民に対して、「栄えて見せろ」と鼓舞した織田信長。
民に対して、「儂の栄を見よ」と誇示する豊臣秀吉。
民に対して、「共に栄えよう」と手を取る徳川家康。
「織田信長」誕生前後
太田牛一の『信長公記』に依れば、織田弾正忠信秀(織田守護代家=織田大和守家に仕える支流の一つに過ぎなかった弾正忠家にあって、従五位下(没後、贈従三位となる)備後守且つ三河守に上り詰め、その後を継いだ信長には大きな礎となった人)の嫡男・吉法師が、『織田三郎信長』として元服したのは天文15年(1546年)13歳の時(※「上総介」は私称=勝手に名乗った官位であって正式な授与位ではない)。
それよりも4年ほど早い天文11年(1542年)の8月上旬。今川義元と織田信秀が激突(「第一次小豆坂の戦い」)。太田牛一の記述では、この時、三河安祥の城は織田信秀が守っていた。同じ三河の岡崎城に在った安祥松平氏当主・松平広忠が織田信秀に安祥城を奪われたのは天文9年(1540年)の「第一次安城合戦」。この安祥城を奪還するべく、今川に助勢を願い出た。それが実現しての小豆坂の戦いであったが、この時も、後の桶狭間の時と同様に、今川が大軍勢、織田は随分と少なかった。が、太田牛一曰く「誠に激しい合戦であった。」が、小豆坂七本槍(下方貞清・佐々政次・佐々木孫介・中野一安・赤川景弘・神戸市左衛門・永田次郎衛門・山口教継???八本槍?)とか、信秀と兄弟達(信康・信光・信実・信房ら)の活躍で織田が勝利した。
因みに、信長の初陣は翌天文16年。吉良家の要請を請けた斯波家が、織田家中へ三河出陣を命じ、駿河・今川義元と対峙した(実際の戦は、天文17年)。この時の、いわゆる「第二次小豆坂の戦い」へと繋がる一連の出来事が、信長と家康、そのて今川義元との因縁の縮図であった。因みに、第二次合戦は織田は大敗し、改めて今川の強さを思い知らされ、その恐怖が桶狭間前の籠城論や恭順論に繋がった。
三河内紛
広忠の家督相続迄と阿部定吉・正豊によるクーデターの謎
天文年間の三河・安祥松平氏は内紛が絶えなかった。当時の当主・松平信忠の統率能力の低さに原因があると云われている。早々に隠居に追い込まれた信忠の家督を継いだのは嫡男・松平清康。若くして家督を継いだ清康はその重圧を跳ね返そうと頑張った。そして岡崎(当時の岡崎松平氏)を制圧し、安祥城と手に入れた岡崎・山中城、更に新たに築城した岡崎城を基盤に西三河を掌握する。ところが、欲を掻き過ぎた。
斉藤道三と争っていた織田信秀の留守の隙を突いて尾張へ侵入(天文4年/1535年)。尾張・守山城を攻略しようとしたが、内紛に遭い陣中死(重臣・阿部定吉の嫡子・阿部正豊の私怨による誅殺。とは云われているが、その後の経緯を見れば、この事件の真相は全く以て良く分からない)。25歳で世を去った。実際に手を下したことは間違いない阿部正豊は自害。定吉も自害しようとするが、何故か、それを周囲に強く制された。
清康の後を継ぐのが嫡男・松平広忠で当時は10歳になるかならないかの頃(まだ元服前で、幼名は家康と同じ「竹千代」紛らわしいので広忠で)。単純に言えば、周りの大人達からは「小僧」扱いだった広忠はすぐに大叔父の松平信定(松平信忠の三弟)に岡崎城を奪われる。広忠は、父の仇である阿部正豊の父・阿部定吉に救出され、伊勢を領していた東条吉良家当主・吉良持広の下に匿われる。そこで元服し、烏帽子親となった持広から偏諱を受けて「松平二郎三郎広忠」となった。ところが翌年、吉良持広が急死。身柄の安泰が危うくなった広忠は、再び定吉らに救われて駿河・今川義元の下へ向かった。今川義元の庇護を受けた広忠は、今川軍の助勢を受けて岡崎城奪還に成功する(天文6年)。此処から、三河安祥松平家は、今川家(義元)への忠義を基本にした。
その後、阿部定吉を筆頭家老に据えた広忠は様々な内紛と対峙してゆく。尚、定吉は、嫡男・正豊の他に子を生さず、政務に精を注いだが、阿部の血縁者は重宝されていたようで、第三代将軍・家光の代の老中・阿部重次などが活躍しているし、後には、様々な国で藩主を任されている。故に、余計に、清康殺害事件は謎である。
