キンメリア族の終焉とオリエント世界の興亡史(紀元前1200年のカタストロフ以降~アッシリア滅亡まで)

民族・部族興亡史

傍若無人な振る舞いを繰り返すキンメリア族は、アナトリアに暮らす民からは、憎悪の対象として見られていた。・・・かどうかを知っているわけでもないけど、きっとそうだろう。

キンメリアに限った話ではなく、古代の遊牧騎馬民族の多くは、自分達で何かを産み出すことをせず、欲しいものがあれば奪い取ればいい。という考え方をしていたように受け取れる。その暴力性を以て他を威圧することが生計手段である彼らは、見た目の威圧の為に大量の馬を欲しがり、多くの仔馬を飼育する為の優良な放牧地を求める。定住地に拘らない。牧畜に精を出す以外の者はほぼ盗賊(山賊)行動に精を出す。ちょっとでも放牧に適した良い場所だと思えたら勝手に侵入して来るし、美味そうなものや金目の物を目にしたら奪い取りに来る。嫌われるに決まっているのだが、嫌われようが何しようが、自分達だけが大事というのが長い間培われて来た古代遊牧騎馬民族の習性である。

「騎馬軍団」「騎馬民族」・・・『騎馬』という言葉の響きに一種の憧れを抱く日本人はけっして少なくないが、古代の民にとっては、これ以上の厄介者はいないって感じだったのではないですかね。

リュディア vs キンメリア

リュディアは、タバル同様に、紀元前1200年のカタストロフ以降に南東アナトリアを中心に登場したシリア・ヒッタイト群の一つ。シリア・ヒッタイト諸国の中では最も名を成した。

ホメロス著の『イリアス』では(その頃は未だ、リュディアの存在がないので)其処は「マイオニア人の地」と呼ばれていた。マイオニア人がリュディア人になったのでしょうけど、ヒッタイト帝国のハッティ人とリュディア人とは完全に別物なのかどうか良く分かりません。兎にも角にも、リュディア王国として名を売り始めるのは、紀元前680年~紀元前640年にメルムナデス朝の初代として在位したギュゲスから。ということは多くの史家の共通認識のようです。メルムナデス朝以前は、神話の世界に入りヘラクレス朝。ヘラクレス朝の前はアティス朝。ホメーロス曰く、マイオニア人の王アテュスの子リュドスがアティス朝を興してリュドスに因む「リュディア」が国号となった。但し、『イリアス』と照合していけば、リュドスは紀元前2千年紀の人になりますのでシリア・ヒッタイト群の中から・・・というくだりとは矛盾する。ギリシア神話の世界と絡む部分が多い国々の歴史起源とか、不肖私は知識不足でほんとよく分かりません。

リュディアの地は、膨大な量の金を産出した。現代でも価値基準の重要な一つである”金”ですが、古代でも持て囃されていたようです。それ故、いくらでも砂金を産出出来ていたトモロス山や砂金の川・パクトロスは、リュディアにとってこの上ない重要な資金源でした(と、如何にも見て来たかのように書いているが、トルコなんて行ったことない・苦笑)。

リュディア王国の首都サルディスは、金の加工(工芸)技術によって大いに栄え、繊細で美しい装飾技術は金加工に留まらず、毛織物や敷物の製作などへも生かされた。金細工、染色を施されたリュディア製の美術工芸品は、周辺の王族・部族の首長などとの取引(例えば、武器・資金・兵・奴隷など)にも活かされた。ということだが、リュディアにとって招かざる”客”、いや、金など払わず略奪する単なる賊徒がキンメリア族だった。

紀元前8世紀頃からアナトリア西部にも頻繁に出没するようになったキンメリア族は、リュディアへも侵入を繰り返した。その頃、リュディアはアッシリア帝国へ朝貢していたが、アッシリアもキンメリア相手に苦戦していて、リュディアの防衛に助力してくれているとは言えない状況だった。

