キンメリア族のアナトリア乱入

民族・部族興亡史

紀元前・紀元後という切り分けがない紀元前に活躍した史家さん、例えばヘロドトス(紀元前425年頃没)、トゥキュディデス(紀元前395年没)、クセノポン(紀元前355年頃没)という人達に、その年が紀元前何年だったかなんて分かるはずもない。だからそもそも、紀元前の歴史年代が合わない(矛盾がある)のは当たり前と言えば当たり前。しかも、言っちゃ悪いけど、ヘロドトスの取材相手なんて、その地域では物知りで有名というだけの爺さんや婆さんもいた。いや、そういう物知りさんの話が信用ならないとは言わない。が、そういう人達が子どもだった頃に(その頃の)老人に聞いた話なども『歴史』として記述されていたりする。神様だの天使だの悪魔だの化け物だの・・・それらと交わって誕生した人だの・・・それをどう信じろと?もしも、この頃の歴史問題で何年のことか答えろなんていう試験問題を受けさせられたら、(今なら)でかでかと「知るか!」と書いて返したいくらいです・笑

(※画像は、Wikipediaよりお借りしました)

キンメリアとは?

ヘロドトスの『歴史』には、「マッサゲタイをスキタイと同種であるとする人もいる」と書いているが、「スキタイ人は、はじめアジアの遊牧民であったが、マッサゲタイ人に攻められ悩まされた結果、アラクセス河(=ヴォルガ川と考えられる)を渡り、キンメリア地方に移ったという。」とも書いている。

以上の文を前回のエッセイに記述しましたが、今回は、スキタイ人に侵入されたキンメリアから書き始めます。

キンメリアは、紀元前9世紀頃の黒海北岸=南ウクライナに何処からともなく移動して来た遊牧騎馬民族で、現在の南ウクライナの黒海沿岸部を領土化していた。キンメリア国のように云われることもあるけれど、政治体系的に国家的であったかどうか懐疑的。なので、敢えて部族的に扱わせて頂きます。

因みに、古代アッシリア帝国の史料に出て来る部族名『ギミッラーヤ』がキンメリア人だと比定されています。が、ギミッラーヤにせよ、キンメリアにせよ、情報は極めて断片的。虫食い状態の情報を無理に繋ごうとすると年代や人名や出来事の殆どが矛盾する。なので、弊BLOGでこれまで触れて来たメディアやペルシアやスキタイやスラヴなどのエッセイと辻褄が合わない部分が出て来ますがアシカラズ。では始めましょうか。

キンメリア vs 新アッシリア

簒奪王・サルゴン2世

新アッシリア(紀元前911年~紀元前609年)は、アッカド人が建国した初期アッシリア(紀元前2600年頃~紀元前2025年頃)~アッシリア人を名乗った古アッシリア(紀元前2025年頃~紀元前1364年頃)~大帝国化を成し征服した国の民をエスニックグループとして吸収した中アッシリア(紀元前1363年頃~紀元前912年)という各時代を経て、完全に起源が異なる複数民族・部族によって運営される多民族大帝国。後のビザンツ帝国(東ローマ帝国)や神聖ローマ帝国などよりも更に複雑で歪な民族構成だった。恐らく、歴史書に見えている部分よりももっと根深い民族的対立が頻繁に繰り返されていた国家であったかもしれない。

多民族・部族による複合帝国だった新アッシリアに於いて、旧来のアッカド人の血を引くとか、アッシリア人の後裔とかそういう血統資格めいた国王を求める雰囲気があったかどうかは知らない。が、複合民族の大帝国だった新アッシリアの歴史に於いて、『簒奪国王』と記されているのがサルゴン2世。複雑な民族構成の帝国に於いて、王位簒奪を問われるのも可笑しい話ではあるけれど、この人の統治期(紀元前722年~紀元前705年)が、その百年後にアッシリア帝国という2千年続いた歴史的名称に終止符が打たれることへの序章となっている気がする。あくまでも個人観ですけどね。

