四苦八苦

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朝晩(朝昼晩)仏壇に手を合わせてお経を唱える。お経を唱える時間はないけど仏壇に手を合わせる。という人は結構多いと思います。不肖私もお経を唱えます。

ご本尊やご先祖様に日々感謝の気持ちを伝え、悪さする事も無く暮らしていても、元旦早々に大きな地震に見舞われる。或いは飛行機事故に遭遇する。災害は人を選びませんから、どうしようもなく避けられない。でも、次の朝を迎えられたらやっぱり感謝の気持ちを忘れない。人ってそういうもの。

今回のエッセイは、仏教用語『四苦八苦』。

四苦八苦とは

「生」「老」「病」「死」を仏教では四苦と言う。

生まれてきた事自体が苦の始まり。老いて苦しむ。病で苦しむ。死するを苦しむ。

生きていれば心が育つ。心ある人は、何かを愛すように仕向けられる。しかしその愛すべきものとは必ず別れる事を与えられる。
◆愛に苦しみ、別れに苦しむ。
◆そして、嫌いな人や物事に苦しむ。
◆欲求が叶えられない事に苦しむ。
◆憂い悲しみ心痛む事に苦しむ。

それらの事を、仏教では「愛別離苦」「怨憎会苦」「求不得苦」「憂悲悩苦」と言い、四苦と併せて八苦となる。即ち、生きる事は「四苦八苦」の繰り返しとなる。

この世の全ては、「苦」で成り立つ。苦(苦労)して手に入れたものにこそ価値があり愛が着く。楽して手に入れたものには愛が着かない。「愛着」とはそういうもの。だからこそ、苦は労われるものである。苦を共にしている人同士だからこそ支え合える。生きている皆が苦を生きている。苦を生きている誰かを排斥しようとすることは、自らを支えている何かを自ら折っていることになる。愚かなことである。

宗教=信仰は、自分以外の人々の「苦」を思いやれなくなった時に、人の道を踏み外さないように光を与えるもの。正しい道が見えたら、自分以外の人々の「苦」を思いやれるようになる。けっして、自分だけじゃない。

仏の道とは、本来はそのように教えるのですが、それを信じて良いものかどうかで人は迷い、また苦しむ。正に、生きるは四苦八苦です。だからこそ、人として生きている。

人の歩む道には、楽な道など微塵も用意されていない。用意されていない楽な道があるなどと教える者たちは皆大噓吐きの邪道者である。けっして信じてはならない。

生き急がなくていいし、ましてや、死を急ぐ理由など何一つない

「何を信じて良いのやら」と、人(の心)は必ず迷う。迷い苦しむ。それはしっかり生きている証拠。

迷いたくない?苦しみたくない?人で居たくない?人で無しになりたい?

生まれ落ちたその時から地獄。この世こそが地獄で、死ねば天国。宗教・信仰によっては、そのように教わり、極楽来世を信じる人達は少なくない。イスラム教徒には特に多い。だからこそ彼らは、非常に良くない卑劣な手段の自爆テロ(無差別テロ)をやってのける。人でなしの所業に他ならない。

しかし、イスラム教とイスラム教が敵視するキリスト教とその両方から敵視されるユダヤ教は同じ穴の狢。他人の宗教・信仰に対して問い質すような論争は起きて仕方ないだろうけど、宗教戦争のようなことは絶対に間違いであって恥ずべきことなのだ。ましてや、相手の抹殺を策すなど以ての外。そのような恥ずべき行為に手を染める、加担することは、如何なる理由があれども誰も彼も人でなし。

仏教でも、極楽来世を教えるが、自爆テロなど無差別殺戮の正当性などは教えない。当たり前だ。人の命を何よりも大切だと教えない宗教など信じるに値しない。だから、極楽来世はあるとは教えても、「死んだら終わり、ではない」とも教える。

