観応の攪乱と大内・少弐・大友、それぞれの事情

時を紡ぐ~Japan~

攪乱までの経緯と、観応の攪乱初期に於ける足利の混乱

足利幕府の初代将軍・足利尊氏(1305年~1358年)はいつしか遁世願望に強く目覚め、幕府開設後には繰り返し出家遁世を口にするのが常となった。しかし、家臣団は当然の如くそれを認めず、尊氏の本気度を勘繰るような声も聞こえていた。要するに、単なる口癖程度にしか受け止められていなかった。「それならば」と、尊氏は、政治の事の殆ど一切を次弟・足利直義(1307年~1352年)に任せ(押し付け)、自身は、嫌いじゃなかった”軍事”にのみ関与します。

直義は、やる気を失せたかのような兄に代わり、内外からの(足利家への)信を失わないよう先頭に立って切り盛りした。が、逆に、「俺にだって出来るんだ」という直義の頑張りを気に入らないのが、尊氏からはしょっちゅう頼りにされていた足利家の大番頭・高師直(1300年頃の生~1351年)であった。

高氏は、第40代天武天皇の第三皇子・高市皇子たけちのみこを高祖とする高階氏が高氏と改まった氏族で、壬申の乱を生き残った高祖に強い誇りを持ち、足利家を支える者達の中に在っては随一の武力と治世力を持つ一族であった。故に、第56代清和天皇から始まる清和源氏の足利家に対しても特段臆することなく、足利の政治を支えているのは「自分達、高である」という強い自負があった。が、直義は、兄・尊氏と違って「高に頼らずとも或る程度は自分の手で差配する」姿勢であった為に、疎外感を持った師直との対立が顕著となっていく。

常日頃より政治からの引退を口にしていた尊氏は、高氏が離反することを恐れるあまりに無理矢理に直義を出家させて、嫡男・足利義詮(1330年~1367年)を第二代将軍に指名する。そして当たり前の義詮の補佐役には師直を指名するのだが、流石にこの差配に対しては直義派が猛然と反発。義詮を旗頭とする高派側と直義を支持する派側に大別して足利幕府は内乱の様相を呈す(観応の擾乱1349年~1352年)。

これが、”観応の乱”ではなく『攪乱』とまで云われたのは、この状況に乗じて、南朝側の公家や武家が勢いを取り戻し三者三様に入り乱れての抗争へと辿っていったから。

南朝(後醍醐天皇を支えた側)は、1336年に楠木正成、1338年には北畠顕家新田義貞という中心的存在だった三人が戦死して、更に1339年には後醍醐帝が崩御するなど、完全に終わりへ向かうように思われた。

尊氏もそのように思って直義に全て任せたのかもしれないが、執事の長たる師直としては、自分の意見を欲しがらない直義によって立場が低くなっていく忸怩たる思いに至ったわけで、何が幸いし何が災いするか、人間ってのはほんと複雑です。

師直をトップとして尊氏の政権を支えた中枢機関は「仁政方」と呼ばれ、所謂、昔ながらの名高い家柄が集っていた。が、そのような武力均衡政治はやがて内部崩壊を招くと判断した直義は、実務・能力重視の引付衆を中心とした新たな政治中枢機関として「引付方」を構成した。武功による恩賞判断や訴訟査定などから外されていった仁政方の重鎮たちは大きな不満を持ち、引付衆への嫌がらせが繰り返されるようになると、それを叱咤する直義との対立が表面化していく。

しかし、分断して争えば、武力に勝る高派が勝利するのは目に見えていた。そうなれば足利幕府自体が終焉する。そのことを恐れた尊氏が、弟を力づくで権力の座から外したわけだけど、その尊氏の姿勢を高氏族に対しての弱腰と受け取った者達も少なくなく、仁政方の武将たちの中には直義派に鞍替えして尊氏を隠居させようとする動きが顕著化する。

1341年からは武力衝突が繰り返されるようになり、その隙を突いて、後村上天皇を旗頭とする南朝軍が行動を起こしたり。その南朝軍を制圧したのが師直側で、その恩賞を巡って直義派とぶつかる。こういう事が繰り返されると、畿内外の武将たちはどっちつかずとなっていく。

