愛の詩人 エリザベス・バレット

LOVE & EROS

マラトンの戦いに纏わるアレコレ

サカ族の参戦

紀元前6世紀のいつの頃か、現在のカザフスタン南部・キルギス北部、東へ100km程進めばバルハシ湖という辺りを本拠として領土を持ったのが遊牧騎馬民族のサカ族(ギリシアではサカイ)。

サカ族 については、「月氏」「塞」など東方の民族か、イラン系民族か、どちらも確証は得られていない。ところで、以前から書いているけれど、「イラン」建国の遥か昔の「イラン」という名称を聞いた事すらない時代の人々を「イラン系」と呼ぶことには同意したくないのである。けれども、他の名称で呼びようが無いので今回も止むを得ない(苦笑)因みに、ヘロドトスは(サカ族を)スキュタイ(スキタイ)の一部と記し、ストラボンもそれを否定していない。

サカ族について最も分かり易く記されているのは、現在のイラン・イスラーム共和国ケルマーンシャー州にあるベヒストゥン磨崖碑まがいひ。この磨崖碑に刻まれているのは、紀元前522年から紀元前486年に在位したアケメネス朝の王ダレイオス1世の即位の経緯とその正統性を主張する文章とレリーフ。この中でにある記載で、サカ族は三つに分けられている。

サカ・ティグラハウダー(尖がり帽子のサカ)中央アジアの西側
サカ・ハウマヴァルガー(ハウマを飲む、あるいはハウマを作るサカ)中央アジアの東側
サカ・(ティヤイー・)パラドラヤ(海のかなたのサカ)サカ族から見て「海」はカスピ海、或いは「黒海」。即ち、海のかなたのサカはスキタイを指す。と歴史家の多くはそのように言う。しかし…
日本人に非常に似ているキルギスの傍に位置するサカ族から見て、海のかなたは日本列島でもいいじゃんね・笑。ほんの冗談だけどね。

サカ族は、アケメネス朝の傭兵としてペルシア戦争の序章となったマラトンの戦い(紀元前490年)に参戦している。中央を突いたサカ族はアテナイ軍を突き破ったが左右の軍勢が敗北した為に結局は負け戦となった。ギリシア側は重装兵だったのに対してペルシア側は軽装兵だったことが勝敗を分けたと云われている。けれども、4万用意した兵が、実際はその半分も投入出来なかったことが原因とも云われているので、戦以前に傭兵の離脱とか内部統制の不手際があったのかも?ペルシア側の指揮官ダティスの失態と見られている。

我ら、勝てり

マラトンの戦いは、色んな逸話を生み、中でもフィリッピデス=フェイディピデス(或いは、エウクレス)という兵士が、武具を着けたままマラトンからアテナイまで走り「我ら勝てり!」と絶叫して絶命。この事に大いに感動し勇気を得たアテナイの人々は、エウアンゲリオン=良い知らせを齎すことの素晴らしさとそれを皆と共有し喜び合えることの素晴らしさを改めて思い知った。こういう雰囲気が民衆の心を何となく良い方向へ回転させていく。

マラトンの戦いを勝利に導いたポリスの兵達はマラトーノマカイと呼称され、アテナイにとって理想の戦士像となって、陶芸芸術のモティーフとなるなど生活・文化面でも大きな影響を及ぼした。このような故事が伝承されていた結果、第1回近代オリンピックではアテナイ~アラトン間の走行競技が実施された。その距離は40km(ロンドン・オリンピックから42.195kmが定着。それまでは大会ごとにバラバラだった)。

第一回の優勝選手は地元ギリシアのスピリドン・ルイス。実は、1ヶ月前のプレ・オリンピックレースではボランティアの「水運び」をしていた(給水ポイントなど無かった時代)。ところが、レース序盤から水を持って走っていた名もないボランティアの彼がそのまま”5位”でゴール。観客を大いに驚かせたが単なる市民ランナーだった。でも、一躍地元のヒーローとなったルイスは急遽代表選手入り。そしてギリシア国民が疑心暗鬼で見守る中、ルイスは何と優勝した。そのゴールの前には、「我ら、勝てり!」の故事に因み、大会の審判役を務めていた軍人のパパディアマントパウロス大佐が競技場に先回りして観客へ知らせに走るという演出もあり大盛り上がり。このスタジアムの大興奮こそが近代オリンピックを定着させる大きな礎となり、長距離走、特に『マラソン』は、競技としても、一般的(ジョギングとか色々)にも人々に愛された。

因みに、アニメで人気の『エヴァンゲリオン』は、多分、エウアンゲリオンにヒントを得た言葉じゃないのかな、知らんけど。

創作?

