古代中国王朝と大和朝廷の関係 (当エッセイを読むだけで、だいたいイメージ出来る)

東アジア史

古代中国から見て「倭」とは・・・

唐突に書き始めますが、今回は「中国と日本」についてのエッセイです。最初の中国王朝と目されている「」。夏以前に、三皇五帝時代があり、更に先史時代があるけれど、時代が古過ぎて意味を為さないからスルーします。因みに、黄河文明揚子江(長江)文明は、三皇五帝時代に相当します。

黄河や長江と並んで重要な文明領域と目されるのが河南省南部を流れる中国第三の大河・淮水わいすい。中国では、「河」と言えば、黄河。「江」と言えば、長江。この二つの大河のほぼ中間に位置し、長さ1,078km、流域面積は174,000㎢にも及ぶこの大河は「水」と称された。今は、淮河わいがと呼ばれ本流は長江に繋がり、放水路と共に黄海へと注ぐ。言うなれば、黄河文明と揚子江文明という二つの古代文明に挟まれている地域ですが、実は、淮水一帯に生まれた文明が南(長江)北(黄河)に拡大していったのではないかとも見て取れる。根拠として、古代中国王朝の都の多くは淮河に近い場所に置かれている。

(因みに、中国東北部・現在の遼寧省を中心流域とする遼河は、今では古代中国三大文明と既定され「遼河文明」と呼ばれている。遼河文明を含めて、三皇五帝時代です。)

夏は、紀元前2070年頃に淮河流域の現在の河南省登封市告成鎮(=陽城)に成立した中国史に於ける最初の”明確な”王朝です。創始者は姒文命じ・ぶんめい(=夏后文命)。生前の功績を称えられて記された諡号は『大禹』。禹は、黄河を始めとする河川に対する治水事業の成功者に対しての尊号で、その中でも最高の栄誉者と目される姒文命を中国では大禹と称えている。姒文命が崩御すると、当時の人々は再び大きな水害に見舞われることを強く恐れた。それ故に、姒文命の子孫達による夏王朝の永続繁栄を願い、夏の本領を禹州あるいは禹城と呼んだ。因みに、国家中枢(古代宮殿)跡は、現在の河南省偃師県で発見されています。夏は王朝として400年以上の時を刻んだが、紀元前1600年頃に終焉する。

夏には、少なくとも5つの後継国家や民族がある。

 夏王朝の創始者・姒文命の血族と云われ、中国のみならず、実は日本へもその後継者が帰化していているのでは?という噂がある。特に、中国王朝との交流密度が濃かった沖縄(琉球王朝)では、治水事業を行うたびに禹王を祀り無事を願う神事が行われていた地域もあるようで、十ヶ所を超える場所に碑文が建っている。更に、沖縄以外(日本国内各所)にも、似たような跡が見られるらしい。

 杞憂の語源となった杞の国は、現在の河南省開封市杞県に紀元前950年頃に建国され、創始者は東楼公。有り得ないことに対して、有り得ることのように怯えて憂慮する意味の杞憂は、思わぬ水害を思ってのこと?それとも国滅ぶことへの恐怖?20代・紀元前445年まで約500年続いた杞国は、大国化(王朝化)を果たせずに終わった。

 杞に比べて随分遅れて紀元前600年頃に建国。杞にも言える事ですが、夏王朝滅亡後千年も経って後裔国と云われても、とは思うけど。首都は会稽(現在の浙江省紹興市)。紹興市と言えば、紹興酒の語源とも云われるところ。実は、この地での越建国年は紀元前600年頃だけど、越の発祥は紀元前21世紀まで遡ることが可能とも云われている。尤も、紹興酒の歴史だけなら7千年とも言われている。この酒は、越が紹興に持ち込んで来て『紹興酒』としてブランド化した?不肖私は酒は好きだけど(特に日本酒)、紹興酒はちょっと苦手。関係ないね・笑 ところで越と同祖の百越と日本人は共通した文化性を持っている?

