『歴史』を確認出来ないヒト達の話

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ホモ・サピエンス以外の『ヒト』に歴史は無い。

「ヒト」族それぞれの特徴や生存した時代よりも、ヒト起源を巡る国家や学者の争いの方が興味深い。何を其処迄して、種の起源に関する発生地域争いをしないとならないのか不思議な人たちである。数百万年前の、ホモ・サピエンスでも無い人達が、ヨーロッパに出現したのかアフリカに出現したのか、それとも全く別の地域だったのか・・・それって学術分野的には必要なのかもしれんけど、如何にも政治的に悪用していて愚かしい。

そもそも、ホモ・サピエンスではないヒトに『歴史』は無い。ホモ・サピエンスにとってのそれ以外のヒト達の時代は歴史ではなく『生物学』の分野である。生物学を政治が利用するとそれは細菌兵器になったりすることであり・・・実に毒々しいのである。

現在、ホモ・サピエンスの出現として最も古い『骨』として認められているのは、19万6千年前のエチオピア人である。2番目の『骨』もエチオピア人のもので16万年前の人らしい。この”二人”も『歴史』の中には入らず『生物学』の中のヒトである。人間(ホモ・サピエンス)の歴史の始まりは、今から約7万年前からとユヴァル・ノア・ハラリ氏は『サピエンス全史』に著述したけれど、現実的にはほんの数千年前のシュメール人から「歴史の言葉」(文字)が姿を現し始めたのであり、それ以前のヒトを歴史利用するなど以ての外なのである。・・・と、個人的には思うのである。 

生物としての『ヒト』

前回、「サヘラントロプス・チャデンシス」と「グレコピテクス」を中心にエッセイを書きましたが、今回は、チャドやギリシアではない、南アフリカの化石人類について書きます。

2番目に古いヒト ~オロリン・トゥゲネンシス~

サヘラントロプス・チャデンシスに次いで古い時代のヒト亜族が、現在のケニア・トゥゲンヒルズ辺りを中心に暮らしていたと推定されているオロリン・トゥゲネンシス種。今から約610万年くらい前から580万年くらいの間に存在していたらしい。時間間隔がアバウト過ぎて、30万年間がどの程度の長さなのか感覚的に捉え辛いかと思うけど、先述したように、最も古い時代のホモ・サピエンスが19万6千年前と推定されているので、オロリン・トゥゲネンシスというヒト達は、ホモ・サピエンスよりも現段階でまだ10万年以上の生存期間を持っていたことになる。

3番目に古いヒトたち ~アルディピテクス属~

オロリン・トゥゲネンシス種の次に古いのが、約580万年前~約440万年前に生きていたと見られているアルディピテクス属。アルディピテクス属には、東大チームが発掘したアルディピテクス・ラミドゥス種(=ラミドゥス猿人)とアルディピテクス・カダッバ種がいる。日本語風には、「ラミドゥス」よりも「ラミダス」と表記されるのが通例。
ラミドゥスもガダッバも、共にエチオピアで発見された。この事から、人類発祥地はエチオピアと思われていたのだけど、チャデンシスの発見によってチャドになってしまった。

人類のゆりかご

アルディピテクス属が発掘されるまでは、最古の化石人類として”君臨”していたのがアウストラロピテクス属。約540万年前辺りから約150万年前辺りまで生きていたと推定されている最も有名な人達であると共に、最も長い期間生存していたヒトである。(参照記事

しかし、アウストラロピテクス属が認められるまでには大変な苦労があったようです。

ピルトダウン人=ドーソン原人=捏造人

1856年のネアンデルターレンシスの発見以来、現生人類に近しい”別のヒト”との出会いを求めて世界各地で発掘調査熱が沸騰する。ところが、1891年にピテカントロプス・エレクトゥス=ジャワ原人が現れると、今度は、最も遠い”別のヒト”探しもブームになる。そういう中に忽然と姿を現したのが、1909年のピルトダウン人。当時の大英帝国イースト・サセックス州アックフィールド近郊のピルトダウンという地名に因む名。発見者は、アマチュア考古学者チャールズ・ドーソン。この人に因んで、ドーソン原人とも呼ばれた。

