信長と家康の同盟はあったのか?

時を紡ぐ~Japan~

民に対して、「栄えて見せろ」と鼓舞した織田信長

民に対して、「儂の栄を見よ」と誇示する豊臣秀吉

民に対して、「共に栄えよう」と手を取る徳川家康

それぞれの賭けに勝った信長と家康

斯波氏と織田氏

信長の祖父の代までの織田弾正忠おだ・だんじょうのじょう家は、織田・尾張守護代家(=織田大和守家)の配下で清州奉行であった。尾張守護職は・斯波氏。つまり、斯波氏の下に尾張守護代織田家があり、その下に清州奉行・織田弾正忠家が続いた。因みに、清州奉行職を務めていたのは織田因幡守家と織田藤左ヱ門家と織田弾正忠家の三つで、清州三奉行家と呼ばれていた。三奉行家の序列は定かでは無いが、それぞれの家同士で養子縁組や婚姻がなされていて、序列には意味がなさそうな気がします。因みに、尾張守護代織田家も、清州織田氏と岩倉織田氏に分かれていて、兎に角、織田氏の血筋は複雑。だから、もういいかな・笑

斯波氏は、足利一門の中でもかなりの有力氏族で、甲斐氏、細川氏と並び三管領かんれい家と言われ、その筆頭格の家柄で名門中の名門。早い話、足利将軍家と同じ足利家なんですが、北から、陸奥足利家、出羽足利家、越前足利家、尾張足利家の四家が『斯波氏』と改姓。中でも、尾張の斯波氏は、嘗て、源氏の棟梁を指す呼称であった『武衛』を名乗ることも許され、斯波武衛家とも呼ばれていた。そのようなかなり高い格式の源氏の名家にあって、実は織田氏は平家の出。源氏に平家が仕えることも、平家に源氏が仕えることも別に何か問題があるわけじゃないですが、武家全体の棟梁たる征夷大将軍を名乗れるのは源氏筋だけなので、織田信長と言えども、将軍を名乗ることは出来ない。と言うのが日本国の仕来り。なので、もしも信長が天下に号令を掛けていたとしたら、秀吉のように関白となるか・・・でも、『魔王』ですからね、そんな名称になど何の価値もないとして全ての官位・官職やその名称なども全廃して格式とか家柄とかいうものをひっくり返したかもしれませんね。

信長が家督を継ぐ頃の弾正忠家は、父・秀忠の頑張りでかなりの勢力を持つようになっていて、実質、清州守護代に取って代わる位置にあった。が、親戚筋もそれに対して黙って付き従っていたわけでもなく、織田一族内での争いが絶えなかった。そして、信長は母との折り合いも悪く、母が愛情を注ぐ弟との確執も生まれるなど、「家」とか「血筋」に対する思い入れは強くなかった。これは信長が悪いことは何一つなく、生まれ育った環境によって芽生えたものである。

信長台頭

織田一族に対しても仲間意識を持てずにいた信長ですから、特に家督を継いで以降は、守護家である斯波氏に対する従属的思考は皆無に等しかったと思われる。それよりも、争いの絶えない親戚筋を黙らせることと、弟を母から切り離して従わせることが重要課題だった。

そして誰もが知っているように、弟を殺す羽目になり、親戚筋も力で抑え込み、守護家も”国政”の中心からは追い落とし、尾張一国の実権を握る。しかし、信長の台頭に時機を合わせるかのようにして、駿河の太守・今川義元が攻め込んで来る(永禄3年/1560年)。

この今川軍の動きは、義元の上洛行軍として扱う物語もあるけれどそうじゃないでしょう。恐らくは、幕府筋から斯波氏救済の要請を受け、あくまでも、尾張攻撃に絞った行軍だと思います。今川も足利一門ですからね。