百越 越族(越諸族の総称)は、現在の江蘇省の長江以南からベトナム北部に至るまでという、かなりの広範囲に分布していた。「越」を上述の紹興を首都とする国家と限定する以外の広範領域の越人を総称して百越と呼ぶらしい。百越(=越諸族)の国家としては、上述の「越」の他、三国志でお馴染みの「呉」、始皇帝の「秦」、「楚」などがある。(※楚は、漢民族の国家を自称してもいるけれど)。しかし、現代に至る過程で大多数を誇るようになった漢民族は、百越を”倭人”と呼んで敵視し居住領域を奪い取っていく。結局、百越(越人)は、べトナム方面か琉球(台湾/沖縄)か、若しくはその他へ逃れ行く以外に生き残れなかった。つまりそれは、漢王朝樹立を境にして、”中国人”という民族そのものが夏=越族から漢民族へとなり替わったということに他ならない。

※百越の生活・信仰文化には、稲作、断髪、黥面(入墨)、龍蛇信仰、太陽神崇拝、鳥崇拜(河姆渡文化、良渚文化)裸潜水漁撈方法などがあり、古代日本の龍神信仰部族(例えば、志賀島を故地として九州北部の一大勢力だった安曇族など)との類似点が中国の歴史書には記述されている。百越に贈られた印綬の鈕(滇王の金印など)と漢委奴国王印の鈕の形が蛇であることも共通する。そもそも、倭人は夏人の一部?

※日本がベトナムを漢字表記する場合、越国と書くけれど、百越に関係する事を知っているからこそそのように表記しているわけですね。そして、ベトナムに対して何となく親近感を感じるのは、同祖の人たちが日本国内にいるからでしょう。

 倭人と日本人を同一視し過ぎると歴史を読み違えるらしい。
「倭」という言葉は、紀元前206年に漢民族が初めての王朝「漢(前漢)」を成して以降に、中国東南の地域や住人を指す際に用いた呼称。呼称と言うより蔑称であった。漢民族は、逆に考えると長い間、チベット系の遊牧騎馬民族系王朝(夏/殷/秦)や農耕系王朝(周)に圧せられていた。故に、自分達が王朝を成してからは、チベット系民族の再度の台頭を絶対に許さない為に徹底して排除する。その表れが非漢民族の全てを指した『倭人』の中に閉じ込めたことに見て取れる。国号を「日本」と表記するまでは、日本列島とその住人も非漢民族の『倭』に含められていた。その事を理解出来なかった日本では、自分達のみが「倭」と呼ばれているものと勘違いしたまま歴史(東亜史)を見ている。それは大変な間違い。というわけで・・・

🔶中国が「倭人」と言う場合、日本人とは限らないし、日本人の場合もある。
🔶中国が「倭国」と言う場合、日本国とは限らないが、日本国の場合もある。

だから、夏の後継の一つとして「倭」が記されているにせよ、それが日本全体を指すことになるわけがない。が、一部の夏人=倭人が日本列島へ逃れた可能性はある。

匈奴 ユーラシア・ステップを席捲する遊牧騎馬民族ですが、匈奴と越と倭のそれぞれに含まれるモンゴル、ベトナム、日本が、元を辿れば同一民族でその起源が夏王朝に遡ることが出来る・・・なんて言われてもね、ちょっと違和感がありますよね。まぁ、一部では同祖の血脈もあるのでしょうけど、不肖私の血は、ちょっと違うかなぁ(笑)匈奴については、今後、多く取り上げますのでスルーします。

殷の謎

夏王朝に代わって、同じく現在の河南省を本拠として王朝を成したのは(首都は安陽)。成立年は紀元前17世紀頃としか分かっていない。取り敢えず、夏を滅ぼしたのは殷の天乙(=湯王)ということです。

殷は、確かに河南省安陽を王朝の都としたけれども、元々は、「てき」(或いは北狄)と呼ばれたチベット系北方狩猟民族で、遊牧騎馬民族でもあった。という事は、夏の後裔と云われる匈奴とも通ずる。何れにしても漢民族とは無関係。まだまだ、漢民族の台頭は起きていない時代だった。始祖は契。契から数えて13代目が主癸しゅき。主癸まで連綿と夏王朝に仕えていたが、主癸の子・天乙が夏を滅ぼして、いわゆる下剋上を成す。

殷には、王室に繋がる4つの有力氏族があり、その4つが日本でもお馴染みの言葉「甲」「乙」「丙」「丁」。この4氏から定期的に王が輩出されたと云われる。その他の氏族名も馴染みの言葉が並び、戊」「己」「庚」「辛」「壬」「癸」。以上の10氏以外からは王や王妃は誕生しない。

