ハインリヒ・シュリーマンは、善人か悪人か

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稀代の畸人きじんハインリヒ・シュリーマン(1822年1月6日~1890年12月26日/本名ヨハン・ルートヴィヒ・ハインリヒ・ユリウス・シュリーマン)。不肖私には、「歴史は後からでも創られる(明かされる、証明される)」という口癖がありますけど、この人を知ったことにも依ります。生涯、夢追い人として行動しまくったシュリーマン。この人の生き様を真似しようと思ってもとても無理だけれども、夢を持ち、可能性を信じ続けることの大切さは機会あるごとに(誰彼構わずに)伝えている・・・つもり。だからと言って、シュリーマンを特別に尊敬しているわけでもないのですけどね。

それまでは、誰も辿り着けなかった数千年前の歴史に辿り着き、神話を史話にしてしまった(=神話が史話に基づいていることの証明をして見せた)シュリーマン。氏についての詳細は、『トロイアの秘宝 その運命とシュリーマンの生涯』を読めば済む話ですけど・・・何でも書きたがる私です(苦笑)

ドイツ=>カリブ=>ロシア=>アメリカ

当時のプロイセン王国メクレンブルク・シュヴェリン州ノイブコウ(現ドイツ、メクレンブルク=フォアポンメルン州シュヴェリーン近郊)という町で、9人兄弟の6番目としてシュリーマンは生まれます。
父は、プロテスタントの説教師。けっして裕福とは言えない家庭環境だったシュリーマンは、13歳で中等学校(※日本風表記)へ入学するものの学費支払が続かずに翌年に退学。云わば、小学校しか出ていないけど、ビジネスの世界で大成した人ということになります(※ビジネス業界から身を退いた後、44歳時に、大学進学は果たされます)。シュリーマン氏は、”金持ちの道楽”で遺跡発掘を手掛け、幸運に巡り合った。そのように揶揄される人でもありますが、ご自身が頑張られた結果です。素晴らしいよ。

14歳で食品会社に奉公したシュリーマンは、仕事合間に外国語を独習。最終的には15ヶ国語以上を操れる程、語学の才に長けていた(自叙伝に依る)。多少眉唾な部分があるにせよ、言葉の相違に臆することなく、兎も角、先ずは行動する。先ずは話してみる。そういう人です。

1841年、19歳になったシュリーマンは、まだ貧困生活からは抜け出せずにいた。けれども、ただじっとして機会を待つのではなく「行動!」。スペイン語に少し自信を持てていたのか、南米ベネズエラでの成功を夢見る。

ヌエバ・グラナダ、コロンビア、ベネズエラという南米大陸北部に位置する元スペイン植民地3州は、1819年から大コロンビアという一つの国家を成していた。しかし政治的対立により1830年に内部崩壊し、3つの国家に分裂。その一つであるベネズエラでは、1840年に大土地所有者を支持基盤とする政党=自由党が結成されると、それまで独裁していた商業資本主義の保守党政権の基盤が大きく揺らいだ。大資本家以外でも成功可能な国へと向かう雰囲気を見せ始めたベネズエラに対し、ヨーロッパのあまり裕福じゃない青年たちが移住先として目を付けた。頑張って土地さえ持てれば(つまり農業従事者として)成功者となれるかもしれない。日本人が、ブラジルやペルーへ移住したような事と同じような状況ですが、シュリーマンもそういう一人だったのでしょう。

ところが、夢を抱いて乗船したベネズエラ行きの船が座礁。カリブ海のオランダ領の島(キュラソーかな?)に漂着する。其処で運良くオランダの商社に入社。すると、持ち前のバイタリティーと語学力により貿易商としての才能が開花した。ほんと幸運ですよね。もしもベネズエラで生活を始めていたら、当時のベネズエラの治安情勢は相当悪くて命の保障はなかった。長生き出来ても、やがてクーデターも起きるし、事業を成せたかどうかは分かりません。
1846年、24歳時にロシア・サンクトペテルブルクに駐在。この時期にはロシア語やギリシア語を習得するのですが、サンクトペテルブルクを気に入り過ぎてロシア国籍?市民権?まで取得。そして独立起業する。

貿易事業者にとっては、自らのエピソードや信念を相手の国の言葉で語れる事は何よりの武器になります。大学などで経済学や経営学や商学などを学んだわけでもなく、自分が置かれた環境を卑下する事もせず、兎に角、行動する。自身の生き様を通じて社会の何たるかを学び取ったシュリーマン。こういう人が語る話はきっととても面白く、出会った人達は自然と引き込まれてしまいます。

