国家は必ず病む

民族・部族興亡史

嘗てモンゴル人は、超強力な騎馬軍団を以て空前絶後の大帝国(モンゴル帝国=元朝)を築き上げ、ユーラシア大陸に暮らしていた多くの民族に恐れられた。
日本は難を逃れたが、モンゴルの侵略は、ユーラシア大陸に於ける各国家の領域を尽く変えた。が、如何なる大帝国も病には勝てない。というエッセイです。

テムジンの生涯概略(かなり端折ります)

面倒臭い話ですが、書いている中で言葉の使い方を誤ることが多々ありますので最初に当エッセイでの「モンゴル・・・」の説明をしておきます。

モンゴル系民族=>モンゴル諸語を母語とする諸族(いわゆる蒙古語族)
モンゴル族=>いわゆるモンゴル国家の中枢部族。中国国内の少数民族=モンゴル族とは別物
モンゴル部=>モンゴル帝国の基礎となったカムク・モンゴル・ウルスのこと。
モンゴル系騎馬民族・・・こういう言葉は本来は有り得ない。だからこの言葉が出て来たら御免なさい。誤用です。

では始めます。

イルハン朝の第7代君主カザン・ハンは、モンゴルの正しい歴史を後世に伝えるべくして、テュルク系及びモンゴル系諸族の歴史編纂事業を当時の宰相ラシードゥッディーンを介して文官達に厳命した。その完成はカザン・ハン存命時には間に合わなかったが、弟で第8代君主オルジェイトゥへと引き継がれ『モンゴル史』として1307年に完成する。更にラシードゥッディーン以下の編纂事業は続き、1310年に、「モンゴル史」「同時代史」「系図集」「地理史」から成る世界最初の世界史書として極めて名高い『集史』が完成する。

プロパガンダ的な部分も含まれてはいるのでしょうけど、この書が作られたことで歴史を正しく受け継いでいく事の重要性を人類は改めて知った、とも言える。勿論、様々な事情で正否考証が出来ていない部分が多々あり、全幅の信頼を寄せられてはいないのでしょうけど。ただ、全幅の信頼を寄せられている歴史書なんてこの世に存在していないでしょう。
それにしても、世界を震え上がらせたモンゴル帝国の後裔がこのような素晴らしい文化事業を成してくれたことは意外といえば失礼ですが、本当に有難いことです。

それで、『集史』の記載を参考にすると・・・
●初期モンゴル部のモンゴル族は、タタル部のタタール人に勝てず、潜むようにエルグネ谷(エルグネ川流域)に住んでいた。この頃のモンゴル部の生活様式は「ブルホトイ文化アルグン類型」と呼ばれるらしい。

その頃、モンゴル高原に契丹人(キタイ人)の王朝・遼が進出。契丹人は、モンゴル系民族=蒙古語諸族と目されている。因みに、この頃のモンゴル部には「萌古」「遠萌」という二つの集団がありその二つともが遼に朝貢していたと云う。モンゴル部は、遼と交易を進める中で徐々に”国家体系”のようなものを整え力を着けていく。

●1125年。遼はツングース系女真族の金朝に滅ぼされる。遼の影響力が排除された事で、人口増による新たな居住地を必要としていたモンゴル部はエルグネ谷を離れて南下。『三河(オノン・ケルレン・トーラ)の源』ブルカン・カルドゥンの麓に移住する(現在のモンゴル・ヘンティー山脈の山岳信仰対象の神聖な山・世界遺産)。

ブルカン・カルドゥンに於けるモンゴル部は、「萌古」の指導的立場にあったボルジギン氏族(始祖はボドンチャル)系キヤト氏のカブルによって統一が成される。因みに、カブルは、ボルジギン氏族中興の祖カイドゥの玄孫に当たる(※ボドンチャルから数えて8世孫)。

モンゴル部を統一したカブルは、大規模な戦闘集団=騎馬軍団を作り上げ隣接する金朝と戦争を繰り返し立て続けに勝利する。1147年、金朝は和睦を求め西平河以北の27城を割譲すると共に、毎年の牛・羊・米・荳の贈呈を約定した。更に、カブルをモンゴルの国主として冊封したとの事ですが、「冊封した」という表現で正しいのかどうかはちょっと疑問。つまり、カブルが金朝の王の臣下になるって事だから、戦争に勝った側としてはこの表現は受け入れないのではなかろうか?知らんけど。
そしてカブルは、モンゴルの君主=カンを初めて称すことになった(=カブル・カン)。一説では、「祖元皇帝」を自称したとも云われ、それが後の元朝の由来になったとも考えられる。そうであるなら、やっぱり冊封されたような表現にはちょっと違和感がありますけどねェ。

カブル・カンの後を受け継いだのは又従弟のアンバガイ。ところが、この第2代君主はタタル部の策略に遭い、金朝に送還された後に処刑された。この事があって以降、モンゴル部とタタル部は抗争を繰り返していく。

強力なタタル部との抗争に明け暮れる中、第3代カンを継いだクトラの治世期にカブル・カンの孫(クトラ・カンの甥)イェスゲイ・バートルと、イェスゲイが略奪婚した妻ホエルンとの間に生まれたのが後のモンゴルの大王チンギス・カンとなるテムジンです。