ところでね、殷の氏族名がもしも字体でその通りに使用されていたのなら謎ですね。これは明らかに漢字ですよね?漢字は、漢民族発祥の文字ではないのでしょうか。そのように学んだけど?殷の人達は狄ではなく漢民族、いや漢字使用民族だったのか?・・・謎です。

殷王朝は、天乙を初代(在位・紀元前1558年~紀元前1546年)として30代・紀元前1046年まで約500年間も続いた。30代目の帝辛には、暴君だの、酒池肉林を繰り返しただのと悪評が付き纏うが、この頃の殷の政務者や軍務者は誰も彼も酒浸りでどうしようもなく堕落していたとか。

第29代目の帝乙の弟、つまり帝辛の叔父にあたる箕子きしは、殷王朝にとっての北域の防衛を担ったが、箕子の優れた治政は領民の生活水準や文化性を高め、それを知った異民族からも尊敬を受けていた。その異民族の中には韓民族(=一括総称)もあった。

帝乙は、賢い弟・箕子に帝辛の補佐を委ね、箕子が王朝中枢に在した頃の殷朝は服属国や周辺国の尊敬を受けた。しかし、帝辛の”良くない”側近達や稀代の悪女と云われる愛妾・妲己は箕子の存在を煙たがり、謀略。帝辛は、箕子の諫言を聞き入れないばかりか、箕子を投獄(幽閉)する。箕子の優れた指導力を失った殷王朝は急速に失墜し、そして周の武王によって滅ぼされる。

周の武王と箕子朝鮮

は、それまでの夏、殷と同様にチベット系民族とされるが、夏や殷が北方に在した遊牧騎馬民族であったことに対し、周は南方を出自とする農耕系民族と目されている。が、まだ確証的見解は出ていないようだ。周が最初に都(首都)を置いたのは、河南省に首都を構えた夏や殷とは異なり、長安(現在の陝西省西安市)というシルクロードの東端都市だった。その事も、夏や殷とは”別物”みたいに見られる根拠となっているようです。

武王は道徳に優れた人であり、殷の愚帝・帝辛の悪政をどうにも許せなくなった。それで革命戦争とも云われる牧野の戦ぼくやのたたかい(紀元前1046年)を起こし、約500年間の殷時代を終わらせた。

幽閉されていた箕子は周軍によって救出され、会見に臨んだ武王は箕子の入閣を切望する。が、箕子は丁重にそれを断ったので、武王は、箕子に対して元々の領土に加えて隣接領域(現在の北朝鮮の東北部を除く約60%くらい=後の高句麗に等しい領域)の統治を形式上は命じる形で授けた。これが箕子朝鮮国家である。
元々の領民たちは箕子の帰郷を心から祝福し、また、新たな領域の住人達も、新領主として箕子を大歓迎したと云われる。

武王は僅か3年の統治で崩御し、箕子も自分一代で箕子朝鮮を終わらせた。
夏の大禹、殷の湯王、周の武王、武王の父である文王を指して四聖王と称されるが、箕子を入れて五聖王と称す人もいるらしい。

武王後の周王朝は紀元前771年に遷都して『東周』と呼ばれるようになった時代を含めて紀元前256年まで約800年続いた。そして・・・紀元前221年にの始皇帝が新たな覇王として登場する。

周公旦と孔子

秦はちょっと後回しにして・・・

周王朝(東周)に翳りが見え始めた春秋時代の紀元前550年頃。周王朝に従っていた魯国(現在の山東省南部辺り)に、中国史上最大のスーパースターが誕生する。言わずと知れた孔子です。スーパースター、ですよね?70年くらい生きて、紀元前479年に永眠した孔子には、少なく見積もっても3千人もの弟子があったと云われます。その中に特に優れた門下が孔門十哲と称される。この十人が、孔門四科と云われる徳行・言語・政事・文学それぞれの大家として後進指導者としての役割を負った。

徳行・・・(顔淵がんえん閔子騫びんしけん冉伯牛ぜんはくぎゅう仲弓ちゅうきゅう
言語(弁論)・・・(宰我さいが子貢しこう
政事・・・(冉有ぜんゆう子路しろ
文学(学才)・・・(子游しゆう子夏しか

