秘密

ALLジャンルエッセイ

現在の地球人類は、一握りの無国籍者を除きその殆どが「国家」やほぼ国家に等しい「地域」の中に生きる「国民」「地域民」です。
2023年に認識されていた正式な国家と国家承認を受けられずにいる地域の合計数は249。その249の国家と地域に、約80億4500万人が暮らしています。

この249という国家+地域数を多いと感じるか少ないと感じるかは分かりませんが、全く比べものにならないくらい多くの独立した部族が地球上の彼方此方に点在していたのが狩猟採集民時代。そして、現代の国家国民に守るべき規律(=法律)があるように、狩猟採集民時代の部族・部族民人にも、守るべき規律(=掟)があった。その守るべき掟の数は、部族の数だけ存在していた。

現代の国家では、自国の国法に他国の国法ではこうだから、みたいな物真似は無用。他国がどうあろうと自国の法を持って国家運営するのが主権国家として当然の在り方です。同様に、狩猟採集民時代も他部族の決まりは関係ない、自分達の部族に暮らす以上は自分達の掟には絶対に従え!という事は当たり前の事だったでしょう。それ故に、他部族との交流、特に恋愛などは極めて難しかったでしょうね。相手の部族の決め事なんて殆ど分かりませんから、下手に手を出したら自分も相手も殺される。だから、太古の昔の地球人類は、同族婚に頼って子孫を残していくしかなかったでしょうし、爆発的な人口増を望むことは難しかったでしょう。

親子(1親等)とはダメ、兄弟姉妹+爺婆と孫など2親等以内とはダメ、という部族の向こう側には、1親等とはダメだけど2親等とは良いとか、1親等とでも良いとか、そういう部族もあった筈。気味が悪い話だが、本能的に子孫を残そうとしていた頃です。モラルがどうのとかそういう言葉は存在していなかったし、寧ろ、見知らぬ誰かとの行為に及ぶ事の方が規律違反を問われていたかもしれない。つまり、他部族との接触は御法度という部族は案外と言うより物凄く多かった筈。

人類が家族化~部族化~親族化~一族化~同族化~部族化・・・と変化していく過程は、一つの過程から次の過程まで、考え方を変えるまでに数百年から数千年を必要とした。現代人が得意とするモラル話は全く通用しない時代の方が遥かに長い。極端なことを言えば・・・

・同性愛を絶対に許さない部族の向こう側には、同性だけで構成する部族があったかもしれない。
・変態性愛を許さない部族の向こう側には、変態性愛こそを重要とする部族があったかもしれない。
・人殺しを御法度とする部族の向こう側には、殺した人の数を称賛する部族があったろうし、盗みが許されない部族の向こう側には、欲しいものは盗んで来るのが当たり前という部族があったでしょうね。

現代の各国には、その国の法に馴染まなくて犯罪者となる者がいる。しかし、別の国で同じことをやっても罪に問われないのであれば、その別の国に移住したくなる?かもしれないが、恐らくそういう話にはならない。自分には納得出来ない法律ばかりであっても、生まれ育った国家の国民でいることを多くの者は望む。国を捨てての亡命は簡単じゃない。
狩猟採集民時代にも、自分の部族の掟は大嫌いだと思っていた人がきっと大勢いただろうけど、その部族を抜け出すことは「裏切り者」「掟破り」として処罰された。今の時代じゃ「理不尽」であることも、過去に於いては「当然」で誰もが納得していた。だから、前例にないこと=掟破りをやるのは命がけだったでしょう。 それは今でも一緒。国法に逆らう事は本来は命がけのこと。

国家に対してはアウトローであっても、暴力団組織や反国家主義者グループの場合、国法よりも組織の掟が優先される。守らなければ罰せられる。狩猟採集民時代の部族と一緒。トップが決めたことに逆らうのなら命がけ。国法に従い掟に背くか、掟に従い国法を破るか。前者は国民になれるし、後者は非国民だ。ただ不思議な事に、後者の方も強い愛国心を訴える者達の場合が多々ある。国法には逆らうが愛国者。でも違法な愛国者など笑止千万だ。法を変えたい、改革したいのなら、現行法に則った例えば選挙に打って出るなど、遵法者であることを行動で証明して欲しいところです。そんな事をしないから所詮はアウトローで終わる。

暴力的に支配されるようなアウトロー集団に属しようなんて普通の人は望まない。でも、普通の人だって、本当は、本当に気の合う(価値観の合う)人とだけ仲良く暮らしたい。その他の人達とは一切の関りを持ちたくない。と思っている。それが「普通」に素直な感覚だ。そして・・・、また突飛なことを言えば・・・ロリコンは少女とだけ暮らしたいとか、ショタコンは美少年とだけ暮らしたいとか、同性愛者は同性とだけ、変態は変態とだけ、そういう風に暮らしたいだろう。そういうことが許させるなら、許し合える環境があるなら現代風な「部族」を作りたいだろう。

ユヴァル・ノア・ハラリ氏は、『サピエンス全史』で以下のように書いています。(以下引用)
===
生活集団の成員は、互いをごく親しく知っており、生涯を通して友人や親族に囲まれていた。孤独やプライバシーは珍しかった。近隣の集団はおそらく、資源を求めて競い合い、戦うことさえあっただろうが、友好的な接触も持っていた。成員をやりとりし、いっしょに狩りをし、希少な贅沢品を交換し、政治的同盟を固め、宗教的な祝祭を執り行なった。そのような協力は、ホモ・サピエンスの重要な特徴の一つで、彼らを他の人類種よりも決定的に優位に立たせた。近隣の集団どうしの関係がとても緊密で、単一の部族を形成し、共通の言語や神話、親戚や価値観を持つこともあった。
===

つまり、狩猟採集社会の(一つの)集団は、同じ価値観を持つことを当たり前とされ、秘密を持つことを許されない社会であったとも言えます。自分だけの考えを持つことは否定され、全て、オープンにして生きなければならない。が、同じ価値観、同じ考え方でまとまる単位であれば、全てを見せ合って生きることが可能だったのでしょう。

ただね、他人には言えない自分だけの秘密、そういうものを持っていないことは幸せか?人に知られて困るようなものが何もないことは幸せか?自分だけのプライベートな時間や場所って、自分だけの楽しみ=秘密を愉しむ為に必要なものでもあるよね。秘密が何も無い人にはプライベートな時間もプライバシー保護も要らないよね。

秘密を持っているからこそ、日々、ドキドキ感、ワクワク感を持って生きられる。「心」という”閉じ箱”がある。その心の閉じ箱に仕舞うのは自分だけの秘密でしょう。

例えば、人に対する好き嫌い、仕事に対する好き嫌い、思想に対する好き嫌い、それらを口に出来ない場合とか、絶対に口にしてはならない場合とかあるよね。そういうのが無い人の方が不思議だけどね。

「掟」とか「暗黙の家庭内ルール」とかその他色々ないわゆる道徳的なこととか、そういうことに対する好き嫌いを心の内に秘めておけなくなった時に、話し合って解決出来るのか、暴力的な解決にしかならないのか、それは分からない。けれども、後者になるのが怖いならその秘密は墓場まで持って行けって事ですね。

「余計なこと」は余計なことでしかない。言わなくてもいいことは言わない。でも、『秘密』ほど魅惑的な言葉はないし、それが特に気になる異性のことなら、知りたいよね。知らぬが仏なのにさ(笑)

コメント