エラム
現在のイラン・イスラム共和国・エスファハーン州カーシャーン市の郊外のテペ・シアルク遺跡は、イランの歴史発祥地点と考えられる。テペ・シアルク周辺に人の居住が始まったのは紀元前5500年~紀元前6000年頃と推定されている。尚、古代シュメール人は、メソポタミアの東、ザグロス山脈の西南に沿って広がる大規模な高原地帯の一角に限定して「エラム」と呼んでいたようですが、現代では今のイラン領域全体をエラムと呼んでいる。
テペ・シアルク周辺には特に文明発展の基点となるような大河は見当たらない。しかし、いわゆるイラン高原から齎される清潔で豊富な水源、例えば有名な「ソロモンの泉」などが存在している。故に、世界遺産登録を受けたペルシア式庭園として最も名高い一つ『フィン庭園』なども造営された。
人の居住が始まってから千年も2千年も経たないと文化が生まれない。こういうところも人は一朝一夕には進化しないという事を教えてくれるのですが、紀元前4000年頃の原エラム期とされる神殿がスーサに建造された。スーサの位置はテペ・シアルクからは随分と西へ離れ現在のイラク国境と近接している。テペ・シアルクの人々が移住したのかどうかは分からないけれど、スーサ(現在のフーゼスターン州シューシュ)は、アクロポリス、アパダーナ、王の都市、技師の都市の四つの遺構から成り立っていて、古代イラン国家エラムの当時の首都と考えられている。
同じ頃、シュメール人達によるいわゆるメソポタミア文明が興っていたけれど、エラムの文明もほぼ同時期に興っている。というのが歴史学者や考古学者の一般的見方らしいので、だったら、世界4大文明に入れてあげたら?と思うのだが・・・
エラムでは、紀元前3200年頃から諸部族が割拠していたが紀元前2700年頃、史上初めてエラムを統一したと云われているのがアワン王朝。アワン朝の成立を境に古エラム期と呼ばれる。エラムとアワンが共通語源となり「イラン」なのか?いやいや、アワン朝に語源を求めるのは合わんよね?「イラン」の意味はもっと別のところにある(後述)。
アワン朝は紀元前2200年頃まで約500年続き、シュマシュキ王朝に代わる。シュマシュキ朝は300年続き紀元前1900年にエパルティ朝に代わる。エパルティ朝は紀元前1770年頃に即位した第8代シウェ・パラル・フッパクの時代にバビロン第一王朝に敗北。バビロン王ハンムラビに対して臣下の礼を取ることになる。それから紀元前1500年頃までエラム(エパルティ朝)はバビロンの属国だった。
イゲ・ハルキ朝が興った紀元前1500年頃を境にバビロンの支配から脱したエラムを中エラム期と呼ぶ。再び、エラムは繫栄していくが、400年後の紀元前1100年頃にバビロン第二王朝(ネブカドネザル1世の統治期)に侵攻されて再びバビロンに支配される。
メディア
紀元前8世紀頃にフンバンタラ王朝が成立して三度バビロンからの独立を果たすが、この頃はバビロンよりもアッシリアの圧力に苦しめられていた。そのアッシリアを退け、イラン高原を広く支配したのがメディア人。
メディア人とは、紀元前1千年紀に、現在のイラン北西部、ハマダーン周辺を中心とする地域に何処からともなく移住して来たインド・ヨーロッパ語に属するメディア語を話していた人々のこと。起源前612年頃のアッシリア滅亡に直接関わったと云われるメディア人達は、新バビロニア、エジプト、リュディアと共にこの時代のオリエント世界に於ける4大大国の一つとなり、その中でも現在のパキスタン奥深くからトルコの小アジア部の半分程度までを支配するなど最も広大な領域を誇ったメディア族の帝国を成した(※敢えて「メディア族の帝国」と記述。理由は後述)。
ヘロドトスは、著書『歴史』の中で、メディアという名前の由来を以下のように、一人の女性からと書いている。引用します。
