ケニア独立運動史~光と影~

アフリカ史

マータイさん

「持続可能な開発」「民主主義と平和に対する貢献」以上の二つを理由として、2004年のノーベル平和賞を受賞した人、と言えば、ケニア共和国のワンガリ・マータイ女史(1940年4月1日~2011年9月25日)。マータイさんは、ノーベル賞受賞後の2005年に、『京都議定書(2005年9月発効)』関連行事に出席する為に来日。その際に「もったいない」という言葉に出会い感銘を受けられたという事で、その時以来、「MOTTAINAI」キャンペーンを展開した事でも有名な人。

このマータイさんを輩出したのが、ケニア最大部族のキクユ族。最大部族と言っても人口の22%程、現約660万人ほどなので、圧倒的大多数部族というわけでもないけれどね。マータイさんの他にも、オリンピックチャンピオンのジョン・グギ、サムエル・ワンジル、そして独立の英雄と謳われたジョモ・ケニヤッタもキクユ族の出身。

キクユ族とケニア独立運動

キクユ族は、少数民族だけど有名部族のマーサイ族のような戦闘的な人たちではなく、どちらかと言えば穏健で友好的な人達だったので、植民地政策には利用され易かった。それが他部族からは「従ってばかり」と見られて嫌われる要因にもなったようです。が、1919年に、ハリー・ズクというキクユ族出身者によってナイロビに東アフリカ協会が設立された事をきっかけにして、ケニアに、民族主義的な政治運動が始まる。
5年後の1924年、ハリー・ズクに賛同する若者たちがKCA(キクユ中央連盟)を結成する。その若者達の中にジョモ・ケニヤッタも入っていた。ケニヤッタは、いわゆる小学校しか出ていなかったが(当時のケニアでは珍しいことではなかった)、独学でかなりの知識を有していたと云われます。1926年には書記長となり、やがてはKCAの代表者的立場となり植民地政府やイギリスへ渡英して交渉に当たったりして名を売っていく。

労働問題や土地所有権問題に積極的に取り組むKCAは、キクユ族以外の部族との共闘態勢を整える事に成功。これは、当時としては画期的な社会変化で大変な熱気を生んだ。それでも、首長達は植民地政府と同調する姿勢を崩さなかったけれど、平和的(話し合い)解決を望まない急進派と呼ばれるグループがKCAから離脱して新たな闘争組織KLFA(ケニア土地自由軍)を結成。土地=国土解放軍=独立行動軍ですね。そして対植民地政府運動は武力衝突へと向かう(マウマウ戦争/1952年)。

マウマウ団はこの戦争の勝者ではなく鎮圧されたが、それでも植民地政府の戦後対応は混乱し結果的にケニア独立の動きが加速する。ですが、マウマウ団に入っていなかったものの、騒乱首謀者として逮捕されたのがジョモ・ケニヤッタ。7年間の収監で済んだのは寧ろ幸運だったのかもしれない。

出獄したケニヤッタは、独立運動の英雄的立場に祀り上げられ、1963年に正式独立を果たすケニア共和国の初代首相となり、1年後の1964年にケニアが大統領制に移行するとそのまま初代大統領に就任することになる。

自らの出自であるキクユ族の研究を得意分野とする民俗学者という側面も持っていたケニヤッタの有名な言葉が・・・
白人がアフリカにやってきたとき、われわれは土地を持ち、彼らは聖書を持っていた。彼らはわれわれに目を閉じて祈ることを教えた。われわれが目を開いたとき、彼らは土地を持ち、われわれは聖書しか持っていなかった

この言葉(思い)は、ケニアに限らず、他のアフリカ諸国でも同様の事が起きたことを意味していて、アフリカ全土に染み渡った。

「ジョモ・ケニヤッタ」は、独立運動を開始した際に”ケニアの光“を意味して改称した名前であり、本名はカマウ・ウェ・ンゲンギ。キクユ族からは英雄視されたのですが、キクユ族に対する優遇政策には批判も多く、他部族との衝突は頻繁に起こっていた。

ケニヤッタは、英国との関係を壊すことを望んではいなかった。故に、独立後も、英国資本を中心に欧米の自由主義国家との関係を最優先して、それにより、ケニアは東アフリカで最も裕福な国になった。が、それもキクユ族には恩恵になったが他部族との貧富格差が拡大する。それで、ケニアには反キリスト教、反自由主義の風潮が広まり、イスラム教派社会主義の台頭を見ることになった。