同じようにアッシリアを頼っていたフリギュア王国は、紀元前696年頃に首都ゴルディオンをキンメリア族に破壊された。リュディア人はその事を知ると、自分達の首都サルディスもおなじような目に遭うのではないかと浮き足立った。と同時にアッシリアへの信頼は地に落ちていく。当たり前だが、守ってくれない国への朝貢ほど無駄な投資は無い。

アッシリアとエジプトの対立

キリキアとアッシリア

紀元前705年。キンメリア相手に敗死した父王サルゴン2世の後を継いだアッシリア王センナケリブは、すぐにでもキンメリア族討伐に乗り出したかったろうけど、サルゴン2世の崩御をきっかけにして、キンメリアに構っていられない程、周辺環境が悪化した。

アナトリア南西部のキリキアは、元々はヒッタイトが強固に支配していた領域だった。しかし、紀元前1200年のカタストロフでヒッタイトが殲滅されて以降は激しい住民移動が起きて、歴史で詳しく追う事が出来ない期間が長らく続いた。即ち、明確な支配者がいない大小複数部族の鬩ぎ合いが数百年も続いた事になる。そういう中にシリア・ヒッタイト(又は、シロ・ヒッタイト)と呼ばれる時代が出て来るのですが、ヒッタイトの宿敵だったアッシリアはキリキアの支配に最も意欲的な国家であった。が、サルゴン2世崩御後の混乱期にギリシア諸国が次々とキリキアへ進出して来る。キリキアの中には、ギリシアと手を組み、アッシリアからの”地域的独立”を図ろうとする部族の行動も目立つようになった。

そういう事を許せば一気に求心力は低下する。新王センナケリブはキンメリア族を捨て置き、先ずはキリキアの事態収束を急ぐ必要に迫られた。元々、団結力が薄く大国の登場が無かったキリキアなので、ギリシア諸国も何処と組めばアッシリアと対抗し得るのか迷った。というわけで、この地域闘争はアッシリア軍の圧勝で終わり、ギリシア勢は手を引いた。

こういう事が起きるのも、父王(サルゴン2世)が神の庇護を失った所為だと理由付けしたセンナケリブは、遷都予定のドゥル・シャルキンを不吉な場所として嫌い、ニネヴェをアッシリアの新たな首都として急ぎ整備した。有名な無比の宮殿を建てるなど神々の庇護を強く求め、ニネヴェは神聖なる首都として機能していく。アッシュールは、伝統的な首都、政治的中枢として在り続けた。やっぱアッシリアと言えばアッシュールですよね。ローマ人がコンスタンティノープルを新たな首都として遷都して以降も、西ローマ帝国を建て、西ローマの首都としてローマをけっして捨てなかったことと一緒です。

キリキアとエジプト

話を戻すと、アッシリア軍がキリキア制圧に忙しかった頃、エジプト王国は、アッシリアの監視が手薄になったユダ、シドン、シドカ、アシュケロンと言った地域諸国の王達と密かに同盟してアッシリア国内でのクーデターを扇動した。

キリキアは、エジプトにとっても因縁の地。紀元前1286年頃と記されているけれど、ラムセス2世の治世期のエジプトはシリアへの領土拡大を図りヒッタイト帝国と激突(カデシュの戦い)。この戦争こそが、公式軍事記録として残る世界最古の国際戦争と既定されている。そして、勝敗は付かず講和へと向かいますが、その際に結ばれた条約も世界最古の国際条約と記されている。

というわけで、ヒッタイト亡き後のシリアやキリキアを、然も当然のように独占しようとするアッシリアに対して、最も強く異を唱えたのがエジプトだった。しかし、エジプトの警告に聞く耳を持たないアッシリアはキリキアやシリアへ何度も軍事侵攻し続けた。それに対して「もう我慢出来ないぞ!舐めるなよ」というわけで、エジプトは、アッシリアに宣戦布告をしたも同然の煽動作戦に出たわけです。