織田清秀 vs 松平広忠
天文10年(1541年)。三河岡崎城主・松平広忠と、形原城主・松平家広の二人に対して縁談が持ち込まれる。縁談を持ち込んだのは、尾張(の知多半島)と三河(刈谷)の両国に勢力圏を持っていた水野忠政(尾張・緒川城主、三河・刈谷城主)。織田信秀の協力者として度々三河攻略に参加していたその反面、実の妹が、松平清康の実母であるなど、三河・松平家との縁も保持していた。この時も、信秀に協力しつつ、二人の娘(於大を広忠、於丈を家広)を松平に嫁がせるという保険を掛けながら世渡りしていた。戦国時代の武家は、このようにして敵味方を玉虫色にして家を存続させていた。
この婚姻の仲介者は、松平清康の次弟・松平信孝(三木松平家当主)。つまり広忠の叔父。信孝は、駿河・今川家に匿われていた広忠の岡崎帰城を支援した一人で広忠から見たら恩義ある人。だったが、それ故に発言力もあり、広忠に対する接し方も著しく礼節を欠いていたらしい。そのことに対し煙たがる家臣も少なくなかった。譜代の家臣団と血族である叔父とどちらを採るかと迫られた広忠は家臣団を選ぶ。そして、天文16年(1547年)の年賀挨拶の名代として駿河へ向かい留守していた信孝の妻子や家臣を岡崎から追放する。慌てた信孝は、関係修復を申し入れたが広忠と家臣団は折れることはなかった。
この一件で最も怒り心頭に発したのは、当時、水野家の当主となっていた於大の方の異母兄・水野信元。と言うか、一連の流れで見れば、水野家はやっぱり織田寄りの姿勢にあり、この婚姻をきっかけにして松平氏を今川から引き離そうとしていたように考えられる。そして、その裏工作に一役買っていたのが信孝だった。が、それを見抜いた広忠の家臣団は、広忠に対して信孝との縁を切るように進言したのでしょう。
つまり、松平広忠率いる安祥松平氏は、この時点で今川家との関係を重視した。ところが、政略婚姻のもう一方である松平家広率いる形原松平氏は織田を選んだ。婚姻によって松平氏と同盟していた水野氏は、安祥松平家に対しては同盟破棄し形原松平氏と共に織田と同盟する。そして、松平広忠は於大の方を離縁。命は奪わずに水野家へ還した。
広忠は、今川家との関係をより強く濃くする為に嫡男・竹千代(家康)を人質として駿府へ送る。ところが、その道中で竹千代の身柄は織田方に奪われ、織田信秀の下へ連れて行かれる。(参照記事)
これが合図となったのか、先述した「第二次小豆坂の戦い」(天文17年3月19日/1548年4月27日)となり、織田・今川双方が三河へ入って来る。これに先駆けて、信孝軍は岡崎城を攻撃(4月15日)。しかし、広忠の勝利に終わり信孝は敗死。首を取られた。
6年前(天文11年)の戦いで辛酸を舐めさせられた今川義元は、第二次会戦では圧倒的な力の差を見せつけて織田軍を完膚なきまでに叩きのめした。この合戦が初陣だった織田信長はそれを勝利で飾ることは出来ず逃げ帰った。
一方、広忠も心労が重なり病の床に臥せって、そのまま同年の内に亡くなった。嫡男・竹千代の身は尾張で風前の灯火状態であり、岡崎城の主(広忠)は亡くなり、安祥松平氏の家臣団は大きく動揺。このままでは、松平が織田に寝返ることも有り得たが、翌天文18年に今川勢は、安祥城を攻囲し、城を預かっていた信秀の庶長子・織田信広の身柄を拘束。そして、参照記事のように竹千代と信広の人質交換となった。
木下藤吉郎と松下家
松下家、遠江へ
此処からは、前回の遠江曳馬城主・飯尾賢連の話に続けることになりますが、賢連の没年は分かっていない。家督を譲った後かもしれないし、亡くなったので家督が嫡男・乗連に譲られたのかもしれない。二人が揃って桶狭間へ向かった可能性も無くはない。兎も角、桶狭間の合戦が始まった時、少なくとも家督者であった飯尾乗連は今川軍に帯同した。よもや負け戦になるとは思ってもいなかったでしょう。
