南アフリカの1989年

アフリカ史

マンデラ氏の言葉

「人生の最大の栄光は決して転ばない事にあるのではなく、転ぶたびに起き上がり続ける事である。
=The greatest glory in living lies not in never falling, but in rising every time we fall.=。」 

もう間もなく、没後10年を迎える、故ネルソン・ホリシャシャ・マンデラ氏(1918年7月生~2013年12月没/第8代・南アフリカ共和国大統領)。多くの名言を残された中でも、この言葉は確かに良い言葉だなと思います。

躓いて怪我してもいいじゃないか。怪我すれば痛いということを知るし、痛いと知れば躓かない知恵もつく(=転んでもタダでは起きない)。そして”転ばぬ先の杖”の使い道も知る。躓くことをビビっていたら、ただの一歩も踏み出せやしない

マンデラ氏の人となり

トラブルメーカー?

マンデラのミドルネーム「ホリシャシャ」は、現地ではトラブルメーカーを意味する言葉ということです。南アフリカ現地人であるテンブ人の首長の家に生まれ育ったマンデラの故郷は、南アフリカ東南部の東ケープ州(マンデラが生まれた当時はケープ州)。テンブ人は、他の部族同様に南アフリカを植民地化しようとするイギリスに対して激しく抵抗した人たちである。そういう歴史を持つテンブ人の首長である父によって名付けられたミドルネームは、無論、部族内のトラブルメーカーではなく、白人至上主義に負けない強い男になるようにという強い願いが込められている。そして、その願い通りに、いやそれ以上の強い男に育ったマンデラは、やがて反アパルトヘイト運動のリーダーとなり、白人至上主義者達からは、正にトラブルメーカーにしか見えなかったでしょうね。

黒人ですが、首長の子という少し恵まれた環境に育ったマンデラは、ミッションスクール卒業後に地元の公立フォートヘア大学へ進学します。幼少期から親や周辺の大人達より社会や国家政治についての(つまり人種差別政策の悪罪についての)話をさんざん聞かされ、そしてリーダー教育を受けたりしていた影響もあり、強い向学心と優れたリーダーシップが身に着いていた。因みに、フォートヘアは植民地時代唯一の黒人の為の大学として運営され、マンデラの入学当時には、”黒人大学”は複数校あったようです。現在は、アフリカ大陸最大にして唯一のメガ・ユニバーシティーである南アフリカ大学システムの傘下にある。黒人のマンデラにとって、決して居心地の悪い場所では無かった筈ですが、大学生になったマンデラは学生運動に傾倒。大学にとってトラブルメーカーとなってしまったマンデラは、やがて学生ストライキ運動の中心人物となり、卒業間近の1940年に大学から追放処分を受ける。

運命の出会い

ところで、フォートヘア大学でマンデラは生涯の友となる同志・オリバー・タンボ(第10代アフリカ民族会議議長)と出会いますが、タンボも学生ストライキ運動の中心にあり、マンデラと共に追放処分を受けています。

しかし、高い志を持っていたマンデラの向学心は折れることなく、南アフリカ大学の夜間学科の通信課程に転学を許され今度は無事に卒業。晴れて学士号を得る(1941年)。因みに、南アフリカ大学で遠隔教育(通信制教育)が本格稼働し始めるのは1946年であり、マンデラが学士号を得た課程とは若干異なるのかもしれません。けれど、後に投獄されることになるマンデラは、今度は、刑務所内で南アフリカ大学の通信制(恐らく、法学の博士号取得の目的で)に学んでいます。ということで、南アフリカは確かにアパルトヘイト政策へ突き進んでいきますが、こと「学び」に関して言えば、意外と早く人種の垣根を取っ払った感じです。そういう国だったので、南アフリカ大学卒業後のマンデラは、法学を学び直すために、南アフリカ最大の都市ヨハネスブルグの公立ウィットウォーターズランド大学に入学。ウィットウォーターズランド大学は、開学当初から「人種的またはその他の理由で差別をしない」という方針を持ち、どちらかと言えば反アパルトヘイト志向の強い”開かれた”大学でした。そして此処も無事に卒業出来たマンデラは念願の法学士号も得て、卒業後に弁護士の資格を取得する。