ところが、圧倒的な地域大国だったエジプトは対外戦争慣れしていなかった。対して、しょっちゅう戦争していたアッシリアは、騎馬民族を含む様々な相手の戦闘技術を学び、その軍事技術はエジプトの比ではなかった。というわけで、上述の地域諸国は短期で鎮圧され、エジプトから来ていた傭兵らも駆逐された(紀元前701年)。

アッシリアとエラムとバビロニアの関係

エラムは、民族の起源を紀元前6000年頃まで遡ることが出来る世界史上でも有数の古い歴史を持つ。エラムは、紀元前1100年頃にバビロニアのイシン第2王朝=バビロン第4王朝のネブカドネザル1世の侵攻を受けて首都スサを占領された。しかし、古エラム時代から他国による侵略を繰り返し受けていたエラム人にしてみたら、「またですか」みたいな感じだったかもしれない。が、この時から始まる衰退期は300年も続いた。それでまた復活を果たすので、エラムもなかなかしぶといのであるが・・・

紀元前8世紀頃のエラムに興ったフンバンタラ朝は、アッシリアに対抗する為に敵対を繰り返していたバビロニアと同盟する。バビロニアが、紀元前729年にアッシリアに占領された時には、エラム軍がアッシリア軍を撃滅してバビロニアを解放することに成功している。

しかし、サルゴン2世時代のアッシリアに再び占領されたバビロニア王メロダク・バルアダン2世は危うくエラムに逃げ込んだ。その後、エラムの支援でメロダク・バルアダン2世はバビロンに凱旋するが、アッシリアがセンナケリブの代になると再びアッシリアに併合された。それ以降も、エラムはバビロニアの独立闘争を支援し続けるが、一時的に成功しても長続きせず、バビロニアは常にアッシリアの手に落ちて行った。

アッシリア黄金期最後の王と云われるアッシュールバニパルの治世期に、遂に、アッシリアとエラムは雌雄を決する大決戦に突入する(紀元前653年・ウライの戦い~紀元前647年・スサの戦い~紀元前647年・第二次スサの戦い)。が、その全ての戦いでエラムは大敗した。それでも、約100年間、エラムは存続し続けるが、紀元前539年にアケメネス朝に併合され滅亡する。

リュディア vs アッシリア

キンメリア族の襲来に怯えていたリュディアにとって、アッシリアは頼りにならない相手だったかもしれない。が、エジプトは、(戦闘能力的に)もっと頼りにならない相手だった。ところが、リュディアはその事を理解出来ていなかった。また、当時のギリシア世界ではアテナイこそ最強だったのに、スパルタと握手してしまう。

リュディアは、重要な貿易相手であるギリシアの諸国家やエジプト王朝に対して自国防衛の為の大量の傭兵派遣を要請。その話にスパルタが乗り、エジプトも乗った。エジプトを頼ったリュディアに対しアッシリアは不満を募らせる。が、リュディアに言わせれば「あんたらがアテにならないから」という返答になる。

アッシリアは、紀元前701年にエジプトを蹴散らした実績を持つが、それでもまだエジプトがまだ大国であることは間違いない。そして、ギリシア(スパルタ)のアナトリア進出も厄介な話だった。

紀元前676年頃、アッシリアは、ようやくキンメリア族の首長テウシュパを捕らえて処刑した。リュディアにとっての脅威を払しょくすることに成功したかに見えた。が、キンメリア族によるリュディア侵入は繰り返され、首都サルディスまでもが何度も襲撃を受け忌々しき事態となる。

リュディアは、スパルタやエジプトからの傭兵支援を受けて、紀元前666年頃にキンメリア族のリーダー格2名をリュディア国内で捕らえた。そして、その身柄をアッシュールへ送還するのだが、その際にリュディア王ギュゲスは、アッシュールバニパルに対して朝貢停止を併せて伝えた。つまり、これからのリュディアにとって必要な相手は、アッシリアではなくエジプトだ!スパルタだ!という決別宣言を行ったことになる。