『ペルシア戦争に加わったメディア人部隊の装備は、ペルシア人と同じ装備だった。もともと、この装備様式はメディアのものであって、ペルシアのものではない。メディア人を指揮するのは、アカイメネス家の一族なるティグラネスであった。メディア人は昔からもアリオイ人の呼称で呼ばれていたが、コルキスの女メディア(メーデイア)がアテナイを逃れてこのアリオイ人の許へきてから、この民族もその名を変えたのである。これはメディア人自身が自国名について伝えているところである。』
コルキスとは、現在のジョージア(グルジア)西部に位置した古代王国でギリシア神話にもちょくちょく登場する遊牧騎馬民族国家。ギリシア神話に於ける王女メーディアは、太陽神ヘーリオスの孫娘で魔女キルケーの姪。ペルシア王ペルセース(父ペルセウスとアンドロメダの間に生まれたペルセウスのこと)を殺すなど、魔力と武力と智と美の全てを兼ね備えた妖艶な女性。ペルセースを誅殺した後、メーディアによって建国されたのが「メディア」・・・というのはギリシア神話版の言い伝え。因みに、メーディアの父でコルキスの王アイエーテースは、メーディアに殺されるペルセウスの甥に当たると云われる。
ギリシア神話とインド・ヨーロッパ語族説とは少し矛盾を感じるのだけど、どのみち、コルキスと深い関係があることは間違いない。
神話による建国期の逸話からして、メディアとペルシアはそんなに仲が良いとも思えないけれど、その通りに、当時はメディアの属国に過ぎなかったペルシアの国王になったキョロス2世は紀元前550年にメディアに対し反旗を翻す。それを討伐しようとした当時のメディアの族長アステュアゲスは、キュロス2世に敗北し捕らえられて処刑される。この時を以てメディア族は壊滅した。
更に、キュロス2世率いるペルシア軍はエラムの首都スーサに侵攻して、その頃は既に力を落としていたエラム王国もペルシアに降伏し吸収合併される(紀元前518年)。
尚、以上のように書いて来て身も蓋も無いのであるが、メディアの「国家」としての実在可否については疑問視されている。王らしき人物の名前も出ては来るが、キンメリアやマッサゲタイ同様に、族長的な地位と考えるべきかもしれない。但し、メディアを名乗った部族であることには疑う余地はなく「メディア人」の表記は別に何も変じゃない。
イラン系(アーリア系)遊牧騎馬民族の興り
以上のように、エラムがバビロンやアッシリアなどから圧せられていくと、エラムの領民であった移動性を特徴とする遊牧民部族たちは、安全な遊牧地を次々と失い不満が募る。そして、「もう、西側はいいよ」と、北へ東へと独自領域を広げて行った。やがてエラムの外へ脱してそれぞれ国家化(イラン系遊牧騎馬民族国家)していく。
イラン系遊牧騎馬民族は、中央アジアから黒海周辺を暴れ回った。其処が「好きったい!」と言ったかどうかは分からないけど、スキタイ(イラン系遊牧騎馬民族諸族の集合体)として広大な領域に定住していく者達も現れる。スキタイに圧せられて南下せざるを得なかくなりイラン高原に向かったのがメディア人達とも云われる。
イランとペルシアとアーリアと・・・
『イラン』という名前は、イラン人曰く「アーリア人の国」を意味する言葉。自分達をアーリア人だと強く主張する彼らは、イランという国名に強い拘りと誇りを持っている。しかし・・・
古代ギリシアと死闘を繰り広げたアケメネス朝の当時の首都はペルセポリス。そして、ペルセポリスの周辺地域の古名は「パールス(パールサ)」。その二つの地名に由来する『ペルシア』という呼称を重んじていたのがヨーロッパの国々。だからヨーロッパの人々は、ずーっとペルシアと呼んでいた。