直義は、兄・尊氏に対して「このままでは足利は終わる」と強く諫言し、それを聞き入れた尊氏は、高師直を執事職から解任する決断に至った(1349年)。しかし、素直に応じるどころか、師直は、弟・高師泰と共に直義を襲撃した。直義は間一髪で脱出し尊氏邸へ逃げ込んだが、高兄弟の軍勢は尊氏邸を包囲して直義の罷免を強く要求する。一触即発の状況で、遂に、足利兄弟側が屈し、直義が出家することで和睦した。出家した直義は僧・恵源を号し、尊氏の嫡男・足利義詮(1330年~1367年)に全権を譲渡した。

大内の混乱

611年頃に、中国地方・周防に始まったと云われる多々良氏は、嘘か実かその出自を朝鮮半島の百済王朝であると云われる。この多々良氏が大内氏の始祖である。現在であればあまり好まれる話ではないと思われるが、実は、百済の聖王の第三皇子が高祖であると最初に言ったのは1453年の当主・大内教弘である。つまり、800年以上もそういう事を言って来なかったのに大陸との交易権が欲しいが為のその場しのぎの口から出まかせという説が多勢を占める。

611年頃に聖徳太子より多々良姓を賜ったという話も大内教弘の作り話であり、多々良氏の名が初めて書見として現れるのは1152年。まぁ、歴史と由緒ある家柄であることが格式を重んじた時代では必要であったという事情もあろうけど、裸一貫で一代で名を成した人々が賞賛されるようになる戦国時代を大内氏が生き延びることが出来なかった弱さがここら辺にあるような気もします(権威とか虚実とかに頼った)。

嘘か実かは誰にも分からない事なのでそれはそれとして、周防の小豪族から始まった大内氏は、鎌倉幕府の御家人となる。着実に力をつけていたが、後醍醐帝による討幕運動が始まる。当時の当主・大内弘幸(1310年頃の生~1352年)は幕府側に立った。結局、鎌倉幕府は倒れ、敵方と見做された大内弘幸は建武の親政では蚊帳の外に置かれる。

一方、大内一族にあっては後醍醐帝の側に立った少数の一人だった叔父の鷲頭長弘(1290年頃の生~1351年)が周防守護職に任ぜられる。鷲頭長弘は、元々は大内長弘であったが、庶流の鷲頭家に家督者がいなくなったことで養子に入り鷲頭姓を名乗っていた。一族を幕府方と天皇方に分けて存続を図るという策によるものなのか、それぞれが個別判断で幕府側と討幕側に分かれたのかは経緯は知りません。

周防守護となった長弘は、大内豊前権守や大内豊前権守入道と称し大内氏惣領として君臨した。大内氏族を統べて率いる立場となった長弘に対して、大内宗家の当主で甥の弘幸は、叔父・長弘を妬み敵視していく。権力闘争は、権力中枢のみならず遠い位置にある人々の人生まで狂わすのである。

やがて後醍醐帝と袂を分かった足利尊氏は、村上源氏の期待の星・北畠顕家に敗北するなどして京を奪われた。再起を期した尊氏は九州を目指すが、此処で長弘は尊氏の九州下向を支援した。

長弘に従ったというわけでもないが、弘幸も尊氏支援を表明したが、弘幸の弟で庶流の波野家に養子に入った波野弘道は南朝側に立ち、新田義貞らと行動を共にして尊氏を攻撃していた。弘道の兄である弘幸を尊氏がどこまで信用していたかは分からないが、誰を御輿に担ぐかを巡って、兄弟や親子の分裂が普通に起きていた時代だったので、来る者拒まず以上に、来た者を信じる以外に何も無かったかもしれませんね。北部九州に於ける最大勢力である少弐氏や豊後・大友氏の支援を得られた尊氏は、多々良浜の戦い(1336年4月)で南朝方の菊池武敏阿蘇惟直と対峙し、阿蘇惟直を敗死させるなど自信を取り戻す勝利を手にした(参照記事)。

波野弘道は、九州から再び上洛行軍を開始した尊氏の命を狙ったが失敗。逆に尊氏側の逆襲に遭い討死する(1336年7月)。弟が反尊氏側で戦死を遂げたことは弘幸にとってけっして良い出来事ではなかったが、その汚名を晴らす為にも尊氏からの要求である、長弘に従い、長弘の下で周防の守護代を務めることを了承した。

しかし、1341年4月。鷲頭方が、大内の氏寺である氷上山興隆寺を放火し焼失させるという大きな事件が起きる。長弘にとっても縁深い興隆寺の放火が、長弘の指図であったかは甚だ疑わしいところだが、大内宗家側はそのように主張して両者の対立は決定的なものとなった。そして観応の攪乱である。