ロシアで始めた貿易事業は成功し、1852年、30歳になったシュリーマンはロシア人女性と結婚。ロシア・サンクトペテルブルクは、シュリーマンに幸福と利益を齎せた。

或る時、家族の訃報が届く。シュリーマンには複数の兄がいましたが、その内の誰かはゴールドラッシュに沸くアメリカに渡ってアメリカン・ドリームを成し、大金を得ていた。その兄が何らかの要因で亡くなり、シュリーマンは遺産の受取人となる。結構な財を得たシュリーマンは、カリフォルニア州サクラメントに金貿易を行う為の新たな商社を設立します。が、当事者達には不幸な出来事ながら、シュリーマンにとっては人生を大きく変えるような幸運が訪れる。それがクリミア戦争です(1853年~1856年)。

学者への転身

夢追い人シュリーマン

シュリーマンは、ロシアを支援する為に大量の武器と弾薬製造に必要な硫黄や鉛を、米国に興した商社を介して大量に輸出(ではなくて”武器の密輸”と云われる)。それで巨万の富を得た。密輸であれば何らかの罪には問われている筈ですが、真相は分かりません。何れにせよ、シュリーマンはこの時期に”武器商人”として活躍する。

クリミア戦争が終戦を迎える頃、30代半ばのシュリーマンは、莫大な資産を持つ大富豪となっていた。すると、密輸の罪滅ぼしを考えたのか、それとも(クリミア戦争に於いて)あまりにも儲け過ぎた事に怖くなったのか、ビジネスからの”引退”を口にするようになる。ビジネスをやらずに何をやる?と問われ、シュリーマンは幼少期の憧れを答えとする。

シュリーマン曰く、幼少期に熟読した『イーリアス』への強い想いがずっと続いていた。ギリシア神話を題材とする『イーリアス』は、トロイア戦争十年目の或る日に生じたアキレウス(アキレス)の怒りから、イーリアス(=トロイ)の英雄ヘクトール(ヘクトル)の葬儀までを描写した物語。数多あるギリシアの叙事詩の中でも、最古にして最高のものと賞賛を受ける傑作。ですが・・・
「イリオン(=トロイの王都トロイア)は実在する」と信じていた人は多数いたでしょうけど、それが何処にあったのかは誰も知らなかった。場所の特定もままならないので、トロイア戦争などは神話の世界の出来事、つまり創造話つくりばなしと揶揄する人さえ少なくはなかった。

シュリーマンは、(有り余る私財を投じて)トロイアの発見に人生の全てを賭けて挑みたいと言う。しかし、自分の人生ばかりを生きて(楽しんで)、家族と共に生きるという姿勢を見せないことで、妻と子ども達には愛想をつかされた。そして離婚。シュリーマンは、「(ビジネスは)『イーリアス』を、史実として証明する為の資金集めの手段であり、自分は自分なりに妻子のことを愛していた。」と弁明しているようですが・・・

実際、仕事(事業)を続けながら、その合間を縫って、多くの国の古文書(その殆どがトロイア関連史料)を読み漁ったシュリーマンは、トロイア実在の信念を得るに至っていたと云われる。けれども、探し出せるという自信はまだ無かったし、信念を得たにせよ確証は得ていない。書物を読み漁っただけであって、学者でも何でもないシュリーマンは、そうだ!(手掛かりを見つける)旅に出よう!!という単純且つ明快な答えを弾き出す。

事業を畳んだシュリーマンは、発掘場所の手掛かりと信頼出来る仲間(支援者)を求め旅を始めます。という風に書けば、「凄い執念だ」と思えますが・・・。「いい加減儲け過ぎたので、暫くは鳴りを潜めよう」として事業を畳み、”贅沢な世界旅行”をしているという風にしか見ない人もあったようです。兎に角、当時のシュリーマンを知る人たちの大多数は、(シュリーマンにどのような勝算や信念があったのかを知ろうともせずに)トロイア実在説と発掘宣言に対して荒唐無稽だと嘲笑った。

全然関係ないですが、成功した資産家が、夢を持ち、信念を持って挑む新たな事業に対して「出来っこない」「馬鹿げている」「金持ちの道楽」「無駄遣い」「愚の骨頂」・・・これでもかという位の罵詈雑言が浴びせられることはよくある話。その資産家本人と実際には会話の一つもした事ないのに、ただ著名人だから知っている、その程度の事なのに、まるで自分の足元にも及ばない相手であるかのように貶す。そういうのって楽しくない。人を貶してもけっして”憂さ”は晴れないよ。心が腐るばかりだよ。それよりは読書するか良い音楽を聴くか、スポーツするか、セックスして果てて気分よく眠ることをお勧めしますよ。

