民族・部族興亡史(6) =匈奴3=

東アジア史

烏維単于 vs 武帝

匈奴は、明確な系統は不明なれど遊牧騎馬民族として中央アジアに覇を唱えた最初の人達であることは間違いない。そういうこと以上に、『漢人』を、実に不思議ななんでもありの”混合民族”に作り上げていく大きな礎となった。

●「参照記事1(匈奴1)」「参照記事2(匈奴2)

参照記事2に続けると、匈奴は、紀元前128年か紀元前127年に漢帝国(皇帝・)に大敗して河南を失地した。これ以降の匈奴は漢に対して敗北を重ね続けた。
紀元前114年に、烏維が新しい単于となる(烏維単于ういぜんう)。その頃の武帝は、匈奴が侵入して来ない限りは無駄に追い詰めて匈奴を刺激することをせず(現在の中国・浙江省付近を本拠とした部族/百越族と同族)との戦いに注力していた。が、紀元前111年に越との戦いを制すると、武帝は、烏維単于の嫡男を人質と差し出すことを要求するなど完全に立場は逆転して、紀元前198年の条約は完全に無に帰した。
しかし、烏維の父・伊稚斜単于ならばその要求を条件を付けずに受け入れた可能性もあるが、烏維は、それまでの慣例に拘った。それまでの和解の条件は、漢の公主(=皇帝と正室または側室の間に生まれた皇女)と匈奴の単于との婚姻だった。それに伴う絹や綿や食物などの貢品などが漢から匈奴へ贈られて講和するという”慣例”もないばかりか、逆に、人質の要求。この立場逆転を受け入れられずに激怒した烏維単于は、漢からの使者を追い返した。
武帝は、新しい使者を送るが、今度はその使者の身分にケチをつけ、もっと高位の者が使者に立つべきだと追い返す。その後も交渉は決裂し、烏維単于は、漢帝国と対峙し続けて国境侵入を繰り返した。

児単于 vs 武帝

紀元前105年。烏維単于の病没により嫡男・詹師廬が児単于として即位する。この人は即位年齢は若かったようですが強硬派のやり手として結構期待されていたと云われる。

児単于を、将来性豊かで脅威になると判断した武帝は、早めに潰すことを画策し、児単于の叔父(烏維単于の兄か弟)である右賢王・呴犁湖こうりこを対抗馬として分断を試みる。或る時から、わざとらしくわざわざ使者を二人送るようになり(一人は単于への使者、もう一人は右賢王への使者)、単于が右賢王へ不信感を募らせることを期待した。
匈奴側は、右賢王への使者を留置監禁するようになったがその人数もあっという間に二桁を超える。この措置に対し、漢帝国側も匈奴からの使者を留置し、それで人質交換で使者はそれぞれの国へ戻る。

こういう事が繰り返された中、厳寒の冬を迎え家畜が大量死した匈奴は、漢帝国への強奪侵入を始めるのだが、中には、もう戦争を止めて欲しいと願う重臣も現れ、血気盛んな若い児単于の暗殺(反逆)を企てるがそれは露呈し、首謀者だった左大都尉は処刑された。左大都尉と連携して匈奴へ攻撃を仕掛けていた漢帝国軍2万騎も匈奴軍の前に敗れ去って降伏する。
という具合に、児単于は、漢帝国に対して勝てなかった時代を終わらせることが出来る指導者と目されていたが、突然、病死する(紀元前102年)。これは、漢帝国側の重要要塞の一つ受降城(現在の内モンゴル自治区包頭パオトウ西北の黄河沿岸に設営されていた大軍事要塞)の攻囲戦を自ら指揮していた最中の出来事で、内部からの毒殺(暗殺)も考えられる。

呴犁湖単于~且鞮侯単于 vs 武帝 

若く将来を嘱望されていた児単于の突然死で匈奴は大きく揺れた。取り敢えず、受降城の攻囲は解かれて退散する。

児単于の子は幼過ぎて、右賢王の呴犁湖が単于即位する。元々、呴犁湖を甘く見ていた漢帝国は、挑発するかのようにあからさまな築城や要塞設営を行う。例えば、光禄勲(方面隊長のような地位?)の徐自為は設営軍を率いて、ヘルレン川流域に幾つかの物見櫓を造営し、游撃将軍に任ぜられた龍頟侯韓説軍や同じく長平侯衛伉軍をその近くに駐屯させた。更に、越攻略で軍功を挙げ強弩都尉に任ぜられた路博徳軍が居延の沼地のほとり(現内モンゴル自治区アルシャー盟エジン旗)に砦を築き駐屯した。

「舐めるな!」と、その秋、匈奴は大挙して定襄郡と雲中郡に侵攻し、数千人の住民を殺害し、一部は連れ去った。徐自為が築いた砦や物見櫓を破壊した。その後、反転攻勢に打って出ようとしていた矢先の冬、呴犁湖単于も突発的に病死する(暗殺?)。