スパルタはまだ直接的な脅威では無かったものの、アッシリアにとってエジプトは敵視対象。その敵と同盟すると言うのだからリュディアは敵と見做された。アッシュールバニパルは、送還されて来たキンメリア族の二人と取り引きを行い、なんと同盟関係を結び、アッシリアとキンメリアの”連合軍”がリュディアへ侵攻する。黄金期アッシリアに於いて、その中でも最強と謳われたアッシュールバニパル率いるアッシリア軍とキンメリア族は、あっさりとリュディアを征服した。リュディア王ギュゲスは敗死した。

その勢いのまま、アッシリア軍はエジプトへ侵攻。エジプト王朝は滅亡する。(滅亡しては復活するその繰り返しになるエジプト王朝の話は別の機会に)。

アッシュールバニパルは、ギュゲスの嫡男であるアルデュスの即位を条件付きで承認した。リュディア王国はその条件通りにアッシリアへの朝貢を再開し服従国となる。アルデュスの時代のリュディアの首都サルディスは、アクロポリスを除いた全域がキンメリア族による掠奪対象となった。

リュディアから見て宗主国に戻ったアッシリアは、キンメリア族の行為を捨て置けばいつかまたリュディアが離れていくことは必定であり、キンメリア族に対してアッシリアの影響が及ぶ範囲での掠奪行動は極力控えるように申し入れた筈。キンメリアは一旦は黒海ステップに引き上げた。ところが・・・

キンメリア逃走劇~滅亡

キンメリア vs スキタイ

キンメリア族には、戻って安住出来る場所など無かった。(参考記事

参考記事中に書いたように、マッサゲタイに敗北したスキタイが黒海ステップ方面に大量移動して来てキンメリア族の領域にも侵入していた。キンメリア族とスキタイで大きな戦闘が行われるが、非騎馬民族とばかり戦い続けていたキンメリア族に対し、強力な騎馬民族(マッサゲタイなど)との熾烈な抗争を繰り返していたスキタイは、対騎馬民族との戦闘に於いては一枚も二枚も上だった。キンメリア族はスキタイに完敗し領土を失う。

スキタイの攻撃は容赦なかった。領土防衛にしがみついていたら全滅の恐れもあったキンメリア族は、それでも領土防衛に拘る派と領土を棄て生き延びようとする派に大別された。ヘロドトスの『歴史』の第4巻11では、当時の状況を以下のように記している。

「今日スキュティア人の居住する地域(南ウクライナ)は、古くはキンメリア人の所属であったといわれるからである。」
つまり、南ウクライナに暮らしていたキンメリア人は、スキタイ人の侵入により其の地を追われたという事になる。ストラボンの『地理誌』と併せるとその後のキンメリアは以下のようになっていく。

スキタイと対峙したキンメリアの選択は、首長側の徹底抗戦派とそれ以外の逃走派に大別された。首長側は「国土を棄て恥じた逃走の結果生き延びるよりは、誇りを胸に戦い祖国の地で死んだ方がマシである」と主張を譲らず、首長に従った者達はスキタイ相手に激闘したが全滅した。戦地に赴かず隠れていた民衆側は戦いの後、スキタイに気付かれないよう戦死者達の遺骸を埋葬した。

スキタイ相手に復讐戦を挑むことなくキンメリア族は(黒海の)海岸沿いに逃げた。スキタイは、逃走した者達がいることを知り、逃げたキンメリア人を追ってカフカス山脈を右手にしつつ南下したが、道を誤ってメディア領内に侵入する。その頃のメディアは、まだスキタイに対抗する力など持っていなくて、約30年間、スキタイの支配を受けるのだが、その間、スキタイの戦闘述を学んだメディアはスキタイに逆襲。大国化していく。

