バートリ・エルジェーベト~処女の生き血を啜る美女~

LOVE & EROS

現在はルーマニアの一部となっているトランシルヴァニア地方が、トランシルヴァニア公国と呼ばれていた16世紀半ば頃のお話です。

当時のポーランド王バートリ・イシュトヴァーン9世を筆頭に、トランシルヴァニア公、ハンガリー王国宰相、ハンガリー司法長官など、何人もの権力者を同時に有していたのが『バートリ家』。当時の欧州の有力貴族家は、他国の有力筋と政略結婚を重ねて、何れはハプスブルク家やブルボン家のような大きな一族になろう!としたけれど、バートリ家は真逆。バートリ家は近親婚で成り立っていた。そして、1560年に生まれたバートリ・エルジェーベト(=ハンガリー名。英語表記的にはエリザベート・バートリ)も近親婚によって生まれた女性だった。
やがて、希代のシリアルキラーと呼ばれるエルジェーベトの兄弟姉妹は揃いも揃って色情狂、叔父は悪魔崇拝者、そして親達も変質者であった。

異常性の濃い血を受け継いだエルジェーベトですが、誰もが羨む美貌と愛らしさを持ち、10歳を前に、同族で5歳年上の軍人貴族ナーダシュディ・フェレンツ2世(1555年生)と婚約する。フェレンツ2世は、父がハンガリーの副王を務めていましたが、身分差では主家の姫であるエルジェーベトが圧倒。因みに、エルジェーベトとの結婚によって、ナーダシュディ家は伯爵家に昇格します。が、尻に敷かれることを嫌がったフェレンツ2世はチェイテ城(現在のスロヴァキアのチャクティス)を手に入れて、結納金代わりにエルジェーベトに分与。其処が若い夫婦の本居となる。

ところでトランシルヴァニアには、ドラキュラ城のモデルと云われるブラン城がありますが、ブラン城の主ヴラド3世ツェペシュは、串刺し公とは呼ばれたが吸血鬼ではない。しかし、チェイテ城の女城主エルジェーベトは、美女吸血鬼としてその名を歴史に刻む事になる。彼女の異常性は、夫の母との関わりで始まった・・・

フェレンツ2世は、軍人としては極めて優秀。しかし冷酷であり非情。異名は”黒騎士”。捕虜に対する仕打ち、そして処刑方法は残忍だった。それでも夫・フェレンツ2世の残忍さは、「処女の生き血を溜め湯を沸かした風呂に白肌を委ね、永遠の美貌を手に入れようとした魔女」「処女の生き血を啜る吸血鬼」とまで呼ばれた妻・エルジェーベトには遠く及ばない。

エルジェーベトは、婚約成立後程無くして、夫となるフェレンツ2世から贈られたチェイテ城へ移り住む。11歳になるかならないかの頃です。

1706年のトランシルヴァニア独立戦争(対神聖ローマ)で破壊された儘、現在も廃墟と化した状態のチェイテ城とその周辺の印象は写真で見ただけですが何とも不気味です。勿論、エルジェーベトが暮らしていた頃とはまるで違うでしょうけど、でも、この場所にずっと”閉じ込められていたら”、多感期の少女の心身は毒されていくに違いない、とは思えますね。

軍人貴族のナーダシュディ家は古くから続く名家ですが、大侯爵家バートリの令嬢とは格が違う。
そういう陰口を叩かれないように、フェレンツ2世は、軍人としての大きな出世を望み各地を転戦。妻が待つチェイテ城に戻るのは年に数度という日々を送っていた。そういう頑張りもあって、フェレンツ2世は数々の勲功を得て、「バートリ家のおかげで伯爵になれた男」ではなく、「軍人としての才覚で伯爵となった男」という評価に限りなく近づいた。しかし・・・
少年期から戦場で鮮血のほとばしる様を数多く見て、実際に敵・味方の血を浴び続けたフェレンツ2世の性格は残虐性を帯び、性的にも歪んで行った。

我が子の変化を敏感に察したフェレンツ2世の母も、フェレンツ2世と似たような性格の夫と長く暮らしていた事で、息子が如何なる女性を好むかという事をよく理解していた。年にほんの数度しか帰城出来ない息子に代わって、まだ幼く我が儘だったエルジェーベトを、ナーダシュディ家の(サディスティックな男の)妻として相応しい従順な女性となるように、日々、性的調教が繰り返された。そして、嫁・姑は強い同性愛関係にも堕ちていく。

戦場から戻った夫は、自分好みの女となっていくエルジェーベトをとても気に入り、城にいる間は片時も離さずに共に過ごした。二人の間には三男三女が誕生し表面上は円満夫婦。しかし、エルジェーベトの心身は、夫の残忍な欲求に耐えられる女として躾けられていただけと言えなくもない。つまり、10代前半から、ニンフェットでありマゾヒストでありしかも同性愛者でもある、という”淫女”に育てられた。

エルジェーベトの性的倒錯行動は結婚後すぐに現れた。夫が居ない時は召使を相手に同性愛を繰り返し、更に、自らの裸身を植物や動物の血で汚し、それが美を保つ秘訣と信じ込んでいた。

彼女の兄・イシュトヴァーンは、女性達を見境なしに手籠めにした性的狂人として知られている。付け足せば、妹クララと弟の狂態も世に広く知られていて、叔父は悪魔崇拝の教祖的立場で生娘を生贄として祭壇に捧げていた。もっともっと逸話はあるけれど、近親婚を繰り返した事によって生まれた濃過ぎる血が、それぞれの異常な性格(性癖)を作り上げ、有史以来、極めて特異な一族としてバートリの名は刻まれている。