ところで、その頃の今川の領国は、駿河と遠江。その内の遠江は斯波氏から奪い取ったものである。そのことを考えると、足利同門とは言うものの、斯波は今川を警戒こそすれ援軍要請は行わない筈。これは、(自分達から見たら身分差のあった)織田に取られるくらいなら今川が頂こうか。という腹積もりで乗り込んで来たものと思われる。つまり、海道一の弓取りと称された義元から見たら、信長はまだようやく織田弾正忠家をまとめあげた程度で、織田一族はけっして一枚岩とは言えず、斯波の旧臣もまだ完全に信長に屈したわけではない。だから、信長には大軍勢を編成する力はない(その通りだった)。だから、信長など簡単に蹴散らせるものと高を括っていた。実際、広大な戦場での会戦になっていたならば、今川の圧勝で終わっていた筈。戦力差は如何ともし難く、ほぼ、勝ち目のない(今川から見たら、敗けよう筈もない)戦だった。ところが、乾坤一擲、雨中の桶狭間で休息中の今川軍に対し、電光石火の急襲をして見せた信長率いる織田軍が義元の首級を上げた。思いも寄らなかった大将の戦死で総崩れとなった今川軍は退散。これ以降、今川が勢力拡大の夢を追う機会は二度と訪れなかった。

信長にとっては人生を賭けた大博打ですが正しく大勝ちですし、義元を敗死させ切れたことがとても重要だった。もしも義元が生き延びていたら、絶対に仕返しを受けていたし、次こそ、本当に勝ち目が無かったかもしれない。そしてもう一つ。今川に与していた家康(当時は、松平元康)が、義元敗死の混乱に乗じて今川方を離れ、本領である三河に戻り”独立”を目指した。後の繋がりを見れば、このことも相当に大きな出来事だった。

家康の大博打

義元という大物を討ち取れはしたものの、今川家が潰されたわけではない。急遽のことではあっても、跡を継いだ今川氏真が、すぐに、父・義元の敵討ちに打って出ていたら、織田軍には相当の犠牲が生じていた筈。元康次第では、信長は大敗を喫していた可能性もある。誰がどう見ても、予断を許さない状況だった。ところが、三河・岡崎城に陣取った元康がどっちに転ぶか分からず、疑心暗鬼に陥った氏真は動けなかった。今川という大家の家督を継いだ割に、氏真には度胸が足りなかった。氏真が、すぐに織田攻めに立ち上がっていたなら、元康は、(三河での独立など)条件次第では、氏真に加担していた可能性がかなり高い。

氏真と元康(家康)の正室は近しい縁者であり、この時点では、松平は今川に対して無理に敵対する理由を持っていない。今川を裏切らないという表明で、妻子を駿府に置いていた元康ですし、すぐに駿府に戻らずに岡崎へ入城(帰城)した理由などは、織田の攻撃を防ぐためとでも何とでも言い繕える。何なら、義元の”仇討ち合戦”が始まったら、先陣を切って尾張攻めを行う事も考えていたでしょう。

だから、元康としては、氏真がすぐに反転攻勢で織田攻めへの加勢を要請してくるものと思っていたのに、愚かで気弱な氏真は、いつまでも駿府に戻って来ない元康が裏切ったものと決めつけてしまった。そして、(あくまでも噂の域に過ぎませんが)駿府に在った元康の妻子と妻の実家である今川関口家の皆殺し(処刑)さえ言い出した。これは思い止まったようですけど・・・

元康の義父となった関口親永ちかながは、本名を瀬名親永と言う。瀬名氏は、今川本家の支流で代々今川家の要職にあった。(ドラマで家康の妻が「瀬名」と呼ばれていましたが、瀬名は名前ではなく姓です)。いくら元康が駿府へ帰陣しなかったとは言え、瀬名氏を一族郎党皆殺しなど断行したら、あっという間に家臣は離れて行ったでしょう(何れ、そうなりますが)。親永への手出しはしないものの、元康の妻子に関しては、元康に対する脅し道具に使った。それは当然でしょうね。

駿府から岡崎へ、「戻って来なければ妻も子も処刑する」という催促状が何度も届いた。ここで元康は賭けに出た。現代の私たちと当時の人達では人の命ということに対する価値観が違い過ぎる。なので元康を冷酷だとも思わないが、今川に対する「答えだ」と言わんばかりに、今川方の重要武将であった三河・大高城主の鵜殿長照(この時、既に大高城を元康に奪われていて、鵜殿勢全軍は上ノ郷城に陣取っていた)を攻撃する。智将とか猛将とかと称された長照ですが、激戦の末、上ノ郷城は落城。長照は討ち死にし嫡男と次男が生け捕られる。