サルゴン2世は、血統的な支援を受け辛い出自だったのかもしれないけれど、本人は前王(ティグラト・ピレセル3世:在位紀元前745年~紀元前727年)の子であることを主張していた。が、何の証拠もなく突然現れ30代半ばの年齢で王位に就いた(簒奪した)。ピレセルを名乗ることを認められなかったので、嘗て、アッカド人の大王として一代でアッカド帝国を成したサルゴン王の名を名乗った。しかし、この大名跡を名乗った事での反感も買ったかもしれない。

サルゴン2世のウラルトゥ遠征

即位の経緯からして、何としてでも王としての実績を出さないとならない。『サルゴン』を名乗った理由は、その大きなプレッシャーと戦う決意を示したということでしょう。求められる実績は大きな征服者となること。その事に執着したサルゴン2世は、先ずは、現在のトルコ東部からコーカサス南部に至る広範を領していたウラルトゥ王国を下すことを目指した。

紀元前860年前後に国家化したウラルトゥ王国のウラルトゥ人は、紀元前1250年のアッシリア史料に初めて出て来る。国家化するまでの長い間、中アッシリア~新アッシリアやその他周辺国家に対して傭兵契約を交わしていたいわゆる戦闘部族だった。恐らく、遊牧騎馬民族が国家化したのでしょう。キンメリアが目指していたのも、第二のウラルトゥになることだったと考えられる。

そのウラルトゥ王国がルサ1世の統治末期だった紀元前714年頃に、ギミッラーヤに敗北した。ということと、その報せに喜んだサルゴン2世がウラルトゥへ遠征し大勝した(が、征服は出来なかった)ということがアッシリア史料に記されている。

ギッミラーヤに対してルサ1世が敗北したという唐突な報に対して、この機を逃す手はないと急ごしらえで遠征軍を招集して、通常ルートよりもかなり険しい行軍行程を強行したことで、将兵達の間に不満の声が大きく渦巻き、極めて不穏な空気が漂ったと云われる。大勝利はしたものの、この遠征は、本来であれば雌雄を決するところまで行くべき戦だったが、サルゴン2世は内部の空気に身の危険を感じ取ったので中途半端に撤退した。という事でしょう。

バビロン王・サルゴン2世

ウラルトゥの征服を先送りにして、翌年、独立の動きを加速させていたバビロンへ遠征する。この時も、それまで繰り返された通常の遠征ルートとは違う新ルートを開拓したサルゴン2世は、バビロン側の守備隊が予想もしていなかった方向から攻め寄せ陥落させた(紀元前709年)。当時のバビロンは、新アッシリアの属国に近い状態だったので、独立は阻止したものの大きな実績と呼ぶほどのものではない。

この頃、『サルゴンの要塞』という意味の新首都ドゥル・シャルキン建設に着手していたこともあってサルゴン2世はバビロンに居住してバビロンの覇者として3年の間君臨して見せた。それこそ、アッカドの大王サルゴンの再来を見せようとしたのでしょう。昔の偉人様を揶揄するなどとんでもない事ですが、少し、焦って見栄を張ったというバビロンの3年間かな?

サルゴン2世の呆気ない最期

紀元前705年。ギミッラーヤによるアナトリア侵略行動が頻繁に繰り返されるようになり深刻化する。

キンメリア族を討伐するべくバビロンを出たサルゴン2世率いるアッシリア(とバビロン)軍は、しかし、疾風の如くアナトリアを駆け抜けるキンメリア族を補足出来ずにアナトリア西部のタバルへと向かう。タバルやその周辺一帯は、嘗てはアッシリアと激しく覇権を争った旧ヒッタイト帝国領でもある。紀元前1200年のカタストロフで破滅したヒッタイトですが、ヒッタイトの後裔を自称する部族達は少なくなくて、アッシリアに対してもけっして従属していたわけではない。それ故に、タバルは絶対に油断出来ない場所。

サルゴン2世軍がどうしてタバルへ足を踏み入れてしまったのかは少し謎の部分が多い。タバルの各部族とキンメリアは打倒アッシリアという目的では一致していた。というわけで、キンメリア族はタバルに潜みサルゴン2世率いるアッシリア軍の到来を待ち構えていた。そして飛んで火にいる夏の虫(季節が夏だったかどうかは知らない)の如く、キンメリア族とタバルの部族連合に取り囲まれたアッシリア軍は壊滅状態となり、サルゴン2世も討ち死にした。