孔子が生まれる魯国ですが、建国は紀元前1055年辺り。開祖は、武王の弟・旦(=周公旦)。となる筈だったが、初代魯公は、旦の嫡男・伯禽はくきんです。

武王や旦の父親である周の君主・文王は、嫡男を後継指名して武王を名乗らせましたが、政治的指導力に優れ、且つ、軍才にも長け、礼節も弁えていた旦の力を誰よりも高く評価していた。それで、王の称号は与えられないものの、「公」の称号を与えて”畿内”限定の君主に封じた。畿内とは、王(帝)の居城から500里(約202キロメートル)の範囲を指していた。これは、周から始まった言葉のようで、「周囲」の語源と考えられる。つまり、周公とは、王の最側近として常に王の傍に在り、王をサポートする宰相か副王のような立場でしょうね。初代周公となったのが旦です。旦は、殷朝で言えば箕子のような人だったのでしょう。

魯国を治めることは叶わず、それで、嫡男・伯禽に自らの代役として白羽の矢を立てる。自分が摂政を務める兄・武王の子(成王)と自らの子(伯禽)の間に、権力争いが起きないようにという配慮でもあった。そして、成王の名で伯禽を魯に封じた。初代魯公となった伯禽は、父の名に恥じることのない良い君主だったようです。

旦は、摂政を7年務めた後(この間には、王位簒奪を疑われ、クーデターを起こされたりもしたが無事に乗り切った)、成王の一臣下として王宮を離れて後の洛陽となる洛邑を建設する事業に専念する。そして洛邑は周王朝の副都となり、771年には遷都先となり首都化する。

また、旦は、礼学の基礎を作った人としても有名で、儀式や儀礼に関する書『周礼』『儀礼』の著作者でもある。紀元前1037年頃にこの世を去った周公旦ですが、礼学は、特に魯国で浸透した。そして、魯国に生まれ育った孔子も礼学を学び、周公旦や伯禽を尊敬した。孔子が興した儒教の基礎には礼学があると云われる。

始皇帝の政

孔子の教えである儒教は、漢人に席捲される以前の古代中国に急速に浸透し、多分、儒教の五常「仁義礼智信」ブームのようなものも湧き起こったと思う。

やがて周が滅び、始皇帝が全中国を統一(漢民族に先駆けて、中国初の統一王朝を成した)。すると、『韓非子』の愛読者でもあった始皇帝は、刑罰を与えることを恐れない法家思想こそが尊ばれることを望み、綺麗言の美辞麗句が過ぎる儒家その他を排するようになる。焚書坑儒と呼ばれるいわゆる思想弾圧大事件です。これで法家ブームが起きる。現代の共産党中国も暴力的な思想弾圧を行いますからね、昔からそうなのでしょう。と言うか、秦以来の・・・悪い”癖”ですね。否、始皇帝に失礼過ぎる、御免なさい。(※始皇帝のエッセイは、何れ改めて書きます。)

そして始皇帝亡き後に登場するのが劉一族を中心とする漢王朝(前漢)。やっと漢民族のお出ましとなりますが、漢王朝(前漢)は一度滅ぼされ、新王朝が樹立。しかし、再び劉家筋の王朝(後漢)が覇を成す。

後漢期には、儒教の国教化が成されて儒家は勢力を取り戻し、更に、法家も重要な位置にあった。諭す儒家と正す法家が並び立つ国家となった中国だからこそ『律令制度』へと向かう。

法律体系は時代に応じて変化するのが当然。中国の律令制度も、それを導入した大和朝廷の律令制度も何度も変化した。現在の愚かしい護憲族が「憲法を変えるな!」と、変えないことを大前提として主義主張する状況は極めて異常である。歴史知らずの恥知らずとまでは言わないけれど、少しは周辺国家や自国の成り立ちなど過去に学ぶべきです。

儒教を国教とした後漢以降、王朝が変わっても基本的には、権威ある儒家が儒教に沿った形で決まり事を書いて、法の大家(と言うより国家のトップ)がそれに順じ命令を下し、違反者には刑罰が与えられた。即ち、律・令の基本思想は、儒家と法家の思想に分別されていくようになる。

儒家は徳治主義=>孔子の教えである統治論(「徳のある統治者がその持ち前の徳をもって人民を治めるべきである」とする政治思想)に基づく)
法家は法治主義=>法律を万能とし、全ての国家国民は法に順ずるべきとする