1944年にマンデラは最初の結婚をします。お相手は、エブリン・メイス。二人の間には4人の子どもが誕生しますけど、マンデラにとってはどちらかと言うと手に負えない女性だった。マンデラ曰く「エキセントリックな人」であったエブリンは、後に汚職事件に手を染めるなど犯罪者ともなっていきマンデラとは離婚~絶縁関係になる。が、この結婚によって生まれた人の縁こそがマンデラの運命を大きく決めることになる。

ANC

エブリンの母と姉妹だった女性が、白人男性との間に誕生させた子が、後にマンデラをして『建国の父』と言わしめたウォルター・シスル(1912年生~2003年没/アフリカ民族会議書記長・副議長)です。つまり、シスルとエブリンは従兄妹の関係にあった。エブリンは、10歳ほど年上だったシスルを尊敬していて、シスルも本当の妹のように可愛がっていた。そして、”妹”の夫になるマンデラをとても気に入って、自分が活動していたアフリカ民族会議(ANC)に入党するように強く勧め、マンデラ自身もANCに興味を持っていて結婚とほぼ同時にANCのメンバーとなる(1944年)。

シスルは、ミッションスクール卒業後すぐに14歳で労働者となり、様々な職種を経験したどちらかと言えば苦労人です。が、人を惹きつける魅力を持っていた。そして、シスルに誘われたマンデラは更にタンボを誘う。シスルは、高学歴の人ではありませんでしたが、マンデラとタンボという大学で学んだ経験を持つ”後輩”を大歓迎し、そしてこの3人が中心となりANC内に青年同盟を創設。恐らくシスルが青年同盟執行委員長となり、マンデラとタンボが執行委員に就任。マンデラは、此処から本格的に、反アパルトヘイト運動を開始することになります。 このマンデラ、タンボ、そしてシスルは、南アフリカを代表する黒人政治家となっていき、特にマンデラとシスルは長いゞ刑務所暮らしを共にする。

この頃の南アフリカは、まだ、アパルトヘイト政策自体に法的効力を持ってはいなかった。単に人種差別が激しい国家というところに辛うじて留まっていたわけですが、1948年の選挙に勝利した国民党のダニエル・マランを中心に、次々とアパルトヘイト関連諸法を成立させて行く。「国民党」の”国民”に含まれなかった有色人種たちは、人種隔離政策が次々と法的根拠を持つことになっていく中で、当然ながら怒り心頭に発することになる。マンデラをリーダーとするANCの若い運動員達は、旧体制の軟弱な対応をやり玉にあげ、1949年にANC指導部はマンデラら若手を受け入れ、それまでの請願・対話路線から反抗・行動路線へと転換する。これにより、ANCは、各地で繰り広げられるデモ・ストライキに積極的に関わるようになり、白人中心の政権との対決姿勢を鮮明にして行った。

自由民主主義と共産主義の融合

ところで、マンデラの本望は、人種の垣根を超えた自由民主主義の実現であった筈だが、この頃、南アフリカ共産党に入党している。これもまた、先にシスルが共産党員に名を連ねていたことに端を発したのだと思います。自由民主主義と共産主義は全く相容れない関係のように思われるが、南アフリカの場合は多分特殊で、南アフリカ共産党は、ANCの組織内政党のような位置付けにある。これは恐らく、アパルトヘイトにより追い詰められた挙句の果てに共産主義的な思考に陥る人たちを党名で保護し、自由民権に目覚めさせるための存在なのではないでしょうか?共産党が独立政党であった場合は、白人以外の多くの弱者の受け皿となり共産主義革命でも起こされる危険性があった。それをさせない為に名前は共産党でも、上部組織にANCがあり、実際は全民族の為の自由と民主主義を確立する為の政党運動組織。だから今でも恐らく南アフリカ共産党は存在し続けているけれど、マンデラ氏以降は、ただ一人を除いては、ANCのトップが大統領職を引き継いでいる。・・・理解しているフリをして書きましたが、実際は何も知りません。これ、私的なエッセイですから御免なさい。因みに、シスルは生涯、共産主義者だったことも間違いないようですが、自由を求めた共産主義者・・・何か少し楽しいです。

