世界に誇れる「書の疎開劇」~一条兼良の偉業~

時を紡ぐ~Japan~

応仁の乱(応仁元年/1467年~文明9年/1477年)の11年間は、その主たる戦場になった京の都を酷く荒廃させ、日本人の本性をあからさまにした。

●銭は、銭を持っている者から奪い取れ。
●物は、物を持っている者から奪い取れ。
●物欲を我慢せず、目についた物は何でも奪う。金品でも女でも子どもでも・・・

自らの欲のまま好き勝手に行動して、咎められても謝らないし当然の事だと繰り返す。まるで、日本人が韓国人を指して侮蔑する内容と酷似している。いや、寧ろ韓国の場合は、「相手が日本だから何をやっても許される」として、”敵として”限定している分だけまだマシな方かもしれない。

戦(いくさ)をしているフリをして火付け強盗。武器を持っている”敵”の命を奪うのではなく、行く当てもなく其処で暮らすしかない市井の人々の生活を奪い、身包み剥ぎ取り、暴力を振るい、殺す。
この戦で、日本各地から京へ寄せ集まった雑兵達が行った乱暴狼藉は「破天荒」などという言葉で言い表すにはあまりにも滅茶苦茶過ぎる狂態だった。しかし・・・

誰が誰と戦っているのか、誰が兵を統制しているのか、まるで分からない泥沼の戦いとなり、昨日の友は今日の敵という状態で裏切りは日常茶飯事。兵達は、昨日は共に敵に向かっていた”戦友”と今日は殺し合えと命じられ、疑心暗鬼に見舞われた。彼らは、著しくモチベーションを低下させていた。その腹いせ、うっぷん晴らしが、好き勝手な行動となった。いや、言い訳にはならない。戦うのがイヤになったら、職場(戦場)放棄するか、自分達の大将の首を刎ねてクーデターを起こせば良かった。しかし、それは恐ろしいから出来ない。なので、”武器を持たない”弱者を狩る。最低の人間達によって、京は、その隅々まで破壊の限りを尽くされて荒廃した。

(心の)教育が行き届かないと、人(ヒト)は鬼畜となり朽ち果てる

兎に角、出鱈目な”大戦”である。同じ氏族、同じ家族であっても敵と味方に分かれ合う。同じ旗印が敵陣にも味方陣地にも翻り、同じような言葉(方言)を使う者達が両軍に入り乱れる。それは、誰をどのように信じたらいいか分からないですよ。それ以前の戦いでは、「やぁやぁ我こそは・・・」と名乗り合っていたものが、少なくとも、名乗っている間の馬上の武将には手を出さない暗黙の了解があったのだが、「そんな事は知ったことではない」という足軽・雑兵が、武将本人ではなく馬を叩き殺す。戦にルールなどあるものか!稼ぎに来たのだ、生きて帰るのだ、ただそれだけだ、という人間達が、稼ぐため、生きるため、ただそれだけの為に「何でもあり」で死に物狂いで血走った形相でいるわけだ。”上司”の言う事なんて聞いていられない。そして、騙し、火付け、盗み、暴力、命令無視が繰り返された。

京の都は、勿論「都」で当時の日本の政治中心地。且つ、文化・学問の都であった。国の中心地たる都を、そんな事は知った事じゃないという者達が、辺り構わず火をつけてぶち壊す。文化財とか貴重書とかそういうことを気に掛けることなど一切しない。寺社であろうと、公家の館であろうと、民家であろうと、そして皇居であろうと・・・関係なかった。欲しいものがあれば盗む。奪い取る。必要なら(必要なくても)火を点ける。

当時の寺社・公家や武家の屋敷の大半は消失し、そこにあった貴重な書や文化財も燃え尽きたか、或いは盗まれた。略奪の限りを尽くされた後に来たのは疫病の蔓延である。それでも、(自分以外の)他人がどうなろうと知った事じゃない。という輩は、少しでも残っている何かを見つけると身包み剝いでまで奪い取った。人間の所業・・・ではなかった。そこにいたのは「鬼」どもだった。

応仁の乱を評して、それ以前の日本とそれ以後の日本を比較することも愚かしい。という識者も少なくはない。更に言えば、明治維新前後、太平洋戦争前後など、それ以前とそれ以後の日本人を変えてしまったのは、全て、容赦のない戦乱に因る。

それ程までに酷かったと言われる応仁の乱ですが、当時の関白一条兼良(応永9年/1402年6月7日生~文明13年/1481年4月30日薨去)によって、辛うじて、”未来に遺すべき最低限の文化”が救われた。因みに、兼良の読みは、「かねよし」よりは「かねら」の方が一般的とのこと。それは最近知った。

一条家は、藤氏族(藤原氏族)の序列では近衛家に次ぎ、九条家(一条家の元々の本家)と並ぶ家格を持つ家柄で「桃華家」と称された。一条家に代々伝わる書庫も「桃華坊文庫」と言う。そこ(桃華坊文庫)には、『源氏物語』や『伊勢物語』『大和物語』『竹取物語』などが収められていた他、藤氏族の政治に纏わる様々な指南書や記録書、史書が蔵されていた。それらが(応仁の乱他、京で繰り返された戦などで)全て消え失せて復元も何も出来なければ、我が国のその後の政治や文学、教育の形は大きく様変わりしていたと指摘されている。

一条兼良は、「天下無双の才人」と称された程で、当時としては(と言うより、日本の長い国史に於いても)傑出した英才・賢才だった。そして、将軍家への輿入れが運命付けられていた日野家の娘達(日野富子もその一人)の家庭教師的立場でもあった。特に富子にとっては、『源氏物語』を論じてくれたお師匠さんであり、逆に富子は、将軍の妻としての権力を背景に兼良の学者活動を支援した。

