信長と家康の同盟、その前に武田あり

時を紡ぐ~Japan~

民に対して、「栄えて見せろ」と鼓舞した織田信長

民に対して、「儂の栄を見よ」と誇示する豊臣秀吉

民に対して、「共に栄えよう」と手を取る徳川家康

信玄と信長

歳の差

前回、永禄11年(1568年)に、信玄と家康の間に甲斐・三河同盟が成立したことを書きました。それは、織田と徳川が同盟関係になるよりも早かったという説もあります。今回は、その甲斐・三河同盟よりも先に、甲斐・尾張同盟/甲斐・美濃同盟が成立していたことから入りたいと思います。

ドラマや映画などを見ると、信玄と信長には大きな年齢差があるかのように錯覚させられることがありますが、1521年12月生まれの信玄と1534年6月生まれの信長は13歳しか離れていない。しかし、この時代の公家や武家では、13歳差の親子というのも珍しくはない。なので、小説家などが「親子ほどの年の差」という表現を用いても別におかしいことでは無い。因みに、信玄の好敵手と位置付けられた上杉謙信(長尾景虎)は1530年2月生まれで信玄よりも9歳ほど若いが、信長に対しては4歳年上に過ぎない。今川義元でも1519年生まれで信玄より2歳上に過ぎず、この人達よりも信長が先進的だったと言われる理由に「若さ」は殆ど関係ない。家康だと1543年1月生まれなので、信玄よりは20年以上遅れて生まれたので「小童こわっぱ」という舐めた見方かもしれないが、信玄から見て信長は「小童」的に舐めてかかる相手でも無かったと思われます。何故なら、信長と4歳しか違わない謙信(景虎)相手に苦戦しまくっていたのですから。

共通の敵があれば、限定同盟は成立する

天文23年(1554年)に成立した甲相駿三国同盟も、永禄3年(1560年)の桶狭間で実質破綻。今川義元の首を取った織田信長の名は広まったが、尾張統一を成すまでには更に5年を必要とした。逆に言えば、尾張一国さえ統一出来ていない信長に敗死した義元に対して、相模の北条氏康(1515年~1571年)は唖然としたでしょう。けれども、甲斐の信玄は、それは当然の結果と見ていたのかもしれない。

武田と今川

今川家を継いだ氏真(1538年生)と信玄は従兄弟同士で、氏真の母が信玄の父の妹です。父・信虎と折り合いが悪かった信玄は、信虎を(今川家)へ追放して家督を強奪した過去を持ちます。そういう経緯から、氏真の母と信玄も折り合いが良いとは言えなかった。義元亡き後は、事あるごとに氏真を嗾けて信玄を刺激していた信虎は、甲斐の国主に復権することを全く諦めていなかったし、甥の氏真と孫の由伸の関係を強化させ、あわよくば息子信玄を追い落とそうとしていた。

天文19年(1550年)に今川義元の娘を正室に迎えて氏真とは義兄弟となっていた武田義信(信玄の嫡男)は、義父・義元の敗死以降、織田に対する敵討ちどころか、同盟相手の今川領を切り取ろうする父・信玄に対して強い嫌悪感を抱く。そして何かにつけて父の政策に反論を繰り返し、父子関係は冷戦状態となる。父・信虎と反目した信玄は、今度は嫡男・義信に反目されるという正しく因果応報となり引いては、義信の母である正室・三条の方との夫婦仲も拗れて行った。家庭生活が上手く行かない信玄にとって、側室・諏訪御前との間に生まれた勝頼の成長だけが楽しみとなる。

武田と織田

桶狭間の”黒子”、若しくは重要キーマン美濃遠山氏

ところで、天文21年(1552年)に織田弾正忠家の家督を継いだ信長と、天文10年(1541年)に武田の家督を奪い取った信玄は、美濃苗木城主・遠山直廉を介して弘治2年(1557年)辺りからやり取りがあった。

尾張の守護職でも何でもなかった単に清州奉行職だった弾正忠家ですが、信長の父・信秀が台頭し織田家中でも屈指の力を持った。信秀は、三河攻めや美濃攻めを何度か行っているが、何れも完全攻略にはならず寧ろ大逆襲に遭っているけれど、後の信長は、生前の父・信秀の”頑張り”によって繋がった縁に随分と救われることになる。武田家とすぐに争わずに済んだのも、信秀時代に美濃に楔を打ったおかげと言える。