そして不思議なことが起きる。捕らえられた鵜殿氏長、氏次兄弟と元康の妻と子(竹千代・亀)の人質交換という、ちょっと有り得ない展開。”氏”の名を持っていた兄弟ですから、もしかすると氏真の”氏”を偏諱されていたのかもしれません。それだけ関係性が濃かったのでしょうけど、家臣の息子と敵将の妻子。この不釣り合いな人質交換は当時の人達にとっても「?」だったようです。元康の妻子を処刑出来ないばかりか元康に戻してしまった氏真は愚将と位置付けられた。故に、それ以降は、今川方の家臣の離反が相次ぎ、特に、三河国内や三河に近いところを領していた将達が松平に与していく。

築山

妻子は取り戻し、今川の勢いを遮断することも出来たことで元康は万々歳だったが、妻にとっては、父や母、自分や息子・娘の命も危険に晒されたことで、夫・元康に対して強い恨みを持ったと言われる。暮らし慣れた駿府ではなく、三河・岡崎での暮らしもあまり好まなかったようで、やがて、城を出て、別院暮らしを始める。それで『築山殿』と呼称されるようになるのですが、築山とはいわゆる別荘のことですね。正室なのに”別荘の人”と呼ばれたのですから、既に夫や家臣たちからの信用を失っていたものと考えられます。大河ドラマでは凄く慕われていた女性のように描かれもしましたが、半ば正室の役割を放棄した女性だと思われます。

それにしても、どうして氏真は釣り合いの取れない人質交換に応じたのだろう?この交渉を行った石川和正の能力が長けていたことは、この時代に詳しい誰もが知るところではありますが、お人好しにも程があります。松平に限らず、この時代の同盟関係がずっと維持されていくなど有り得ない。その程度のことは誰に教わらずとも武家に生まれ育った誰しもが理解出来ていたことでしょう。偉大な父親・義元でさえ勝てなかった織田を恐れるあまり、松平側の要求を飲んだ。形上はそういう事ですが、それならば、関口今川家の全ての人達も追放すれば良かったのにそれはしなかった。同盟路線は完全に断たれるし、チグハグ過ぎて、やっぱり愚将という評価にしかなりません。

信長と家康の関係性

氏真は、松平と織田が手を結ぶことを恐れて駿府から出て来れなかった。この弱気な姿勢をあざ笑うかのように、信長はその通りに元康に同盟を持ち掛ける。でも、この事に関しては、元康は相当迷ったと思われます。よく言われる、桶狭間直後の同盟成立(永禄5年の清州同盟)という話ですが、これもかなり怪しい。永禄4年から始まった氏真との戦いは松平の有利な展開のまま2年目を迎えていて、織田との同盟を必要とはしていない。この同盟の噂は、今川方から出て来たことかもしれません。つまり、「松平に勝てなかったのは、後ろに織田がいたからだ」みたいな言い訳の為に。永禄5年の清州に、松平側から誰かしらが訪れたことは多分事実なので、同盟とまでは行かずとも、桶狭間以来の「和睦」は成立したかもしれないです。

永禄6年に、亡き今川義元から偏諱された「元」を捨て、家康と名を改め、それから3年後(永禄9年/1566年)には、松平家は藤原氏筋と朝廷から承認され、家康は従五位下三河守に任ぜられた。そのことを機に、姓を松平から「徳川」と改め、ここに徳川家康が誕生する。(※三河守の叙任には、当時の正親町天皇の猛反対に遭ったらしいけどスルーします)。

永禄10年。桶狭間の戦いから7年経ったこの年、家康が信長からの誘いに応じて、竹千代(信康)と信長の娘(徳)との婚姻を受け入れた。このことで初めて織田・徳川の関係は軍事同盟へと発展する。が、自分の実家(今川関口家)を含め今川没落の全ての悪因を織田信長と見ていた築山御前は、この婚姻をどうしても許せなかった?

ところで織田信長の生涯を時系列に記した太田牛一の『信長公記』は、本当に詳しく書かれているのは翌年・永禄11年からで、それまでの信長の人生は序章にまとめ書きしてある。のですが、序章での徳川家康の登場は極めて少ない。桶狭間の戦いの後に、岡崎へ入った。目立つのはそれくらいで、徳姫と竹千代の婚姻には何も触れていない。竹千代には、偏諱して信康と名乗らせたにも関わらずである。その後も、家康について詳しく触れている記載はなく、本当に、しっかりした同盟関係が成立していたのかさえ少し疑わしい。何せ、信長を書いた史書では、太田牛一という同時代を生きた人が書き切った(太田牛一は、織田信長配下の重鎮・丹羽長秀の家臣)『信長公記』以上に詳しい書は無い筈で、後は、秀吉が書かせたものや家康以降の江戸幕府期に書かれた史料を基に現代人が書き起こした想像半分の物語風の伝記である。なので、信長との関係を知るには『信長公記』は欠かせないと思って、読みながらこれ書いているのですが・・・