以上のように、二つの主義(思想)に倣うことを基本的大原則として、国家や社会秩序を維持する規範を作った。それがいわゆる、礼、楽、刑(法)、兵(軍事)。儒家は礼・楽を、法家は刑・兵を重んじた。つまり、儒教に基づく道徳や文化性の維持と、法律に基づく政治・社会の運用。この二つが古代中国の国家づくりの基礎を成していた。

「律」は法律の律だが、この場合は刑法のみを対象とする。「令」は法令の令だが、この場合は刑法を除く殆ど全ての決まり事を対象とする。つまり、法体系化し明文化された決まり事に対して禁を破れば法に則り処罰する。刑の成文法として律が発達し、令はその補完的規範であった。次第に令の重要性が増して、律から独立し行政法的なものになった。今なら当たり前の事だが、恐らく、当時の大和朝廷にはそのようなシステムが明確には無かったから唐の『律令制度』に頼ってみたのだろう。知らんけど。

因みに、日本は神道国家であり、且つ宗教思想的には大乗仏教に学んだ。なので、直接的な儒教の広まりは起こっていない。然りながら、古代中国の律令制度を導入したその時点に於いて、既に、儒教精神を尊ぶ思考が強く身に着いたと考えられる。そして、本家の中国以上に「仁義礼智信」に篤い国民性となった。逆に現代の中国は思想的なものを強く排除して、全く以て楽しくない強面国家となってしまっている。他人を脅して力を誇示する事だけを優先する中国に対して、日本は強く絶望しそして身構えなければ付き合えないようになった。本来は、「大先生」として敬うに値する相手であった筈なのに。惜しい事です。

遣隋使

女帝・推古天皇が即位した593年、甥の厩戸豊聡耳皇子(=聖徳太子)が皇太子指名される。聖徳太子の発案だったかどうかは知りませんが、589年に中国を統一し既に4年が経った隋王朝に対して、遣使すべきか否かが検討されることとなる。

それまでの大和朝廷は、中国王朝への遣使=冊封(君臣関係)という関係を忌み嫌い、477年を最後に百年以上、中国王朝との外交を遮断していた。477年は「倭の五王」冊封時代の最後の王(倭王・武)=第21代雄略天皇=による宋王朝への文書外交ですが、どういう内容だったかは分かっていない。

そして、”絶対に冊封話には乗らない”ことを大原則の条件として、先進国家(隋)の優れた治政制度や技術などは伏してでも学ぶに値するという結論に達した。が、実行までには時間がかかった。遣隋使を行うかどうか、そりゃ悩むよね。だって、中国王朝が高句麗に大敗北したのだから(597年。文帝は、30万の大軍勢で高句麗征圧に向かったものの、20万以上の敗死者を出して完敗する。隋朝に遣使するより、高句麗と同盟を結ぶ方が良くないか?という意見は当然出たでしょうからね。

推古帝7年?8年?兎に角、西暦600年に、隋王朝に対する初めての遣使(遣隋使)が行われる。

第一回遣隋使として誰が海を渡ったのかは明記されていないし、総責任者が推古帝なのか、又は聖徳太子か、それとも時の有力者であった蘇我馬子だったのかも分からない。が、中国側の対応者は、隋朝初代皇帝楊堅(=文帝)であったことは分かっている。文帝としたら、百年以上の時を経て中国王朝を訪れた大和朝廷とは、どういう国なのか、どういう政治なのか、どういう国の仕組みなのか、どういう生活風習なのか、その他、色んなことを知りたかったのでしょう。高句麗や新羅、百済との関係などは特に知りたかったに違いない。それで使者に様々な問い掛けをしたが、お互いの言葉が上手く通じ合わない部分もあったろうけど、思ったほど良い国とは受け取れなかったようだ。それで、改善してはどうだろうかみたいな提案を行ったところ、その報告に対して大和朝廷は侮辱とか屈辱的な言葉と受け取ったという。それで、また暫くの間、遣使は凍結される。しかし・・・

聖徳太子による国家改革が行われ、603年に冠位十二階制度、604年に初めての憲法『十七条』が制定される。一応、文帝の言葉を有り難く受け取った人もいたからこその出来事でしょう。

607年に第二回遣隋使が行われた。隋王朝は、第二代皇帝・に代替わりしていた。そして、現代でも議論が続く、「推古天皇は『日出処の天子』である」という紹介文を交えた国書を、小野妹子の手で届けられた。主たる目的は、前回の指摘を受けた大和朝廷が、国のシステムを構築し直し、憲法も制定したことの報告。そして、今後は仏教学習の場として隋王朝への留学を認めて欲しい旨などとされる。