エウクレス(或いは、フィリッピデス)の「我ら勝てり!」逸話を史上初めて書いたのは、マラトンの戦いから約500年後に生まれたプルタルコス(46年頃~119年以降)。それまでは、実は、そんな話をギリシア人は知らなかった?実は・・・

マラトンの戦い時にはまだ生まれていなかったが、ペルシア戦争終了時点(紀元前449年)には作家活動中だったヘロドトス(紀元前484年頃~紀元前425年頃)が『歴史』の中に記したのは以下の内容。
=フィリッピデスという俊足の伝令がいて、アテネからスパルタへの約246km走り、「戦いに参加してくれ」とスパルタ市民に対し兵の支援を募った=

つまり当時は、「今から戦うから一緒に戦え!と鼓舞した」という話が、500年後には、「戦争は終わったぞ、勝ったぞ!と叫んで絶命した」という話にすり替わった事になる。更に、大笑いだが、フィリップデスが246kmをどれくらいの日数かけて行ったのかも多説有って不明なことに加え、スパルタからの増援兵約2千人は、実は、到着したのは決着がついた後だった。そもそも、その時期のスパルタは宗教的儀礼祭の真っ最中で、戦争なんてやる気無し。「祭りが終わるのを待ってろ」とすぐには動こうとしなかったし、兵も2千人しか寄越さなかった。そのスパルタ兵2千人も戦争参加せずに遠足に行っただけという話。(フィリッピデスの伝令後、わずか2日でアテナイに到着したという”とんでもな異説”もあるにはあるが)

でも、プルタルコスの創作の方が感動を呼ぶ話なんだから、嘘から出た実としてそこで良しとしとけば良いものを、やっぱり「それは嘘だ!」と、ほじくり返したい人は出て来るんですよね。特に、スキャンダルとか暴露本好きな英国人は、その話は創作だ!と喧伝する。ま、結局のところ創作なんでしょうけどね・・・

しかし、嘘に踊らされて「感動した!」人たちはどうすりゃいいんだ。って言うか、不肖私が先述した内容も「何なんだ!」です(苦笑)こりゃ、困ったね。でも、歴史に埋もれていた「マラトンの戦い」のほんの逸話を、誰もが語れるような有名な感動話にしてしまったのは英国の少女だった。

桂冠詩人・・・になり損ねた女性

桂冠詩人とは?

オリンピックの金メダリストは、世界の人々から称賛を受けられるスポーツに於ける栄誉ある”賞”です。古代から、スポーツマンは称えられるべき対象者だった。似て非なる存在でしょうけど、優れた剣闘士もスポーツマン礼賛に類するでしょう。その一方で、古代より文化功労者も称えられた。特に、詩を作れる人は尊敬を受け、古代ギリシアやローマでは、詩作が、体育競技と並ぶ人気を誇った競技であった。詩作競技に於いて優れた詩作者に贈られる称号が『桂冠詩人けいかんしじん』。詩作競技の勝利者には、詩神アポロンにゆかり、月桂樹の枝葉で編んだ月桂冠が授けられた。イタリアでは、この伝統は長く続き、ダンテやペトラルカ、タッソらが一流の詩人である勲章として月桂樹を戴いていると云う。そして・・・

17世紀の大英帝国は、王室の慶弔の際の重要な役職として『桂冠詩人』が制度的に設けられていて、この役職は現在も続いている。それ以外の国でも(例えば、米国にも)、桂冠詩人として称える文化風習があるようです。

神童と呼ばれた少女エリザベス・モールトン・バレット

エリザベス・バレット・ブラウニング(1806年3月~1861年6月)は、裕福な家庭に育った(結婚する以前の名はエリザベス・モールトン・バレット)。

エリザベスは、6歳時には既に(絵本ではなく)大人向けの小説を読み、8歳でアレキサンダー・ポープ(英国で最も偉大な詩人と云われる人)が翻訳を手掛けたホメロスの叙事詩に魅了され、10歳でギリシア語を使いこなせるまでになり、11歳で自作と主張する『マラトンの戦い』を書いた。