弘幸は嫡男・大内弘世(1326年~1380年)とともに南朝へ帰順する。これにより、弘世は、南朝側から周防守護職に任じられた。北朝側の周防守護職・鷲頭長弘、南朝側の周防守護職・大内弘世という守護職が二人という歪な状況が生じるが、これは周防に限ったことではなくこの時代の複数の国でこのような並立守護が誕生した。弘幸・弘世父子は、長弘討伐を公言したがそれを成し得ぬままの1352年4月に長弘が没する。北朝方の周防守護職は、長弘の次男・鷲頭弘直へ引き継がれたが、これ以降の弘世の攻勢は厳しく、鷲頭氏は大内宗家への恭順の意を示し再び従属した。それにより、事実上、周防守護職は南朝側が牛耳ることになった。

少弐の混乱

少弐氏は、”本人曰く”藤原道長の後裔である武藤資頼(1160年~1228年)が、藤原秀郷の後裔である武藤頼平の猶子となって以降の1226年に大宰少弐として大宰府に赴任したことに始まる。

少弐とは、現代で言えば『次官』の事らしいけど、資頼以降の大宰少弐は、武藤氏の世襲となっていき「少弐と言えば武藤」であるなら、「もう、少弐でいいんじゃないか」という土地名ではない役職名という極めて珍しい姓の名乗り方を始めた。そして、最も有名な少弐が第6代当主の頼尚です。

少弐頼尚(1294年~1372年)は、九州へ下向する足利尊氏の支持を早くから表明して、自ら、長門国の赤間関(現在の下関)まで出向き尊氏を迎え入れた。その事を尊氏は大そう喜び、多々良浜の戦いで勝利した後に共に京へ上ることを要請する。頼尚はそれを受け入れて、湊川の戦い(1336年7月4日)では一軍の将として活躍し、北朝方の勝利に貢献した。そして、畿内まで従軍した頼尚には、恩賞として、それまでの筑前・肥前・豊前・壱岐・対馬という守護職を改めて認められ、更に、肥後の守護にも任ぜられた。この時が、少弐氏族にとって最大版図を得たことになる。九州というより、領域だけなら西日本随一の大大名であったのだから。でも、ほんの一瞬の出来事だった。

九州へ戻った頼尚は愕然とする。尊氏は、九州探題及び肥前守護に一色範氏を任じていた。つまり、肥後の守護職にするから肥前守護職は一色へ渡せというものだ。恩賞じゃなく、単なる領国交換に過ぎないし、自分から領国を奪った者が自分の上に立って九州探題となる。しかも、当時の肥後と肥前を比較したら、肥前の方が何かと良かった筈である。しかも、肥後だと菊池氏族や阿蘇氏族が根拠地としていて守護職なんて有名無味であった。極めて屈辱的な仕打ち。と頼尚は受け取った。まぁその通りですよね。尊氏は、戦は上手だったかもしれないが、人の気持ちを推し量ることが下手な人のようだ。

頼尚率いる少弐氏族は、総じて、尊氏に対して強い不信感を持った。もしかすると、この時点で、大内弘世のように南朝方に与する選択肢もあった筈だが、多々良浜の戦いで激しくやり合った菊池氏に頭を下げることもイヤだったのかもしれない。頼尚は、領地の拡大も出来ず悶々とした歳月を送る。

そして時は過ぎ、観応の攪乱である。鎌倉から始まった戦火は遠く九州まで燃え広がる。

足利直義の養子・足利直冬(=尊氏の実子/1327年~1387年)が九州へ逃れて来ると、頼尚は、当初は直冬を討伐する側であったが、いつかの尊氏を迎えた時のような好機再来を夢見た、そして直冬を懐柔する為に娘を直冬へ嫁がせた。娘婿となった直冬を旗頭として擁立し一色範氏を攻撃。九州探題を奪い、一色は命からがら博多を脱して尊氏の下で再起を期すことになる。

直冬が北部九州を制圧したことを知った恵源(直義)は、直冬討伐に高兄弟と共に兄・尊氏も向かった隙を見て京を脱出。吉野へ向かい南朝へ帰順する。直冬が九州探題を追放し、直義が帰順したことで南朝は大きく勢い付いた。尊氏は、直冬討伐を後回しにして直義追討へ向かうが、一連の兄弟対決を全て制した直義は打出浜の戦い(1351年3月)でも尊氏に圧勝。更に、高兄弟も直義派の上杉能憲に討ち取られた