一年の間に、単于二人が共に突然死。匈奴は混乱するが、取り敢えず、呴犁湖の弟で左大都尉に就任したばかりだった且鞮侯が、兄・呴犁湖同様に本名のまま改号せずに単于に即位する。

李広利

張騫を救った部族として武帝に知られる事になった西域のアーリア系民族フェルガナ族(大宛)は、「血のような汗を流して走る」という汗血馬かんけつばを多く飼っていた。この事を知った武帝は、使者に千金と鎏金青銅馬を持たせて汗血馬を購入しようとしたが、使者は殺され金品のみ奪われた。無礼極まりないフェルガナ族の対応に激怒した武帝は大宛攻略を命じる(紀元前105年頃)。

この時、大宛攻略軍を率いることになったのは武帝の寵妃である李夫人の兄で無頼漢であった李広利。武帝は、自由気ままな李広利に対して”弐師将軍”位を授けたのが、弐師とは、フェルガナ族が汗血馬を飼育していた弐師城のことである。

そもそも、真面目に働いたこともなく、指導者的立場での経験もない男が、数万の兵を統率出来る筈もない。それは武帝も分かっていたと言うなら尚更、昔の人間の命(兵隊の命)は軽視され過ぎですね。

移動距離に疲れ、兵からの不平不満の声に疲れ、面倒臭くなったのか、何の成果も出せないまま食糧が尽き脱走兵が大量に出た。李広利は、それでも皇帝の寵愛を受ける妃の兄を死なせまいとする将官達に守られて何とか敦煌までは辿り着いた。諸城の一つも陥落させずに敦煌で長期休息した(約2年もいたと言うのは誇張と思うが)。その事を知った武帝は激怒。李広利に使者を送りつけて「このまま玉門関(西域から敦煌に入る為の関所)より中に居続けるのなら即刻処刑する」と通告。皇帝の怒りに慌てた李広利は兵糧を確保すると敦煌を出立。取り敢えず、玉門関から先の敦煌塞(万里の長城の西の端)に陣取った。

その情報を察知した匈奴は、李広利を捕らえて交渉の為の人質にしようとしたのだが・・・

紀元前102年、武帝は、再度大宛攻略を厳命。精兵6万、牛10万頭、馬3万頭、ロバ・ラクダ1万頭余に軍の糧秣を運ばせた。更に、農民兵などの18万人が動員された。これだけの大軍を追加派遣されたらもう絶対に失敗は許されない。流石に李広利も覚悟を決めて大宛外城を攻囲し、決戦に突入する。

匈奴軍(李広利捕獲の為の遠征軍)が敦煌塞まで辿り着いた時には既にもぬけの殻。しかも、近くにはまだ漢の派遣兵数万人がいた為に匈奴軍は引き返した。

李広利軍に対して籠城戦を繰り広げたフェルガナ族でしたが、40日余りに及んだ激戦の末、多くのフェルガナ兵が命を落とした。遂に、フェルガナ族は投降。漢軍撤兵を条件に和睦を申し入れる。3千数頭の「汗血馬」が漢の皇帝へと貢がれた。この和睦条件を受け入れた李広利軍は撤兵。玉門関を通過して敦煌へ帰城。しかし、人間と家畜の相当数が敦煌迄辿り着けなかった。馬の為に馬が死ぬ・・・人も牛もラクダも・・・ワクワクする話が無数にある時代だけど命は軽いね。

李広利は海西侯に封じられた。が、こういうのはいつの時代も膨大な犠牲の上に得た称号である。上に立つ者は踏み台にした者達のことを忘れて欲しくはないものである。

大宛攻囲戦の影響

漢帝国が、物凄い数の大軍を派遣して大宛城を攻囲し、40日余りでフェルガナ族が討伐された。という情報が伝わった周辺各国や部族は、武帝の名と共に『漢』という国家が本気になった時の動員力の恐ろしさを思い知った。特に、匈奴にとっては脅威となった。武帝のみならず、フェルガナ攻撃の総司令官である李広利の名も鬼神の如く伝聞された。「自分達が、李広利を捕獲しようと敦煌を攻撃仕掛けたことを知られている」ということに殊のほか怯えた且鞮侯単于は、それまで留置していた漢の使者たち全員を無条件で解放。敵意などサラサラないことを伝える使者を立てた(紀元前101年頃)。

蘇武と李陵

蘇武

匈奴との戦争が終わることを快く受け止めた武帝は、中郎将の蘇武を派遣(紀元前100年)。副使は張勝で、後に、長羅侯(※長羅が何処なのか分からないけど)や典属国(漢に服属する国や部族を掌握する官職)として大出世する常恵も付き従っていた。単于に対して慣例的な多額の贈物も届けられた。ところが・・・使者・蘇武は監禁される。

