古代のヨーロッパ文化変遷~主役はスラヴ?~

東欧史

先史時代や古代の民族や部族の発祥地点や拡大領域の考察・立証に欠かせない考古学。ヨーロッパに於ける考古学は、各国政治が複雑に絡みとてもいびつ。政治が絡んで来る最大の理由が、人種(民族)や思想差別に端を発する『戦争』。その地域はもともと何処の国(民族/部族)のものだった、みたいな古い話を持ち出し(イチャモンつけて)侵略。その繰り返しは全世界共通ですが、ヨーロッパは特に煩い。

現代の自分達とはもう似ても似つかない時代の遠祖の人達を思い、何処にどんな生活様式で住んでいたかと”謎”を追うまでは認めるよ。そりゃ、知りたいだろうさ、自分の体内に流れる血の根源に思いを馳せるのは理解出来る。が、だからと言って、其処は自分達の先祖が暮らしていたところだからお前達は出て行け!とか、土地寄越せ!とか・・・「寝言は寝て言え」です。

と言うわけで、毎回ゞ、寝言みたいなBLOGですが、今回は特に妄想が激しいものとなりそうです。

ヤムナ文化(ヨーロッパ竪穴墓文化)

世界4大文明には漏れてしまっているものの、コーカサスを基点に各地へ旅立ったインド・ヨーロッパ語族は、ヨーロッパ各地に複数の文化=生活様式を根付かせた。今回のタイトル記事は、その中の一つヤムナ文化から書かないとどうにも収まりが尽きません。けれども、話が長くなり過ぎるので途中ゞできっと物凄く端折ります。

ヤムナ文化は、紀元前3600年頃のクリミア半島含む黒海北岸域~アゾフ海沿岸~更にカスピ海北岸域に根付いた古スラヴ語文化圏。下の右側地図を参考にして頂ければと思います。

因みに「クルガン仮説」のクルガンとは、日本風に分かり易く例えれば「古墳」。要するに、墳墓の形状や埋葬様式、副葬品などから、民族や部族の統一性や違いを検証しようとするもの。尚、クルガンという言葉はスラヴ人の言葉であり、ケルト(ゲルマン・ノルマン)よりもスラヴ文化の方が遥かに古いことを前提にしたヨーロッパ考古学の文化考察方法ですね。

左より、「クルガン仮説」に基づくインド・ヨーロッパ語族の分布経路。、、、右上は、紀元前3500年のYamna=ヤムナ文化、Maykop=マイコープ文化、Cucuteni=ククテニ文化、Vinca=ヴィンカ文化の位置関係図。、、、右下は、球状アンフォラ文化Globular Amphora culture)と縄目文土器文化(Corded Ware culture)とバーデン文化(Baden culture)とヤムナの領域区分。 ※何れも、Wikipediaよりお借りしました。

紀元前4900年頃の成立と云われるロシア・ヴォルガ川中下流域のフヴァリンスク文化(Khvalinsk culture)と、紀元前4500年頃の成立と云われるロシア~ウクライナ~ベラルーシを流れるドニエプル川中流域のスレドニ・ストグ文化(Sredny Stog culture)という二つの文化を基層とする合流文化がヤムナ文化。古代バルト・スラヴ系=プロト・スラヴ人(原始スラヴ)の文化とも云われる。

二つの文化が合流したと言うより、一つの文化が距離を置く二つの地点に分かれて、それがまた一つになったものと見るべきらしい。この二つの地域を結ぶ交通手段は乗馬用の馬と家族移動用の牛車。勿論、割と平坦な草原地帯なのでのんびり歩いてでも行けただろうけど、中心拠点同士なら数百キロは離れている。

共に銅器時代の文化であるフヴァリンスクもスレドニ・ストグも、墓は個人用と集団用に分けられ何れも土葬。遺体は膝を立てた仰向け。馬・羊・牛を生贄として供え葬る。ビーズの首飾り、壺、矢などの副葬品や銅製の装具。此処まで埋葬方式が一緒なら同じ文化と見て間違いない。更に注目するべき点として、共にバルカン半島を産地とする腕輪や首輪の類が発掘されていること。相当古い時代から、古代エーゲ海文明圏と黒海やカスピ海沿岸圏の間で交易が行われていたという事になる。