クトラ・カンが崩御すると、モンゴル部は後継争いが勃発。キヤト氏族の指導的立場にあったイェスゲイも後継者として有力な一人だったが、テムジンが9歳の時と云われるが、イェスゲイもタタル部の謀略によって毒殺された。イェスゲイの死はモンゴル部の大分裂を生む。特に、イェスゲイの長子でキヤト氏族を率いる役を負ったテムジンはまだ年少者であった事から信を得られず、多くの民が離反した。

この事がトラウマとなったテムジンは、やがて「あまねきモンゴル」を統治するチンギス・カンと成った時に、氏族的な紐帯に頼るカムク・モンゴル・ウルスの伝統的体制を大改革することになる。

話を戻すと、一族に突き放されたテムジンは、とても貧しい暮らしを強いられる。弟たちと共にただひたすらに厳しい生活環境に耐えるしかなかった。そして、敵対した氏族に囚われ殺されてもおかしくない時さえあったという。更に、ようやく妻を娶ったが妻を強奪された。・・・という少年期~青年期はすっ飛ばして、テムジンを、大モンゴルの頂点に上り詰めさせた原動力は”絆の力”。テムジンは、少年期より同年代の友達には恵まれた。兄(テムジン)を強く慕う弟達にも恵まれた。

テムジンの元に集った最初の4人(ジュルメ、ジェべ、クビライ、スブタイ)の友達は四狗。四狗に続いて現れる4人(ボオルチュ、チウラン、ボロクリ、ムカリ)は四駿と呼ばれる。四狗四駿それぞれに優れた武力(軍事力)が備わっていて、彼らを束ねたテムジンには、リーダーとしての強靭な統率力があった。

四狗は、常に戦場の先頭に立ち鬼神ぶりを発揮。敵を震え上がらせ、恐怖に陥らせる。
四駿は、親衛隊として常にテムジンの楯となり、敵の何人なんぴとたりとも近寄らせず完璧に護衛を果たした。
絶対的盟友が3人もいたら天下を取れる。そのような格言が昔からありますが、それを8人も得られたテムジンには、人として相当な魅力があったのでしょう。そして格言以上の天下国家を実現します。

1206年に開かれたクリルタイ(中世期のモンゴルに於ける民族大会議みたいなもの。国家=モンゴルの全ての部族による最高意思決定会議)で、テムジンは、遂に「カン」の称号を得た。1162年生まれが正しければ42歳の時ですが、親の力を失って、親族の支援も受けられなかったテムジン。凄いですね。テムジンという名を、「チンギス」と改名した理由は知りませんけど更に続けます。

大君主チンギス・カンが最初に行った政治指導は、行政区分と徴兵の確立でした。

広大なモンゴル・ステップを細かく区分けした各行政区には、「四狗四駿」を含む八十八名の貴族を領主として配した。軍事動員(いわゆる徴兵)に関する制度改革にも着手。各領主・領民は、チンギス・カンを崇めこれを遵守する。兵の専門化(騎馬・歩兵・工兵その他)を成したモンゴルは隣接する西夏へ軍事侵攻し服属させる。それを皮切りにして、1211年までに、天山ウイグル王国、オイラ卜、トメト、カルルク、西遼などを次々と攻略した。

1211年に、金朝との大戦争へ突入。金朝も強かったが1214年に首都(大都:現在の北京辺り)を放棄して敗走。没落した金は河南地方の小国と朽ち果て、最終的には1234年に滅亡する。

モンゴル帝国の大遠征は加速を続け、1218年からは、現在のイランを中心とする中央アジアのイスラム系帝国ホラズム・シャー朝へ侵攻。13年間に及ぶ大戦争となったが、1231年にシャー朝は壊滅する。しかし、シャー朝を屈服させた勝利の時を見ることなく、稀代の大皇帝チンギス・カンは1227年に崩御。西夏の残党に対する掃討作戦の陣中で倒れ、そのまま生涯を閉じた。ということですが、暗殺などではないよね?

仲間ではない、言葉が通じない相手への仕打ち

一度ひとたび友と認めたら強く信じ抜く。報いた者へはそれ以上の報い(御礼)を返した。

三人の弟(ジョチ・カサル、カチウン、テムゲ・オッチゲン)と三人の息子(ジョチ、チャガタイ、オゴデイ)にも信頼を置き、各自それぞれに領土と家臣団を分与した。

チンギス・カンは、友と身内を強く信じることで大事を成したが、その反面、信を置けない相手に対しては極めて非情だった。分かり合うことには執着しなかった。分かり合えないのなら粛清した。言葉が通じない相手ならば尚一層そうなる。遠方の国々はモンゴル人の言葉など分かるわけもなく悲惨な目に遭った。チンギス・カンがもしも日本を標的としていたら、「やぁやぁ我こそは・・・」なんて言葉は通じない。日本も悲惨な目に遭う可能性はあったが、チンギス・カンの時代のモンゴルは来なかった。

