草原の覇道 ~ユーラシア・ステップ~(1)

民族・部族興亡史

遊牧騎馬民族誕生

最初に牧畜ありきで考えると間違える。あくまでも農耕ありきで、農耕生活の中で家畜(羊や山羊や牛や豚や鶏や・・・)を飼育することを覚え、家畜数が増えた時、否、もっと家畜を殖やし有効的飼育(放牧)を行うには?という試行錯誤の中でウマの活用を見出した。つまり、遊牧(牧畜)だけで食っているわけでなく、農耕と牧畜の兼業を始めてその大規模化に成功して初めて騎馬民族として名を残していったわけだ。

ユーラシア大陸のいくつかの地域で農耕が始まったのは、今から約1万2千年ほど前に遡る。農耕が始まるきっかけは、レンズ豆その他食用可能な植物に巡り合えたこと。食べて棄てた種子から同じ植物が再び芽生える。このサイクルに気付いて、種子を播いて穀物などを育てることを覚えた。このことが始まって狩猟採集生活と決別出来た。特に、小麦と大麦など麦類の栽培に適した地域に集落化が始まる。

集落化が起こらない限り、家畜の飼育は不可能なのである。個人で飼っても高が知れてていて、ウマを必要とはしなかった。鍵となったのは羊である。草原で農を営んだ部族にとって羊を飼うだけなら簡単だったが、大量の羊を追い回すのは楽じゃない。そこにウマが必要となる。だから・・・集落化が起きない土地には騎馬民族のような部族は登場しなかった。つまり、農耕ありきである。

農耕に適した作物を見つけ、畑にする肥沃な土地があって、作物の栽培に欠かせない水を得られる。そして、やっぱりいくらか楽をしたいから家畜の登場だ。今から約7~8千年前には、牛とか馬の利用による耕作行為が始まった。耕作具を引かせることに留まらず、飼育して肥らせて、乳を得たり、食肉を得たり、(鶏類なら)卵を得たりと、家畜飼育によって食生活が劇的に変化した。更に、家畜の排泄物は肥料に出来ることも覚えた。そして・・・

けっして農耕の最適地ではなったが、遊牧にはこれ以上ない広大な最適地だったのがいわゆる草原の道であったユーラシア・ステップ。此処で、大量の家畜を飼育し、乳や肉は食い放題で、その傍らで農耕もちゃんとやって・・・というスタイルで住民の数を増やした彼らは、別の彼らと、「領域」を接するようになり、「隣の芝生は良く見える」じゃないけれど隣の土地が欲しくなる。女も欲しくなる。駿馬も欲しくなる。というわけで、騎馬戦が始まる。

騎馬同士で戦いやがて殺し合う。生き残れば相手の土地が手に入り、相手の女も手に入り子どもを生ませて・・・これを繰り返し人口増を成す。このようにして生存競争を勝ち残った一つがサカ=スキタイである。

スキタイ

スキタイの理解は難しい

ヘロドトスの『歴史』(の松平千秋訳本)では、「スキュタイ」と書かれている遊牧騎馬民族スキタイを今回のエッセイの主役として取り上げてみます。『歴史』を参考とする部分が多いので「スキュタイ」と書くべきなのでしょうけど、取り敢えず、スキタイということで。

スキタイに関するエッセイを書いてみるに当たって他にも色々読んでみたけれど、この民族(部族)に触れるのはほんとに難しいというのが本音。手に負えないなら態々触れなきゃいいのにね(笑)でも、昔の記事を整理しているついでなので触れちゃいます。先に逃げ口上。弊BLOGはエッセイサイトであって、歴史サイトじゃございません(笑)

スキタイの成り立ちについては多説あるけど、どれが正解かなんて不肖私には分かりません。それで、例の如く、大部分は、ヘロドトスが知り得た範囲が記されている『歴史』に頼ってみます。今回のエッセイの関連記事もご一読頂ければ嬉しいです。

スキタイは、文字を持っていなかったと云われます。だから、スキタイが自分達のことを伝えた内容は全て口伝で証拠がない。それを聞いた誰かが改ざんした可能性はいくらでもある。スキタイの中には、嘘つきの人も冗談好きな人もいたでしょうし、それを真に受けた人が起草したら最初っからウソだらけなのである。・・・という言い訳をいくらでも書いておかなければならないくらいにスキタイは難しいのである。