エルジェーベトにも、生まれながらにして異常に濃過ぎる血が流れていた。それ故に、夫や義母にとっては高貴な娘とは言うものの、性的奴隷として扱う事は難しいことではなかった。但し、性的にはどうあれ、名家の娘として幼少時より高い教育を受けていた彼女は語学の才に秀でて数ヶ国語を操った。更に、厳しい義母からは政治・経済を教え込まれ、荘園領主としての利殖と財産管理には優れていた。特筆すべきは、トランシルヴァニアの少年少女の海外留学支援事業を積極的に行っていて、社会貢献を怠っていなかった。そういう部分しか見えていない一般的な世間にとっては、エルジェーベトは美貌の才媛で憧れの的だった。そして、転機が訪れる。

義母が亡くなった年は明らかになっていませんが、エルジェーベトはやっぱりこの姑を嫌っていた。嫌っていたどころか憎悪対象だった。義母の遺体に対して彼女は牙を剥いた(噛み付いた)。腕から血飛沫が上ると、異常興奮した彼女は服を脱ぎ捨て返り血を全身に浴びて、狂ったように義母の遺体に次々と歯を立てる。

左から、25歳時の肖像画と云われるエルジェーベト、真ん中はチェイテ城址、左下はフェレンツ2世肖像画

この日、この時から、従順なマゾヒストだったエルジェーベトは、誰もが恐れ戦く残虐なサディストとなり、サディストどころか連日連夜生き血を求める吸血魔女となる。

“ハンガリーの黒騎士”として、オスマン帝国に恐れられたナーダシュディ・フェレンツ2世が世を去ったのは1604年。

フェレンツ2世が中心となってオスマン帝国から解放させた都市は、エステルゴム、ヴィシェグラード、セーケシュフェヘールヴァール、ジェールなど。位置的に見ればハンガリー北部であったり西部であったりです。当時のハンガリーが、オスマン帝国からその殆どを占領されていた事を伺い知る事が出来ます。

フェレンツ2世の父は軍人として成功を治め、死去するまでの8年間をハンガリー宮中伯(副王)として活躍した人。この人の妻、つまりエルジェーベトが初めて血を啜った(その時は死後直ぐで生きてはいなかったと云われますが)義母は、カニジャイ家のオルショリャ。
カニジャイ家もバートリ家と並び称されるハンガリー国内では歴史ある名門貴族家で大富豪。オルショリャは、カニジャイ家の資産相続者であり、その多くが息子フェレンツ2世の管理に委ねられ、更に、フェレンツ2世の死によって、全てが妻エルジェーベトのものになった。

44歳になっていたエルジェーベトですが、余りある富で、オスマン帝国との戦争に疲弊していた国家を財政支援していた事も間違いない。彼女は、実家・大バートリ家の財産相続人でもあったのですから、彼女が保有していた資産は、莫大な額と広大な所領地だったことになる。エルジェーベトは、(当時の)ハンガリーの影の支配者とまで云われていた。つまり、”国家権力者”でもあった。そのような立場の彼女だから、チェイテ城で行っていた”犯罪行為”には誰も気付けなかった。単に犯罪行為という言葉で片付けるわけにもいかない、あまりにも酷過ぎることですが・・・

アブノーマルなマゾヒストであり、残虐なサディストであり、レズビアンでもあり、あらゆるフェティシズムを好む者であり、何と言っても自身の美に対する究極の欲求。それらは、夫の要求に応える行為から生まれたことかもしれませんが、彼女は、若さと美を保つ事に対してありとあらゆる事をやっていた。特に、若い娘の体の全てを愛する事に没頭していた。そういう事の出来る性具の研究開発に余念がなく、チェイテ城の地下は、夥しい数の”いかがわしい”性器具で溢れていたと云われます。

義母の血を浴びそれを飲んだ時、エルジェーベトの脳内と体内には明らかな変化が生じたのでしょう。男女の愛人の殆どをその欲望の生贄として殺害し、その度に大量の返り血を浴びた彼女は、そういう行為の魔力に取り付かれてしまう。

表面上は麗貴婦人として振る舞い、少年少女を経済支援する大文化人と見られていた。しかし、気に入った娘をチェイテ城に呼び込み餌食とした。そして、麓の村娘達の多くが、まるで「大奥」に上がる感じで城へ呼び込まれた。

フェレンツ2世の死後7年間は、(異常な)噂は流れたものの、ハンガリー国家を影で操るエルジェーベトに対する国権捜査は及びませんでした。ところが1611年。一人の娘がチェイテ城から決死の脱出に成功する。そしてルター派の信徒による告発が行われ、チェイテ城へ捜査権が及び、遂に、チェイテ城地下の扉が開かれた。

彼女が殺害した処女は600人以上に及ぶと云われ、其処は血と肉と骨・・・

拷問具が天井、壁、床一面に取り付けられ、部屋全体が血の風呂、血のシャワー・・・

彼女の変態行為に協力した侍女(愛人でしょうけど)と執事(も愛人でしょうけど)は即刻死刑にされた。しかし、エルジェーベトは死刑宣告を受けません。大権力者としての力なのでしょう。彼女自身は、チェイテ城(つまり彼女の居場所)に幽閉され1日1回の食事を与えられ4年間は生き延びた。が、自らが殺戮を繰り返した城の中で気が狂い、そして世を去る。

血を飲む事が許されない4年間で彼女の美貌は朽ち果て骨と皮だけになった。しかし、彼女の血が流される事は無かった。つまり、自分の血を飲む事は出来なかった。

この事件の背景では、トランシルヴァニアとハプスブルク家(オーストリア)の戦争が勃発していたことを付け足して、今回はこれで終わりです。

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