アファナシェヴォ文化

ヤムナ文化が、ウラル山脈を越えて現在のカザフスタン中東部~タジキスタン~モンゴル~新疆ウイグル自治区辺りに拡散。それが紀元前3500年辺りに起こったアファナシェヴォ文化で、つまり、ヤムナ文化とアファナシェヴォ文化は同じ文化(=同民族)という説がヨーロッパ考古学では多勢のようです。遺伝学的な(つまり、ゲノムがどうのこうのとか、ハプログループがどうたらこうたらとか)同一性もかなり高く、同族ということでいいんじゃない?ってことは、やがてはスラヴ人と呼ばれるヤムナ文化人と、やがては中央アジアの遊牧系騎馬民族となってスラヴ人を攻撃するアファナシェヴォ文化人は兄弟だった。でも、長い間の食文化とか気候環境とかでちょっと見が少し違ったり言葉が違って行った。という事ですか。

日本の大相撲に入ってくれるモンゴル人やロシア人や中央ユーラシア各国人や東欧人とか、ほんと似てるもんね。絶対同祖だよね。

そもそも、アフリカに暮らした遠祖達は皆兄弟付き合い親戚付き合いしてたのかもしれないし、本来は、「おお!兄弟よ、数千年ぶりじゃあないか!今まで何処でどうしてたんだよ。懐かしいな、オイ。兎に角、酒飲もうぜ!」って盛り上がったろうに、再会した途端に殺し合い(侵略戦争)。やっぱ、同祖は同じ言葉を失ったらダメだね。

大体さ、目線が合っただけで「何ガンつけようとや?!」みたいな人は病院行って脳のMR検査受けて来いって話で、短気にも程度がある(苦笑)

トシュチニェツ文化

ヤムナ文化や球状アンフォラ文化、縄目文土器文化、バーデン文化と言った文化圏の”跡地”に栄えたのがウーニェチツェ文化とか鐘状ビーカー文化

ウーニェチツェ文化圏の大方はスラヴ語族へと向かい、鐘状ビーカー文化圏の大方はケルト語族へと向かう。この二つの文化圏は共に多くの部族を生んだものと思われ、その部族達が同一文化圏や他文化圏の各部族と混じり合ってまた新たな部族や文化を生む。という具合に各地の考古学者が持説を言い合っているみたいで、不肖私などが「これだ!」と断定出来る筈もなく・・・どういう文化だったのかはLINK先のWikipedia先生にお尋ねくださいませ。先を急ぎます。

ウーニェチツェ文化圏の特に東方で興ったのがトシュチニェツ文化。銅器のみならず、スズを混ぜ合わせた青銅器が増えて行った時代文化。

地図のキャプションでも書いている事ですが、BALTO-SLAVIC(古代バルト・スラヴ領域)/西部群(TRZCINIEC)と東部群(EAST TRZCINIEC)を併せて「トシュチニェツ文化」。南部の(KOMALOV)もほぼ同じ文化で、3つの領域を併せて「トシュチニェツ・コマロフ文化」。その始まりは、大体紀元前1700年頃。文化領域は下の右側地図を参考にして頂ければと思います。

BALTO-SLAVIC(古代バルト・スラヴ領域)/西部群(TRZCINIEC)と東部群(EAST TRZCINIEC)を併せて「トシュチニェツ文化」。南部の(KOMALOV)もほぼ同じ文化で、3つ併せて「トシュチニェツ・コマロフ文化」と既定されている。 ※図は、Wikipediaよりお借りしました。 ◆左は、黒海とアゾフ海とその沿岸の航空写真。

チェルノレス文化(黒森文化)=ヨーロッパ鉄器文明の始まり

トシュチニェツ文化が終わり(更なる進化)を迎える紀元前1200年頃と言えば、ヒッタイト帝国を滅亡させ、ミケーネ文明を崩壊させ、エジプトを恐怖に陥れるなど、まだ明確なことは分かっていないが『カタストロフ』が起きた時代。