そもそも、他人からの嘲笑程度で”めげる”くらいなら、シュリーマンの数々の成功は最初はなっから無いでしょう。他人を貶して嘲笑うだけの悲しい人達を尻目に、シュリーマンは、自分の信念のままに世界中にヒントを求めて旅を続けた。1865年(慶応元年)には、清朝と幕末の日本を訪れ、『シュリーマン旅行記、清国と日本』を執筆して発刊する。この書籍はヨーロッパ各地で読まれた。その事で、後の日清戦争では、(日本の敗北予想が多数であっても)大英帝国のように、強く日本を支持する相手が現れることにも繋がった・・・のかもしれない。

日本から戻ったシュリーマンは、そうだ!(発掘の為の)勉強しよう!!と、ソルボンヌ大学に入学します。これにより、当時フランスを中心に盛んだったオリンピア発掘調査隊と知り合うきっかけも得ます。更に、母国プロイセンに戻り、自身の生まれ育ったメクレンブルク・シュヴェリン州の公立ロストック大学(世界で最も古い大学のひとつとして有名)でも学びます。

当時のプロイセン政府は、中近東での発掘調査に懸命になっていた。お宝を独占しようとした?そういうイメージで、『インディー・ジョーンズ/失われたアーク』などが作られていますしね。そしてプロイセン政府はシュリーマンに近づく。貿易商時代から、帝政ロシアやアメリカ、オーストリア、大英帝国、フランス、オランダなど名だたる国家の政財界に対して強いコネクション力を持っていましたからね、当たり前です。シュリーマンほどの人脈、金脈の持ち主であれば、何処の国家からも欲しがられるでしょう。

フランク・カールヴァート

トロイア発見の夢を追っていたアマチュア考古学愛好家はシュリーマンだけでは無かった。中でも、イギリス人のフランク・カールヴァート(1828年~1908年)は、シュリーマンよりも7年早くヒッサルリクの丘(=ヒッサリクの丘)を発掘し始めている。ヒッサルリクの丘は、『イーリアス』の著者ホメーロスが、北西アナトリアのスカマンドロスの河口として描写した場所であることが確実視されていて、地元の住民達やそこを訪れる旅行者達の多くが、トロイとの関係性に言及していた。更に、当時のジャーナリスト兼地質学者のチャールズ・マクラーレンは、出版書の中で、ヒッサルリクに関する地形学上の詳細な調査報告を述べている。

カールヴァートとヒッサルリクの出会いは、1847年に遡る。英国外務省に勤務していた兄フレデリックが当時のオスマン帝国(トルコ)に領事として赴任。フレデリックは、同じように外務省職員となった弟フランクを領事代理として伴わせた。やがてフランクは、ヒッサルリクの丘を調査していたチャールズ・マクラーレンと出会い、ヒッサルリクの丘に関する様々な話を聞かされる。

元々、トロイアに興味を持っていたフレデリックは、名目上は農場地として、ヒッサルリクの丘を含む2000エーカー(8k㎡)の土地を購入(1850年代のこと。購入資金の殆どは兄への借金)。すぐにでも発掘したかったでしょうけど、クリミア戦争が起きて仕事が多忙となる。戦争終結後も暫くは外務省の仕事に追われていましたが、1866年頃に発掘調査を始めます。その頃のシュリーマンは、大学入学し本格的に考古学を学び始めたところです。シュリーマンがヒッサルリクで起き始めていた事を知っていたら、大学での学業を続けていたかな?事実は分かりませんけど、多分、知らなかったのでは?

再婚

知らなかったのでは?という根拠は、1870年にロストック大学を卒業後、ギリシアに移住して、ギリシア国内の何処かの発掘現場で経験を積もうとしていたのは明らかだから。ところが、シュリーマンは人生の目的ロードを少し逸れて恋愛する。相手は、17歳のギリシア人女性ソフィア。・・・まただよ。どうしてこうも、歴史に名を残す男たちは大きな年齢差の女性(少女)と出会うかな。48歳と17歳か、ちと羨ましい・笑

遊びじゃなかったようで、ソフィアと正式に再婚したシュリーマンはいよいよ発掘事業へ向かう。31歳も違う女性を奥さんに出来たら、そりゃ俄然とやる気も出るよね。後に、「ギリシア考古学の父」とまで称されるシュリーマンにとって、ソフィアという若い伴侶は幸運の女神だったに違いない。でも、やっぱりサンクトペテルブルク時代に、ギリシア語を習得出来たことが大きいよね。

発掘へ

シュリーマンは、クリミア戦争で大きな利を得ましたが、クリミア戦争の敗者オスマン帝国(トルコ)は、ロシアとの関係が深いシュリーマンに対し、発掘事業の許可どころか入国を拒否していた可能性もあります。流石のシュリーマンも、入国出来なければどうにもなりません。ですから、シュリーマンの目は、最初っからアナトリアを向いていなかったのでは?とも思います。しかし、シュリーマンは運が強い。