ウラルトゥの悲劇

祖国を守るために戦った者達を見捨て、自分達だけ生き残ろうと逃走したキンメリア族を敬う人達は何処にもいなかった。当たり前だね。いくらスキタイが強力な軍事集団であったにせよ、自分達だって騎馬軍団部族として黒海周辺やアナトリアを荒らし回った武闘集団である。それが戦わずして逃げるなんて・・・

コルキスで断られ、更に南下した先のウラルトゥ王国の対応も冷ややかだった。しかし、来た道を戻ればスキタイに捕まる。二進も三進も行かなくなったキンメリア族はウラルトゥ国内を強行突破しようとする。しかし、アッシリア帝国相手に幾度となく戦った誇りあるウラルトゥはキンメリア人を軽蔑し通過を阻止する為の武力行使も厭わなかった。

戦うのがイヤで逃げたキンメリア人たちであったがこうなっては戦わざるを得ず、必死で戦い抜いて遂にウラルトゥを駆け抜けた。

キンメリア族を捕らえ損ねたウラルトゥに、キンメリアを追うスキタイ人が侵入する。ウラルトゥにとっては迷惑な話だが、スキタイを黙って通すことを拒んだウラルトゥはスキタイと全面戦争へ突入。しかし、キンメリア族でさえ取り逃がす程度のウラルトゥ軍ではスキタイに適う筈もなく大敗を喫し、紀元前858年頃から250年以上続いたウラルトゥ王国は滅亡する(紀元前585年)。

逃走を続けるキンメリア族は、最終的に、スィノプまで辿り着いた(現在のトルコ共和国スィノプ県の県都)。

アッシリア帝国の最期

左は、新アッシリア帝国の版図、、、右は、アッシリア帝国滅亡直後のオリエント世界

黄金期最後の国王アッシュルバニパルが紀元前631年に崩御すると、抑圧されていた人々=被征服民の内乱が相次ぎ、新アッシリア帝国の栄華は怪しいものとなっていった。

アッシュルバニパルの跡を継いだアッシュル・エティル・イラニの治世は僅か4年で終わる。紀元前627年に弟・シン・シャル・イシュクンが王になると、宦官シン・シュム・リシルが反乱を起こす。これは何とか鎮圧出来たものの、紀元前625年に、ナボポラッサル率いる反乱軍がバビロニアで蜂起。バビロニア各地で激しい戦いが繰り広げられたが、バビロンで一般民衆主導のクーデターが起きて万事休す。ナボポラッサルを新王として迎えたバビロンは、アッシリアからの独立を果たす。

次々と領土を失ったシン・シャル・イシュクンは、急落した求心力を取り戻そうと必死だったが、紀元前623年、大軍を率いてバビロニアへ向かいアッシリアを留守にした時、アッシリア中心部でクーデターが起こる。バビロニア征圧どころじゃなく本国へ取って返し何とかクーデターは鎮圧した。が、バビロンではナボポラッサル体制がいよいよ強固となった。

紀元前620年に、ナボポラッサルが率いるバビロン軍がニップルを陥落させ、ナボポラッサルは名実共にバビロニアの王となる。

同じ頃、メディア族がアッシリアの支配を抜けて勢力拡大。紀元前615年の晩秋、キュアクサレス2世に率いられたメディア軍によってアッシリア領のアラプハ周辺地域が制圧された。それを何とかしようとしたシン・シャル・イシュクン率いるアッシリア帝国軍とメディア軍は激突(タルビスの戦い)。そしてメディア軍が大勝する。いよいよ、オリエントの盟主が交代する時が訪れる。

紀元前614年、メディア軍はアッシュールを占拠するが、この時、多くのアッシュール市民が殺害され、凄惨極まる略奪が繰り返されたと云われている。

ナボポラッサル率いるバビロニア軍がアッシュールに入ったのは、メディア軍による略奪行為が繰り返されていた最中だった。キュアクサレスとナボポラッサルの会談によって、メディアとバニロニアによる反アッシリア同盟が成立する。ナボポラッサルの子ネブカドネザルとメディアの王女の婚姻も決まった。

