東アジア史

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民族・部族興亡史(8) =匈奴5=

匈奴は、遊牧騎馬民族で間違いない。しかし、呼韓邪単于の時代には親漢傾向が顕著となり、反漢派は民衆の支持を得られなくなっていった。 武力的には呼韓邪を圧倒していた兄・郅支は、漢からは敵と見做され匈奴を追われるように出て西進。康居と手を結ぶ。
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民族・部族興亡史(7) =匈奴4=

遊牧騎馬民族匈奴は、長い長い漢帝国との戦いの中で政治的には漢に近くなった。 つまり、部族ではなく「国家」的な集団になったわけだけど、だからこそ権力争いが激化する。 そして、男と女の愛憎が絡み、個人の好き嫌いに左右され、牧歌的面白味は欠けた。
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民族・部族興亡史(6) =匈奴3=

漢帝国には、優秀な人材が大勢いた。武帝の治政期も人材豊富だった。 しかし、皇帝の非を指摘出来ない取り巻きに囲まれた環境で、武帝の治政には過ちも目に付いた。 一方匈奴は、漢帝国の高官や将軍を好条件で帰順させ、漢の政治や軍略を導入していった。
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民族・部族興亡史(5)=匈奴2=

匈奴と漢王朝はずっと戦っていた。 漢王朝は、匈奴と戦う為の同盟相手として、匈奴に敗北して西へ逃げた月氏を求めた。 漢の武帝の使命を帯びた張騫は、十年を超える苦労の末に大月氏を探し出す。同盟は成せなかったが漢王朝は西の色んな国を知った。
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民族・部族興亡史(4)=匈奴1=

人類史上最も広大な国家領域を有したモンゴル帝国=元朝。 そのモンゴルよりも1500年ほど早く、遊牧騎馬民族として最初の中国統一王朝を築く可能性があったのが匈奴。 匈奴は、第2代単于冒頓の時代に漢王朝を屈服させ周辺部族の殆どを支配した。
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古代中国王朝と大和朝廷の関係 (当エッセイを読むだけで、だいたいイメージ出来る)

「倭」という言葉は、漢民族が、非漢民族の全てを一緒くたに指す蔑称。しかし日本では、自分達のみが「倭人」と勘違いしている。 正しくは、中国が「倭人」「倭国」と言う場合、日本人や日本国とは限らないが、日本人や日本国を意味する場合もある。という事。