蘇武が使者として出向いた頃の匈奴には、嘗ては漢帝国の将軍だった虞常衛律がいて且鞮侯単于の側近として幅を利かせていた。しかし、衛律の方がより重用されていることに対し、虞常は不満を抱えていた。その事を利用しようとしたのが匈奴の緱王。二人は共謀して衛律を殺害する計画を企て、更に、単于の母、つまり皇太后を拉致しこの上ない人質として漢への帰国(緱王は亡命)を果たすことを画策する。二人は、この計画を使節団の副使・張勝にこの話を持ちかけると張勝はこれを援助した。しかしこの計画は見事に失敗。且鞮侯単于は、この件に関し蘇武を尋問する為に拘束。蘇武は自決を図ったが衛律が手当てして一命を取り留めた。且鞮侯は、蘇武を脅して匈奴に帰順させようとしたが、蘇武はそれを受け入れず、常恵らと共に抑留された。

拘置された蘇武や常恵らは、穴倉に飲食物も無く捨て置かれるなど酷い仕打ちを受ける。が、雪を齧り節の飾りについている毛を食べて生き長らえたと云う。殺したいのなら、さっさと処刑したら?と思うのであるが、”しぶとい”蘇武は、匈奴が北海と呼んでいた現在のバイカル湖畔の牢獄に移された。匈奴の官吏は、「オスの羊が乳を出したら帰してやる」など子供騙しのような言葉さえ投げつけられた。ろくにまともな食事さえ与えられず、それでも、野鼠の穴を掘り、草の実を食って生き長らえた。やがて生への強い意志が評判となり、蘇武は、有力者の援助を受けたと云われる。

李陵

李陵の祖父・李広、父・李当戸は、共に権力に阿ることなく実直な軍人であったことで有名な人。そして、幼くして父を亡くした李陵もまた実直で悲運な軍人だった。

紀元前99年、騎都尉に任命された李陵は、匈奴討伐軍を率いていた弐師将軍・李広利を助勢するために歩兵5千を率いて出陣した。しかし、李広利軍との合流前に、且鞮侯単于が率いる匈奴の本隊3万騎と遭遇。そのまま戦闘に入る。李陵軍は、人数にして6倍の騎馬軍団相手に一歩も引かず八日間激戦を繰り広げて一万騎を討ち取った。が、平原の戦で騎馬軍団相手に歩兵だけでは持ち堪えきれず降伏した。

しかし、李陵が匈奴相手に降伏した報せを聞いた武帝は激怒。李陵の使者として報じた李陵の腹心・陳歩楽を詰問。陳歩楽は皇帝への抗議の意思を示し自決した。武帝の取り巻き達は総じて(皇帝のご機嫌取りで)李陵への厳罰を求めた。そういう中にあって、司馬遷だけは李陵の人格とこれまでの献身さを褒め称え、匈奴本隊相手の多勢に無勢という状況にあっても勇戦したことの無実を訴えたが、逆に武帝の逆鱗に触れた。つまり武帝は、李陵に非が無いとするなら、助けに来なかった李広利を誹るものと受け取った。そして司馬遷は投獄される。

一方、匈奴軍に投降した李陵は、その才能と人柄を認めた且鞮侯単于に匈奴に加わるよう誘われたが李陵はその申し入れを丁重に断り、拘束されていた。

武帝は、公の場で李陵の敗北を罵ったことを後悔し、李陵を救い出すための方策を思案していた。ところが、捕虜とした匈奴兵から、「李将軍」という漢人が、匈奴にいて、漢の軍略を教えていることが明かされた。この「李将軍」を李陵のことだと受け取った武帝は猛烈に激怒し、李陵の妻子をはじめ、一族郎党を皆殺しに処刑した。実情を何も知らない李陵の領民たちは皆殺しに遭った一族を憐れみ、潔く戦死せずに害を及ぼした李陵を恥知らずと忌み嫌ったという。しかし・・・
この「李将軍」とは李陵ではなく、匈奴に帰順し大閼氏(且鞮侯単于の母)の縁者を妻に娶っていた李緒という軍人のことであった。

或る時、漢からの使者によってこの報せを聞かされた李陵は一族の非業の死に嘆き悲しみ、その李緒を自ら殺害した。これに激高した大閼氏は李陵の殺害を強く要求する。しかし、何とか李陵を手元に置きたいと願っていた且鞮侯単于は李陵を北方に匿った。

大閼氏の死後、李陵は且鞮侯の申し出を受け入れて匈奴に帰順した。喜んだ且鞮侯は、自らの娘を李陵に娶らせるなど親戚となり、李陵を匈奴の右校王に抜擢する。覚悟を決めて匈奴の一員となった李陵は短期間の内に数々の武功を挙げ、匈奴の信頼を得た。が、紀元前96年に且鞮侯単于が病没する。