1432年、30歳で第102代・後花園天皇の摂政となった兼良ですが、藤氏内での権力闘争に巻き込まれ(公家も政治闘争が尽きなかった)早々に失脚。摂政の座を失うと同時に左大臣も辞職した。これで政治家としての未来は潰えたかに見えた兼良ですが、学者に専念出来たことで、逆に大いに名声が高まり、天皇家、将軍家の催事には、主賓論客の一人として欠かせない存在となる。

1455年に富子が将軍家に輿入れして以降、富子の学問のお師匠さんとして、また学・芸に傾注する将軍義政の師としても重用された兼良は、1467年1月に関白となり、政治権力の中枢に返り咲く。ところが、兼良が関白となって朝廷中枢に戻り、将軍家が烏丸と有馬の自由自在に動かされたからなのか、同年9月に「応仁の乱」が勃発する。

京にあった記録書、蔵書の多くは焼失。室町に在った一条家も焼き討ちに遭い、書庫「桃華坊」でも多くの書が焼失してしまいます。が、一条家の者達は、兼良の強い指示を受け、難を逃れた一部の書物のみならず、少しでも読める状態の書物ならば抱き抱え、火の手が上がる京の町を、西へ東へ走った。『源氏物語』『伊勢物語』『大和物語』などの小説そのものに限らず、それらが描かれた時代考証論書や作家評など全て、一条家が諦めたら全て残っていなかった可能性がかなり高い。日本の文化や歴史教育がまるで違っていた筈。

兼良は関白として差配を振う一方、民の安全や文化財保護に懸命になった。兼良自身、既に60代後半になった体に鞭打って、大混乱の京を駆け回った。関白の地位にある者としての責任感もあったのでしょうけど、弓矢が飛び交い、何処も彼処も燃え盛る町を必死に走り回って、文化財避難にも懸命に取り組む兼良に率いられた”一条家の戦い“に心打たれた公家や商家から、多くの協力者が出て来ます。

兎に角、雑兵達の強奪が酷過ぎる。目の前に公家や武家の者がいてもお構いなく盗んで行き、用が済めば火を放つ。出鱈目な社会環境へ朽ち果てた京で、書物移動の最中に命を落とした公家や町人も少なくない。それでも・・・
心ある者達は、武士の出鱈目な戦とは一線を画して、「社会・文化防衛」に身を投じ、火付け盗賊達と命懸けで戦った。この時、”戦争”との戦いを指揮した一条兼良がいなければ、それ以降の我が国には学ぶ心が生まれなかった。だからこそ一条兼良は、空海上人と並び称され尊敬されている。

取り敢えず、避難書物の多くが奈良へ移され、そこに当時の識者の多くが集められた。そして、兼良の子で門跡の尋尊が職する興福寺などで、半焼書や焼失書の復元事業が開始されるが、その殆どは、兼良の記憶が頼りだった。稀代の天才・一条兼良の記憶力とリーダーシップが無ければ絶対に成し得られなかった知識の復旧事業だった。焼失データのバックアップ媒体は兼良の脳みそであり、兼良の記憶力が落ちればそれで終わる。正に時間との勝負です。が、兼良の体力と執念は計り知れないものがあった。この人は色んな意味で「怪物」「無双」です。

復元された書は、一条家の領地だった土佐を中心に、取り敢えず安全な四国へと疎開される。戦火の拡縮に併せ書の避難場所も変化。京の蔵書が色んな地方へ疎開された事で、貴族や武家以外の地方の庶民が書物に触れ、興味を持つ。庶民の間に「学問」への目覚めが起きます。

関白・一条兼良の指導による書の復元事業は、公家や京商人・町民が命懸けで書の一冊一冊や文化財を疎開させたエピソードと共に、全国へ語り継がれた。反面、金目の物を持ち去り、都を破壊した雑兵らの悪行を恥じる思いは多くの民の自戒の念を生み、それが宗教心の芽生えともなる。
我が国で(恐らく初めて)民の間から現在で言うところの募金活動が起きた。しかし、京の惨状は生半可な支援で復興出来るようなものではなかった。天皇家の屋台骨は、天皇を敬う各地の有力大名達によってどうにか支えられたものの、京を、都としての本格的再興は、長尾景虎(上杉謙信)からの多額援助や室町幕府を倒した織田信長の台頭があるまで待つ事になる。しかし、どうにかこうにか京の息の根は止まらず、明治維新による遷都まで、我が国の首都で在り続けた。

因みに、兼良の長男・一条教房は、応仁の乱勃発以降、世の乱れを嫌い政界を辞して土佐へ下向します。疎開された書の多くは、一条家の領地だった土佐で教房らによって更に編纂作業が施されました。教房は、1458年から1463年まで関白の任に就くなど一条家のエース的立場にあった人ですが、逆に父・兼良に土佐下向を誘うなど、京と一線を画し土佐に土着していきます。教房の家系が武家化して土佐一条氏となりますが、先々に於いて家臣の長曾我部に乗っ取られる憂き目に遭う。

一条家の家督は教房の弟・冬良に譲られ、冬良も関白となりますが、この人は兼良の第二十三子。は?と思われるでしょうけど、兼良には合計26人の子が誕生しています。驚くべきは、70歳過ぎてからも3人の娘をもうけるなど、80歳で薨去されるまで精力絶倫であったと云われます。そして、菅原道真を凌ぐ「五百年来此の才学無し」と惜しまれた天才。此の人を主役に脚色して、応仁の乱を描けば面白いのに、と思う次第。

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