。治憲に対する無礼は許されない!」と一喝したと云われる。が、重定から要求された莫大な隠居料と隠居後の生活資金は鷹山の改革の大きな妨げになる。しかし、鷹山は義父に一言も不満を言わずに、自分の生活費を削りに削って重定の面倒を見続けた。恐らく、その方が重役たちと戦うことに対して有利に働くと判断したのでしょう。

あまりの倹約令に業を煮やした旧臣達が起こした七家騒動(安永2年6月27日/1773年8月15日)では、重定は、全面的に鷹山を支持する。須田満主と芋川延親に切腹を命じ、千坂高敦や色部照長、長尾景明、清野祐秀、平林正在には隠居や閉門及び蟄居を命じた。(後に、千坂家や色部家、須田家、芋川家はお家再興が許された)。七家騒動鎮圧時の揺るがない姿勢が功を奏し、若い改革派は鷹山を強く支持。また、武士の身分を捨てて民に身を投じて農労で藩に貢献する姿勢を表す人たちも多く出て来るなど、米沢藩は見事に財政再建を成し遂げた。

鷹山は、米沢のみならず日本国中から(現代に於いても)称賛される英主となった。
「為さねば成らぬ!」と、伝統的家柄の重臣達から嫌われても鼓舞し続けて、大事を成した鷹山。領土を拡大した軍事的英雄達とは一線を画し、藩を継続させることに大成功した真の英雄と言える。

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