ヴァンダル(1)

東欧史

先史時代や古代の歴史は、それを信じて肯定する側と、根拠がないと否定する側とで必ず論争が起こるものである。

例えば今回取り上げるヴァンダル族(又は、ルギイ族)に関しても、不肖私のように「プシェヴォルスク文化を興した人達であり、即ちスラヴ語系民族である」と言う人もいれば、「何を馬鹿な事を。スカンジナヴィアを出自とするノース系ゲルマン=ノルマンに決まっている」と言う人もいる。

匈奴やフン族のように、『出自不明でミステリアスな遊牧系騎馬民族』で押し通せば済む話だが、弊BLOGでは、ヴァンダル族に関してはスラヴ語系民族という説を採ります。(参照記事

シレジアとシリンジィ・ヴァンダル

現在のポーランド南西部からチェコ北東部にかけて、嘗て、そこはシレジアと呼ばれた地域です。が、そのシレジアに数世紀に渡って居住していたヴァンダル族は、「シレジアの人」という冠名を付けてシリンジィ・ヴァンダル人とも呼ばれる。

中世ヨーロッパの学者たちは、ヴァンダル族を指して、『(ヴァンダル族は)ポーランド人とチェコ人をはじめとした西スラヴ人の主要な先祖を構成している、即ち、プロト西スラヴ人である』とほぼ断定していた。その通りにスラヴ人のままで良かったものを、プロイセンと神聖ローマがシレジアの領有権を激しく争う中で、先ずはプロイセンが、ヴァンダル人の故地であるシレジアを「ゲルマン人であるヴァンダル人の故地」と言い換えた。つまり、ゲルマン人の土地だからチェコやポーランドは手を出すなよ!(明け渡せよ!)という論拠にしたわけだ。
然しながら、宗教上のトラブルでチェコとは仲が悪かったものの、ポーランドの力を必要とした(と言うより、神聖ローマ皇帝がポーランド王を兼ねていた時代もある)神聖ローマは、ポーランドへの配慮もあり、しかし、神聖ローマを構成する多くのゲルマン系地域国家の支援を失わないように『スラヴ系ゲルマン人』という玉虫色化したヴァンダル族を創出した。

そんな面倒な理屈を持ち出された当のヴァンダル族にとっては非常に迷惑な話でしょうけど、シリンジィ・ヴァンダル人という言われ方は何となく似合っている。

後述する話ですが、3世紀後半頃に、ヴァンダル族はシレジアを失地する。言うまでもなく、ゴート族に敗れるわけですね。更に、フン族の襲来にも遭う。北へ逃げたヴァンダル族はヴァイキング化したかのように鍛えられ、やがて戦闘力の有る部族へと生まれ変わる。そして北海回りで地中海に入り、カルタゴを滅ぼして其処(現在のチュニジア)に移住した勢いのままに西ローマ帝国を滅亡に追い込んだ。だから、その時点のシレジアにヴァンダル族は少数残っていたにせよ中世初期のヨーロッパに於いては占有権を失っていた。ところが10世紀頃になると、ヴァンダル族の後裔たちの多くは再びシレジアを目指し移動した。これは、イスラム教化させられる事を嫌った者達の行動だと考えられる。

中世のヴァンダル人は、現在のドイツの東側(嘗ての東ドイツ)からシレジアにかけての広範に入植し地域に戻っている。この移動の正当性を訴えたヴァンダル人達は、ミシェンコ1世(935年~992年)を『ヴァンダロルム国の公』と呼び御輿として担ぎ上げた。単純な話ではなかったが、紆余曲折の末にピャスト朝ポーランド王国の建国に成功する(963年)。此処が最初のポーランド王国の曾地である。つまり、ポーランド王国(ピャスト朝)成立時の国民には、多くのヴァンダル人が含まれていたということだ。そして、その経緯に詳しかったプロイセンのドイツ人達は、この時のピャスト朝領域に多くのヴァンダル人が居住していたことを認めた上で、ヴァンダル人がゲルマニアを目指して戻って来たゲルマン人であるかのように形作って神聖ローマに対抗した。というわけです。

ハディンギ家とハスディンジィ・ヴァンダル

アラン族との出会い

ハスディンジィ・ヴァンダルと呼ばれた人達の『ハスディンジイ(Hasdingii)』は、スラヴ語読みではハディンギですが、ハディンギ家は、ローマ時代に於けるヴァンダル族に在って最も有名な家名です。