何度か手直しも行われたのでしょうけど、14歳時の1820年に、プロテスタントの教戒師(教会師?)で厳格だった父(エドワード・モールトン・バレット)も認める面白い叙事詩的な作風で仕上がったこの”作品”は、50~100部程度と云われますが自費出版された(出版と言っても、主に、親族など近しい人たちに配られた)。この頃の作品は、母(メアリー・グラハム・クラーク・バレット)によって、「エリザベス・B・バレットの詩」というコレクションにまとめられていたらしい。つまり、(身内限定の)知る人ぞ知る文才少女。

エリザベス・モールトン・バレット作・『マラトンの戦い』

エリザベス作の『マラトンの戦い』は、劇的な物語風な散文詩。弱強五歩格のAABBCCDDで韻を踏む英雄的な対句で書かれた。

『マラトンの戦い』は、14歳になったエリザベスが書いたわけじゃなく、幼少期より、ギリシア神話や北欧神話の”英雄伝説”に惹かれていた少女が、ペルシア=悪、ギリシア=正義、という拘りの中で描いた詩。どうしてペルシア=悪であったのかと言うと、単純に、ペルシアは奴隷兵を多用し、アテナイは市民兵が中心だったという強い思い込みによるもの。熱心なキリスト教徒(プロテスタント)だった少女にとって、イスラム化したペルシアは大嫌いな敵だったのでしょう。

ペルシアによる最初のギリシャ侵攻の際、アテナイは、はるかに大規模なペルシア軍を破った。という部分を力強く再現しているのが、エリザベスの物語風マラトンの戦い。エリザベス曰く・・・

===============

ギリシア人の敵(つまりペルシア側)の中に、致命的な敵(つまり許せない敵)があった。女神アプロディーテは、何世代も前に、彼女の最愛のトロイを破壊した先祖たちの行為に対する復讐を誓う。(即ち、アテナイ軍は、アプロディーテの御加護を受けて戦った。だから負けるわけがない)

当時のペルシアの宮廷では、大王ダレイオス率いる”巨大な軍隊”に対しては、一部の厄介な独立したギリシアの都市国家(=アテナイ)がどう足掻いても太刀打ち出来るわけがない。と高を括っていた。ところが、ダレイオスの計画は、高齢ながら屈強であったミルティアデスが指揮するアテナイの見事な攻撃で決定的に阻止された。ミルティアデスは海岸に上陸したばかりのペルシア軍を制圧し、敵を最後の一人まで削り落とした。つまり「容赦することなく全滅させた!」

================

そういう感じに仕上がっていくポエム風味の物語。ってことだが(内容を詳しく読めないので想像)、実は、ペルシア軍は全滅していないし3分の2は生き残って退散した。ということが戦史としては記録されている。しかも、トロイ(イーリアス)を滅ぼしたのはペルシア人ではなくて、アテナイが「加勢しろ!」と派兵を要請したスパルタなんだけどね。でも、児童文学的には別にそういう史実はどうでも良かったんでしょうね。子どもたちと一部の大人たちをもワクワクさせた。ということで作品としては十分なのでしょう。

エリザベスは、厳格な父親から『神童』『ホープエンドの桂冠詩人』と持ち上げられた。ホープエンドとは、当時のバレット家が暮らしていたイングランド・ヘレフォードシャーにある集落名。集落とは言っても、バレット家は其処に500エーカー(20,000ヘクタール)の土地を所有していた。

病とフェミニズムへの目覚め

エリザベスは、当時の英国の高名な作家・劇作家で母・メアリーの友人でもあったメアリー・ラッセル・ミトフォード(1787年12月~1855年1月)に指導を受け始める。ミトフォードは、エリザベスの才能を極めて高く評価したという。ミトフォードは、この時期のエリザベスのことを「最も表情豊かな顔の両側に暗いカールのシャワーが降り注ぐ、わずかで繊細な姿、大きくて柔らかい目、豊かに縁取られた濃いまつげ、そして太陽光線のような笑顔。」と表現している。エリザベスとミトフォードの交友は、1828年に母が亡くなって以降も続き、ミトフォードはエリザベスの支えになった。

