民族・部族興亡史(4)=匈奴1=

東アジア史

始皇帝に、万里の長城を築かせた匈奴

人類史上最も広大な国家領域を有したモンゴル帝国=元朝。そのモンゴルよりも1500年ほど早く、遊牧騎馬民族としては最初の中国統一王朝を築く可能性があったのが匈奴

その興りは紀元前4世紀とも5世紀とも云われる匈奴は、東西の騎馬民族、東側に接する東胡、西側に隣接する月氏と常に戦っていた。この3つの騎馬民族は、と手を組んだ二つ(月氏、東胡)と敵対した一つ(匈奴)に分けられる。

紀元前247年に、12歳で秦の第31代君主(王としては6代目)に即位した嬴政えいせい(=趙政)は、紀元前221年、38歳の時に全中国を史上初めて統一し皇帝即位する。始皇帝の誕生です。

始皇帝は、秦王・嬴政の頃から盟友であったと云われる月氏とは皇帝即位後も友好関係を続け、更に東胡とも良い関係にあった。一方、匈奴に対しては敵視姿勢を貫き、万里の長城を築いて壁を作った。中国史上最初の統一皇帝となり、まだまだ働けた筈の嬴政でしたが、紀元前210年9月10日、49歳で突然の死を迎える。毒殺と見られているけれど、方法は抜きにして多くの人がそう言うし映画にもなったし暗殺なのでしょう。(日本映画の『KINGDOM』シリーズでは、今後、嬴政がどのように描かれていくのだろうかね。楽しみです。)

秦は、大帝国を成したが故に、大君主を亡くした途端に暴政が始まり、始皇帝の親族・側近などが大量に処刑されるなどしてほぼ内乱状態に。そして始皇帝の死後僅か3年で滅亡する。そうなると、周辺の遊牧騎馬民族の力関係にも大きな変化が生まれ、始皇帝という大きなバックを失った東胡や月氏に対して匈奴が襲い掛かる。

冒頓単于

中央ユーラシアや東方の遊牧民系騎馬部族達の中には、国家規模の君主を単于ぜんうと呼称する習わしがあった。

その呼称を用い始めた最初の部族と云われるのが匈奴。記録上の初代単于は、頭曼単于(本名は攣鞮頭曼)。始皇帝に敗北を続け北方へ封じ込められた頭曼でしたが、始皇帝崩御後反転攻勢し先ずは東胡を攻撃し、失地を或る程度回復。そこで初めて単于宣言したと考えられる。しかし、東胡を一気に殲滅する事は出来ず、月氏への備えも必要だった。それで、月氏に対しては、準嫡男(末子相続の文化なので嫡男=末子)冒頓を差し出した。冒頓は、本来は嫡男だったが、愛妾に新たな子が生まれた為に相続権を失っていた。

嫡男だからと言って必ず成人するとは限らないし、子どもは大事にされていたから月氏側も人質は丁重に扱い不戦条約は成立したものと受け取っていたが、油断した月氏に対して頭曼は攻め込んだ。そりゃ月氏側としては怒り心頭に発するわけで、「人質は殺せ!」となるのだが、冒頓は自力で脱出して戻って来る。頭曼は、「見込みがある」として喜んだと云われるが、冒頓は父・頭曼の行いを許せず(と言うより、殺される可能性もあった)「殺される前に殺す」ことを選択。狩猟の際に、父殺しは実行された。そして、父の愛妾も義弟(嫡男)も処刑して君主の座を手に入れた(紀元前209年)。

月氏から脱出し、父を廃して新たな君主、冒頓単于ぼくとつぜんうと成った冒頓に対して東胡は同盟を打診。と言うより、力を見極める為にわざと貢物を要求したり、何人かあった后のうちの一人を貰い受けたいと望んだり・・・更には、「元々は東胡の土地だったでしょう?」的に、頭曼に奪い取られた領土の返還まで要求。「舐めるなよ!」と牙を剥いた匈奴軍は一気に東胡へ攻め入って大殺戮を行い、阿鼻叫喚の中で東胡は滅亡した。(※滅亡した東胡の生き残った者達が、やがて、鮮卑となって大復活を遂げる。それだけではなく、中国に幾つかの王朝を建てるのですが、今回はスルーします)。

東胡壊滅時のあまりにも凄惨な様子が伝えられた近隣部族や中国の各国家は匈奴を警戒。しかし、秦という強力な後ろ盾を失くした月氏は、匈奴の勢いを止められずに東胡同様に大敗北して西へ逃走。匈奴は、東胡と月氏とその他の部族の領土を手に入れて、中国各国にとって大きな脅威となる。それが、漢王朝(前漢)による中国統一の動きを加速させた要因かもしれない。

匈奴 vs 漢(前漢)

画像は、wikipediaよりお借りしました。 匈奴の最大版図(それ以上あったと思われる)と冒頓単于

紀元前200年頃になると、冒頓率いる匈奴軍は、百万騎を戦闘動員可能な大軍勢になっていた。その内の約40万騎を動員して幽州代郡(現在の河北省蔚県)を攻撃。代の君主・韓王信は服属を願い出るしか手が無かった。騎馬民族が中国へ侵略して来たことに対して漢王朝軍・約40万人を超える大軍勢が代へ向かうが、騎馬は5万騎あるかどうかで殆どが歩兵。速さで大きく劣る漢軍が到着した時には、匈奴軍の大半は既に引き上げていた。・・・と見せ掛けて誘い込まれた白登山(現在の大同市)で漢軍は匈奴の大軍に完全に囲まれて大敗北を喫し、漢の初代皇帝・劉邦は命からがら脱出。

負けを認めざるを得なかった漢王朝は匈奴と和睦(紀元前198年)。匈奴の自由な往来が認められた。更に、圧倒的に匈奴優位な和睦条件だった。

  • 漢と匈奴は兄弟国となる。
  • 漢の皇帝(劉邦)の姫が、匈奴の単于(冒頓)の妃となる。
  • 毎年、漢皇帝から匈奴単于へ貢物が贈られる。

以上の条件を飲まざるを得ないほどの劉邦の大惨敗だった。

これ以降、匈奴の快進撃は留まらなくなり、北方5部族西方25部族程を服属させたと云われている。

匈奴を、遊牧系騎馬民族としては東アジア史上初の大帝国に伸し上げた冒頓単于は、紀元前174年に単于在位35年の生涯を閉じた。

(続く)

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