民族・部族興亡史(5)=匈奴2=

東アジア史

老上単于と中行説の時代

偉大なトップが亡くなると組織は弱体化する。という謂れがあるが、始皇帝亡き後のはその通りになった。しかし、始皇帝亡き後の秦を尻目に大きく成長した匈奴は、すぐに弱体化するような事にはならなかった。その弱体化を防いだ立役者は有名な中行説ちゅうこう・えつです。

燕国出身の中行説は、の皇帝・文帝に仕えていた宦官。付け足すならば、穏健派の宦官が多い中で稀有な武闘派でもあった。匈奴の偉大な単于・冒頓が崩御して、後を継いだ老上単于は、予てよりの取り決めにより、文帝の姫を妃として匈奴へ送ることを漢に要求する。文帝は、それを了承するが、妃に付き従う守役として中行説に白羽の矢が立った。

王朝内での出世を強く望んでいた中行説は強く反発するが文帝は聞き入れなかった。それで、捨て台詞を吐く。「私を手元に置かなかったことをきっと後悔しますよ」と。

匈奴へ入った中行説は老上に取り入り、守役として派遣された立場ではなく単于の側近として仕えることを望みそれは叶えられた。その頃の匈奴では、漢王朝からの貢物を気に入って中国文化にかぶれる雰囲気があったのだが、中行説は匈奴、引いては騎馬民族としての伝統文化を大切にするべきと諭す。その反面、文書記載方法や租税に関しては中国王朝の良い部分として導入させる。

中行説のアドバイスは適格で、これ以降の匈奴では、人口だけではなく家畜の数を正確に管理するようになり、それによって、軍団の人数割りなどに活かされて更に強固な軍団が出来上がっていく。そして老上に対して「漢王朝から貢物が贈って来ることを毎年喜んで待つのは止めにしましょう。欲しい物があれば強奪すれば事足ります」と強硬姿勢の保持を進言する。

中行説は、漢王朝からの使者に対して努めて冷たい態度をとり、その事を文帝から書面で諫められても無視した。それどころか、文帝を挑発するような返書を送ったとも云われる。そして紀元前166年、約30年ぶりに、匈奴は漢王朝に対して大掛かりな侵攻を行った。

老上単于自らが率いる匈奴軍約15万騎が北地郡(現在の甘粛省東部~寧夏回族自治区~陝西省北西部)へ侵略。奴隷にする為の多くの人と飼い馴らす為の多くの家畜を略奪した。漢王朝側の守備隊はほぼ皆殺しにされた。更に彭陽(現在の甘粛省の古都・慶陽)の回中宮を焼き討ちする。

思わぬ奇襲だったこともあるが、奇襲にしても大軍勢の匈奴軍に対抗する為の大軍を漢王朝が差し向けた時には、匈奴側は完全な防御態勢を備えていて、漢軍は攻めるに攻められずただ対峙し続けて1ヶ月が過ぎた。そして、両軍は戦闘もなく双方合意で引き上げる。が・・・

翌年も、その翌年も同じように略奪が繰り返された。殺される人の数も膨大になって来る。困り果てた文帝は、「許して下さい」と言わんばかりに(詳しくは分からないけれど)かなりの量の家畜と財宝を提供して漸く講和に至った。漢王朝を完全に従わすことに成功した老上は、紀元前161年に生涯を閉じた。

暗雲~衰退

中行説は、老上の後を継いだ息子軍臣単于にも側近として仕えた。そして、漢の文帝は、姫を差し出して友好関係は保たれていた。が、家畜や人の数が足りなくなると匈奴は漢へ侵入・・・という事は相変わらず起こっていた。

文帝が崩御(紀元前157年)して景帝が即位。賢帝と呼ばれ、外交上手と称えられた景帝の時代は、大きな戦は起きなかった。漢王朝と匈奴は、「交易(貿易)」を行う関係になり略奪も激減した。景帝の姫数人が軍臣に娶られたようですが、本当の子かどうかは定かではない。尤も、末子相続が基本のテュルク系騎馬民族にあって、軍臣には次弟(末弟=本来の嫡子)があったのでね。

かなり友好的な歳月が流れて紀元前141年に景帝が崩御。新皇帝には武帝が即位する。武帝と軍臣も友好的な関係が続いていたが、若い武帝は、いつまでも匈奴に媚び諂うことを嫌った。そして、軍臣に対する暗殺を企てる。が、それは見破られ匈奴は漢王朝に対して断交宣言(紀元前133年)。両者の間に緊張が走る。ところが、それまでの匈奴ならすぐにでも漢へ攻め込むところなのに軍臣は若い武帝の出方を様子見する。先に動いた漢軍は紀元前129年に4人の将軍による連合軍(大軍)を派兵。ところが、やっぱり匈奴は強くて返り討たれ将軍の一人は生け捕られ見せしめ処刑に遭った。