ANC内で確実に地位を上げて行く傍ら、南アフリカ初の黒人弁護士事務所を開設するなど(※タンボが共同開設者となる)、マンデラの名は確実に広まっていく。しかしそれは、政府側の要警戒対象人物としてマークがきつくなることでもあり、1956年に、国家転覆罪の容疑で最初の逮捕を経験する。裁判に至ったが、この時は無罪放免されます。

この時を境に、ANCは運営方法を巡り内部分裂。傷害や殺害を含む抗争事件を繰り返すようになり、そうなると国家権力の思うつぼで、マンデラも複数回身柄を拘束された。そして1964年。遂に、国家反逆罪という重い罪を背負わされたマンデラは、それから27年間にも及ぶ長いゞ獄中生活を強いられる。結核を患い、重労働の影響で目を傷めるなど辛い日々を送るが、しかし、マンデラは絶対に挫けなかった。

タンボとシスルと「建国の母」

少しマンデラ以外の二人の同時期の話で、先ずはシスルの状況を書きますと、シスルはマンデラよりも多くの拘束を受けています(1953年間からの10年間で、7回も刑務所に送られた)。そのように書けば、シスルはマンデラよりも苛烈で、いわゆる武闘派に近い人のように映りますが、人格的には穏やかで思慮深い人だった。共産主義活動に熱心だったので、自由民主主義とは少し政治思考が違うかもしれませんが、マンデラやタンボにとって頼れる兄貴分で、且つ、尊敬出来る同志だった。が、1962年の収監時の短期保釈の際に逃亡を図り地下に潜る。しかし、1964年にマンデラと共に逮捕され26年間、1989年10月15日まで獄中生活を強いらることとなる。

マンデラは、シスルを称して『建国の父』と呼びましたが、実は、シスルの妻アルバティーナ・シスル氏を夫に因んで『建国の母』と敬う人が南アフリカには多いらしいです。シスルもマンデラも長い獄中生活で表舞台から姿を消していた。タンボも南アフリカでの活動は厳しかった。その間、黒人解放闘争指導者だったのがアルバティーナ。彼女自身も、夫シスルの服役中に自宅軟禁状態に置かれ、国家権力の監視下で表立った活動は制限されていた。しかし、「黒人社会の母」と崇められていた彼女には多くの黒人たちが付き従い、そのパワーが国を動かしマンデラや夫を救い出す源になった。

タンボは、マンデラやシスルのような長期の刑務所暮らしはないのですが、何故なら、ANCが最後の切り札的にタンボを匿い、そして当時はローデシアと呼ばれていた現在のザンビアへ亡命させる(1960年前辺り)。ローデシアへ向かった理由は、当時、ANC副総長という高い地位にあったタンボが、南アフリカ以上に人種差別が激しかったローデシアを反アパルトヘイト活動の重要拠点化する目的の為と見られる。ローデシアに於けるタンボの活動史的なものはよくは分かりませんが、その後のローデシアが激しい内戦状態となり、南(現在のジンバブエ)北(現在のザンビア)に分断独立していった中で、結局タンボは30年間という長い歳月をザンビアを中心に送った。1967年からは、ANCの総長代行を務め、1985年にはまだ獄中生活を送っていたマンデラやシスルがいない中でANCの総長に就任。この時代は、タンボこそが反アパルトヘイト運動の象徴だった。