新アッシリアに勝利し、フリュギアの諸都市を蹂躙するなどアナトリアを荒らし回ったキンメリア人は、更に奥深く侵入し、西側の海へと向かう。そしてキリキアも荒らし回った。ま、そんな事ばかりやっていたら嫌われるし、討伐機運も高まる。「アッシリア頑張れ!」と支援の輪も広まる。でも、アッシリアがキンメリアを粉砕するまでには30年近くを要した。その間のキンメリアが何処をどう荒らし回っていたかなんて分からない。

時が経ち、紀元前679年~紀元前676年頃、キンメリアはアッシリアに幾度となく乱入し神殿を破壊するなどしていた。その頃のアッシリア王は、サルゴン2世の孫エサルハドン(在位:紀元前681年~紀元前669年)。在位中にエジプトを征服するなどアッシリア帝国の最大版図を築いたことで有名な王である。が、父王の後継問題で兄弟達と激しく争い、即位後も兄弟のクーデターに遭うなどけっして順風満帆な治政ではなかった。が、エサルハドンが人心を掌握することが出来たのは、祖父王サルゴン2世の仇であるキンメリア族に勝ったことに因る。

エサルハドン自らが率いるアッシリアのギミッラーヤ討伐軍は、首長テウシュパに率いられキリキアを荒らし回っていたギミッラーヤの一団を発見すると一気に急襲。テウシュパを捕らえ処刑した。エサルハドンは祖父の仇を討ち王としての面目を保った。という事だけど、キンメリア族が滅亡したわけではない。が、その後のエサルハドンは、自らが再建したバビロンを第二の拠点とし、それまで散々苦しめられていたエラムと外交合意して、エラム王の子はエサルハドンが育て、エサルハドンの子はエラムの王ウルタクが育てるという異例の嫡子交換による親戚付き合いを始めた。この事で、エラムはそれまで繰り返し行っていたバビロン攻撃を一切止め、アッシリアもエラム領への不可侵を守った。東側の脅威を和らげたことで、アッシリアはエジプト征服へ向かいそれを成した。

キンメリア vs フリュギア

キンメリア族から多くの被害を受けていたアッシリア同盟国の一つがフリギュアです。

フリュギア人とは、インド・ヨーロッパ語族フリュギア語派の人で、元々はバルカン半島の一角に暮らすギリシア系部族ブリゲスだった。とヘロドトスは書いている。ギリシア人のヘロドトスだから其処ら辺の取材は正しいのかもしれない。ストラボンも、フリギア人、ミグドン人、ベブルケス人、ビテュニア人は、共にバルカン半島を出てアナトリアに移住した人々であると書いている。

フリギュア人がアナトリアへ向かった年代は紀元前1200年のカタストロフ前後と云われているが、フリュギア人やその他のギリシア系部族が『海の民』と呼ばれた人達である可能性は限りなく低い。当エッセイは、『海の民』探しを目的にしていないので先を急ぎます。

紀元前8世紀のフリギュアは王国化を果たし、サカリア川上流峡谷に建設した首都ゴルディオンを中心に拡大。西アナトリアから中央アナトリアにかけた広範囲を領土化していたと云う。
最盛期にはアッシリア帝国やその先のウラルトゥ王国迄へも侵攻した。が、西側のリュディア王国が力を付けて来ると領域を東へ動かざるを得なくなる。するとカッパドキアやアッシリアとの衝突を繰り返し徐々に疲弊していき、結果的に、アッシリアの同盟相手として生き残る道を選んだ。ところが上述したようにアッシリアのサルゴン2世がキンメリア族相手に敗死する。

同盟相手と言うか、頼っていたアッシリアさえ勝てなかったキンメリア族に対してフリギュアは為す術がなく、ストラボンによるとキンメリア人は、紀元前696年にフリュギアの首都ゴルディオンを破壊した。フリギュア国内での掠奪行為はそれ以前から繰り返されたことは間違いない。そして、フリュギアの王ミダスは戦場自害する(アッシリアの史料)。

大国の姿は失ったフリギュ人はリュディアを頼りやがて併合される。

ということで、リュディア vs キンメリアに舞台は移るのですが、それは次回へ。

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