漢軍は弱い。と侮ったわけでもないでしょうけど、匈奴は翌年(紀元前128年)に約2万騎で漢王朝へ進軍。遼西の太守を処刑して住民約2千人を奴隷化する為に連行した。さらに漁陽郡(現在の首都・北京や天津辺り)へ進軍。韓安国率いる漁陽軍を包囲した。ところがこれが罠で、燕軍が襲来。漁陽と燕の大軍に挟撃を受けた匈奴は初めてと言っていいくらいの大敗を喫した。その後の撤退戦でも衛青軍の激しい追撃を受け数千人が殺害され降伏。同じ数だけ捕虜にされた。

衛青は有名な人で、元々の出自は身分が低い平民。居住地は匈奴と境を接する場所で幼少期から匈奴の生活習慣を見聞きして育ち、匈奴を知り尽くしていた。凄く美しかったと云われる姉が武帝の愛妾となった幸運をきっかけに軍人としての道を歩み、弓矢の才に秀でていた。が、それ以上に匈奴を知っていたので作戦参謀的に取り立てられ出世を重ねていく。そして、将軍となり、紀元前128年の戦いで大きく名を上げた。

翌年(紀元前127年)、衛青は雲中から隴西まで進軍し、オルドス高原(現在の陝西省、甘粛省、寧夏回族自治区、山西省、内モンゴル自治区に跨る広範な高原地帯)を領していた匈奴の白羊王に勝利してオルドスを匈奴から取り戻し、始皇帝時代の秦に匹敵する領土を漢王朝に齎すことになった。衛青は、この功績で大将軍の地位を得たが、生涯、けっして威張ることなく礼節を重んじる人だったらしい。

漢王朝は、始皇帝以来の万里の長城建設を再開した。この年の冬に軍臣単于が亡くなったのは、責任を感じての自死、或いは暗殺と考えられる。そして、軍臣の後には末弟(本来の嫡子)伊稚斜が単于の座に就いたが兄弟相続は異例とされる。多分、クーデターっぽい事が起きたのではないかな。

シルクロード

ところで、武帝が即位した時に重臣として取り立てられた一人に張騫という軍人がいる。張騫は、匈奴打倒策として、嘗て秦の時代には大きな勢力だった月氏との同盟を武帝に提案する。が、月氏は匈奴に大敗北を喫して西方へ逃走したという情報しか当時の漢王朝は得られていなかった。しかし、風の噂で西方に大復活しているのではということを耳にした張騫は、自分の目で確かめるための出国を願い出て武帝に同盟を託された。

百人ほどの家来を与えられた張騫は西へ旅立つが、匈奴に捕らえられて殺されはしなかったものの十余年の間、匈奴で軟禁された。その間、匈奴の女性を妻として娶ったというので、もしかすると匈奴側としては第二の中行説になることを期待していたのかもしれない。

しかし、張騫は自分の使命を忘れずに、隙を見て匈奴を脱出。全力で西へ駆けて現在のウズベキスタンのフェルガナ族に助けられる。そこで、月氏についての情報を得た張騫が向かった先には、大部族(国家)として復活を遂げていた月氏=大月氏が在った。張騫は、1年を大月氏で過ごして説得を続けたが大月氏には匈奴と戦う意志も、中国王朝と手を結ぶ意志もなく、張騫は同盟話を諦めて帰国の途に着く。帰路に於いて、再び匈奴に捕らえられて拘束を受けたが、1年後に軍臣単于が亡くなり、その混乱に乗じて脱出。実に13年ぶりに武帝の下へ戻った。

武帝に敗れる前の匈奴(左図)///紀元前2世紀頃の中央アジア  何れもWikipediaよりお借りしました。

結局は、何の利もなく戻って来た張騫に対し、武帝は無事な生還と西域の様々な情報を持ち帰ったことを褒め、張騫を衛青軍の大幹部=将軍として復帰させた。が、数年後、軍事作戦上の大きなミスを犯して要職を外された(処刑されるところを金で解決して免れた)。失態を挽回するために、今度は、烏孫族(=キルギス)との同盟を進言して、再度出国。匈奴には捕まらなかったが、烏孫には全く話が通じず同盟は断念。しかし、その帰路には烏孫からの使節団数十人が同行。この使節団によって、漢王朝の存在が中央アジアから西へと広く伝えられることになる。そして、西アジアの各国が交易目的で中国を目指すようになりその道が『シルクロード』と呼ばれるようになった。

さて、匈奴のその後の話ですが、取り敢えず、領域が縮小してしまったところで今回は終わります。でも、匈奴がすぐに終わるわけではないですから続きはそのうちに書きます。

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