しかし、ANCの事情的には、リーダー格が次々と捕らえられて収監される中、タンボまで逮捕収監させるわけにはいかなかった。それ故にタンボの帰国を果たさせることが出来ないまま時が過ぎ、1989年に脳卒中で倒れる。しかし、重篤化などには至らず、タンボは引き続き活動の象徴であり続けた。

リヴォニア裁判

リヴォニアと民族の槍

リヴォニア裁判とは、1963年7月11日のリヴォニア(ヨハネスブルク郊外の村)の農場で、ANCの準軍事組織ウムコント・ウィ・シズウェ(=民族の槍)の大幹部が一網打尽にされた政府側の大勝利に因んで名付けらた裁判です。「民族の槍」は、1960年に結成されANC党員のみならず様々な人が参加していた。初代司令官はマンデラだった。そして、マンデラの指揮下で1961年に政府に対して大掛かりなテロ攻撃を敢行。その事に因り、マンデラは1962年に逮捕~収監されていた。だから、牢屋にいたマンデラ自身はリヴォニアにはいなかったのですが・・・

実は、この農場は「民族の槍」の隠れ家兼実行指令本部のようなもので、マンデラは、デビッド・モツァマイという偽名を用いて庭師兼料理人のふりをして1961年10月から此処に暮らし、治安警察の捜査網をくぐり抜けていたのだが、治安警察側はその事に気づいて以降、マンデラを泳がせていた。つまり、この農場のことを知らないフリをした。マンデラ逮捕もここでは行わなかった。故に、「民族の槍」側も、そこがバレているとは思っていなかったようだし、もしかすると裏切り者がいた。その可能性が高いでしょうね。

アパルトヘイトで白人の力が圧倒的に強かった時代に於けるリヴォニアの襲撃は、多くの白人を喚起乱舞させた。現代でよく使われる「テロとの戦い」の大勝利ですからね。この時に、ウォルター・シスル、ゴバン・ムベキというマンデラ不在の中の両最高司令官以下、ライオネル・バーンスタイン、デニス・ゴールドバーグ、アーサー・ゴールドライヒ、ボブ・ヘップル、アブドゥルヘイ・ジャサット、アーメド・カスラダ、レイモンド・ムラバ、アンドリュー、ムランゲニ、ムーサ・ムーラ、エリアス・モツォアレディ、ハロルド・ウォルペと言った有名幹部全員が逮捕された。が、オリバー・タンボはローデシアにいたし、アルバティーナ・シスルもそこにはいなかった。つまり、難を逃れた有力活動家もいたわけで、それが微かな希望として残ったことで未来を変えることが出来た。

マンデラの演説

この逮捕劇以前に既に捕らえられていたマンデラは、5年の刑が確定し収監中の身だった。しかし、国家権力側は、「民族の槍」のトップはあくまでもマンデラであり、(服役中とは言え)全てマンデラの指示の下でのテロ計画や国家転覆の秘密会議であり、マンデラにも罪はある。として、裁判への参加を求め、マンデラもそれに応じる形となった。マンデラは、自身が弁護士であり、自己弁護を自分の力で行うことを条件に裁判の最初の被告として3時間超の大演説を行った。

最初に、ANCに関しての政治的な重要性を篤と説明。それ以降は・・・
有色人種の政治活動に対する制限の緩和や権利の平等について強く訴えた。更に、共産主義者ではないかと追及された事に対しては(つまり、共産主義革命を扇動しているのでは?という疑念)、自身は南アフリカの立憲民主主義モデルと”結婚している”とも説明した。更に、英国政治を賞賛し、共産主義経済モデルよりも市場経済を支持していることに何の疑いも持っていないと主張した。この時のマンデラ氏が、共産主義を否定した演説こそが、南アフリカの民主主義創設の瞬間の一つと見做されている。そして、1964 年4 月20日の法廷での言葉が名言として記録された。私は生涯を通じて、アフリカの人々のこの闘いに人生を捧げてきました。私は白人の支配に対して戦ってきたし、黒人の支配に対しても戦ってきた。私は、すべての人が平等な機会を持ち、調和して暮らす民主的で自由な社会の理想を大切にしてきました。それは私が生き、実現したいと願っている理想です。しかし、主よ、もしそれが必要なのだとしたら、それは私が死をも厭わない理想です。