煬帝からの事前要求であった冊封に対してはやんわりと(方針通りに)断っている。この事に対して、高句麗相手に手間取っていた隋は、大和朝廷が高句麗と結束するようなことを危惧して、冊封なしの朝貢国という提案を尊重する(受け入れる)旨の回答を文書で行った。が、その文書が、君臣関係的な上下文に思えた妹子は無断で破棄して紛失したと報告。これで失脚する筈だが、許された妹子は翌年も隋へ向かう。

608年の第三回遣隋使では、「東の天皇(推古帝)、敬しみて、西の皇帝(煬帝)に白す」で始まる国書が届けられる。もう、こういう書き出し文には隋側も慣れたようで、妹子が連れて来た多くの留学生を快く引き受けた。更に、610年の第四回遣隋使も上手く行く。

このような交流を知ると、隋とは結構仲良くやっていけそうな感じだったのに、惜しいことに、隋は、高句麗との戦争にまさかの大敗を喫する(612年~614年)。そうなると国内には不穏な動きも出て来るが、大和朝廷はあまり気にせずに(呑気に?)614年に結構大人数の第五回遣隋使を行っている。

そして、隋が高句麗との再度、再々度の戦争に忙しくなって遣隋使は休止。復活を待ち望んでいた大和朝廷でしたが、なんと、隋朝はクーデターを起こされて618年に煬帝が殺されて滅ぶ。残念だったね。

遣唐使 Ⅰ

隋朝が高句麗相手に敗戦を重ねて国内が混乱していた当時、現在の山東省太原で挙兵した李淵(漢人か鮮卑か謎の部分がある)は長安を陥落させる。そして、煬帝の孫・恭帝侑を第三代皇帝として擁立し、隋王朝の救いの神のように見せかけたが(豊臣秀吉が三法師を擁立したことと一緒)、618年に名目上は禅譲として隋を滅亡させて唐王朝を成立させた。

李淵の代では唐は戦乱続きで落ち着かず、更に親族内での諍いも起きて、626年に譲位。第二代皇帝に李世民(太宗)が就いた。

その後も色々とあったが、唐は統一王朝として続いていく。そして、大和朝廷は、隋朝との関係(冊封なき朝貢国)を唐朝でも継続されることを望み、遣使を打診。それは受け入れられる。

630年。第一回遣唐使は、旅程2年余りに及ぶ大きな交渉となる。そりゃそうだ。初めての顔合わせであるから。太宗が交渉の場に着座したのは翌631年のこと。そして、距離を理由として、毎年の朝貢ではなく、2年に一度の朝貢を両者が確認し合った。且つ、冊封も無し。大和朝廷側の希望は受け入れられ、これより約200年超、(日本から見て)先進国家・唐との政治・文化交流が出来たことで、日本の精神文化の確立に繋がったと云われる。ところが・・・

日本国家最大の危機「白村江の戦」大敗北

「我らは、殆ど全てに於いて中国(=唐王朝)に劣る。」

そんな事は分かっていたから遣唐使を行っていた筈なのだが、既に滅ぼされていた百済の再興支援などという”どうでもいいような事”に対して大和朝廷は加担する。そんなくだらない(百済無い)ことは、捨て置けば良かったのに。そして戦争突入。強大な唐・新羅連合軍に対し勝つ気満々で臨んだのだろうけど・・・

白村江の戦(天智2年8月=663年10月)で大敗北を喫した大和朝廷は、強烈な衝撃を受け、真摯に自戒せざるを得なかった。しかし、絶望の淵に佇み自戒の念を噛みしめる時間的猶予はなかった。唐帝国(唐・新羅連合軍)を相手にまるで歯が立たず味方は次々と敗死。救済出来る筈だった(そのように己惚れていたからこそ戦争に及んだ)百済は滅ぼされた。その無残な様を見せつけられて、本当に恐怖を感じていたと思う。朝鮮半島からすぐの位置にある自国に対して、そのままの勢いと力量差で唐・新羅連合軍が攻撃して来たら、どう考えても勝ち目がない