遠江に於ける飯尾氏のことは大体のところ記録に残されている。が、元々三河にあった飯尾の本領がどうなったのかはよく分からない。飯尾氏の寄子(主従関係)だったと云われる松下長則の飯尾家内での役割は、飯尾の三河本領を守る代官的な立場だったのではないですかね。でも、いつの間にか松下家は三河ではなく遠江に行ってしまった。その経緯は分からない。
藤吉郎時代の秀吉は、少年期に尾張を出て遠江へ。そこで松下家に下人として拾われた(雇われた)ということになっている。だから、藤吉郎が遠江へ行くまでには、松下家も三河から遠江へ行っていなければ辻褄が合わない。なので、時期は分からないけれど、恐らく、三河が松平の内紛が続いたり、織田と今川の争いの場となったりする中で、飯尾氏の領地は何らかの事情で守ることが困難となった。本来なら、「何としてでも守り通せ!」と命じられて”城を枕に討ち死に”というパターンとなるところですが、松下長則はその役目を解かれて遠江へ。そして、飯尾領の行方も分からない。ま、これでいいか。
今川に於ける松下家
今川義元の印象は、何故か公家的なイメージで描かれることが少なくない。何らかの小説とか映画の影響でしょう。今川家は、元来源氏本流の武闘派です。
遠江に移った長則は、飯尾の推薦もあったのか今川家の槍術師範を務めたとも云われる。義元は、長則の秀でた武芸の才を気に入っていたのでしょう。そして或る日、或る時、長則は、頭陀寺城(現浜松市の頭陀寺の門前にあった城)の城主となった。という事は、頭陀寺(真言宗の古刹)を守る寺侍(後の寺社奉行のようなもの)になった。
今川家とお寺さんの関係で言えば、義元の軍師として名高い太原雪斎は臨済宗の高僧です。
今川家内で隠然たる力を保有した雪斎は、今川領内を臨済宗を中心とした寺社統制政治を展開したと云われますので、真言宗の頭陀寺は、臨済宗から見たら”監視対象”のお寺さんだった可能性もあります。兎も角、松下長則は、規模はどうあれ城主を任される身分になったことに相違ない。尤も、主家筋の飯尾氏の居城・引間城の支城と言うか「砦」程度の城だったとはよく言われる話。
藤吉郎と松下家
藤吉郎が、織田信長に拾われるのは1554年というのが定説。年齢で言えば17歳頃。それまでの何年を松下家で奉公働きしていたのかは全く不明ですが、先々で、之綱を家臣に迎え入れますので、之綱と、ある程度仲良くなる為の十分な時間を過ごしたと考えるのが妥当。少なくとも、1年、2年ではなく、3年から5年くらいだと推測します。
どれ程気心が知れようと、藤吉郎から見て之綱は城主の嫡男、「若殿」若しくは「若様」と呼ぶ対象。そのように立場の違いはあったが、それを越えて、藤吉郎は之綱や長則から、相当よくして貰ったと云われる。
さて、藤吉郎がどのようにして松下長則に取り入ったかですが、多分、長則に直接奉公を願い出たのではなく(まして仕官ではない)、頭陀寺の小僧になって何とか食いつないでいたのでなかろうか。しかし、坊主になる気など全く無かった。そこで、頭陀寺の僧侶か関係者の誰かがお城で奉公出来るように根回ししてくれた。それが何とかなって、お寺の小僧ではなく、お城の下働きに有りつけた、という事ではなかろうか。
そして、長則の嫡男之綱が、同い年の藤吉郎を何かと可愛がるようになった。それは武士としての仕官でも何でもないが、秀吉は後にそのように吹聴したのでしょう。(之綱は、口裏を合わせた)。
年季奉公的なものが開けた藤吉郎に、松下家を出る時が訪れます。その時には、長則、若しくは之綱から、侍になって仕えて構わないような誘いを受けていた、というのが数々の伝記の定説です。それが本当なら、普通は残ると思うのですが藤吉郎は残りません。恐らく。使用人として給料アップは提示されたが、武士としての出世の見込みを思い描けなかった。それで松下家に残るという選択肢を取らなかった。
秀吉は、家康のスパイだった?