1989年

南アフリカという国は、確かに厳しい人種差別的隔離政策(アパルトヘイト)で世界中からの非難を浴びていた国で、有色人種に対して多くの”機会”や権利を奪ったが、教育を受ける権利は容認した。マンデラも、獄中にありながら勉強の機会を許された。尤も、学士号を得ていて弁護士でもあったマンデラですから、既に多くの知識を保有していました。が、強制労働の合間に、南アフリカ大学大学院の法学の通信制の授業を受け続け1989年に法学の博士号を取得する。

この1989年という年を、多くの人がまだ鮮明に記録していると思いますが、日本においては昭和天皇が崩御なさった年であり、ソ連がアフガニスタンから撤退、ポーランドでは自由選挙が実施され、ハンガリー(人民共和国)が社会主義の放棄を宣言してハンガリー共和国となり、そして11月10日、ベルリンの壁が崩された。更に、11月24日のチェコスロバキアではビロード革命が起き共産党政権が崩壊。12月3日に米国とソ連が冷戦終結を共同宣言した。激動の1989年ですが、南アフリカでも大きな出来事が起きた。

1989年夏。マンデラと共に大きな仕事を成し遂げることになる第7代大統領・フレデリック・ウィレム・デクラークが誕生する。そして、10月15日、シスルが釈放され26年ぶりに自由の身となる。更に同年12月。デクラーク大統領とマンデラの接見が実現する(但し、即時に収監を解かれたわけではないけれど)。マンデラ釈放の機運が一気に高まり、それは翌年に実現する事になる。
白人でありながらアパルトヘイト政策への反対を表明し大統領となったデクラークは、マンデラと共に1993年のノーベル平和賞を受賞したことで歴史に名を刻んだ。そしてマンデラは、デクラークの次の大統領に就任する。アフリカ大陸を代表するような大統領と称され、黒人、白人を問わず、多くの人から支持された。簡単に書けばそんな感じですが、凄い人だと思います。

けれども、マンデラ自身はシスルを称え、そしてタンボを称えた。 

刑務所に収監されたときに思いついた言葉なのかどうかは知りませんけど、この記事の最後にもう一つだけマンデラの名言を。

こんな言葉がある。刑務所に入らずして、その国家を真に理解することはできない。国家の善し悪しは、上流階級市民の扱い方ではなく、下流階級市民の扱い方でこそ判断されるべきだ=It is said that no one truly knows a nation until one has been inside its jails. A nation should not be judged by how it treats its highest citizens, but its lowest ones=

明らかな非人道的な罪人であれば、収監され、時には極刑に処されるのも当然だ。が、経済的抑圧を感じたり、言論統制を受けるなどした人びとが、時の政府・権力者を糾弾しただけで反逆者扱いされるのなら確かに辛い。国家を転覆させる目的ではなく、時の権力者を打倒して新たな政治を希求するのは罪とも言えない。罪とは言えない人々を罪人にしないように、民主的で正当な選挙システムが必要。選挙を嫌う権力者は正しい権力者とは言えない。君主政治、或いはそれを打倒した僭主政治の国家であっても、多くの国民が選挙による民主政治を望むようになれば国家のシステムは改められるべきだ。我が国は、明治期にそれを始めた。地球上の多くの国家は民主選挙システムを持っている。が、まだそうなっていない国家もある。そうなっていない国家でも、民の「知る権利」は認めないといつまで経っても民の成功数が増えて来ない。民が成功しない国家は結果的に強い地盤が築かれず、最終的には経済疲弊する。

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