アッシリアは、それから5年頑張ったが、紀元前612年には、その頃の首都ニネヴェを陥落させられ、アッシリアの命運は尽きていた。シン・シャル・イシュクンの行方は不明になるが、通説として、ニネヴェ防衛戦の中で敗死したと云われている。

負けが殆ど決まっていた中で、アッシュル・ウバリトという名の将軍がアッシリア王を名乗り、エジプト王朝が、”今更ながら”の軍事支援を申し出た。

エジプト軍はメギドの戦いで、ヨシヤ王率いるユダ軍を破り、アッシリアの残党と合流。紀元前609年、ハッラーンの会戦に挑んだが、バビロニア・メディア連合軍に打ちのめされる。此処に、アッシリア帝国は事実上終焉の時を迎えた。紀元前605年には、再び、アッシリアの残党とエジプト軍がバビロニア軍に立ち向かうがこれも惨敗に終わる(カルケミシュの戦い)。

新アッシリア帝国は滅亡したけれど、アッシリア文化(アッカドの文化)は、後々まで影響を残した。

リュディアの大国化とキンメリア族の呆気ない最期

アッシリア帝国が末期へ向かっていた頃、アルデュスの嫡男サデュアッテスが王位を継ぎ、苦境の時を乗り越えたリュディアは、逆に、最強国家への道を突き進んでいた。イオニア同盟を成していたギリシア人の町スミュルナ(現在のトルコ共和国第三の大都市イズミール)やクラゾメナイを征圧した。それを皮切りにギリシア本土へ侵攻。イオニア系植民市の中でも最も繁栄していたミレトスとの12年間にも及ぶ戦争へ突入する。

ミレトスは、港湾交易で栄え、近隣のギリシア人都市国家とも密接な関係にあった。が、その頃の内実はコリントスの僭主トラシュプロスから強力な独裁支配を受けていた。というわけで、リュディアの戦争相手はミレトスでもあり、コリントスでもあった。そしてコリントスとはポリス同盟を組むアテナイ、テーベなどとも争わねばならなかった。故に、ミレトスを陥落させても戦争は終わらない状態で泥沼化した12年だった。

戦争が長引けば民衆不満は渦を巻く。サデュアックスは「民衆の声」を受けた誰かの手によって暗殺された(紀元前610年)。

サデュアッテスの後を継ぎリュディア国王に即位した嫡男アリュアッテスは、ギリシアとの戦争を停止して、アッシリアの支配力が薄まったフリギュアを傘下に収めた。これは、新たな大敵メディアに備えたことである。

紀元前600年頃のリュディア地図///右上はリュディア貨幣///右下はジャン=レオン・ジェローム作『カンダウレス』 ヘラクレス朝最後の王カンダウレスが、自分の妻の美貌を友人(後のメルムナデス朝初代ギュゲス)に覗き見させていたという逸話の絵  全て、wikipediaよりお借りしました。 

アリュアッテス時代のリュディアに対して、エーゲ海東岸のギリシア人都市が朝貢していたと云われている。この頃より、古代ギリシアと古代オリエントの文化的交流は活発化していく。更に、アリュアッテスの治世期には、世界史上初めての貨幣(リュディア貨幣)が造られ流通したと記録されている。が、現在発見されている貨幣の何れもがギリシア文化の影響を受けているものらしく、初期段階の貨幣は発掘されていない。