不肖私がファンタジー的に書きますと、松下家は、藤吉郎に対して尾張へ戻らない場合は三河行きを勧めた。そして、松平家か吉良家か分からないが、其処其処で職にありつけるように、松下家、或いは飯田家の推薦状を持たせた。三河に縁があり、今川家臣となっていた飯尾家や松下家の推薦状があれば、松平であれ吉良であれ、藤吉郎を無碍には出来ない。そして藤吉郎は、三河で松平家(家康か家康の家臣団の誰か)と縁を持つ。
ファンタジーを更に付け足すと、藤吉郎を気に入った家康は、藤吉郎が尾張出身者であることを利用する。つまり、織田に拾われるような何らかの手立てを行った。そして藤吉郎はなんとか織田家の下人となれて、それ以降、目覚ましい活躍を見せる。ですが、藤吉郎の役割は松平=德川のスパイ。織田の動きを伝える役だった・・・筈が、織田家で大出世するわけですね。その大出世の最初頃は、家康の根回しがあった・・・なんてね。
というわけで、私のファンタジー的には、家康は早くから秀吉のことを知っていた。
秀吉は、大恩人の松下家への感謝だけは生涯忘れる事はなかった。それは、成功に導いてくれた織田信長に対する感謝以上のものがあり、それ故に、後々、松下之綱を重臣として迎えたく、徳川より譲り受ける。
余談:松下加兵衛之綱と柳生十兵衛三厳
因みに、之綱は、一族と考えられる松下連昌の娘を妻に娶り三男四女を授かった。そのうちの末娘、おりんが正室として嫁いだ相手が柳生宗矩です(柳生新陰流の第2世、柳生石舟斎の嫡男)。そして、宗矩と正室おりんの間に誕生する嫡男が、孤高の剣士、柳生十兵衛三厳。(※十兵衛の生誕年は1607年ですので、おりんと柳生宗矩の結婚は、之綱や秀吉が亡くなって以降のようです)。
十兵衛がどうして「十兵衛」なのかは、母の父、松下之綱が加兵衛だった事がどうやら影響している?
宗矩も新陰流第3世ですから相当な腕前ですが、十兵衛は宗矩を凌ぐ腕前だったとも噂されます。その強さは、槍の名手である松下長則(十兵衛から見て、母方のひい爺さん)の血も受けたから?
そんな事より、柳生新陰流の極秘文書・・・秀吉と之綱と家康の関係を裏付けるものがあったかも。なんてね。
桶狭間の戦い後の飯尾氏と松下氏
飯尾乗連は、吉良家から今川家に乗り換えたので当然のように永禄3年(1560年)、義元の尾張制圧戦に従軍。そして、松下之綱もそれに帯同する。
しかし、結果は誰でも知っている通り、休息中の桶狭間で信長軍に急襲されて今川義元は敗死。
この後、義元の家督を継いだ今川氏真は、取り敢えず桶狭間の労を労い、敗走して来た兵達を遠江や駿河で受け入れる。その中にいたのが国頭陀寺城主・松下加兵衛之綱。(之綱、22歳か23歳。父・長則の生存は不明。もしかすると桶狭間で討ち死に?)。
飯尾乗連も討ち死にしたと伝わっている。乗連の後を継いだ連龍は、今川氏真に対する離反騒動(遠州忩劇)の首謀者となり、最期は和睦を申し出たところを誅殺された(永禄8年/1565年)。跡継ぎが無く、飯尾氏は断絶する。この後、飯尾氏の居城だった引間城は家康の居城ともなり、『浜松城』として改築された。
主家筋の飯尾に従った松下之綱も遠州忩劇に加わった。そして、居城・国頭陀寺城は、今川軍によって焼き討ちされた。飯尾連龍が亡くなったからか、亡くなる前かはよく分からないけれど、之綱は生まれ故郷の三河へ逃れて何らかのツテで徳川家に仕える事になる。
之綱と秀吉
その後、元亀4年(1574年)の第一次高天神城の戦いまで、之綱は徳川の武将だった。
高天神城(現在の静岡県掛川市)は要害堅固な山城で、天文5年(1536年)から今川家の国衆・小笠原氏が居城とした。今川家が滅亡した後、小笠原氏は徳川の家臣となり高天神城に在り続けた。徳川家にとっては、 三河~遠江~駿河へのルートの中で重要な位置にあった。
