筑後川の戦いが齎した九州の武将諸事情(1)

時を紡ぐ~Japan~

少弐頼尚の末路

少弐頼尚(1294年~1372年)は北部九州を代表する武将である。

そもそも、頼尚が(鎌倉幕府)倒幕派に与した大きな理由は、先祖(武藤氏当時)が、太宰少弐として九州へ下校した時より長年努めて来た肥前守護職と豊前守護職を、北条・鎌倉幕府が勝手に取り上げた事に対し(豊前は1279年、肥前は1281年に北条氏が簒奪)、それを元に戻す約束事があったからと考えられる。ところが・・・

倒幕を成した時、豊前守護職は少弐氏に戻されたが、肥前守護職に任じられたのは、豊後守護・大友氏泰(1321年~1362年)であった(1334年)。豊後から肥前は筑前や筑後を挟み飛び地である。何故、大友なのだ?という強い不信感が生じたと思われる。恐らくそれを決めた足利尊氏からしたら、大友は、少弐と縁戚関係にあり我慢の範囲だろうと軽く見ていたのかもしれないが、頼尚にとっては大いに不満の残る”恩賞”であった。尤も、氏泰は尊氏お気に入りの年少当主であり、当時も、尊氏の落胤という実しやかな噂も立っていた。因みに、氏泰と、末弟の氏時(後述)は、共に足利尊氏の猶子となっている。

翌1335年に、大友氏泰には肥後の守護職も与えられるが、肥後は菊池一族の本領であり、征西府の拠点と化していた。また肥後南部には阿蘇氏も健在で、北朝側の肥後守護職は有名無味である。

足利尊氏が後醍醐天皇に反旗を翻して京を追放され九州へ下向すると、権威に対して不信感を持っていた頼尚は、尊氏に賭けてみた。そして、1336年の多々良浜の戦いで尊氏を勝利に導き、共に上洛。尊氏復活劇に一役も二役も買った。

ところが、尊氏が見返りとして与えた”恩賞”は、有名無味の肥後守護職。まるで、それを実りあるものとしたければ菊池を倒せと命じているようなものである。頼尚が欲したのは肥前守護である。まぁ何も無いよりはマシであり、菊池打倒は少弐一族の悲願でもある事から将来を見据えて九州へ戻った。

ところが、九州へ戻った頼尚を待っていたのは、尊氏の一方的な差配であった。それまでの鎮西探題に代わり九州探題を設置。その初代に、足利一門の一色範氏を任じていた。そこまでは許せるとして、範氏に対しても肥前守護職(大友と半国守護)を与えたことに対し強く憤った。しかも、大友氏泰に対しては実りある日向の守護職が与えられた(1335年/約1年は細川頼春との半国守護、以降は単独守護)。

肥前は戻らず、肥後は名ばかり、筑前・豊前・壱岐・対馬のみが守護として認められた状態では何も変わらないどころか無駄戦で余計に損した感もある。少弐氏側としては、足利尊氏という男にいいように騙され利用されただけの最悪の結果と受け取った。元寇でも働きに対する報いが少なく、尊氏を救っても報いがない。少弐氏族には坂東方に対する不信感が募った。此処で頼尚が何の態度も示さず文句の一つも言えなければ、一族の長として面目が立たない状況にあった。

少弐氏族にとっては、そこまでコケ・・にされた事に対してケツまくって、南朝に与することが最も正解だったように思えるが、頼尚は南朝とは手を組まず、尊氏の弟・足利直義を支持。直義の猶子である足利直冬が九州へ逃れて来ると(1349年)、頼尚は尚冬を娘婿とした(1350年)。恐らくは、この事にも逆切れした尊氏は、肥後の守護も一色氏に付け替えた。

1346年に九州探題を譲り受けていた範氏の嫡男・一色直氏は、肥前・肥後に加えて日向守護職(大友と半国守護)、更には少弐の本領である筑前守護まで与えられた。

尊氏と袂を分かったことが原因だが、少弐一族にとってはこの上ない屈辱的な仕打ちであり、打倒・尊氏に躍起となった。が、本来の敵は南朝の雄・菊池一族である。この強敵に対して、多々良浜の戦いで大勝利を収められたのは、その時点では足利尊氏を支えようとした少弐・大友・島津、更に大内氏はじめ中国勢などが結束出来たからである。

力を盛り返し一枚岩の菊池氏に対して再度勝利するには、その時と同様に結束する以外になかったが、大友は家内が南朝・北朝に分裂し、大内も同様に分裂。そして何よりも少弐と九州探題が激しく対立。これでは勝負にならないのである。

一色氏に強く反目する少弐一族は九州探題を攻囲して、一色父子は命からがら博多を脱出して長門へと逃れ、範氏はそのまま京へ向かって事実上引退した。直氏は、尊氏から強く叱責されて(半ば脅されての事でしょうけど)九州へ戻って復権を試みたがすぐに敗北して京へ逃げ帰った。