モンゴルの蒼き狼チンギス・カン(テムジン)は日本でも人気です。その名を冠した料理店も各地にある。第五代皇帝クビライの時代には、蒙古の大軍が、我が国の殲滅を図って押し寄せた。そんな事など何も無かったかのように、”チンギス・カン”大好き、モンゴル大好きという人は少なくない。日本の相撲界に多くのモンゴル人力士が入ってくれるようになったのは、親モンゴル的な背景があってのことでしょう。ドラマ『VIVANT』で描かれた果てしなく広いモンゴルの大地や大らかな人たち(怖い面も多々あるけれど)に魅力を感じる日本人は少なくない。

信義に厚かったチンギス・カンを慕って、モンゴル・ステップやそれ以外の地域からも多くの人が集まり協力して大帝国は成せた。しかし、血を帯びた量だけ周囲に対する疑心暗鬼も増して行く。血は血を呼び、裏切りは裏切りを呼ぶ。結果として、リーダーは、次のリーダーを目論む人間たちにとって邪魔な存在、目の上の瘤になる。野心家である部下の本当の姿を見抜けないリーダーは、やがて、無用の者として葬り去られる。どこの政治の世界にも通じる話です。

身内以外の幸せを保障しない。そういう民族がいつまでも尊敬を受け続けられる道理はない。領域を拡張し続け、占領地の民を大切に扱わないモンゴルは疎まれていく。その点に於いては、占領地の民でも能力に応じて重用し、占領地出身者であろうと皇帝まで輩出させるローマ帝国~東ローマ帝国や、神聖ローマ帝国などの方が数段賢かった。その後の世界政治・経済の潮流を見ても何も否定出来ない。

病に負けた大帝国

チンギス・カン亡き後も勢力拡大し続けたモンゴル帝国は、ルーシ(ロシア)の制圧にも成功。「タタールの軛」と化したロシアの大地はモンゴル帝国のなすがままとなる。その後はポーランドやハンガリーなども蹂躙して、ヨーロッパ東部〜中部を恐怖に陥れる。アジアなどは、中国は元朝として支配され、アラブやインド地方にもモンゴル系国家が次々と樹立された。

この世の春を謳歌していたモンゴル人達ですが、その栄華の時は終焉を迎える。

大帝国モンゴルの瓦解ですが、簡単に書けば以下のような流れです。
権力者の死の連鎖(病死・突然死に見せ掛けた暗殺も少なからず起きている)
権力者の予期せぬ死は規律や秩序を崩壊させた
そして止め(とどめ)となったものは、民衆の病気(ペストの大流行)

チンギス・カン流のやり方を受け継いだモンゴル帝国ですが、やがて、同族に対しても聞く耳持たずという「独り占め」欲求があちこちに生じて、激しく殺し合うようになっていく。

内患(国内政治の乱れ)を早期発見出来なくなったモンゴルは、民衆の間に急速に広まるペストの本当の恐怖を理解出来なかった。内患にも恐怖政治にもペストにも、悉く感染する。自分だけは感染しないなどは有り得ない。リーダーたちの間にもペスト罹患者が後を絶たなくなる。

人間である以上は金持ちも貧乏人もなく病に罹る。病は人を選ばない。誰も、免れられない。自分が、人間であることを忘れたとき、人は正常な人ではなくなるし、国家は正常な国家ではなくなる。そういうものだ。
チンギス・カンも盟友達も皆、人間。人間が作った国家組織である以上、病に罹る。それを治癒する勇気が無ければ、悪い病は蔓延して全てを腐らす。そしてモンゴル大帝国は瓦解し小国乱立と化し、広大なユーラシア大陸を統一するような覇王は蘇って来ない。

さて、現代の大帝国であるアメリカ合衆国や中華人民共和国はどうなる?新型コロナウイルスという厄災への対応の仕方に大きな違いはあったが何となくコロナとの共存は可能にしたように見受けられる。

対等の友人を作らないで一強大国化を深める中国は、西側諸国にとっては厄介者。しかし、巨大中国市場を必要としない国など無いに等しい。日本も、中国に拒絶されたら忽ちに経済が干上がる。故に、中国のやり方はとても嫌いだが、今のところ(表面上は)成功していると評するしかないのでしょう。

アメリカは友達の多い国ではあるが、軍事的な支配、経済的な支配など、対等な友達関係ではなく結局は上司と部下の関係を然も友達であるかのように見せている。日本は、残念ながらそれ以下の扱いで、日米は主従関係と揶揄される。主権国家としては極めてムカつくが、政治関係・経済関係・その他あらゆる面でアメリカの顔色を伺い、アメリカを支持することが日本に課せられた下命のようだ。たった一度の敗戦で・・・ほんとムカつくけど。

新型コロナウイルスに関しては、現在の各国は、中世のモンゴルやヨーロッパ諸国のようにならずに済んでいる。中には、酷い状況にある国もあるでしょうけど、大方は共存出来ている。しかし、コロナ禍だけが怖い病ではない。これからも、もっと怖い感染病が発生する可能性は必ずある。しかし、伝染病よりも、パレスチナとイスラエルの泥沼状態を何とかしないと・・・宗教対立を不治の病として片付けてはならない。

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