左賢王だった嫡男が狐鹿姑単于として即位する。新単于・狐鹿姑の下でも李陵の活躍は続き、その後の壺衍鞮単于の統治期である紀元前74年に没する。

李陵と蘇武

生前の李陵は、旧知の仲だった蘇武が監禁状態にあることを知る。恐らく、狐鹿姑に代替わりして以降の事だと思われる。驚き、急ぎ蘇武の元へ向かうと匈奴に与することを勧めるが、蘇武の心は折れることは無かった。李陵は節を全うしようとする蘇武を陰から支え続けた。

匈奴は、漢帝国の使者に対して、早い段階で蘇武は亡くなったと伝えていたが、抑留されて19年目になる紀元前87年3月29日、武帝が54歳で崩御。

漢帝国の新皇帝に即位した昭帝はまだ8歳の幼帝であり、皇帝位簒奪の企みなどもあって不安定な政情が続いたが、紀元前82年頃に少しは落ち着き、匈奴との和親の為の使節団を派遣される。その際、常恵によって蘇武がまだ生存していることが伝えられ、漢帝国は蘇武の引き渡しを強く要求。折角の和睦が無に帰すことを恐れた匈奴側がそれを受け入れて、蘇武は救出され漢に帰国を果たす(紀元前81年)。

辛く厳しい状況にも屈せず漢帝国人であることを貫いた蘇武は人々の尊敬を集め、典属国の地位が授与された。しかし、母は亡くなった後であり、妻も他の者と再婚していた。それだけではなく、帰国後も色々と辛いことに見舞われたが、紀元前60年まで、80年余りの人生を全うした。

李広利の最期

時代を少し巻き戻して、紀元前90年。狐鹿姑単于は、現在の北京に当たる上谷郡と五原郡(現在の内モンゴル自治区バヤンノール市~パオトウ市一帯)の襲撃を命じ、略奪と殺戮が行なわれた。更に同年、再度、五原郡と酒泉郡(現在の甘粛省酒泉市一帯)を襲撃し、両郡の都尉を処刑した。

武帝は、(不肖私の心象としては既に悪役と化している)弐師将軍・李広利に出撃を命じる。受降城に入城した李広利は、匈奴討伐軍7万を率いて五原郡(現在の内モンゴル自治区バヤンノール市~パオトウ市一帯)に出兵する。(この時の漢は、同時に、西河軍に3万、酒泉郡に4万を投入し、匈奴との一大決戦に突入していたが・・・)

李広利は、五原への出陣前夜に、縁戚であり丞相の地位にあった澎侯・劉屈氂(武帝の甥で、劉勝の子)と密談している。その内容は明らかになっていて、武帝の寵妃・李夫人(利広利の妹)の子(昌邑王・劉髆)を皇太子とする旨であった。

ところが、内者令(600石の官吏)の郭穣という者が、「丞相(劉屈氂)が、皇帝(武帝)の叱責を受けた際、丞相夫人は皇帝を呪詛し、昌邑王の新皇帝即位を願い祈祷を行なった」と報告。常日頃、丞相とは反りが合わなくなっていた武帝は、劉屈氂を逮捕して、市中引き回しの末に腰斬の刑に処した。劉屈氂の妻子も捕縛され斬罪。また、この企みの発端は李広利の我欲の陰謀であるとして、李広利の妻子も処刑された。

この時の李広利は、匈奴との戦局を有利に進めていたと云うが、以上の報せを受け取ると愕然とし、失意露わにして匈奴軍に投降した。尚、この時には李陵が匈奴軍3万騎を率いて西河の戦いで漢の副丞相・商丘成と対戦(浚稽山の合戦)。大激戦に至ったが、五原の結果が齎され戦いは9日目に双方が退陣して終わった。

投稿した李広利は、匈奴に帰順して狐鹿姑単于に仕えることになった。武帝の寵妃の兄という事で狐鹿姑は娘を娶らせるなど重用されたが、先述した衛律に妬まれ、衛律の讒言によって処刑された。

余談

匈奴の事を書いているつもりが、情報量の違いによって漢の話が膨らんでしまい遅々として進まない(苦笑)こんな調子だと、50話くらい書かないと、匈奴が漢化して趙(前趙)を建国する話に辿り着かない気がする。今やっと紀元前90年前後の話で、劉淵の時代が西暦300年頃だからまだ400年もある。そう、最初っから終わりは見えているのだけどねェ・・・

50話は冗談だけど、次回は何処まで話を進められるのか。漢帝国の通史なんて書いてるつもりはないのだけど、やっぱ中国は奥が深いのです。妙に端折れないし、端折ったら全く話が噛み合わなくなる。

では、今回はこれにて終わりです。

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