九州探題がいなくなった九州では、南朝の征西大将軍・懐良親王を補佐する菊池武光が断然勢力を伸ばし、北部九州勢を相手に大戦に臨んだ。筑後川の戦い(1359年)である。そして、菊池武光が大勝利を収める。

頼尚の嫡男・直資が討死するなど大敗北を喫した少弐氏の衰退はこれで終わらず、2年後の1361年になると更に悪化。自分達の氏姓の由来であり(太宰少弐の役位を世襲していたことで少弐氏名乗り始めた。参照記事)力の源であった大宰府(有智山城)を奪われる。

実は、筑後川の戦いの前年(1358年)に、一色氏に代わる九州探題として、足利の大番頭・細川家の細川繁氏に白羽の矢が立って相当期待されていたようですが、九州へ下向する前に領国である讃岐で急死(1359年)。この時、(九州の南朝勢力と対峙する為の)大軍勢を整えつつあったと云われ、この繁氏の遠征が成されていたら、その後の少弐氏の運命も変わっていたかもしれないが、一色を追い出した張本人だから、細川に敵視されていた可能性もありますね。

亡くなった細川繁氏に代わる九州探題には斯波家の斯波氏経(1325年頃の生~)が任じられた。筑後川の戦いで南朝側が大勝利したことに因り、北朝側はかなり戦力を落としていた。氏経は、本来であれば九州探題として博多へ入るべきところだったが、一色氏を追い落とした少弐氏の動向が気掛かりで豊後へ上陸。兄・氏泰より豊後守護職を譲り受けていた末弟・大友氏時(1330年頃の生~1368年)を当てにして、豊後高崎城に入城した。因みに、兄・氏泰が1362年に病没。未婚だったとも云われる氏泰は跡継ぎを生していない。故に、豊前・日向・肥前の守護職も家督と共に氏時に譲与された。

少弐氏、松浦党(肥前)、島津氏(薩摩)、相良氏(日向)など数える程度になった九州に於ける北朝方に加えて、肥後国内で菊池氏と付かず離れず、時には対抗していた阿蘇氏に対しても、氏経は、南朝軍との戦いに参じよと号令を発する。

しかし、1362年10月の長者原合戦でも北朝軍は大敗を喫して、大友氏時は南朝軍の捕虜となり、少弐頼尚は土佐に落ち延びた。氏時の嫡男・大友氏継(1345年頃の生~1401年)と共に大内弘世を頼って周防に退いた斯波氏経はそのまま帰京。1365年頃に再起を諦めた氏経は出家。嵯峨に隠棲したと伝わっている。

少弐頼尚は土佐へ逃げ延びた。何をやっても上手く行かなくなった頼尚は、次男・冬資へ家督を譲り上京。そのまま4年間の隠居生活を送った京で亡くなった。

少弐冬資の末路

新たな当主となった少弐冬資(1337年~1375年)は、父・頼尚の代には守護職対象地であった筑前・豊前・肥後・壱岐・対馬の何処の守護職を受けた形跡がない。つまり、本来の居城もなく、守護職などの役位もなく、単なる豪族に過ぎなくなっていた。モチベーションは高まらないよね・・・

斯波氏経の出家隠棲に伴い、新たな九州探題には備中及び備後の守護・渋川義之(1348年~1375年)が選任された(1365年)。この事に関しては、第2代将軍・足利義詮の正室渋川幸子が甥にあたる義之を強く推挙し、義詮が渋々これを飲んだという逸話がある。

ところが、渋川義之は九州下向を試みるものの、南朝方が待ち構えている中へ入っていくことを恐れるあまり、5年間一度も行けず終い。1369年に第3代将軍に就いた足利義満(1358年~1408年)によって更迭された。(実際は、管領・細川頼之(1329年~1392年)が取り仕切った事だが)失意のうちに隠居に追い込まれた義之は、その5年後にまだ若くして死去する。

北朝方に踏み留まった少弐冬資は、将軍・義満に対して、九州探題の力不足による弊害を強く訴える。そしてもっと力を持つ者が九州探題として派遣されることを強く要請した。これも実際は、管領・細川頼之が取り仕切った事だが、1370年/応安3年に、新たな九州探題として白羽の矢が立ったのが駿河と遠江の守護・今川範国の次男で、山城の守護職だった今川了俊(1326年~1420年)。足利一門の中でも勢いがあった今川家の者であればと冬資は了俊派遣を歓迎した。

九州探題・今川了俊の赴任の旅は何とも華やかなものとなる。九州探題なのに、足利義満は、了俊に備後と安芸の守護職を与えた。九州入りのお供は、備後の長井貞広、安芸の熊谷直明吉川経見毛利元春らが付き従った。更に、石見・周防・長門の守護職である大内弘世(1326年~1380年)・大内義弘(1356年~1400年)父子も露払いの如く参戦する。