ヴァンダル族の多くはシレジアで安定した暮らしを営んでいましたが、中には、挑戦的(野心的)なグループもあり、ヴァンダル族の族長の系譜に在ったハディング家もその一つ。と言うより、かなり大きなグループであり、後のヨーロッパでは「ハスディンジィ・ヴァンダル」と呼ばれた。

2世紀初旬、ハスディンジィ・ヴァンダルは新天地を求めてシレジアを出た。パンノニア平原を抜けた先のどの辺りに辿り着いたのかは定かではないが、東側は、サルマタイ=イラン系遊牧騎馬民族(ローマ人は総じてヤジゲ族と呼んでいた)が暮らしていた領域と接していた事だけは間違いない。そして、サルマタイの構成部族のアラン族やアラン族支族と思しきコストボキ族と懇意になる。因みに、ヴァンダル族とサルマタイ=ヤジゲ族は、この先ずっと同盟関係を維持する程の仲になる。恐らく、ハディング家とサルマタイ各諸族の族長家では、婚姻関係が結ばれたと考えられる。

ローマの五賢帝時代

左から コッケイウス トラヤヌス ハドリアヌス アントニヌス・ピウス マルクス・アウレリウス ルキウス コンモドゥス 

第5次パルティア戦争

この時代、ローマ帝国はいわゆるネルウァ=アントニヌス朝時代(西暦96年~192年)に当たる。この間の7人の皇帝(5人の皇帝と2人の共同皇帝)の内、最初のマルクス・コッケイウス・ネルウァでは果たせなかったが、次のマルクス・ウルピウス・トラヤヌスが、ローマ帝国の宿願となっていたダキア王国(現在のルーマニアのトランシルヴァニア地方の大部分)攻略に成功して、其処を「属州ダキア」として統治を始めた。

更に、ナバテア王国(現在のヨルダンの西半分?)の攻略にも成功して、其処は「属州アラビア・ペトラエア」に組み入れた。これで、属州アラビア・ペトラエアの領域は、現在のシリア南部~シナイ半島~ヨルダン西部~サウジアラビア北西部へと拡大。西側に接する「属州シリア」、更に「属州エジプト」などと併せれば、嘗てのアレクサンダー大王のマケドニアを優に凌ぐ大帝国化を成した。

属州アラビア・ペトラエアの東側と接する大帝国・アルケサス朝パルティア(現在のトルコ東部~イラク~イラン~トルクメニスタン~アフガニスタン西部~パキスタン西部)とは、紀元前53年の第一次戦争以来4回の戦争が行われていた。そして、西暦113年。第5次戦争が起こる。

第5次戦争の伏線は、ローマとパルティアの緩衝地帯となっていたアルメニア王国に対し、西暦110年頃のアルメニア王位継承に際して、パルティアが内政干渉した事。ローマとパルティアは、アルメニアに対する何らかの介入が必要な場合は必ず双方合意の下、というのが停戦条約の条件となっていた。それを破ったパルティアとアルメニアに対してローマは宣戦布告した。

ローマのトラヤヌス帝は、アルメニア王国からの全ての和解案(中には、トラヤヌスをアルメニア王とする最大限の譲歩案も示された)を全て拒否。空前絶後(と云われる)の大軍勢を展開した。アルメニアは早々に降伏し「属州アルメニア」となる事を受け入れた(114年)。

アルメニアを陥落させた後、更にローマは東へ進軍してパルティアとの全面戦争を仕掛けたが、何故かパルティアは動かなかった。局地戦での抵抗は各地で行われても、パルティアが誇る大騎馬軍団は出て来なかった。苛立つトラヤヌスだったが、パルティアへの侵攻で手薄になったアラビアやシリアの各地で反乱が頻発した事に因り、ローマ軍は117年になると一旦メソポタミアから全軍を引き上げた。しかし、翌118年には(退位後)再侵攻。何としてでもパルティアと雌雄を決しようとしていたのだが、その矢先にトラヤヌスは突然の病で急死する(毒殺?)。

この時、パルティアが動かなかった(動けなかった)のは、パルティア内で権力闘争が起きていたことにあるようです。=>パルティア崩壊~ペルシア復活(サーサーン朝)への序章?
※パルティアは、最後まで(第8次戦争まで)ローマには屈しなかったけれど、”新しい”ペルシア人に負けて滅亡する(224年、或いは228年)。先々ではそういう事になるのですが、それはさて置き・・・