特徴として、脳頭骨は極めてホモ・サピエンスに近いが下顎骨は類人猿に近い。何か矛盾している不思議なヒトで、しかし、大英博物館のアーサー・スミス・ウッドワード卿の研究チームによる鑑定結果で更新世(約258万年前~約1万1700年前)初期の化石人骨と位置付けられた。上述のピテカントロプスを抜き、最古のヒトに躍り出た。
その当時から、極めて懐疑的だとして比定する学者もいるにはいたが大英帝国に於ける人類学の著名人達がこぞって支持したおかげで40年近くもの間、ピルトダウン人は最古の人類で在り続けた。
ところが、1949年に骨が5万年前のものであることが判明。下顎骨はオランウータンのものだった。様々に巧妙な細工が施されていたことも明らかになり捏造発覚となった。が、捏造の張本人とか関係者が誰なのかは、この発覚時には既に多くの人が亡くなっていて真相は闇の中らしい。とんでもない話です。

大英帝国の陰謀

1924年。現在の南アフリカ共和国ノースウエスト州タウングで、(本来であれば)世紀の大発見となるアウストラロピテクス・アフリカヌスの化石人骨が発掘された。約500万年前~約258万年前の鮮新世の内、大体、300万年前辺りに生きていたヒトだと予想されるものだった。発表者(分析者)はオーストラリアの解剖学者レイモンド・ダート。ダート自身が発掘したものではなく、ダートの同僚が現地の女学生が発見した骨を預かり、その鑑定をダートに委ねるために持ち帰ってきたもの。

ダートは、この化石人類が、類人猿とヒトの中間種であるという鑑定結果を発表した(1925年)。が、その主張は退けられた。その当時の人類の祖先は、上述のピルトダウン人だということになっていて、しかも、ピルトダウン人は大英帝国のブリテン島。アウストラロピテクスは大英帝国植民地だった南アフリカ。化石人類にまで上下関係が及んだ?

ダートは、真実とは逆に「捏造」の疑いを掛けられるなどして、一時期、古人類学の世界から身を退かざるを得なくなるまで追い詰められた。

ダート氏は、クイーンズランド大学卒業後のシドニーでの研修医生活までずっとオーストラリアで生まれ育ち、第一次世界大戦で大英帝国の従軍医師となり英国で暮らした。その後、1922年から南アフリカ・ヨハネスブルグのウィットウォータズランド大学の解剖学教授になり、化石鑑定の分野でも腕を振るったわけだけど、嘘吐き呼ばわりされて嫌気が差した。当たり前ですよね。自信と確信を持って鑑定した結果を根拠なく否定された上に捏造の疑いまで掛けられる。全く以て酷い話です。

結果的に、ダート氏は化石との関りを事実上引退し、その後は解剖学に集中して95歳まで頑張って生きた(1893年2月~1988年11月)。合掌。

アウストラロピテクスの”勝利”

27歳年下のダートに対して、唯一認め賞賛を贈っていたのが、同じく信念を貫く人、ロバート・ブルーム

1866年11月生まれのブルーム氏は、スコットランドの貧困家庭に育ち努力を重ねてグラスゴー大学で医学を学ぶ。その後、”教授のお供”で立ち寄ったオーストラリアで、独自の生態系で生きる野生動物たちの起源などに強い関心を示し、学位取得後の1897年に南アフリカへ移住。しかし、当時の南アフリカは、人種差別問題意識が複雑に絡み、進化論を強く主張するブルームは教職勤務先のステレンボッシュ大学に於いては閑職に追いやられる。それでも、古生物学の研究を続け苦節の末、1920年に王立協会フェローに選出。