元亀3年(1573年)の三方ヶ原の戦いに至るその前年の「西上作戦」で、甲斐・武田軍によって二俣城が落城した後から高天神城は孤立状態。しかし、小笠原氏の元々の家臣団と合わせて千名ほどが篭り、籠城していた。しかし、信玄亡き後の武田家の当主となった勝頼が2万5千とも云われる大軍を率いて襲来(1574年)いくら要害堅固な城とは言え極めて厳しい状況に陥る。
家康は、度重なる援軍要請を受けたが、本拠地の守りを薄くするわけにもいかず織田を頼るが、それでは遅過ぎた。約2ヶ月も耐えたと云われるが、高天神城は落城し、小笠原信興以下は武田勝頼に下る。ところが、勝頼は、誰一人として処刑することなく、武田に与したいものは受け入れ、徳川に戻りたい者にはそれさえ許した。勝頼とすれば、寛大な処置によって高天神城ごと武田に寝返らせれば大きな利となるという考え方だった。
小笠原勢と徳川配下の複数の将は援軍を寄越さなかった家康を見限って武田に着いた。そして、高天神城の籠城戦に参加していた徳川方の武将の一人が松下之綱だった。之綱は、武田に与せず、しかし、徳川にも戻らなかった。徳川に戻らなかった理由は、秀吉からの誘いだっだ。
織田の援軍自体は間に合わなかったが、負傷兵などの搬出は行われたようだ。その援軍の中に羽柴秀吉と改称していた藤吉郎がいた。藤吉郎は、どうしても之綱だけは救いたかったのでしょうね。之綱は、秀吉の申し出に感謝して徳川を離れ秀吉の客将・・・ではなく、家臣となった。以来、松下之綱は秀吉の下で働き、最終的には遠江久野1万6千石の藩主となります。
碌高は大したことはなくても、家康との緩衝役として常に重用され、秀吉のよき相談役的な位置付けだったとも云われます。大谷刑部同様に、戦場ではなく、裏方として活躍。周囲から信頼を得ていた人であり、之綱の死後、松下家は再び徳川方に戻ることになる。それは家康が強く望んだ事でもあった。
そして松下家は、柳生家や山内家などと婚姻関係を結んでいくのである。
という話だけど、秀吉と家康・・・何か色々と絡み合っているような・・・
完全ファンタジー 秀吉は、家康が織田へ送り込んだ007だったのか?
秀吉は、家康が織田へ送り込んだ007だった。
桶狭間の戦い(1560年6月)は勝つべくして勝ち、家康と信長の同盟は成るべくして成り、墨俣築城は一夜(短期に)建つべくして建ち、・・・。
全ては、藤吉郎が頭陀寺で飢えを凌いだ事に始まった。
家康の家臣で、家康の付き人の一人として今川家へ出向いた松下長則(頭陀寺の寺侍)に拾われ、長則の嫡男で同い年の松下之綱(=加兵衛)が何故か藤吉郎を気に入った。
歳が近い之綱はしょっちゅう家康と会っていた、若しくは小姓の一人として今川義元に認められていた。之綱付きの下人として藤吉郎も家康とは何度も会っていた。そして家康は、自分が今川から脱する為に藤吉郎を利用する事を思いつく。
藤吉郎は、松下家のみならず、家康の推薦状を持って信長の下人として奉公出来るようになる。家臣としての仕官でなければ、それくらいのことは信長も断れない。信長にとっても、家康の状況をつぶさに知る藤吉郎は貴重な存在だった。
そして、藤吉郎は、之綱や家康から齎される今川義元の状況を信長に逐一知らせる。若しくは、必要だと藤吉郎が理解した情報のみであったろうけど、それにより信長は義元の尾張通過を阻止出来るのではないかと考えるようになる。
此処で難しいのは、今川情報を藤吉郎が持って来ることは裏返せば、織田情報を藤吉郎が今川へ暴露する恐れを信長が抱くこと。しかし、それを懸念させるような愚かな二人(藤吉郎と家康)ではなかったからこそ二人は大出世する。
信長は、ここはイチかバチかで藤吉郎を信じてみることにした。それほど信憑性がある今川の上洛行軍の予定進路と日程情報を秀吉を介して松下家や家康が伝えて来た。