当時の政事実務者達は、恐らく、初めて、国が亡くなってしまう恐怖に直面していた。服属を約束し許してもらうか、徹底抗戦か。もしも負けたら朝廷の何もかもが消し去られる(=皆殺しに遭う)、そのような可能性も考えた。実際に、百済王朝はそのようになっていたのだから。自分達も、百済と同じような道を辿るのか。それしか無いのか。朝廷中枢部は、喧々諤々で議論した筈。知らんけど。

ところがどういう訳か、唐・新羅連合軍は(攻撃して)来なかった。物凄く不可解だけど、唐帝国にとって、”日出処”などどうでもよく重要では無かったか、その気になればいつでも殲滅可能と高を括っていたか。事実として、唐帝国は大和朝廷に対して、国家的大改革の時間的猶予を与えた。繰り返すけれども、本当に物凄く不可解だ。日本人を殆ど皆殺しにして日本列島を奪い取ることは容易に出来た筈。それほどの、歴然とした力量差があったことは間違いないのだから。助かったね。

遣唐使 Ⅱ

白村江の戦(663年)は、660年に滅亡した百済の再興を支援する戦争。第4回遣唐使が行われたのは659年。だけど帰国は661年。
・帰国まで2年も費やした理由=>先ず、7月3日に二隻に分かれて向かったものの、大使が乗船した方は遭難し喜界島に流れ着いた。島民から(献上品の)金品を奪われた上に大使(坂合部磐鍬)他が殺された。脱出出来た5名は船を奪ってやっとの思いで中国大陸へ辿り着き、既に、皇室献上を済ませていた副使(津守吉祥)らと再会する(10月19日)。あとは帰国するのみだったが、大和朝廷からの派遣者の一人である韓智興(倭人と漢人の混血者)の従者が、まるで大和朝廷からの遣使を(百済の為の)スパイ行動であるかのように諫言した。この事は誤解であることは理解されたものの、使節団一行は念のために長安に送還され幽閉抑留された(659年11月)。
660年8月に百済が滅亡したことを機に、使節団の幽閉は解かれて帰国が許される。という事だから、唐帝国と大和朝廷の関係そのものは悪くなかったと考えられる。現代の共産党政府なら幽閉も無く弁明も認めずに処刑だろうね。

百済滅亡以前から、唐は高句麗や百済への攻撃を行っていたし、第4回遣唐使の目的には、唐帝国の朝鮮半島(特に百済)に対するスタンスを確認するということは含まれていた筈。そして、よもや倭(やまと)を攻撃するようなことは可能性として有るのか無いのかを探ることが重要な任務だった。故に、それを少々履き違えて韓智興の従者が諫言したことは想像出来る。唐と倭人の混血者(韓智興)という事は、韓智興はもしかすると唐皇室に関係する血筋だったかもしれないし、従者というのは唐王朝の意を汲んでいた唐側のスパイだった可能性もある。

全体的にあまり良くなかった第4回遣唐使の報告は、白村江の戦へ向かってしまう根拠になったかもしれない。直情的な女帝(斉明天皇)だし、喜界島での不運な出来事さえ唐が悪いように思えた、のかも?

白村江での大敗北後、斉明帝から天智天皇(中大兄皇子)に代わっていた。と言うか、斉明帝は暗殺されたという噂もある。唐王朝に許しを請う為の暗殺かもしれない。白村江の戦は、判断を誤った天皇(斉明帝)の責任です。申し訳ございません、腹は切らせました・・・みたいな。

皇極帝(642年~645年)/斉明帝(655年~661年)として、二度の天皇即位した稀有な女帝は68歳で数奇な生涯を閉じられた。

斉明帝の命と引き換えみたいにして、第5回遣唐使(665年12月出発~667年11月帰国)は行われた。665年秋に唐側が250人を超える大使節団を編成して来航。恐らく、白村江の詰問もあった筈。名目上は、その大使節団を無事に送り届けるというもの。内実は直接のお詫び。これも命懸けのものとなり、実際に大使・守大石は自分の身を唐に捧げた。故に、帰国の途の責任者は、副使・坂合部磐積が務めている。

第6回(667年~668年)は、唐からの使者を送り届けるだけで終わる。

第7回遣唐使(669年)は、668年に高句麗を滅亡させたことへの祝賀の辞を述べることを名目として、実際は、大和朝廷の律令制導入を一応許可してもらうことが重要だった。唐王朝を敬っていることを律令制導入で示そうとした。