正平一統

直義は、義詮の補佐として政務復帰を果たすが、補佐とは形上のものであり実質、全権を取り上げた。直義と尊氏・義詮父子の仲は冷え込む一方となり、尊氏父子は、高派の残党狩りと称して出陣。離京するなり、近江と播磨に布陣して直義を挟撃する態勢を整えた。直義も京を脱して鎌倉を拠点化して尊氏討伐の軍を挙げた。これに対して、今度は尊氏父子が南朝に帰順。南朝で言う正平5年(北朝の観応元年/1350年)であったことに由来する南北朝の合体、いわゆる『正平一統』が成立する。南朝は、尊氏父子に直義追討の勅令を発布する。

直義軍は、駿河、相模で連破され、1352年1月に鎌倉で降伏する。鎌倉・浄妙寺の塔頭・延福寺に幽閉された直義は2月26日に急死した(毒殺説が有力だが、自ら服飲したとも)。

観応の擾乱そのものは直義の死で終わったことになるものの、直冬を盟主とする者達の抵抗は、1364年頃まで続く。

大友の混乱

大友氏は、相模国愛甲郡を本拠とする近藤氏(藤原秀郷流、藤原利仁流の両説有り)の近藤能直が、相模国足柄上郡大友庄(現在の小田原市西大友・東大友辺り)を領し、大友能直を名乗ったことに始まったと云われている。因みに、これも嘘か実か、能直には、源頼朝の落胤という噂もある。

大友氏が豊後へ下向したきっかけは、元寇の危機が迫った際に、当時の執権・北条時宗より、第3代当主・大友頼泰(1222年~1300年)に対して鎮西東方奉行の任が与えられたことに依る(1272年)。この時から、北部九州に於ける軍政に関しては、少弐氏と大友氏が担い、南部九州に至っては薩摩へ下った島津氏が担うようになっていく。この、少弐・大友・島津を指して、九州に於ける『御家人三人衆』と呼ばれていく。 

元寇(文永の役・1274年/弘安の役・1281年)に於ける頼泰の軍功は高い評価を受けていて、その後の大友氏が豊後に於ける守護職を得る要因となった。

1333年4月27日。菊池氏第12代当主・菊池武時が一族郎党数百名を率い、鎮西探題北条英時に対して謀叛する。一月ほど前の口論が事の発端と云われるが、元寇以後、恩賞を巡る幕府との諍いが続いていた菊池氏は、隠岐に流刑されていた後醍醐帝と密かに連携し倒幕側に与していたことは明らかで、この襲撃前夜、少弐氏と大友氏にに対しても、討幕派に加わるよう誘っていた。が、少弐氏第5代当主・少弐貞経(1272年~1336年)は一笑に付して菊池からの使者を斬って捨てた。大友氏第6代当主・大友貞宗(1280年頃の生~1334年)も同様に使者を斬ろうとしたが逃げられていた。

貞経と貞宗に使者を送った時点で、武時の謀反は時間の問題と捉えられていた。鎮西探題側は十分に備えていて、菊池の謀反は失敗に終わり武時以下、約200名が首を刎ねられた。という事であるから、お粗末な話であるが、菊池氏はこれ以降、九州に於ける南朝側の中心的役割を担っていく。

大友氏も少弐氏も(島津氏も)、九州土着の国衆(豪族)とは違って元々は鎌倉幕府の御家人として関東から九州へ下向した氏族である。確かに、元寇に於ける恩賞問題で幕府に対して言いたいことは山ほどあっただろうけど、基本的には、幕府を支える姿勢は崩していない。しかし、後醍醐帝が討幕の下知を発しそれに対して足利尊氏や新田義貞らが呼応すると情勢は俄かに変化した。

大友貞宗にも決断の時が迫り、同年(1333年)五男の千代松丸(1321年~1362年)を元服させて家督を譲り、倒幕派に付くことを明言する。千代松丸が、第6代当主・大友氏泰となる。兄4人が健在であったにも関わらず、五男の氏泰を家督相続者とした理由は、もしも、討幕に失敗した場合でも、まだ少年の氏泰が当主であれば、お家取り潰しなどにはならないであろうと万一の場合に備えた苦肉の策と云われている。