トラヤヌス帝の後を受けたのは、『ハドリアヌスの壁』で知られるプブリウス・アエリウス・トラヤヌス・ハドリアヌス(在位:117年~138年)。ハドリアヌスの治政は別機会があれば書きます。

138年~161年に皇帝在位したのが、ティトゥス・フルウィウス・アエリウス・ハドリアヌス・アントニヌス・アウグストゥス・ピウス。長いゞ(笑)(第15代ローマ皇帝、ネルウァ=アントニヌス朝では第4代)アントニヌス・ピウスです。大規模な戦争もなく、内政改革に精を出した良心的?な皇帝。

第6次パルティア戦争~マルコマンニ戦争

皇帝と共同皇帝

アントニヌス・ピウスの治世期では、ゲルマンやスラヴ、その他の民族(ローマが総じて蛮族と呼んだ人達)やユダヤ人などに対しても穏健な外交姿勢に在った。それが好まれた反面、ローマを組みし易しと見る動きが出て来る。

第16代ローマ皇帝は、マルクス・アウレリウス・アントニヌス(在位:161年~180年)。五賢帝時代と呼ばれた中での最後の皇帝(正帝)ですが、真面目で温和で賢い皇帝だったが、病弱で戦争を嫌っていたと云われるマルクス・アウレリウス。しかし、その治政の中で大きな戦争をせざるを得なかった。その一つが、第6次パルティア戦争。

ローマと共に暫くは鳴りを潜めていたかに見えたパルティアが、約半世紀ぶりに軍事侵攻しアルメニアを襲った(161年)。その頃は、ローマ属州ではなく再びパルティア王国ではあったけれどローマ帝国に庇護されていた親ローマ国家。それを改めさせるための軍事侵攻ですが、あっという間にアルメニアを陥落させたパルティア軍は、ローマ守備隊(カッパドキア軍)を駆逐して属州シリアへも進軍。此処でもローマ軍は敗北した。

ローマは、ゲルマン諸族の反乱にも同時に苦しんでいて、東方への大掛かりな援軍を送れないでいたが、此処で英雄が出現する(実は、英雄とは名ばかりの棚ぼた)。マルクス・アウレリウスと共に、アントニヌス・ピウスの養子であり、マルクス・アウレリウスよりは9歳若い共同皇帝ルキウス・ケイオニウス・コンモドゥス・ウェルス(通称ルキウス・ウェルス/在位:161年~169年)である。

そもそも、権力欲が無く戦争嫌いだったマルクス・アウレリウスは皇帝即位を拒んだが、それは許されない立場にあった。しかし、即位に当たって強い条件を出し、それが、ルキウス・ウェルスとの共同統治。それを認めなければ即座に退位すると元老院を脅し、ローマに初めて共同皇帝が誕生した。これ以降、共同皇帝政に近しい正帝・副帝の治政はごく普通に起こったし、単独皇帝時代も普通にあった。

共同皇帝となったルキウスだが、こちらは怠け癖が抜けない博打好きのろくでなし。という風評に違わないやる気の無さ。元老院は、何とか廃位出来ないものかと画策していたが、そういう中で起きたパルティアの侵攻だった。いくら戦争嫌いでも攻撃されたらやり返さないと示しがつかない。で、皇帝アウレリウスは自ら戦場へ向かおうとしたが、元老院はそれを拒み、経験を積ませる為にもという理由で共同皇帝ルキウスの派遣を決める。

元老院は、気乗りがしなかった共同皇帝を(上手く行けば)戦死させることが出来ると目論んでの事だったのかもしれないが、戦場に出るどころか後方にいて博打ばかりしていたとも云われる。ルキウスに対する不満ばかりで戦況に対してはあまり良い報せが無く、アウレリウスは、何とかルキウスにやる気を起こさせようと奥の手に打って出る。何とアウレリウスは、自らの長女ルキッラをルキウスに妻として迎えさせ、形式上、義父と娘婿による統治体制を敷く(164年)。

歴史学者達が言うには、アウレリウスは、ルキウスを共同皇帝に指名した161年の段階で、150年生まれのルキッラと130年生まれのルキウスを結婚させようとしていた。たとえ20歳差であろうと30歳差であろうと、当時の権力者が若い妻を得て、何人も跡継ぎを産まそうとすることは珍しくも何ともない事だった。が、いくら何でも10歳そこらの子どもとの結婚にはルキウスは同意せず、それで婚約に留め置いていた。というわけで、婚約から3年経ったその時の婚姻は既定路線だった。