同様の事は、太平洋戦争でも起きた。この時は、殆ど惨めな国家再興だった。敵国だった米国が主導して占領状態で何も逆らえずにただただ従って再興して、その結果、米国の傀儡国家と揶揄されるような状態が現在まで続いている。

しかし、白村江の戦の後に行った国家の大改革は、将来の日本国家の為に日本人自身の手で行った。太平洋戦争後の立て直しとは全く違う。

自国に対する自惚れなど何もなく、全否定から行われた。そして、これは太平洋戦争後と同じだが、自分達をコテンパンに圧した強大な敵国・唐をお手本とした。自分達よりも素晴らしい相手だからまるで歯が立たなかった。だったら、素直に真似てみよう。実にシンプルで分かりやすい。そのような考えで西晋以来の中国王朝に用いられていた『律令制度』の導入が決せられた。(西晋は、268年に泰始律令を完成させたと云われている)。

尤も、唐帝国に於いての律令制は当時未完成であり、737年に一定の完成は見るものの755年に起きた内乱が長引き律令体制は崩壊へと向かっていく。でも、律令制を欲しがった当時の大和朝廷には、そういう未来予測など出来る筈もなく、律令を基本とする大改革へまい進していく。

古代日本の律令制度

大和朝廷が律令制を導入したのは7世紀後期の飛鳥時代。それが本格化するのは8世紀初頭からです(大宝律令)。律令制により、現在の省庁に該当する八省が整えられた。

中務省=天皇に侍従し、詔勅の作成・宣旨、伝奏などの宮中事務や位記・戸籍などの事務を掌る省。現代で言えば、人事院、宮内庁、総務省、内閣官房を併せたような部署。

治部省=諸氏の族姓や葬事・仏寺・雅楽・外交事務を掌る省。現代で言えば、総務省の一部と文部科学省の一部と外務省を併せたような部署。

民部省=民政特に租税・財政を掌る。戸籍・田畑を司る。現代で言えば、財務省と国税庁のようなもの。

刑部省=司法を掌る。良賤の訴などを司る。現代で言えば、法務省と検察庁、警察庁のようなもの。

大蔵省=財宝・出納・物価・度量衡などを掌る。現代で言えば、経済産業省と旧大蔵省の一部を併せたようなもの。

宮内省=宮中の衣食住・財物その他の諸事を掌る。現代言えば、宮内庁、のようなもの?

兵部省=武官の人事と軍事全般を掌る。現代で言えば、防衛省のようなもの。

式部省=文官の人事や朝儀・学校などを掌る。758年から764年の間「文部省」に改名。現代で言えば、文部科学省のようなもの。

式部省の中には、「大学寮」と名付けられた、将来の官僚候補を育成する機関が設けられていました。大学寮では様々なエリート教育が施され、その中では、いわゆる歴史教育も行われていて、それを「紀伝道」と呼んでいた。紀伝道では、自国の歴史よりも、中国(志那)の歴史を学ぶことが重要とされ、自国の歴史は、支那の歴史の中の”付録”的なものだった。つまり、それだけ当時の日本人には、中国への憧れ具合が強かった。それもあるが、日本人自体が自国の歴史や成り立ちをあまり詳しくは知らなかった。無論言うまでも無く、中国人が日本列島にどのような経緯で大和朝廷が成り立ったのかを知るわけがない。だから、古代日本の歴史は曖昧な部分が多い。

そもそも、当時の大和朝廷の実務者達にとっては、国家(天皇家)の歴史よりも、国家体系を作り直して『日本国』として成立させて、中国王朝に自国の存在を認めてもらう事の方が重要であった。故に、中国王朝の治政を真似させて頂く律令制度導入を”大きな宝”と位置付けて、年号も「大宝」とした。

確かに、我が国にとって、”皇紀”(紀元前660年を皇紀元年とする)は重要である。それは、歴史を大切に思い皇室を大切に思う人が圧倒的大多数であるからに他ならない。しかし、ローマ帝国の存在すら知らなかった当時の日本人にとって「紀元年」なんて何の意味も持たないどうでもいい事だった。敢えて言うなら、ユリウス暦をベースとする紀元前660年=皇紀元年も、何処の誰がどうやって弾き出したのか・・・

兎に角、『大宝律令』を制定して、国号を『日本』と定めた日本人は、その事を唐帝国に通達する。終わり。

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