古代ヨーロッパ文化にとっては、やはり、ミケーネの文明崩壊というのは衝撃的な出来事だったと思います。特に、フヴァリンスク文化やスレドニ・ストグ文化の時代よりバルカン半島方面の産物を仕入れていたプロト・スラヴ人達は、遠い距離だったこともあり、何が起きたのか意味不明で疑心暗鬼になったでしょう。

だからと言うわけでもないでしょうけど、現在のウクライナ~ロシア西南部に興ったチェルノレス文化圏では青銅器時代には見られなかった鉄器製造が始まった。これはその後のヨーロッパ文明にとって大きな変革です。更に付け足せば、明確に、「部族」の誕生が示された時代です。スラヴ人は一つではなくなり、農耕部族、遊牧部族、武闘派、穏健派、などリーダーの下に様々な性格の部族が誕生し、言葉の違いも生じて来る。それもこれも、カタストロフに遭ってその阿鼻叫喚の中を生き抜いて逃げ延びた人々が、色んな話を伝えた事による劇的な変化でしょうかね。でも、カタストロフが何だったのかは伝承されていないので全て憶測に過ぎませんけど。

また、チェルノレス文化圏は元々「黒土地帯」と呼ばれる肥沃な森林・草原地帯で、明確に穀物栽培を中心とする農耕文化が起きた。チェルノレス文化の南は、遊牧騎馬民族でありながら農耕も行うスキタイ族(プロト・スキタイ)が定住地として占拠した。スラヴ語族にとっては初めての”戦闘族”との隣り合わせになったわけで、チェルノレス文化には「城塞」も出現する。この頃が、東欧が本格的に”戦争の歴史”を歩み始める最初になったのではないでしょうかね。

隣に、全く違う言語を話す人達がずっと居座るようになれば、少しは会話をしたくなる。というわけで、チェルノレス文化圏ではスラヴ語の変化も起こったと考えられています。

イリュリア人はポーランドに居た?

チェルノレス文化と同時代に、現在のポーランドに興ったのがルサチア文化圏。上述までずっとポーランド~ロシア西部には、プロト・スラヴ文化の基層があったみたいに書いて来たのですが、スキタイと共にスラヴ系とは明らかに違うのがルサチア。と云われています。

其処(ポーランド)を自国領土に含めたいという強い願望を持ち続けているドイツ人学者などは、ルサチア文化はプロト・ゲルマンと主張したらしいけど、現在のヨーロッパでは、イリュリア人が興した文化であって、何らかの理由でイリュリア人はアドリア海方面へ出て行った。という見方が主流らしい。

イリュリア人は「ポーランドから出て行った」のか「侵入を失敗した」のか。であれば、不肖私は後者だと思いますね。この時代のポーランドではルサチア文化が強調されますけど、実は、スラヴ系のポメラニア文化との共存で、結局、この地域で生き残るのはポーランドの文化となるポメラニア文化。

と言うよりも、私が思うに(勝手な妄想ですよ)、気の好いポメラニアン達は、「カタストロフ」で大きな被害を受けたイリュリア人達の入植を長期的に受け入れた。そして、イリュリア人との文化交流も随分行われた。お互いにウインーウインだったし、そして時が経ち、イリュリア人は故郷へ帰った。という事でいいんじゃないですかね。イリュリア人も、隣り合わせたミケーネが破壊し尽くされたのだから、そりゃ一時的に遠くへ行きたかった気持ちは理解出来ます。

と言うわけで・・・

スキタイを除き、ほぼスラヴ系の人達が暮らす地域として東欧は歴史を歩む。やがて、紀元前5世紀頃かもっと遅いかは分からないけど、紀元4世紀後期くらいまでの約600年間以上、現在のポーランド南部からウクライナ西部にかけてプシェヴォルスク文化(東欧鉄器文化)が登場する。この文化は、スラヴ系で最初の明確な軍事可能な部族・ヴァンダル族の文化です。

スラヴではヴァンダル族、ゲルマンではゴート族、イラン系遊牧騎馬民族のアラン族、そして出自不明でミステリアスな遊牧騎馬民族のフン族。正に、歴史上に大きな名を残した各民族の大部族達が、長らく続いたローマ人支配の時代を終焉させる時代の幕開けですけど、それはまた別の機会に。今回はこれで終わります。

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