しかし、庶長子の貞順は先々で大友宗家を継いだ氏泰に謀叛し失敗して自害。
本来の嫡子である次男・貞載は、大友姓を捨てて立花姓とし、立花貞載を名乗った。貞載が、九州・立花氏の祖となった。貞載は南朝側にも北朝側にも身を置くこととなり、最期は、北朝側の将として南朝側の刺客と斬り合って絶命した。
三男・宗匡は、兄・貞載の死後、立花姓を引き継ぎ、立花宗匡となった。宗匡が実質、立花の始祖と言える。
四男(庶子)即宗は、貞載と共に新田義貞と手を組んだ。貞載が北朝に寝返って以降も即宗は南朝側に在って、上野で戦死したか人生を全うした。
六男・氏宗はよく分からない。

七男が、第8代当主・大友氏時(1330年頃の生~1368年)である。

ということで、大友貞宗は意を決して鎮西探題・北条英時の敵となる。少弐貞経、島津貞久も討幕側に立ち、支えとなっていた御家人三人衆が揃って敵方となったことで鎮西探題は大敗。英時は自害した(1333年7月7日)。

貞宗は、豊後守護を拝命する事となり京へ上る。が逗留先の京の宿で急死。これが「北条英時の祟り」と云われた。

父・貞宗に代わり、豊後守護職となった氏泰は、次兄・立花貞載の補佐を受けながら成長していく。やがて、九州からの再起を図る足利尊氏に気に入られ偏諱を受けて氏泰を名乗るようになったとも云われている。

「建武3年2月15日付足利尊氏御判御教書案」に於いて明らかになっているのは、尊氏は、大友氏を重要な協力者と位置付けていて、氏泰とその兄弟を尊氏の猶子に迎える主旨の御判御教書を与えている。故に、氏泰と氏時は特に尊氏に寵愛され、源氏を名乗ることも許されている。氏泰は豊後以外に、肥前、豊前、日向の守護に、1348年に兄から家督を譲り受けた氏時は、豊後・豊前・肥後・筑後の守護となっている。

しかし、氏時にとっては家督を継いだその時が観応の攪乱期である。此処は何とか氏族を統べて乗り切っていくが、一度は南朝に降伏して下った。しかし、北朝に帰順し直して足利義詮の信を得た。

菊池一族との戦いを繰り広げていた氏時は、少弐頼尚と共に挑んだ筑後川の戦い(1359年)で大敗北を喫して、少弐氏同様に大友氏も勢いを失う。

氏時は1368年に世を去るが、嫡男・大友氏継(第9代当主・1350年頃の生~1401年)は南朝に与する。これに異を唱えた次弟・大友親世(第10代当主・1350年頃の生~1418年)は父の遺志を継ぎ北朝方に留まり、実質上の家督者となった。

大友氏族は分断し兄弟で争うことになったが、氏継と親世の子・孫たちが交互に当主となり決定的な内乱には至らなかった点に於いて、少弐氏の末路とは違っていく。

少弐氏の末路についてはまた別の機会に書きます。

足利の家内改革

室町幕府の脅威

足利家は、尊氏・直義の兄弟対立や執事の高氏の反乱など、内部抗争が繰り返されたことによる反省を込めて「家内改革」に着手する。

京・室町に幕府本拠を移し、鎌倉は坂東の抑えとした。
家督譲位に預からなかった兄弟達は分家させるか、出家させることを徹底する(つまり、家を追い出す)。正に、天皇家の仕組みを導入した。足利系列の武家の殆どがそのやり方を慣習化させていく。

尊氏は、弟・直義との兄弟対立の伏線上で三男の義詮を将軍職に据え正式に家督を譲り、四男の基氏を鎌倉公方として分家させます。(長男・竹若丸は後醍醐帝との戦いの中で殺され、次男・直冬は、弟・直義の養子に出したが敵となった故に殺害した。それ以外の者達は出家させたり、養子に出した)。

多くの子を持ちつつ本家は核家族化して分家を増やした。更に、養子縁組先を公家や武家に幅広く求めて、特に大寺院に出家させて宗教宗派という後援組織を持った。これは、西(幕府)と東(鎌倉)の政に対して、公(公家、朝廷)・教(宗教宗派)にそれぞれ支持させるという三位一体方式?政教分離どころか、大きな癒着となった。