紀元前605年頃、憎むべきキンメリア族が再び現れた事を聞きつけたアリュアッテスは、ほぼ全軍を指揮してスィノプを包囲する。恐らく、キンメリア族は、ウラルトゥの領域を抜けた後にアッシリアに匿われていたと考えられるが、アッシリアがメディアに攻撃されると、一部の者達はアッシリア軍と共に戦ったとは思うのだが、多くの者は結局は運命を共にすることなく逃げ出したんでしょう。そして、遂に、キンメリア族は全滅した。最も憎悪されたアナトリアに逃げ込んだのが運の尽きってヤツ。アッシリアと運命を共にしての全滅の方がまだ見栄えの良い最期だったろうけど、ま、奇しくも時同じくしてって感じですね。

メディアがリュディアへ侵攻したのは紀元前590年頃。ところが、5年目の戦闘真っ最中に突然の日食(紀元前585年5月28日)。この事に神の所業(神の怒り)と恐れ慄いた両軍兵士は戦闘意欲を失くした。それにより、現在のクズルウルマク川を国境とすることで合意し休戦協定が成立した(日食の戦い)。更に、リュディアとメディアは両者間の平和の証として婚姻を結ぶ。メディアの族長キュアクサレス2世の嫡男アステュアゲスにリュディア王アリュアッテスの娘アリュエニスが嫁いだ。アステュアゲスとアリュエニスの間に生まれたと云われるマンダネは、後に、アケメネス朝の大王キュロス2世の母親となる。歴史は、当たり前だが人間の縁と時の巡り合わせで築かれる。

リュディア vs アケメネス朝

時が過ぎ行き紀元前548年。リュディアは、アケメネス朝との会戦に及んだ。アケメネス朝の王は当時のリュディア国王クロイソスの妹アリュエニスの孫に当たるキュロス2世(クロイソスの姪マンダネの子)。日食の戦いでメディアとリュディアの休戦協定が結ばれなければ成立しなかった縁である。

クロイソスは、ギリシアへの遠征を何度も成功させ、戦争賠償金や貢物などで多額の富を得た大資産家であった事で知られている。負けた戦争が殆どないと常日頃より豪語していたクロイソスは、勝ち過ぎて金持ちになり過ぎて慎重さを欠いていた。アテナイの高名な政治家でクロイソスの友人でもあったソロンは、「このままではあなたは不幸になる」と度々警告を発していたが、自惚れたクロイソスは聞く耳を持とうとしなかった。

怖いもの知らずのクロイソスがただ一つ恐れていたのがメディア族であった。何せ、リュディアにとっては大敵だったアッシリアを滅亡に追い込んだのがメディアであり、メディアとの衝突を避けたいが為にギリシアへ協力を求めていたのだから。しかし、メディアはアケメネス朝に敗れ去った。クロイソスからしてみたら、両国とも、「私の妹の国」みたいに身内と思っていたかもしれないが、アケメネス朝の台頭にも危機感を持つのが遅過ぎた。そもそもペルシア軍の主力は、嘗てアッシリアを葬り去ったメディア人達である。そして歴戦の兵達を統率するのは戦略家で知られたハルパゴスである。

リュディアとの会戦に於いてハルパゴスが用いた作戦が「ラクダに騎兵を乗せて駆けさせる」というもの。ラクダの臭いを嫌う馬はラクダには近付かない。余りある資金で騎馬軍団を傭兵として搔き集めていたリュディア軍ですが、敵のラクダ作戦で馬が機能せず中央突破された。守備隊にも大量のラクダ隊を布陣させていたペルシア軍に対して、騎馬隊は無力だった。

また、クロイソスに対してソロンは、「手を組む相手はアテナイやテーバイです」と強く勧めたが、クロイソスは、スパルタと手を結んだ。嘗て、キンメリア族との戦いでも機能しなかったスパルタとの同盟はこの戦いでも機能しなかった。

リュディアの都サルディスを陥落。クロイソスは捕らえられた。母方の祖父に当たるクロイソスとその家族をキュロス2世は助命した。が、リュディア王国は滅亡した。

将軍ハルパゴスは、イオニア同盟諸国を駆逐してギリシア東部へ侵入し、アケメネス朝の版図を大きく拡大した後に亡くなった。

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