そして1925年のダートの発表に出会ったのだが、ブルームは、ダートを支持した。そして、誰もが認めなかったダートに代わって、アウストラロピテクスを追い続ける。1934年に医師を引退すると南アフリカ共和国・プレトリアにあるトランスバール博物館に職を得る傍ら、猿人発掘調査チームの一員に加わった。既に67歳になっていたが、まだまだ頑張った。見習おう。。。

そして、1936年にスタルクフォンテインでアウストラロピテクス・アフリカヌスの化石を発見した。更に、1938年に発掘を始めたクロムドライではパラントロプス・ロブストゥスを発見。更にゞ、1948年にはスワルトクランスで、アウストラロピテクスだけではないヒト属の化石も発見し、別々の「ヒト」が同時代に生息していたことの証拠を世界で初めて示した人になった。ブルームが発掘対象としたこの3つの現場はそのまま「スタルクフォンテイン、スワルトクランス、クロムドライおよび周辺地域の人類化石遺跡群」の名称となりユネスコの世界遺産リストに登録された(1999年)。いわゆる南アフリカの人類化石遺跡群であり『人類のゆりかご』(人類発祥の地)という言葉を生んだ。因みに、スワルトクランスでの発掘当時のブルームの年齢は81歳よ。凄いよ。只者じゃないね。

「若造!不貞腐れている場合じゃねえぞ。立ち上がれ!」と鼓舞したかどうかは知らんけど、ブルームの相次ぐ快挙に触発されたのか、事実上引退していたダートが、1947年に発掘”業界”に戻って来た。が、残念ながらブルームを上回る成果は出せなかったようだ。しかし、ダートが発掘再開の場所として選んだうちの一つマカパンスガットは、最古の部類に属する層を含む化石出土地と認識され、南アフリカが、「人類のゆりかご」(=人類発祥の地)と呼ばれる事に影響(良い意味で)を及ぼした。と言うわけで、ダートがアフリカヌスと出会ったタウングとマカパンスガットも、2005年に人類化石群に追加登録された。ダートさん、報われたね。

1990年代以降も、南アフリカは人類の足跡を探る為の重要な発掘地帯であり続けているが、ドリモレン(スタルクフォンテインから北北東約6km)やゴンドリン(同、北東約24km)といった遺跡からは、新たな化石人類(猿人と原人の境になる、約200万年前~150万年前のヒト、パラントロプス・ロブストス)が見つかるなど、まだまだ新たな可能性がたくさんありそうです。故に、1999年の世界遺産登録に繋がったわけだけど、仮に、ユネスコの登録が無かったとしても世界が認める人類遺産でしょう。ところで、『人類のゆりかご』という名称は、現在、東アフリカ(エチオピア)にものとなっている。けれども、南アフリカがその”勲章”を取り戻す時は来そうな気はする。でも・・・

エチオピアでも南アフリカでもなく、最古のヒトはチャドサヘラントロプス・チャデンシスさんだよねェ。サヘラントロプスよりも古い時代を求めようとするとグレコピテクスのような事にもなりかねないしね(笑)

因みに、アウストラロピテクス属で一番古いヒト=アナメンシスはケニアだけど、二番目に古いヒト=バーレルガザリはチャド。『人類のゆりかご』は南アフリカが取り戻すとかエチオピアやケニアと言った東アフリカのままとか、そういう事じゃなくチャドになりそうな気もしないではない。

しかし、空白地域もあるので、これから先では新たな国で新たな発見があるかもしれない。

洞窟化石の謎

南アフリカでは、例えばスタルクフォンテインなど、洞窟(鍾乳洞)の中や傍で化石人類が発見されることがしばしばある。これは、ヒトが洞窟で暮らしていたと言うより、洞窟の入り口付近に棲みつく習性を持つと云われるハイエナや、豊富な水量の鍾乳洞傍に生い茂った樹木上に、ヒョウなどが獲物(ヒト)を引きずり上げて隠し、そこで食された残骸が落ち化石化した可能性があるらしい。なるほど、目から鱗である。これは有り得る話です。

ちょっと中途半端ですけど、今回は此処まで。続きはその内に書きます。

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