当時の権力者なら誰でも考えた仕組みでしょうけど、人脈と金脈と由緒正しい血脈が無ければなかなか出来なかった仕組み。これが出来たのは天皇家だけ。なので、この仕組みを成そうとした清和源氏・義国流の足利家は、正に、天皇家そのものだったと言えなくもない。

義詮の長男千寿王は早世(足利家の長男の早死には運命?)。次男の足利義満が家督を相続して第三代将軍となる。三男満詮は、義満に引けを取らない優秀な人だったらしいですが、軍政両面で義詮、義満を支えた後に出家。他の子ども達も、早くから建仁寺や南禅寺、東寺などへ出家させます。また鎌倉公方へは、尊氏の弟・基氏(初代公方)の子である足利氏満が就きます。

第三代将軍となる義満が生まれたのは1358年。その頃の爺様(尊氏)や父上(義詮)と孫が、自分たちの先祖をどのように語り合っていたのかは分かりませんが、「400年も溯れば我らも天皇家」。という考えを持ったとしても何ら不思議な話では無い。義満が生まれる400年ほど昔には、平家の将門だって天皇に成り代わろうとしたのだから。

鎌倉から畿内(京・六波羅~福原)、そしてまた鎌倉へ。新鎌倉幕府を開いた足利家は京へ向かい、室町に幕府を移した。天皇御所の目と鼻の先に幕府中枢を置いた足利家に対して、朝廷側は、平家時代以上の脅威を感じたに相違ない。
将門は坂東で新天皇を名乗り、清盛は(京に近いけど)現在の神戸市に福原京を創ろうとした。しかし二人は、天皇家が在る京・中枢に幕府を置こうとはしていない。京のど真ん中に幕府を置いて政を執ろうとしたのは、足利家が初めてと言って言い過ぎない。そして、足利姓を名乗っているが彼らは源氏。天皇直系の血筋です。

足利家の主が、将門のように「新たな朝廷」「新たな天皇家」を京で言い出せば大混乱を招きかねない。今の時代こそ「万世一系の皇統」とか天皇家は絶対の存在であるように云われるが、南北朝に大分裂したり、天皇に弓引いた者も一人、二人じゃ済まなかった時代であり、朝廷側が、足利・室町幕府を脅威に感じたのも当然です。

足利家の動静に注目が集まる中、持明院統(北朝)の公卿・日野家の評判の美女・日野業子と義満の縁談話が持ち上がる。1375年。当時17歳の義満は、7歳年上で24歳の業子を姉さん女房とした。
義満と業子は子宝を授かることは無かったが、義満は、大そうな美女と云われた業子をことのほか愛した。1405年、業子が54歳で生涯を閉じると義満は大いに悲しみ、業子にうり二つの姪の日野康子(当時36歳)を継室に迎える。しかし、康子とも子宝に恵まれず1408年に義満は薨去する(50歳)。

因みに、義満以降の足利家とも日野家は婚姻を繰り返し、八代将軍義政の正室となる日野富子は、応仁の乱に於ける重要人物の一人ともなります。という話はさて置き、正平一統終焉の話に少し触れて今回を〆ます。

北畠の権威

村上源氏のプリンス・北畠顕家が南朝・後醍醐帝に殉じ敗死したことも大きく影響して足利幕府は誕生した。しかし、尊氏は計らずも顕家とは敵味方として戦うに至ったが、源氏長者格の北畠家に対して敬いもしていた。故に、北畠家を追い詰めることも出来なかった。
顕家の父・北畠親房(1293年~1354年)が領した伊勢は、顕家の三弟・顕能が従四位上・伊勢守となって譲り受けるなど、北畠の家格(権威)は何も揺らがず一定の勢力を保ち続けていた。顕家や後醍醐帝亡き後も、南朝・北朝の睨み合いが続いたのは、親房が伊勢を顕能に任せて南朝中枢で政務を執っていたことで、南朝を支持する者が後を絶たなかったことに因る。

知略家の親房は、直義派を味方に引き入れた。更に、顕家を慕っていた徳寿丸改め新田義興、父・義貞や兄・義顕亡き後の新田家の家督を継いでいたと考えられる新田義宗、義貞の弟・脇屋義助の後を継いだ脇屋義治、そして得宗家再興を諦めていない北条時行、更に、楠木正成に従っていた者たちも親房の下に集結して親房の指示を仰いだ。
尊氏が京を不在にしている間に南朝方は北朝に対して和睦を撤回。嘗て、顕家と共に尊氏と戦った経験を持つ後村上天皇(=義良親王)は、時機到来とばかりに、弟・宗良親王(=南朝方の征夷大将軍)を旗頭として尊氏追討の号令を発する。