ルキッラは、「戦場の花嫁」として属州エジプトへ向かう。当時のルキウスには愛人が何人もいたというが、可憐な少女妃を正妻に迎えて心変わりしたかどうかは・・・(※ルキッラは、次の共同皇帝となる弟コンモドゥス暗殺を計画する・・・という話は何れまたの機会に)

影の英雄の野望

ルキウスは、確かに英雄扱いを受ける事になった。何故なら、全くやる気のない共同皇帝でありながらも、パルティア軍をシリアから追い出す事に成功したばかりか、アルメニアの奪還も果たした。更に、パルティア領内へ追撃して逆に、セレウキアとクテシフォン(共に、現在のイラク・バクダッドに近い位置にある古代都市)を陥落させた(尤も、すぐにパルティアに奪還されたが)。

アルメニアは、新国王(アルメニア皇帝)の玉座をルキウスに与えたし、都市国家メディアもルキウスに帝位を与えた。ローマの共同皇帝にして、アルメニアとメディアの皇帝にも就いたルキウスに対して、元老院は凱旋式を用意してルキウスの帰国を祝った。これでローマに於けるルキウス人気は絶大のものとなる。そうなると楽しくないのは・・・

アウレリウスではなく、何の軍事行動も出来なかったルキウスの代わりに、対パルティア戦線に於ける真の軍巧者であった属州エジプト総督のガイウス・アウィディウス・カッシウスやカッシウスと行動を共にした司令官達や全ての軍人達。

功績を称える相手が違うだろう!という不満の声がローマ軍の中に渦を巻いた。アウレリウスと元老院は、その声を鎮めるために、アウィディウス・カッシウスと総司令官マルティウス・ウェルスの二人を執政官に叙任した(166年)。更に、アウィディウス・カッシウスには属州エジプトに加えて、属州シリア総督を。マルティウス・ウェルスにはカッパドキア総督を任命した。

これで当面の問題は収まったかに思えたが、169年に共同皇帝ルキウスが突然死(暗殺?)。次に、174年頃から天然痘が大流行し罹患したウェルスが死去。更に、皇帝アウレリウスまでもが天然痘に冒され死の淵をさ迷った。カッシウスは、自身にこの上ない幸運が舞い込んだことを”確信”したのだが?

実は、アウィディウス・カッシウスはただの軍人貴族じゃない。初代皇帝アウグストゥスの系譜。つまり、ユリウス=クラウディウス朝の血を受け継ぐ者だった。アウィディウス・カッシウスは、ユリウス=クラウディウス朝の再興を宿願として軍をまとめ上げて来たのであり、いつでもクーデターを起こす覚悟は出来ていた。そして、軍内ではライバル関係にあったウェルスに続き、皇帝アウレリウスまでもが天然痘で亡くなった。それは誤報だったが、誤報と分かる前に、アウィディウス・カッシウスは「自分こそが」と皇帝宣言を行った。

アウレリウスは確かに病弱ではあったが生命力は尽きなかった。天然痘と必死に戦った。が、戦った相手は天然痘だけじゃない。

パルティアとの戦争に勝利したのも束の間、ローマに牙を剝いたのがヴァンダル族。そしてヴァンダル族と行動を共にしたアラン族だった。

恐らくそれは、アラン族にとっての故地でもあるイラン系アルケサス王朝パルティアの苦境を救うための連携行動だと考えられる。勿論、パルティアの王族にとってサルマタイ構成部族は既に”国外”の人間達だったでしょうけど、いや、古代のことを見たことも無いので断定は出来ない。きっと、イラン系遊牧騎馬民族集団=サルマタイは、パルティアと強く連携していたに違いない。そして、サルマタイ構成部族のリーダー格であったアラン族はヴァンダル族と運命共同体のような関係を築きローマとの戦いへの参加を要請。ヴァンダルはそれに呼応した。という流れではないかな。時系列的にはそれで納得出来るので。

ヴァンダルとアランの同盟軍との戦いはローマのその後にとっては序章に過ぎず、その後の戦いであるマルコマンニ戦争という大きな戦争へ向かう事になるわけですが、長くなり過ぎたので次回へ。

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