ラグビーの歴史アレコレ(11)~人種差別問題を乗り越えたスプリングボクス~END

アフリカ史

南アフリカ代表(スプリングボクス)

2019年の日本大会では、ラグビー(ユニオン)ワールドカップ史上初めて、プール戦で敗北を喫したチームが優勝を果たせることを証明して見せた。”不屈のライオン”は、サッカー・カメルーン代表の愛称ですが、”不屈のスプリングボック“の称号を贈りたいくらいに感動した。(日本は、優勝国に唯一黒星を付けた国になった。凄い!)

そして、去年(2023年)のフランス大会でも優勝。オールブラックスとの死闘を制してワールドカップ連覇をして見せた。

スプリングボクス

天敵カラカル(アフリカ~中央アジアの広範に生息するネコ科カラカル属)を筆頭に、チーター、ヒョウ、ライオン、ブチハイエナなど、ネコ科の獰猛な捕食者達の餌食となって来た(幼獣時には猛禽類の餌食にもされる)スプリングボック。普通なら、ライオンとかヒョウとかチーターを代表チームの愛称にするものと思えるが、彼ら(南アフリカ代表チーム)は、敢えて、食われて来た側(弱者)であるスプリングボックをチームの愛称とした。どんなに数を減らしても、どんな難敵が現れても、時が来れば再び大集団として復活する。それがスプリングボックであり、正に、南アフリカに集ったそれぞれの人達(元々の現地人もアフリカーナ―もそして英国系移民者も)の思いが募った「スプリングボクス」。

フランソワ・ピナールの言葉

日本大会の南アフリカ代表のチーム・キャプテンは̪背番号6、フランカーのシヤ・コリシだった。思い返せば1995年。南アフリカが初めてワールドカップに出場すると同時に初めて母国でワールドカップを開催して、そして、初めてウェブエリスカップを手にした。何もかも”初めて尽くし”だったその時のチームキャプテンは、奇しくもコリシと同じフランカー・背番号6のフランソワ・ピナールだった。この時のピナールの言葉は、今でも、世界の名言の一つとして刻まれている。

エリス・パークの6万人のみならず、4300万人の全ての南アフリカ国民のおかげで、トロフィーを勝ち取れました。

「俺たちは、今やラグビー・チーム以上の存在だ。全てのこと(習慣の違い、肌の違い、先祖の国の違い、宗教の違い、生きて来た生活環境の違い、何もかも・・・)に慣れないとこの瞬間には出会えなかった。南アフリカはきっと変わる。 俺たちも変わる。変わらないとならない。」

2023南アフリカ表彰台、、、下写真=1995年大会、左から、マンデラからピナールへ優勝カップ  故マンデラ南アフリカ大統領  南アフリカ共和国国章、、、下右写真=2019年大会もキャプテン・コリシ 

“差別主義”を乗り越えたハグ

2回目の優勝を果たした第6回フランス大会(2007年)を経て、第9回の日本大会と、等間隔で優勝を積み重ねて遂にニュージーランド(オールブラックス)の優勝回数に肩を並べていた南アフリカ。人種差別問題で出場を許されなかった第1回大会、第2回大会。ニュージーランドとオーストラリアの優勝を尻目に、幻の世界最強チームと語られていた彼らが、1995年、遂に表舞台に姿を見せてから14年経った2019年。彼らは、カラードの選手をキャプテンとするチームとして見事に変わった。そして。2023年大会で遂に優勝回数でオールブラックスを抜いた。

1995年のエリス・パークで、アフリカーナ―系を祖とする白人キャプテンのフランソワ・ピナールにウェブエリスカップを手渡し、握手し、肩に手を置き労った当時の大統領ネルソン・マンデラ。それ以来、黒人大統領もずっと続いている。日本大会では、第12代大統領シリル・ラマポーザが、歓喜の渦に包まれた横浜のピッチに降り立った。1995年のチームには少なかったカラード選手は確実に増えた。1995年の優勝時には、白人選手と黒人選手の間に少し壁のようなものを感じたけど、今回はそんなもの微塵も感じなかった。シリル・ラマポーザは、スプリングボクス史上初めて黒人(=カラード)選手として代表チームのキャプテンの大役を務めたシヤ・コリシと抱き合い、そしてコリシを強く信じた白人監督(元代表フランカー)のラシー・エラスムスと抱き合った。素晴らしい光景だったね。南アフリカは、少なくとも、”国技”ラグビーに関する事だけは間違いなく良い方向に変化した。