わざわざ戦争などせずとも、人は(極楽浄土へ向かう為に)必ず死ぬ。必ず死ぬ為に(現世の地獄を)生きている。生き続ければ地獄は続き、死んでしまえば極楽へ。死はけっして怖くない。何故なら、これ以上ない地獄を、今、現に生きているのだから。地獄でさえ生き続けられた強い貴方は、逝くことで楽になれる。でも・・・

苦行して行き着いた先には、生きながらにして出会える極楽が必ずある。生きている間に極楽に行けるのだから、皆と一緒に「苦」を生きよう。

生まれたら必ず死ぬ。
仏様に命を与えれた以上、必ず、いつかはその命を仏様へ戻さねばならない。「命」には限りがある。貸し・借りにも限りがある。借りっ放しは許されない。仏様にお借りしている「命」だから、仏様にお返しする。それは誰かに委ねることではなく、ちゃんと自分で届ける。だから・・・
「死んだら全て終わり」ではなくて、死んだら、その先にある仏の道を歩み、命を借りたお礼を行う。それを仏様に認めて貰えれば極楽浄土へ。ろくな返し方をしたら(つまり、生きている間に粗末に扱っていたことを咎められたら)受け取ってもらえず、更に地獄へ落されてしまう。死んで尚、現世とは比較のしようがない苦しみを与え続けられることになる。

礼節

仏様に、借りた命をお返しする際のお礼。この「お礼の仕方」すら知らないような礼儀知らずの無礼者は、必ずや、地獄へ落とされる。だからこそ・・・

生き急ぐことなく、死に急ぐことなく、礼儀正しい、礼節を弁えた人間となって最期の時を迎えなければならない。地獄は、本当に地獄だぞ。そこへ落とされたら、絶対に抜け出せない。永遠と地獄だぞ。

罪人は、罪を償わねばならない。罪の償いもせずに(死んで)逃げようなどおこがましい。一生かかっても償いきれない?それがそうであっても償うべきだ。少しは軽めの地獄で済ませてもらえるかもしれない。償う時間を与えずにさっさと射殺する外国の警察は、それこそ「地獄の番人」に等しい。

日本では、人でなしになった者にも裁判を受ける権利を与える。しかし、大方の意見としては、人でなしに罪を償わせるなど以ての外。「人でなし(人で無し)」には死刑を!であろう。

ところが、我が国の仏教界(特に浄土真宗)は、極刑に大反対する。罪を憎み、人は憎むな、という。「仏様に頂いた命は無駄にしてはならない」というのが日本の仏教界の言い草。でもやっぱり、我が国の仏教は変です。仏様からは頂いていない。お借りしているだけ。無駄にお借りしたのか、有意義に使ったのかは、それを見定めるのは仏様。生かし続ければいいという問題でもない。

命の時間がどれくらいあるのか、人それぞれ、千差万別。しかし、その命全ての時間を「苦」と感じて生きるよりは、苦をも笑って過ごせる方が良いに決まっている。「苦」をも笑い飛ばせれば最強だよ。

経を唱えたり、禅を行う事が「苦」であるなら、わざわざ「苦」を重ねることはない。生き方、信じ方は人それぞれ。信心深く生きることが正しい事とは限らない。信仰心に関係なく、人の「苦」を労う心が育てば礼儀も備わる。「人」で有り続ければ何でも出来るが、「人で無し」になれば終わり。

子どもの笑顔

大人なら、礼節を理解出来るまでの時間もある。心技体を鍛える時間がある。が、子どもにはまだそういうのを押し付けては酷である。だからこそ、子どもは無邪気で笑顔が一番。

子どもから、暴力的に笑顔を奪い取ることは許されない。それが一番の悪行。子どもを笑顔に出来ないのなら親になどなってはならないし、子どもを恐怖に追い込むような戦争は愚の骨頂。子どもの笑顔こそが「苦」を和らげてくれる。多くの子どもの笑顔に触れ合える社会こそが一番良い社会。ですよね?

終わり。

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