民族興亡史(3)=キエフ・ルーシ=

民族・部族興亡史

汎東スラヴ

トルコ共和国が汎テュルク主義に基ずく国家と云われる事に対して、事ある毎にトルコと対峙して来たロシア連邦は、「汎スラヴ主義(汎東スラヴ主義)」に基づく国家と云われます。或いは「汎ロシア主義」とも云われ「ルーシ人・・・は一つ」という国家思想主義です。ロシア・ツァーリの国家理念は、「東スラヴ人とは、ルーシ人であり、即ち、汎ロシア人であり、ロシア、ウクライナ、ベラルーシ、それぞれの共通の祖先である」という考えに基づいていた。そして彼らは、その汎ロシア人が居住するウクライナとベラルーシを併せて「汎ロシア主義(=汎東スラヴ主義)に基ずく大ロシア国家」を築いた。その集大成となったのが帝政ロシア。帝政ロシアの最大版図を集大成とするならば、それはソヴィエト連邦と書くべきでしょうけど、ソヴィエト連邦は、汎ロシア主義(=汎東スラヴ主義)の範囲を超越した国家ですし、社会主義の名を借りた偽りの専制君主制とも言うべき魑魅魍魎国家。スラヴ主体とは言うものの異質な国家なのでねェ。

ソヴィエト連邦崩壊後のウクライナでは、ウクライナ人の祖先はルーシ人ではなく、ルーシ・ウクライナ人であると、汎ロシア主義が否定されました。然りながら、ルーシ・ウクライナ人なんてものはない。笑止千万として、ロシア人達は、ウクライナの主張を歯牙にもかけない。そりゃそうだ。ウクライナは言い方を間違っている。ウクライナは、『コサック国家』とだけ言っておけばいい。それで十分に通じる。ウクライナの自由を脅かす国とは相容れず、ウクライナの自由と連携したい国とは共に戦う。それがウクライナ・コサックの神髄でしょう。

騎馬民族の興亡

イラン系遊牧騎馬民族諸族に侵略されて黒海沿岸の居住領域を狭められたとはいうものの、広大な黒海ステップの北側には東西に結構長い森林ステップがあって、この森林が東スラヴ族を騎馬軍団から或る程度守ってくれたように思えます。大騎馬軍団は、森林地帯を駆け抜けていくよりも大草原(大平原)を駆け抜ける方が似合いますしね。東スラヴ語族の多くは、騎馬軍団の”走行路”となった黒海ステップから遠ざかり、森林ステップやその北側に生活圏を持ってそれなりに安住していた(参照記事)。

東スラヴ語族が、大きくまとまって確固たる国家の建設をしなかった理由は分からない。目立たないようにゞして、遊牧騎馬民族を刺激しないことを強く意識していたのか、支配欲や統治欲のような感情を持つことが嫌われていたのか、その両方か。

結構長い間、歴史上では何事もなく、総じて平穏無事に見えていた東スラヴ人が知らないところで、イラン系の遊牧騎馬民族は存亡の危機に直面していた。

フン族襲来

周辺部族を吸収合併し大部族化したアラン族はこの世の春を謳歌していたが、突然?出自不明でミステリアスな遊牧騎馬民族のフン族が西進。マッサゲタイやサカ族の領域を破壊して、アラン族と対峙。アラン族も相当な戦力だったが、フン族の戦闘力はイラン系のどの部族をも凌駕していた。そして、アラン族はフン族の軍門に下り付き従うことになる(4世紀半ば頃)。

アラン族を露払いにしたフン族の別動隊は、コーカサスを北上。そして、本隊は悠然とユーラシアステップを西へゞと進む。そして・・・

南からと東からと物凄い数の騎馬軍団に襲われたのがクリミア・ゴート族。為すすべなく崩壊。男たちは奴隷化され、女たちは凌辱の限りを尽くされた。抵抗者たちは、慈悲も無く殺された。

その後、東西のゴート族を粉砕したフン族はアラン族や東スラヴ語族(ヴァンダル族など)を従えてスカンジナヴィアとイタリア半島などを除く殆ど全てのヨーロッパ本土を縦横無尽に駆けた。それに因って、ゲルマン民族の(死に物狂いの)大移動が引き起こされた。いや、ゲルマン民族だけじゃなく、西スラヴ語族も南スラヴ語族も大きな被害を被ったろうけど、スラヴ語族の歴史記録はあまり詳しく残っていない。フン族から逃れる為に西へ移動したスラヴ族は、パンノニア平原で西スラヴ語族と南スラヴ語族の二手に分かれて生き延びた。という説が信憑性が高そうだと個人的にはそのように思っています。

フン族は、あまりにも広大な領域を持ってしまったが故に、自分達が勝利した全ての地域を支配し続けることは出来なかった。それは後々のモンゴル帝国も同じだが、一時的破壊は受けたが、ヨーロッパはヨーロッパであり続けることが出来た。

しかし、東スラヴ語諸族にとっては厄介な遊牧騎馬民族系国家が残された。それが、現在のウクライナの南半分以上の領域からロシア南西部~カスピ海周辺にかけた広大な範囲を領域とするハザール・カガン国(下地図の「KHAZAR KHAGANATE」参照)。

東スラヴ語族の多くの部族は、ハザールに対抗する戦闘能力が無かった。故に、朝貢国として納税させられることを受け入れざるを得なかった。しかし、そういう状態が長く続くと、税の徴収を拒もうと言う反ハザールの声も出て来る。その声が大きくなると、全体の声のように受け取られる可能性もある。反ハザール派と親ハザール派(と言うより仕方なく従っている派)で、スラヴ人同士が対立する状況にもなって行った。