美濃・遠山氏は元々は加藤姓を名乗った藤原北家を出自とする公家武将。鎌倉幕府を開いた源頼朝に仕え、戦功を認められて美濃遠山庄(現在の恵那市・中津川市と瑞浪市の一部)を与えられた。その後の美濃は、土岐郡を治める清和源氏系の土岐氏と恵那郡を治める遠山氏の二強時代に入るが、足利政権下では土岐氏が美濃守護職となり、遠山氏は已む無く土岐氏の傘下に入る。

遠山氏は、岩村遠山氏(本家)、苗木遠山家、明知遠山家(以上が、遠山三家)、飯羽間遠山家、安木遠山家、明照遠山家、串原遠山家(以上で、遠山七家/遠山七頭)などに分かれるが、その中の苗木遠山家を継いだ遠山直廉こそが、桶狭間の戦いに於いて重要なキーマンとなっている。・・・ような気がする。

土岐氏が斎藤道三に下剋上された頃、美濃の国衆は大きく揺れて遠山氏も例外では無かった。が、諏訪を手に入れた武田信玄が伊那へ侵攻。更に恵那へ向かう動きを見せる中、斎藤とは一線を画していた遠山氏系の家々は武田信玄に与する。苗木城主の直廉も、長兄で岩村遠山家を継いでいた景任に従い信玄の軍門に下る。因みに苗木遠山家の当主は、苗木勘太郎を名乗ることが通例であり直廉もそれに倣い、苗木勘太郎直廉の名を用いていたと言われる。

遠山氏が斎藤道三と手を組まなかった理由は、バックに武田信玄がついてくれたという安心感もあるが、更に、織田信秀や信秀の後を継いだ信長とも通じていたことが挙げられる。つまり、遠山七頭は、甲斐・武田と尾張・織田に両属していたという事になる。応仁の乱でもそうだったけれど、戦国時代でも昨日の友は今日の敵という状況が普通に続いていた。朝は味方だったのに夕方は敵ということも各地で日常茶飯事だった。いつ裏切られるかも分からない中で、少しでも味方を作っておくのは常套手段。そのことを遠慮なく武田・織田の両氏に公言していたのが遠山氏という事になる。そして、信玄も信長も遠山を活用した。

信玄は兎に角、海へ出たかった。だから越後・長尾とも対峙した。しかし、長尾景虎をどうしても打ち破れずにいて、だったら駿河や遠江へ出たかったのだがそこは今川義元がいる。更に、三河もほぼ今川が牛耳っていた。北条を含めて”三国同盟”を結んでいたものの、信玄は、出来れば今川の力を削ぎたいと思っていた。だけど直接対峙するわけにもいかない。なので、信長を利用した。今川義元の動きを仕入れるのは同盟関係を結んでいたので難しくなかったでしょうし、今川の情報を遠山を介して信長へ渡していた。つまり、今川義元の動きは日程から将の配置に至るまで信長に筒抜けだった。

そして、 遠山直廉(苗木勘太郎直廉)は、自ら信長軍に参陣して桶狭間で戦果を挙げた。信長は、直廉の働き(特に諜報的な働き)を高く評価して、自らの妹(信秀の四女)を直廉の正室として、この婚儀を通じて遠山七頭との関係性を濃くしていく。これが後の美濃攻めで大いに力を発揮することになる。

更に、直廉と信長の妹との間に姫が誕生すると信長は自分の養女として迎え入れ、この姫が正室として嫁いだ相手が信玄の家督を継ぐことになる武田勝頼です(永禄8年頃の婚儀)。この姫の本名はちょっと分からないですが一般的には遠山夫人、又は龍勝院と称される。勝頼との間に嫡男を生すが(後の、武田信勝:永禄10年11月)、産後の肥立ちが悪く健康を害してしまい、元亀2年(1571年)9月16日に逝去。武田と織田は、この翌年に同盟破棄に至るが、遠山七頭は武田と袂を分かち織田に付く。 その動きを察知した信玄は、次の婚姻として、信長の嫡男・信忠に対して、自分の娘を正室として嫁がせようと試みたが失敗に終わる。もしかすると、信長が信玄の娘を嫡男の嫁に欲しがったが失敗に終わったのかもしれない。何れにせよ、龍勝院の命が尽きたことが武田と織田の運命を決めてしまったようなもので少し残念。