取り敢えず、永禄9年から永禄10年の信長は美濃・斎藤龍興との戦で多忙を極めていた。が、遂に勝利して稲葉山城に移り住む。そして、同じ永禄10年には、徳姫と信康の婚儀が成立。但し、信長は美濃の差配でそれどころではなく、家康と相対して何か合議するような余裕も無かった。つまり、この婚姻自体にも軍事同盟の色合いは然程濃くなく、信長も家康も、まだお互いに対して信頼を置いている風にも感じない。因みに、翌永禄11年の信長も相当忙しくて、足利義昭を美濃に迎える事となり、そして義昭を奉じて入京。義昭は、足利幕府第15代将軍に成った。正に、信長にとっては大変な幸運が舞い込んだ時期であり、あっという間に将軍の片腕となり、その名を天下に知らしめた。

信玄と家康

家康にとっては、恐ろしい大敵であったものの、人生に於ける師とも言えるのが甲斐の虎・武田信玄だと思われます。同じ源氏の流れを汲む同士で意外とウマが合った二人は、対今川を理由に甲斐・三河同盟を結ぶ。これが永禄11年のことで、前年(永禄10年)に、家康の嫡男・竹千代が元服して「信」の一字を信長から偏諱されて信康を名乗ったというのが多くの歴史物語で語られていることですが、この事が『信長公記』には一切触れられていないことが何とも解せない。これ、もしかすると信玄の「信」を偏諱されたのでは?それだと、その後の流れ(築山御前と信康が甲斐と通じていて、そのことを徳姫が懸念材料として父・信長への十二ヶ条で報せて、築山と信康が死に追いやられる顛末)が全て合点がいくのですけどね。

信長との同盟よりは、信玄との同盟の方が目的もハッキリしていて先であるように思えます。兎に角、信玄と同盟した家康は、信玄の駿河侵攻に時を合わせて、今川領の遠江へ侵攻。この後、武田が駿河、徳川が遠江を分割統治する話し合いが行われ、丸く収まり、信玄と家康の同盟関係は続いていく筈でしたが、何故か、突然武田軍が遠江へ侵攻する。この理由が良く分かりませんが、もしかすると、家康の態度にちょっと気に入らないところがあって、信玄が「こら、若造!」と、お灸をすえに来た?でも、理由はどうあれこれで同盟は破棄です。

この当時では、直接対決すれば家康は信玄には歯が立たないことは明らかで、そこで家康は敵対していた氏真との間に和睦を図る。和睦とは言うものの、氏真の居城であった卦川の明け渡しを条件としたものであり、今川一族の命の保障を引き換えにした全面降伏の勧告です。一説によると、此処で初めて?築山御前が夫・家康の支援を行った。築山と氏真は縁戚関係にあり、築山の実家・関口今川家筋が氏真説得に真摯に動いた。そして、氏真の正室の実家である相模・北条家が氏真の家族の受入先となり、今川・北条・徳川の三家同盟を成立させることで話がまとまる。

信玄は、無理をすれば遠江も三河も落とせたでしょうけど、徳川のバックに北条がついたことと、織田信長の動静も気になるところで此処は一旦、甲斐へ戻った。家康は、晴れて、三河と遠江という二ヵ国を治める事となり、自らの居城は遠江の曳馬城(浜松と改名)へ移して、岡崎は信康に譲り渡した。家康は、築山御前の駿府への思いを少しでも近づけるために遠江で暮らすことに決した筈なのに、肝心の築山御前は三河から離れることを拒否して、築山暮らしを続けることを譲ろうとしなかった。この夫婦関係を見ると、やっぱダメですね。破綻しています。築山が氏真説得に動いたのは、あくまでも実家を戦火に巻き込まない為のものでしょう。家康を助けるようなものでは無かったと言うのが正解のようです。

一気に書いてしまう気満々だったのですが、一息入れます。続きをすぐに書き始めるかどうか約束出来ませんけど、出来るだけ早く終わらせます。

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