山陽道の主だった国人衆や守護大名迄が加わった「九州探題軍」は大軍と化し、故に、それまでは九州探題とは一線を画していた豊後・大友氏から大友親世(1350年頃の生~1418年)が馳せ参じた。

大友家は、家督を継いだ長男・大友氏継が南朝方に付いていた。これに対して、次男・大友親世が北朝方に付いたわけだが、これは恐らく氏時の遺言による生き残り策だったのであろう。

同じようなことは少弐家でも起こっていて、少弐冬資の次弟・少弐頼澄(1338年~1378年)は南朝方に与していた。

また、少弐冬資と大友親世は、それぞれ大内義弘の妹を正室としていた。つまり、冬資・親世・義弘は義兄弟の関係でもあり、その事で北朝側に参じたとも言える。因みに、宗像大社の大宮司・宗像氏重にも大内弘世は娘を嫁がせている。大内は、婚姻によって北部九州進出の地固めをしていたのでしょう。

薩摩の島津も了俊の下へ参じた。引き連れて来た備後や安芸の国人衆は兎も角として、相応の権力者である各地の守護職達が自分の下へ参じた事に対して、了俊はさぞや気分が良かったでしょうね。そして己惚れていく。

了俊は、九州探題軍の大将に大内弘世と共に冬資を指名。過去の九州探題と少弐氏の経緯に対してこの配置は異例の抜擢とも言えるものであり、この上ない名誉として冬資は深く感じ入ったに相違ない。

1372年、先ずは、南朝側に奪われていた筑前・多良倉城と鷹見城を奪い返す攻撃が開始される。しかし、弱体化していた少弐軍は、奪い返す先が元々自分達の城であったのにそれを果たせずに敗退する。少弐軍が敗退した後、毛利・吉川・長井ら中国勢が攻め掛かり両城は陥落する。更に、南朝征西府が政庁化していた大宰府や、菊池武光が本拠地化していた高良山も北朝軍が奪還に成功したが、大将軍にも関わらず精彩を欠いた少弐一族にとっては辛い祝宴であった。

恩賞もなく、大宰府にも戻れず大役も外された。その後は、宗像大宮司家の社領に対する狼藉を働くなど冬資は荒んでいく。了俊は、最初は諫めていたが、その内、冬資の素行の悪さを理由に筑前の全てを九州探題直轄にする事を公言。自らが、筑前守護となる。九州探題在任中の了俊は、その他、筑後、肥前、肥後、豊前、日向、大隅、薩摩、更に、備後、安芸、遠江、駿河の守護も兼ね、押しも押されぬ大大名として君臨した。了俊の兄であり、当時の今川家の当主・今川範氏は影が薄かった。が、範氏の子孫である今川義元が天下に号令を!と夢見たのは、今川氏族で最も成功した了俊を凌ぎたい気持ちもあったのかもしれない。

了俊によって何もかも奪われて行った冬資率いる少弐氏族の多くは、冬資を見限り、弟・頼澄を新たな当主として南朝方に与する姿勢を鮮明にしていく。

1375年、了俊率いる九州探題軍は、肥後水島(現在の菊池市七城町)に布陣。菊池氏の本拠地を攻囲する。島津氏久(1328年~1387年)・大友親世も参陣した。が、冬資は、召集要請を蹴って不参戦の姿勢を見せた。少弐の事情として、兄弟対決を避ける為であり、且つ、既に少弐氏族の総意として南朝側に立つ構えであり、冬資が北朝側に布陣しても多くはついて来ないことが予想された為である。

それでも了俊は、冬資の参陣を強く求め、その説得を島津氏久に命じる。氏久の説得によって、冬資は仕方なく渋々と水島に参陣したが、その歓迎の宴の最中に了俊の末弟・今川仲秋によって斬殺された(水島の変)。

この事件によって、少弐の家督は頼澄が継ぎ、少弐氏族は総じて南朝派となる。

島津氏久の男気

島津氏久は、水島の変で大いに面目をつぶされた。島津にとって、少弐氏・大友氏は共に坂東に在した御家人であり、九州に下向して切磋琢磨して九州に於ける『御家人三人衆』として生きて来た仲間である。その大事な仲間であった少弐氏の当主である冬資を、自分が説得して水島に参陣させたにも関わらず、それを命じた了俊が、弟・仲秋に指示して誅殺したのである。

怒り心頭に発した氏久は、了俊と仲秋を罵倒し陣を離れて帰国した。慌てた了俊は、氏久に筑後守護を与えることを条件に帰陣するように伝えるが氏久は拒絶。九州探題と島津は敵対する事になる。

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