松平軍の通過を織田がほぼ無抵抗に許した。義元に疑われないようにする為の損害は安くなかったが、義元を倒す為には最低限必要な損害で、家康もそれを理解した戦い方に終始します。松平軍の進行状況に気を好くした義元は予定通り行軍。桶狭間の休憩も、それは急に決まったことのように思えますが、ある程度、予定の中に入っていたとも考えられます。そこが地形的に決戦場だと確信していた信長は、雨だけは予定外の幸運だったが「勝てる」と確信していて桶狭間へ進撃した。そしてその通りに勝つ。奇跡の勝利でも何でも無く、全ては、松平軍に付き従った松下長則・之綱父子から藤吉郎へ齎される「情報」によって、勝つべくして勝つ為の作戦が事前に練られてそれが功を奏した、という事。
信長が、全てをイチかバチかで判断する将と思っていないからこそ、家康は、その後は織田と同盟に至る。この同盟は、藤吉郎の功績でもあり藤吉郎の出世は此処から始まる。
蜂須賀党
秀吉に味方して、墨俣築城に大いに貢献する蜂須賀小六の蜂須賀党ですが、尾張蜂須賀と美濃蜂須賀に分断するのは小六の父、若しくは祖父の代。そして、小六の家系は美濃土岐家に仕え、それが縁で斉藤道三の家臣だった。
小六も道三配下で、織田との戦いに度々参戦。道三が織田信秀と和解して、信長を娘婿として以降も、道三が没するまでは小六は斉藤の家臣。蜂須賀党が一つにまとまる事は無かった。因みに、尾張蜂須賀は、尾張守護代(尾張岩倉城主)織田信安の家系に仕え、傍流の信秀や信長とは別系統の臣下。
道三は、娘婿の信長に期待し、それを嫌がる嫡男義龍が道三に謀叛。この戦いで道三が敗死(1556年5月)。この後、小六は尾張蜂須賀と和解して、ようやく蜂須賀は一つにまとまる。
守護斯波家を支える守護代家と信秀が対立するようになった時、尾張蜂須賀党は信秀の敵となる。そして、美濃を外れて蜂須賀党の党首となった小六もその路線を踏襲。小六が引き連れて来た美濃蜂須賀党も加わった新生蜂須賀党は、信秀の後を継いだ信長にとって国内の脅威となる。
織田信安の嫡男信賢は父と対立して疎まれ、家督は弟の信家に譲位されようとするのですが、信賢は父と弟を追放して守護代を名乗ります。
此れに対して、意外と秩序を重んじていた信長は憤るのですが、信賢は信長の弟(信行)を懐柔して信長に対抗。それを素早く察知した信長は信行を攻撃。処刑する(1557年)。
1558年の浮野の戦い~1559年の岩倉城包囲戦で信長が守護代家に連勝。信賢は尾張を追放され、尾張は信長が支配する。その時、蜂須賀党は一旦尾張を隣国三河へ移動して松平と同盟。松平の家臣となったかどうかまでは不明ですが、客将として迎え入れられる。
そして翌年、上述した桶狭間の戦いが起こる。桶狭間後に藤吉郎は侍となり、そして家康が仲介して蜂須賀党も尾張への帰参が許される。この時、小六は家康の意を汲んで、藤吉郎の行動を支える役目を負った。
美濃土岐家~斉藤家に長く仕えた蜂須賀家(美濃蜂須賀)は、美濃の情勢や調略出来る相手を多く持っています。そして、木こりであった可能性を持つ藤吉郎は、美濃にも木こりの知り合いを持っていた。この二人(秀吉と小六)が手を組めば、墨俣築城は成せます。
小六は、野武士の親分的に描かれますが、これは小説家の作為であって、蜂須賀党は野武士ではなく武家です。藤吉郎が小六を側に置いたというより、藤吉郎を小六が武士らしく成長させて行った。これは家康の意によるもの。まだまだこの時点では、藤吉郎は、まだ家康の007です。
墨俣築城は、藤吉郎を織田家中で出世させる為に、家康が蜂須賀党に全面支援させて成せたこと。
ところが、武士らしくなった藤吉郎は、家康をも恐れぬようになっていく。また、小六も家康の家臣というわけではなかったので、蜂須賀党の台頭の為に秀吉を名乗った藤吉郎を独自に利用して行く。この動きに釘をさす為に家康が送り込んだのが松下之綱。
之綱も家康のスパイとして送り込まれた?