ところが、当時の医学では診断不可能と云われた原因不明の奇病がエリザベスを襲う。頭部と脊椎に対する激痛が繰り返され、歩行にも支障を来すようになったエリザベスは「引きこもり」状態となることを余儀なくされた。エリザベスだけでなく、3人の姉妹全員に起きた症状だったと云われているけれど、エリザベスだけが一生この奇病に支配され続けた。乗馬事故(彼女は馬から降りようとして転んだ)との関連性も疑われたが、原因として裏付けられるものは何も無かった。

様々な治療を試されたが回復せず、あまりの激痛に耐えられなくなったエリザベスは、アヘンチンキ(アヘンやモルヒネの調合剤)の服用によってのみ少しの間救われるが、またすぐに痛みに支配されるとアヘンチンキに頼る。アヘンチンキの常用依存症となるが避けられない事だった。しかし先々に於いては、エリザベスに対する悪意か冷静な分析かは分からないけれど、彼女の豊かで逞しい想像力とそれが生み出した野生的で鮮やかな詩は、アヘンやモルヒネの常習性による気分の高揚と沈み込みが大きく作用したものとして、ようするに「薬のおかげ」を示唆するような評価さえ受けてしまう。

病による引きこもりによって、エリザベスは以前にも増して読書に耽った。1792年に『女性の権利の擁護』を出版したメアリ・ウルストン・クラフトの熱烈なファンとなったエリザベスは、特に、女性の権利や奴隷解放運動に関する作品を読み耽りフェミニストとして目覚める。実は、病に罹る以前の12歳時には『女性の権利の擁護』を読んだと云われるので相当早熟な少女だったのでしょうね。エリザベスの知的好奇心の強さは、幼少期から古典的な形而上学(哲学)を読み耽ったことで培われた。語学に多才だったエリザベスは、ギリシアやローマの哲学書や神話を(原語で)読みたくてギリシア語とラテン語は8歳までに使いこなせたとも云われ、いわゆる天才少女だったってことなので、「薬のおかげ」なんて評価を下す必要なんて何もない。何処の世界にも、成功者に対して何かしらアラ探しをして見せて、「ほうら、実はこんなことをしている」なんて要らざる正義感を振り翳そうとする者達が存在する。それで何処の誰が利益を得たり心豊かになったりするというのか・・・実につまらない人達である。

1831年に祖母エリザベス・モールトンが亡くなりますが、この人が生前に行っていた様々な契約が訴訟問題へと繋がり、その頃の奴隷制度廃止と相俟って、バレット家は大きな損失を被る。そしてホープエンドの邸宅や土地を失った。この頃より、父の厳格さ陰険さはますます酷くなっていく。これ以降のエリザベスや兄弟達は、宣教師としての職を得た父・エドワードの赴任先への引っ越しを繰り返す。

1833年から1835年の間は、イングランド南西部の町シドマスで暮らし、1838年にはロンドンへ移り住んだ。ジャマイカには親族が暮らしていたが、其処への赴任を乞われた1839年、エリザベスは結核性潰瘍を患い、エドワードは英国に留まり代わりにエリザベスの弟サミュエルが向かった(バレット家の祖はジャマイカ出身と云われている) 。

エリザベスは、病気療養の為に(主治医の勧めもあり)デボンシャー海岸のトーキーという町へ引っ越したが、それには一番仲の良い弟で父と同じ名のエドワードが付き添った。そして、彼女と家族にとって最も不幸な年が訪れる。

1840年2月。ジャマイカで暮らしていた弟サミュエルが病没。更に7月。エリザベスや友人達とボート遊びをしていた弟エドワードが海難事故に遭い行方不明に。そして溺死体で発見される。エドワードの死は、エリザベスの脆弱な体に対して更に強烈で深刻なダメージを与えた。この海難事故は、彼女の父親がその事(ボート遊び)を強く反対していた中で起きたことでもあり、彼女は父への怯えと罪悪感に苛まれ続けた。ミットフォードに宛てた手紙には、「絶対的な絶望的な狂気・・・」と記していたほどに苦しんだ。精神を病んだエリザベスは、1841年にロンドンに呼び戻された。