武蔵野合戦(1352年閏2月~3月)~正平一統の終焉

新田義興・義宗兄弟が率いる新田勢は、北条残党を率いた北条時行と上野国で合流。鎌倉街道の下道を南下して進軍する。信濃では、直義派の重鎮だった上杉憲顕軍と宗良親王率いる南朝の征夷大将軍が合流し、新田・北条軍の後を追うように鎌倉へ向かった。

尊氏は、南朝軍の鎌倉侵攻を防ぐべく武蔵国狩野川に布陣した。ところが、それを見透かした新田・北条勢が迂回して一気に鎌倉を占領。すぐさま鎌倉奪還を目指して足利勢が取って返し、現在の小金井市である金井原から現府中市である人見原にかけて新田・北条勢と足利勢が激突(人見ヶ原の合戦)。この戦では、新田・北条軍が足利軍を後退させることに成功した。が、新田・北条陣営も相当な損害を出している。宗良親王軍の到着を待って鎌倉攻めを行っていたらもっといい結果になっただろうに新田・北条方は無理をし過ぎたかもしれない。

老練という域に達していた尊氏は、武蔵国石浜に撤退し勢力の回復を図る。新田義宗は異母兄・義興と分かれて笛吹峠に陣を敷き、宗良親王の到着を待っていた。が、それを察知した尊氏率いる足利本隊が義宗を攻撃。高麗原(現日高市)・入間河原(現狭山市)・小手指原(現所沢市)と三ヶ所で合戦となり何れも足利軍が勝利。義宗は越後方面へ敗走して、宗良親王は、その報を受けると信濃方面へ引き返した。助けに行くのではなく引き返すあたりが何とも・・・

一方、義興と北条時行は、脇屋義治と合流し三浦氏の支援を受けて再度鎌倉を攻撃。鎌倉に入っていた足利基氏軍を破って鎌倉占領に成功する。しかし、合流する筈の義宗勢の敗走と大将軍(宗良親王軍)のUターンを知り、このままでは鎌倉を包囲されて全滅させられるのも時間の問題と判断。鎌倉を脱出すると相模国河村城に籠城。しかし、多勢に無勢。鎌倉を奪還した尊氏軍はそのまま一気に河村城を落とす。義興と義治は、義宗と同じく越後へ逃亡。しかし、北条時行は遂に捕縛され、翌1353年に龍ノ口にて処刑された。

坂東での南朝方および直義派の勢力は急速に衰退し、以後、それらの勢力の手に鎌倉が渡ることはなかった。 尊氏は、鎌倉公方基氏を補佐する執事職に畠山国清を任命し、以後、足利基氏・畠山国清の体制で鎌倉府が運営されていった。

一方、畿内では、北畠親房の指揮の下で、楠木正儀・千種顕経・北畠顕能・山名時氏を始めとする南朝軍が京へ進軍。七条大宮付近で足利義詮・細川顕氏らが迎え撃ち合戦に及ぶが、北畠軍が圧勝し義詮は近江へ敗走する。

北畠親房は准后に任じられ、自身17年ぶりの京への凱旋を果たす。親房は、北朝方の光厳・光明・崇光の三上皇と皇太子直仁親王を拉致すると、本拠の賀名生へ軟禁する。また、後村上天皇は行宮を賀名生から河内国東条、摂津国住吉、さらに山城国男山八幡(現京都府八幡市の石清水八幡宮)へ移された。

近江へ敗走した義詮は、近江守護・佐々木道誉の支援を受け各地へ京奪還を号令。四国の細川顕氏、美濃の土岐頼康、播磨の赤松氏、また直義派だった山名時氏や斯波高経らが呼応した。大軍勢を率いた義詮京奪還に成功すると、後村上天皇の仮御所があった男山八幡を包囲する。2ヶ月にも及ぶ兵糧攻めを行い後村上天皇はたまらず脱出。男山八幡は陥落した(八幡の戦い)。
この事態を受けて足利尊氏・義詮は観応の元号復活を宣言し、正平一統は僅か4ケ月で瓦解した。

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