之綱が織田家に送り込まれた時、秀吉は家康の意を汲み取り(あまり、調子に乗るなという意図)、そして之綱は以降、秀吉の監視役として秀吉家臣のフリをしていく。というような流れだと、秀吉が最も恐れていたのが家康という事の謎が全て解けますし、家康も、あまり追い詰めて秀吉が信長に全て暴露して泣き付かれるのも困るのである程度は放置した。
そして、本能寺の変が起きる。この時、明智は必死で家康を始末しようとするのですが、それは、秀吉の指示であればこれも納得出来る。光秀を懐柔した秀吉は、飼い主二人(家康と信長)を同時に殺せる絶好のタイミングを得て、本能寺の変を仕掛けた。が、信長と、それ以上に怖かった嫡男信忠までは殺せたが家康は取り逃がした。
光秀は殺せたが、秀吉の全てを知っている家康が生きている限り秀吉に安らぐ時は来ない。それで何度も和解を試み、妹や母も人質に差し出す。
家康を説得したのは、之綱や小六でしょう。「時を待った方が得策」と家康も判断して仕方なく秀吉に従う演技をした。
因みに、秀吉の弟とされる大納言豊臣秀長ですが、秀吉の同母弟という証拠は何も無い。そもそも(異母兄弟)というのが定説で、秀吉が秀長の顔を知った(二人が出会った)のは、秀吉がねねと結婚した後である、というのも定説化しつつある。
ということは、豊臣秀長も家康の007、かも?そりゃ、流石にないかもね。いや?どうだろう。
家康の陰謀・・・集大成
疑い出したらキリがないのですが、小牧・長久手の戦い(秀吉と家康の唯一の戦い)で調停役となったのは、豊臣方からは秀長、徳川方からは石川数正です。そして、その後に石川数正の不思議な行動として今も多くの謎を生んでいる秀吉への仕官となる。
これは、逆らった秀吉に対し、懐刀の数正まで送り込んだ家康の最後の脅し。かも?
数正が豊臣の家臣となって、初めて、家康は秀吉の政治差配を認めた(全て、家康の息が掛かった者達なので安心出来た)。ところが、秀吉は家康の思惑を超える者として成長を続け、全国を従えるまでになる。
それが家康の007達全ての考えで行われたことか、秀吉の思考かまではちょっと断定出来ません。けれど、朝鮮半島へ渡ると言い出したことも含めて、家康は、どの時点かでは、秀吉を葬り去ることを考えていたとは思います。
因みに、国宝松本城は、石川数正が秀吉の家臣となって以降に築城されたもの。これは、徳川に対して北から睨みを効かせる為とも言えますが、逆に、秀吉を北上させない(江戸に近付けさせない)為のものとも言える。
数正が、家康を裏切っての出奔なら、息子達は、康の字を返上している筈ですが、三人の息子達(石川康長、石川康勝、石川康次)は名前を変えません。関ヶ原の合戦に於いても石川家は徳川方に付きますが、その後、謎の陰謀に遭い、家康から家禄を取り潰されて、松本城も奪われる。
因みに、松下之綱の松下氏も、そして松下の親戚となった柳生家もやがては取り潰される。
唯一、蜂須賀家は四国に繁栄し続け、戦前は華族として権威も持ちますが戦後没落したとも。
兎に角、家康と秀吉の両方に深く関わった者達は尽く消えて行く。俗に言われる「家康の陰謀」。真に受けて笑われても不肖私は責任取れません、アシカラズ。
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