「スキタイ」=「サカ(サカイ)」

それと、此処が非常に重要なのですが、スキタイを「スキタイ」と呼んだのはギリシア人であり、スキタイ側が自分達を「スキタイだ!」と名乗ったわけではない。そして、ギリシアの大敵であったペルシアはスキタイではなく「サカ」と呼んだ。因みに、サカを「サカイ」と呼んだのはギリシア人。カスピ海よりもバイカル湖などに近い東方を本拠としていた部族である。イッセドネス族やマッサゲタイ族、ダアイ族、サウロマタイ族などはサカ族の支族と云われる。スキタイ、サウロマタイ、マッサゲタイ、ダアイは同族とも云われるし、単純に住んでいる地域や相手からの呼び名が違っただけで、中央ユーラシアの遊牧騎馬民族の多くは同族であった・・・という言い方は出来ると思う。

根拠は何もないけれど、サカ族がテュルクになっていった可能性は有り得そう。でも、モンゴル・タタール系やツングース系などとの同族関係は無さそうな気がする。根拠はないけど、テュルクとモンゴル・タタールとツングースは、3つとも別民族と云われるので。

サカ族の本領は、シルダリヤ川の上流、キルギス・カザフスタン・天山山脈(水源)が交わる辺り。とは言われるものの、周辺部族(例えば、アシオイ,パシアノイ,トカロイ,サカラウロイ)の殆どはサカ族の支族。サカ族と周辺支族は共にイラン高原辺りまでなら幾度となく遠征していた。エラム人もメディア人もそしてペルシア人も、それが頭痛の種だった。一緒にやって来るのだから、ペルシア人の言うように(部族分けしなければ)全てサカとして括ることは出来る。

『歴史』に見るサカ族

「スキュティア系のサカイ人は、キュルバシアという先が尖り上にピンと立った硬い帽子を頭に被り、ズボンを穿き、独特の弓と短剣、さらにサガリスという戦斧を携えていた。この民族はスキュタイ人なのであるが、「アミュルギオンのサカイ人」と呼ばれていた。ペルシア人はスキュタイ人をすべてサカイ人と呼ぶからである。」

ヘロドトスの『歴史』では、スキタイについての記述はかなり多い。が、サカについては回数は多くてもサカが何者であるかの説明は殆ど見当たらない。上に引用した文章くらいが目に付く程度である。尤も、スキタイとサカは同じという事が前提であればスキタイについての説明は即ちサカの説明にもなるので、ま、いいか。

それで、上の引用文章を読む限り、ヘロドトスは、黒海沿岸に入植したスキタイと東方に暮らすサカは同じ民族だが別部族と言いたげに思える。武士の時代、同じ日本人だが大名・豪族色々いて入り乱れて争っていたような事と同じ。手を結ぶ時もあれば殺し合うこともある。だから、同じスキタイだが「アミュルギオンのサカイ人=スキュティア系のサカイ人」と「スキュティア人」という具合に区別したのでしょう。

アケメネス朝の大王キュロス2世を敗死させたマッサゲタイ族の出自はサカ族ということで史家の大方の見方は一致している。そして、マッサゲタイ族とサウロマタイ族ダアイ族…(他にもある)などはサカ族の支族として同族・親戚付き合いをしていたようにも云われている。それらを、サカ族として一括りにしてしまうと、そりゃぁとんでもない領域が全て「サカ領」になってしまう。サカ族の本家と支族それぞれは皆、別々の領域を持って行動していたことは明らかなので、ペルシア人のようにすべて「サカ」で片付けるのは少し無礼であるかもね。

それに対して、一つ一つのポリスの独立性や勢力(支配)範囲を区分けしていたギリシア人の方が、分かり易いとは言える。それでも、スキタイの説明は難しいのである。

因みに、ペルシアとギリシアの戦争の殆どで(ペルシア軍側に)参戦しているサカイ族のことは書いてあっても、其処に、スキュタイは出て来ない。と言う事は、このサカ族はどのサカ族か?マッサゲタイかサウロマタイかダアイかその他か・・・ね、ペルシアはサカとしか記録しないからそんな面倒な話になってしまうのだ(苦笑)

改めて、「スキタイ」から書きたかったけど疲れたので・・・次回へ。

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