転機

ロンドン・ウィンポルストリートに戻って以降のエリザベスは、殆どの時間を2階の自室に引きこもって過ごす。罹患した結核症は改善し始めたが、家族以外とは接触しない日々が続く。が、例外者が二人いて、一人はミットフォード、もう一人は親戚関係にあったジョン・ケニオン。ケニオンの家は裕福であり、文化人を支援するパトロンでもあった。

この二人からの支援もあって、エリザベスは、1838年に最初の詩集を出版し高い評価を得ていた。が、健康面の問題や相次ぐ不幸で次作を先延ばししていたのだが、1841年から1844年の間に、猛烈な勢いで、詩作、翻訳、散文執筆を行った。異常なほど多筆だったとも云われているが、きっと弟達の死に対しての気持ちのやり場が筆を走らせる事しかなかったのでしょう。切ない筆です。

1842年に、ブラックウッドマガジン社から出版された詩集『子供たちの叫び』では、児童労働問題を痛烈に非難する内容で高い支持を得て、英国に児童労働改革を齎せた。その他、社会性の高いエリザベスの詩は注目の的となる。

因みに、ブラックウッドマガジン社は、1776年11月のエディンバラに生まれたウィリアム・ブラックウッドがスコットランド・グラスゴーの書店で見習い修行を経た後、1804年にエディンバラに戻って始めた小さい書店が原点。最初は、珍しい本や興味深い本、いわゆるマニア受けするような専門書を取り扱って、希少本屋としての評判を得て行った。そういう経緯から出版社へと発展したブラックウッドマガジン社は、それこそ、エリザベス・バレットにはピッタリの出版社だったと言える。が、保守党に気に入られて、保守党系の作品も専門的に扱うようになり、当然ながら保守色の濃い出版社だった。というわけで、エリザベスの作品を扱ったことは異例だったかもしれない。この出版社との出会いがあったからエリザベス・バレットは「とびっきりの人生」を得たけれど、そして最後は、エリザベスを糾弾する側の急先鋒ともなるのがブラックウッドマガジン社。正に、昨日の友は今日の敵であった。

恋愛

1844年に、『亡命のドラマ』『詩人のビジョン』『レディジェラルディンの求愛』などを含む2巻の詩集を出版しますが、当時の人気作家の一人だったロバート・ブラウニング(1812年5月~1889年12月)から、「あなたの詩を心から愛している、親愛なるバレット嬢」と書かれた手紙が(ラブ・レター)届く。その中身には、「新鮮且つ奇妙な音楽のよう、豊かな言葉、絶妙な哀愁、そして斬新で勇敢だ」と賛辞が並んでいた。(人気作家だけど、スランプ気味だったとも。それはエリザベスも同じだった)。

1845年5月20日。ジョン・ケニオンを交えて、ブラウニングは初めてエリザベスと会い、求愛する。エリザベスは、ブラウニングと出会った事で、その後の執筆活動に大きな影響を与えられた。エリザベスの最も有名な作品の2つ『ポルトガル語のソネット』『オーロラリー(ある女性詩人の誕生)』は、ブラウニングと出会った以降に執筆されたものであり、多くのエリザベス・ファンに彼女の復活を思わせた。つまり、ブラウニングと出会う前のエリザベスは、再び心を病み、秀作を書けなくなっていた。

ロバート・ブラウニングとエリザベスの間の求愛(約2年間で574通ものラブレターを交換し合ったと云われている)と結婚を、エリザベスの厳格且つ横暴な父は絶対に認めようとしなかった。二人は、結婚の事実を父親に隠したまま1846年9月12日にイタリアへ旅立った(エリザベスの健康のための移住)。

イタリア

結婚後に出版された『愛のソネット』は、エリザベスの詩人としての地位を確固たるものとする。 1850年に、桂冠詩人・ウィリアム・ワーズワースが亡くなると、エリザベスは次の桂冠詩人の最有力候補者となった。が、最終的にはエリザベスより3歳若い、初代テニスン男爵・アルフレッド・テニスン(1809年8月~1892年10月)が選ばれた。桂冠詩人ともなればロンドン暮らしになり、選ばれなかったことが良かったのかもしれませんね。