ただ、反ハザール派も、自分達(東スラヴ語族)だけで強力な騎馬民族相手に勝てるとは思ってなかった。味方を必要としていた。しかし、味方になってくれそうなゴート族は半分(東ゴート)は壊滅状態で、もう半分(西ゴート)はイベリア半島へ行ってしまい、クリミア・ゴートはとっくの昔に滅亡した。アラビア方面やギリシア方面にも強力な援軍は望めない。そういう中で希望の光となったのが北欧、スカンジナヴィアのノルマン人(スウェード人/スヴェーア人)ヴァイキング

ゲルマン民族系部族の多くがフン族相手に太刀打ち出来なかった中で、殆ど無傷だったのがノルマン人ヴァイキングだった。それは、フン族がスカンジナヴィア方面へ向かわなかっただけの事だったかもしれないが、東スラヴ人は藁をも掴む思いでイチかバチかの賭けに出る。ヴァイキングの凶暴さは騎馬民族に対抗し得るという結論に達し、現在のスウェーデンを支配していたスウェード人の一族と握手。そして862年。大勢のスカンジナヴィア・ヴァイキング(=ヴァリャーグ)を引き連れてやって来たのがスヴェード人大首長の息子リュ-リク(現在では、リューリクの実在性を疑う声もあるけれど)。

ノヴゴロド公国~キエフ・ルーシ

リューリク朝=ラドガ政権の興り~ノヴゴロド建国

東スラヴ人達は、リューリクを歓迎し、大勢のヴァイキングを居住させる為に、ヨーロッパ最大の湖と云われるラドガ湖の南、現在のレニングラード州ヴォルホフスキーを都市整備して提供した。此処がリューリクにとっての東スラヴ支配の始まりとなった(現在は、ノヴァヤ・ラドガ=「新しいラドガ」と呼ばれる。ノヴァヤ・ラドガと呼ばれるまでの時代をスタラヤ・ラドガ=「古いラドガ」と呼ぶ。リューリクに提供された当時は、単にラドガ=「ラドガ湖畔の街」だったかもしれない)。

リューリクは、ラドガに『リューリク政権=リューリク朝』を興した。そして間髪入れずに、東スラヴ12部族の一つ、スロヴェネ族が領していた現在のノヴゴロド州に半ば強引に新たな街=都市国家を建設した。これがノヴゴロド公国。リューリクが、スヴェード人内で既に公爵の身分にあったのかどうかは分からない。もしかすると、公爵という高い位の身分にあったから東スラヴ人達はリューリクを信用したのかもしれない。東スラヴ人達とリューリクの間には、最初から公位を認める約束が交わされていたのかもしれない。真相は分からないが、「公国」とした以上、其処に暮らす人々は、リューリクを君主として崇める臣下、臣民ということになる。スロヴェネ族の反感は相当なものだったと想像出来る。軒先貸して母屋盗られるという状況だ。

東スラヴ語族12部族の中でも最も早くコーカサスからの旅を始めて、どのスラヴ語族よりも北の領域を陣取ったと云われるスロヴェネ族は、現在のノヴゴロド州スタラヤ・ルーサに、最も古いスラヴ語族の古都ルーサを建設したと云われる。紀元0年の出来事という神話があるが、真偽の程は分からない。このルーサという都市名が『ルーシ』の語源という説もある。その説の真偽も分からないけれど、兎に角、ルーサを含む当時の地名ホルムガルドは、スロヴェネ族以外のスラヴ人にとっても大切な場所だった。そこが、スウェード人ヴァイキング達に占拠されるというのだから、そりゃ、黙っていられない。しかも、伝統名のホルムガルドをノヴゴロドという名前に変えられた。反発しまくりでしょうね。

遷都~キエフ・ルーシ建国~

ノヴゴロド公国の治政は常に不安定だったと考えられる。それでリューリクは新しい場所を求めた。それがキエフ(現在のウクライナの首都キーウ)。しかし・リューリクは879年に逝去。嫡男イーゴリ(=イーゴリ1世)と摂政オレグは、リューリクの死後3年経ってキエフをリューリク朝の新首都とするキエフ大公国を宣言(882年)。この”国家”名が当時の東ローマ皇帝を刺激して、やがてキエフ大公国と東ローマ帝国の戦争へと発展する。

ところで、イーゴリ1世の生年は877年と推定されている。当然、摂政が必要だった。オレグという人がリューリク家とどのような関係にあったのかは分かっていない。但し、摂政ではなく大公位にあったという異説もあるけれど、それだと公位簒奪者となるし、イーゴリの血筋は途絶えていなければならないし「リューリク朝」も変名されている筈。歴史上そうじゃないから摂政でしょう。但し、相当な権力を握っていたことは間違いない。

イーゴリ1世の母親の素性も明らかにはなっていないけれど、もしかすると、スロヴェネ族或いは他の東スラヴ部族の首長の姫だった可能性は高い。だから、イーゴリ以降のキエフ大公国は、ルーシの名に強く拘る統治を行った。キエフ大公国=キエフ・ルーシ。どちらかと言えば、後者の印象が強い。つまり、イーゴリ以降の大公が、ルーシ=東スラヴ族の血を継ぐ者達だったから東スラヴ族が従った。そういう事でしょうね。

今回はここまでです。

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