余談ですが、苗木遠山家や明知遠山家は後に家康に仕え、徳川時代を生き抜き、明治期には爵位を得ている名家です。・・・ということ。更に言えば、明知遠山と明智光秀には何の関係もないらしい。

私ごとですが、実は恵那に血縁があるので、ここら辺の話には凄く興味があります。でも、あくまでも不肖私のエッセイですから、以上の話を何処まで信じるか、全く否定するかのご判断は、読まれた方に全て委ねます(笑)

さて、以上のような流れから推察すれば、義元の動きが全て信長に読まれていた可能性は十分あるでしょう?そして、信玄は「義元、敗けろ~」と願っていて、それは願った以上の結果になって信玄は驚いたし、「信長とは仲良くしといた方が良いな」とも考えて正式に同盟を結んだのでしょう。

義信事件

少し話を戻しますが、龍勝院と勝頼の婚姻が成立する少し前辺りかもしれない永禄7年(1564年)7月。義信の傅役もりやくであり、武田家中にあって重臣中の重臣と呼ばれていた飯富兵部少輔虎昌や複数人の家臣に対して、信玄暗殺計画の嫌疑が懸かる。全て、”義信派”に属していた者達であり、義信がその計画に本当に加わっていたかどうかは今だに解明されてはいないみたいだけど、当時の父(信玄)は、この騒ぎのそもそもの発端は息子(義信)にあり、全ての責任を負わすと決断を下す。翌年に、飯富虎昌以下、捕らえられた家臣達は処刑され、義信は寺に幽閉された後に自害(処刑説も)に追い込まれた(永禄10年)。この義信事件の背景にも、織田との同盟に舵を切った信玄に対する反抗があったものと考えられる。

そして、義信が亡くなる永禄10年に、今川氏真は甲斐に対して塩止めを断行。これが、義信を救う手段だったのか、義信が亡くなった事への抗議の意だったのかは分からないが、塩が入って来なくなった甲斐は大弱りとなる。ところが、(それまでは無かった)越後からの塩の流通が突然始まった。これが景虎の指示らしく、「敵に塩を送る」の謂われとなった。

叡山焼き討ち

信玄は、信長との同盟関係を壊したくて壊したわけではなく、信長もこの同盟だけは維持したいと思っていたが、同盟相手(信玄)が仏門に帰依し入道した信玄であることに対する気遣いが大いに欠けていた。せめて、相談の書くらい出しておけば良いものを独断で比叡山焼き討ちを命じる(元亀2年9月12日)。しかも、その4日後に龍勝院が亡くなった。信長の悪行が嫡男の嫁を死に追いやった。つまり、「信長との同盟を破棄せよ」とのお告げである。と、信玄は悟った?

比叡山を焼き討ちしたのは何も信長に始まったことではない。
●第6代征夷大将軍・足利義教(1435年)
●足利幕府管領・細川政元(1499年)
●そして、1571年の織田信長

1499年の細川政元から70年以上経っていて、それが唐突で、且つ残忍な結果となり畿内は大騒ぎになった。当時の叡山の天台座主は正親町天皇の弟宮・覚恕法親王で、親王は信玄を頼り甲斐へ亡命した。どうして亡命先が甲斐だったのかはよく分からないけれど、信玄は、信長を強く非難する声明を出して、どうやら、比叡山を甲斐へ移し再興するという宣言をしたようだ。この話に、信長を嫌っていた正親町天皇も乗り気になり、天台座主の親王に甲斐へ行って信玄の真意を計らせたものとも思えます。

天皇の弟宮が甲斐に”亡命”してきたことで、信玄も引くに引けなくなり織田との同盟破棄に突き進むしかなくなった・・・のかもしれない。だから、信忠との新たな縁談話も無になった。実はそういうことが真相かもしれません。何れにせよ、叡山焼き討ちまでは許せても僧侶を殺しまくった件については、信長はやり過ぎた。足利義教も細川政元も、焼き討ちはしたけど大量虐殺はやっていないようだから、この件で信長が信玄やその他の信を失ったことで信長包囲網が出来上がっていく。ところが、それに参加せずに、逆に信長と手を組んだのが家康だった。もしも家康が信長ではなく武田との同盟を維持したら、信長のその後は無かったかもしれない。

信長と家康の関係を書いていくつもりが、信玄と信長になってしまった。なんか先が読めなくなりそうなので今回はこれで終わります。お粗末。

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