1921年にペルシア革命を指導してテヘランを占拠し、1925年にパフラヴィー朝イランを樹立。その初代皇帝に即位したレザー・シャー・パフラヴィーは、「世界に冠たるアーリア人の後裔」を主張したヒトラーに共鳴。中立的立場ながらナチス・ドイツを支持していた。石油燃料が欲しいヒトラーは事あるごとにレザー・シャーを持ち上げた。レザー・シャーは、ドイツがアーリア人の最高傑作であるというヒトラーの言葉をどのように受け止めていたかは知らないけれど、「自分達こそがアーリア人の発祥の地である」と主張。1935年3月21日に発布した諸外国に対する公式文書で、今後は「アーリア人の国」として「イラン」という国名を表記するよう要請した。これは正式に国際承認されるが混乱も生じた。
1959年になると、第2代皇帝モハンマド・レザー・シャーが方針転換して、『イラン』『ペルシア』の代替併用を可能とする。その後1979年のイラン・イスラム革命が起こりイスラム教に基づく共和制国家が樹立。国名は、「イラン・イスラム共和国」と定められた。
で、不肖私は何を言いたいか。であるが、「アーリア人」などという言葉は、18世紀末のイギリスで突然出て来たもの。それまではだーれも知らない。そもそも、「インド・ヨーロッパ語族」なんていう区分けが出て来なかったら、アーリア人という言葉も出て来なかった。つまり、「アーリア人の国」=「イラン」は古代期には誰も言ってなかったし、中世でも「イラン」はない。つまり、「イラン系遊牧騎馬民族」なんていう民族はそもそも存在していなかった。という事である。
だったら、スキタイとかアランとかに代表される「イラン系遊牧騎馬民族」はどう形容すれば良いのか?であるが、どうしてもそういう「何々系・・・」という言葉を付けなければならないならば『エラム系遊牧騎馬民族』ではないかな?
そうは言っても、弊BLOGの他エッセイ文には、書き換えが面倒なほど『イラン系遊牧騎馬民族』とか用いているけどね(苦笑)書き換えは面倒なので、もうそのまま「イラン系・・・」で通していくけれどね、個人的には不本意ながらです。
テュルクとトルコの違い
スキタイの東側には、地球上のもう一つの遊牧騎馬民族集団「テュルク」が広大な領域に多くの部族を持ち闊歩していた。(お互いに)踏み入れてはならない領域に踏み入った両者は「ぶつかる」。
テュルクは「トルコ」と同義語。現在日本人がトルコ共和国と呼んでいるトルコも、本当なら「テュルク共和国」と呼んでいい筈だが、そこは日本的な言葉の使い分けの妙でもある。
●「テュルク」=≫テュルク諸語を話す民族の総称
●「トルコ」=≫テュルク諸語を話す人達を主要民族とするトルコ共和国の通称国名
こういう事を”独自教育”受けている日本人だから、世界の人々が言っている歴史認識と大きくズレていくことは多々起きる。面倒くさい国なんよね・笑
(おまけ)モンゴルとタタル
「テュルク」に近似する言葉で「タタール(タタル)」という言葉がある。こちらは、テュルク系に比べたら随分後発のモンゴル系遊牧騎馬民族であるモンゴルが、嘗て、モンゴル部とタタル部に分かれて覇権を争っていた当時からの名残り。結果的に、モンゴル部がタタル部を吸収合併。そして大モンゴル帝国を成すけれど、モンゴル帝国がロシアやウクライナ地域を席捲した時、モンゴル軍の兵士たちが「俺らはタタル人だ!」と行く先々で発したので『タタルの軛』なる言葉も生まれた。
因みに、セルジューク朝トルコの主力は「タタル人」と云われているけれど、それがテュルクを指すのかモンゴルを指すのか実のところハッキリしない。そのように各地で混乱するほどテュルク系とモンゴル系はハイブリッド化を極めていく。更に、チベット系やツングース系などもそのハイブリッド化に含まって行き、そりゃ、美人の宝庫になるよね(そこか!・笑)
多分現在でも、「俺たちは(モンゴルじゃねえぞ!)タタル人だ!」と言っているモンゴル国民はいるんじゃないかな。いつかきっと間違いなく「祟る」・笑
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