その事に対して、ケニヤッタは「民主社会主義国家政策」を掲げるが、見掛け倒しの政策だと揶揄される。しかし、そういう事を大統領という立場の人が口にしたのだから、社会主義・共産主義・イスラム教などの国家群は政治・経済的に近づいて来る。その最たる相手が中国だった。

ジョモ・ケニヤッタは、ケニア独立の功労者で間違いないでしょうけど、腐敗政治を生んだし治安を悪化させた(特に、2007年から2008年にかけて激しい内乱が起きる)。そういう点に於いては、南アフリカの英雄ネルソン・マンデラ氏よりは評価が低いのは仕方ないでしょう(参照記事)。

第二代大統領 ダニエル・トロイティッチ・アラップ・モイ。
第三代大統領 ムワイ・エミリオ・スタンリー・キバキ。
第四代大統領 ウフル・ミガイ・ケニヤッタ(初代・ジョモ・ケニヤッタの息子)”英雄の息子”ウフル・ケニヤッタには、金銭面で黒い噂が付き纏う。3,000万US$を超える隠し資産を持つと云われケニアでは大問題となっている。でも・・大谷翔平の半年分以下なのでねェ。

時間の経過とともに、ジョモ・ケニヤッタの有名な言葉も知らないケニア人が増えただろうけど、今は、中国が金にものを言わせてやりたい放題。でも、聖書じゃなく”お金”をくれるので、現実を見て、アフリカの国家・国民は中国に靡く。特にケニアは、高速鉄道も中国が建設してくれたしね。

現職大統領は、ウフル・ケニヤッタの副大統領を9年間務め、ウフル退任による大統領選を大接戦の末に制し2022年9月13日に就任したウィリアム・キプチルチル・サモエイ・アラップ・ルト。ルトは、命を狙われたこともあるし、今後の政権運営もまだまだ予断を許さない。というのが近年に於けるケニアの実情です。

去年のインタビュー記事では、ルト大統領は中国とのウイン・ウインの関係を強調し、今後も中国と共に歩んでいくことを明言している。

大体、日本なんて、駅伝やバスケットボールやラグビーなどで、アフリカ出身のスポーツ選手(スポーツ留学生)を大勢受け入れているくせして、政治力(外交力)が弱くてアフリカに恩恵を齎すことなんてほぼ出来ていない。だから、アフリカ諸国に対する中国の外交政策をどうのこうの言える立場にはない。

リーキー

ところで、ケニヤッタが指した白人の「彼ら」に、「彼」が当て嵌まるのかどうかは分かりませんが、「彼」はケニアで生まれたイギリス人だった。「彼」の両親はイギリス出身で、当時のイギリス領東アフリカである現在のケニアで宣教師として生計を立てていた。聖書のキクユ語化にも取り組んでいた両親の影響を受け、「彼」は幼い頃からキクユ人の中で遊び育った。イギリス人でありながら独立後はケニア国籍を取得して、ケニアを愛し続けて、そして「アフリカに於ける人類の進化」を唱えたチャールズ・ダーウィンの説を証明した。

ケニア史に残る古人類学者であり、且つ霊長類学者、自然科学者としても多大な業績を残し、更に、新たなる有能な人材を次々に育てた。が、キクユ族(その他の部族もそうであったでしょうけど)独特の女子割礼儀式を非難してケニヤッタと真正面から口論したり、本国イギリスに逆らえずイギリスの為の諜報活動をする羽目になったり、更に、恋多き人だった。「彼」の名は、ルイス・シーモア・バゼット・リーキー。ルイス・リーキーは、東アフリカの化石発掘の中心人物となり、タンザニア・オルドヴァイ峡谷で(ジンジャントロプス・ボイセイ)/(ホモ・ハビリヌス)の発掘に成功する。ですが、その話よりもリーキーの人生を書いた方が面白い、かもしれない。彼のファミリーは、人類学に於いてそれぞれ有名な人達となり「リーキー家」はその分野の権威となった。

通称ルイス・リーキーと呼ばれる彼がロンドンで亡くなった時、彼の息子リチャード・リーキーは、「父はキクユ族であり、キクユ族として永遠の眠りにつくべきである」と強く主張して彼の遺体はケニアに移送され、今もケニアの大地に眠っている。というリーキーの話は別の機会に。今回はこれで終わりです。

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