マンデラ氏の言葉

人生の最大の栄光は決して転ばない事にあるのではなく、転ぶたびに起き上がり続ける事である=The greatest glory in living lies not in never falling, but in rising every time we fall.=。」 

ネルソン・ホリシャシャ・マンデラ(1918年7月生~2013年12月没)の名言は数多くありますが、この言葉は凄く良い、心に響く言葉です。

躓いて怪我してもいいじゃないか。怪我すれば痛いということを知るし、痛いと知れば躓かない知恵もつく(=転んでもタダでは起きない)。そして”転ばぬ先の杖”の使い道も知る。躓くことをビビっていたら、ただの一歩も踏み出せやしない。ラグビーをこよなく愛する南アフリカの(と言うより、世界の)偉人マンデラ氏ならではの言葉。

マンデラ氏のミドルネーム「ホリシャシャ」は、トラブルメーカーを意味する言葉らしいけど、マンデラ氏が、反アパルトヘイト運動の若きリーダーとして活躍していた当時の政府から見たら間違いなくトラブルメーカーのように映っていたのでしょう。収監されたマンデラ氏は長い獄中生活を強いられる。しかし、挫けなかった彼は、ノーベル平和賞を受賞(1993年)。そして祖国の大統領に就任する。アフリカ大陸を代表する大統領と称され、黒人、白人を問わず、多くの人から支持された。簡単に書けばそういう紹介になりますが凄い人です。 

刑務所に収監されたときに思いついた言葉なのかどうかは知りませんけど・・・

こんな言葉がある。刑務所に入らずして、その国家を真に理解することはできない。国家の善し悪しは、上流階級市民の扱い方ではなく、下流階級市民の扱い方でこそ判断されるべきだ=It is said that no one truly knows a nation until one has been inside its jails. A nation should not be judged by how it treats its highest citizens, but its lowest ones=.。」

明らかな非人道的な罪人であれば、収監され、時には極刑に処されるのも当然だ。が、経済的抑圧を感じたり、言論統制を受けるなどした人びとが、時の政府・権力者を糾弾しただけで反逆者扱いされるのなら確かに辛い。国家を転覆させる目的ではなく、時の権力者を打倒して新たな政治を希求するのは罪とも言えない。罪とは言えない人々を罪人にしないように、民主的で正当な選挙システムが必要。選挙を嫌う権力者は正しい権力者とは言えない。君主政治、或いはそれを打倒した僭主政治の国家であっても、多くの国民が選挙による民主政治を望むようになれば国家のシステムは改められるべきだ。我が国は、明治期にそれを始めた。地球上の多くの国家は民主選挙システムを持っている。が、まだそうなっていない国家もある。そうなっていない国家でも、民の「知る権利」は認めないといつまで経っても民の成功数が増えて来ない。民が成功しない国家は結果的に強い地盤が築かれず、最終的には経済疲弊する。

1995年当時からは1700万人も伸びた(多分、当時は国民として登録されていない人も多数いたのでしょう)約6000万人の人口の9割はカラードが占める国、南アフリカ共和国。でも、ラグビー代表チームには、人口1割のアフリカーナ―の末裔と英国系住民の力が絶対に必要な事は今大会の素晴らしい結果でも証明された。元々の支配者であるオランダや、そしてイギリスよりもずっと素晴らしい国家へ変貌することは「絶対に可能だ」と言い続けて他界したマンデラ氏の思いは確実に生き続けている。

(※日本大会で、メダル拒否とも受け取れるイングランド代表(全ての選手じゃないけど)の表彰式の態度を見て、素晴らしい試合だったのにちょっと残念に思ったよね。)

最後に・・・

南アフリカ、好きになったかな?というわけで、最後にもう一度・・・

南アフリカ代表、4度目の優勝、おめでとう!

(このタイトル、取り敢えず最終回に致します)

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