1849年に43歳で出産(唯一の子・彫刻家ロバート・ウィーデマン・バレット・ブラウニング)を経験したエリザベスは、体の状態も少し改善し、一時的に英国へ戻り父親と和解しようとするけれど、どうしてそこまで意固地なのかは分かりませんが、父親は、死ぬまでエリザベスの結婚を祝福しなかった。

移住したイタリアをこよなく愛したエリザベスは、イタリアの政治にも強い関心を持っていた。そして、1851年に政治詩集『カーサ・グィディの窓』を発表。1856年に長編詩集『オーロラ・リー』を書き上げると、1860年には『議会の前の詩』という政治詩集を発行する。『議会の前の詩』の殆どの詩は、統一戦争に於けるイタリアの大義に対し、彼女なりの心情を表したもの。それこそ、表現の自由であるが、保守的な雑誌ブラックウッドマガジン社とサタディレビュー社は、「彼ら(エリザベスとロバート)は、イギリスで騒動を引き起こした狂信者だ!」と殊更喧伝した。そのことが彼女の心に災いしたのか急速に体調が悪化したエリザベスは、翌1861年、フィレンツェの自宅で亡くなった。全く以て酷い話である。

ロバート・ブラウニングによる「マラトンの戦い」

『マラトンの戦い』は、エリザベス14歳時の少数自費出版物だったが、それを夫ロバートが再編集したロバート・ブラウニング作『フェイディピデス』は大いにウケた。そして、正に「我は勝てり!」の状態でロバートの名声は高まった。マラソンの距離も何もかも、ロバートによって齎された・・・は言い過ぎだが、ロバート・ブラウニングは、妻の生前期には妻の陰に隠れていたが、妻の死後に大きな名声を得た。因みに、ロバートの詩は、皮肉、性格描写、ダークユーモア、社会評論、歴史的背景、挑戦的な語彙および構文に於いて優れている。という事らしい。

1833年、21歳時に、『告白の断片であるポーリン』という詩集で事実上のデビューを果たすが、実はこの作品は匿名で出版されて、後年に、実は・・・と明かされた。詩人としては芽が出ず、劇作家として職を得たロバートは、運に恵まれ、結構高名な作曲家達から歌劇の注文なども受けていた。ロシアやイタリアからのオーダーもあるなどその道では認められた存在だった。が、エリザベスとの出会いで詩作への思いが強くなった。有名作には、『ハメルンの笛吹き』『男と女』『ビザンツ帝国とブルガリア』『魔法の笛』『ピッパが通る』などがある。そして、問題の「マラトンの戦い」です。

フェイディピデス

フェイディピデス』(1879年/ロバート・ブラウニング作)

全く以て、予想もしなったことが起きた。彼は、確かにマラトンで戦った。
ペルシア軍が散り行きたその時、彼の周りの人々が口々に叫んだ。

「走れ!フェイディピデス。アクロポリスへ行け!もうひとたび駆け抜けろ。お前しかいない。この勝利を誰よりも早く報せることがお前の務めだ。アテネは救われたのだ。神への感謝を叫ぶのだ。」

彼は、槍と盾を投げ捨てると、装備を着けたまま、再び、炎の如く駆けた。
彼が、フェンネルの畑を駆け抜けている間、アテネは、静寂の怯えの中に静まり返っていた。彼が、その静寂を打ち破るまでは、だが。

「喜べ!(歓喜せよ!)」「我らは勝った!(我ら、勝てり!)」

その叫びの時、土のうちから、何処までも濃いワインが流れ出るように、
彼の体を流れる血の歓喜がその心臓を弾けせたのである。
そして死んだ。至上の喜びのうちに。

~~~~~~~~~~~~~~~

妻が亡くなって18年後の作品である。エリザベスの詩にヒントを得たとかそういう事ではない。実に、良い詩である。使命を果たした感とか、高揚感とか、あるよね。こういうのが詩なんですね。「ポエム」って言われると何となく可愛いけど、政治詩集などが好んで読まれたのも何となく分かります。

エリザベスとロバートの、熱情が絡み合うラブレターも一部公開されていてネットでも読めそうだけど長くなり過ぎたのでこれでお終い。あ、サカ族も・・・いつかまたね・笑

コメント