ソルボンヌ大学で知り合ったオリンピア発掘調査隊がアナトリアの発掘に出向くことになり、調査隊からシュリーマンに参加の打診が行われる。まだ、本格的に発掘に携わった経験を持っていないシュリーマンは、それを好機と受け取り二つ返事で参加を決める。若い奥様を伴っての事かどうかは知らんけどね。

オスマン帝国での発掘事業に関連して英国領事館を訪れた際に、シュリーマンはカールヴァートと出会います。そこで恐らく初めてヒッサルリクの可能性を聞き及び、それと同時にカールヴァートが発掘資金に行き詰まっていることも知った。カールヴァートは、大金持ちのシュリーマンをパトロン(出資者)にして自分が発掘を続けようとしていたのだが、シュリーマンは出資だけに留まらず、自らが発掘調査に参加することを条件に出資を申し出た。そして恐らく、有り余る財力でヒッサルリクの残り全ての土地を購入した。

人員や発掘機材や技術に関しては、オリンピア発掘調査隊の協力を得られた。しかし、オスマン帝国よりオリンピア調査隊の当初申請内容との相違を指摘され、翌1871年まで許可の下りる時を待つことになる。そして調査が始まる。本格的に発掘を始めて2年後の1873年5月31日。いわゆる『プリアモスの財宝』に辿り着く。

プリアモスの財宝

陶器のゴブレット、銅の盾、銀の壺、銀のナイフ、金の指輪、金のカップ、金の帯状の髪飾り・・・

上述したのはほんの一部で、他にも多数が出土したヒッサルリクの丘。その財宝群は、『イーリアス』に登場するトロイの王の名を冠して『プリアモスの財宝』と呼ばれた。シュリーマンによる『トロイアの古代遺物:トロイア発掘調査報告』(参照URL)を読めば、それらに巡り合った時の興奮がどれほどのものだったかが伺い知れる。そして、高揚感と同時に「盗まれたらならない」という緊張感も伝わって来る。この上ない喜びと震え。そういう場面に立ち会った事が無いので上手く書けないけれども、兎に角、シュリーマンは遂に誰も出来なかったことをやってのけた。

但し、参照URLでも書いてある通り、実際は目指したものとは違っていて、年代を取り違えるというミスを犯した。しかし、そこ(ヒッサルリク)が青銅器時代からローマ時代までの9層からなる都市痕跡であることなどは、シュリーマンが莫大な私財を費やして大掛かりな発掘調査を展開したからこそ分かった事である。ミスはミスだろうけど、アマチュア考古学者としても駆け出しだったシュリーマンを貶すようなことではない。そもそも、当時は今ほど発掘技術が発達しておらず、そして、シュリーマン自身の考古学の専門知識がまだ若干不足していただけであって、そんなことを責める方が傲慢過ぎる。それこそ、シュリーマンへの嫉妬でしょう。そりゃあね、発掘作業に多少なりとも強引過ぎて、慎重さに欠けた結果、遺跡全体に損傷を与えてしまったことは罪深いと言えば罪深いことではあるでしょう。しかし・・・

トロイアを、御伽噺と考えていた人も多数いたわけですし、シュリーマンまでは誰も成功していないわけですからね、シュリーマンによって、ギリシア神話に於けるトロイの真実は証明された。凄い功績ですよ。尤も、チャールズ・マクラーレンやフランク・カールヴァートや、地元の名も無い住民達や、その他のアマチュア考古学者がシュリーマンよりも先にヒッサルリクの丘を怪しんでいたからこそ、シュリーマンの成功となった。少なくとも、ヒッサルリクの購入者として先んじていたカールヴァートは、もっと高く評価されても良いよね。せめて、財宝の分け前を貰うとか・・・いくら貰ったかは知らんけどね。

盗人転じて考古学の父となる

密輸癖?

以上のところまでは、シュリーマン氏を高く評価こそすれ貶すなんてとんでもない。という立場ですけどね、何と、シュリーマンは、それまでに発掘した財宝の殆どをオスマン帝国に内緒で、こっそりギリシアへ持ち逃げした。それが発覚し、オスマン帝国は(当然ですが)シュリーマンの発掘権をはく奪して、入国禁止処分とする。嘗て、クリミア戦争時にロシア政府に対して武器を密輸した嫌疑があるシュリーマンですが、今度こそ、確実に密輸罪でアウトです。オスマン帝国の大宰相府はシュリーマンを告訴し、この裁判は当たり前だがシュリーマンは敗訴。罰金10,000金フラン(現在価値、10億円?)の支払いと財宝の返還が命じられた。

この判決は極めて甘く、アテネの裁判所はシュリーマンの支払い能力を軽んじていた。屁でもない。シュリーマンは、逆に、オスマン帝国に対して、コンスタンティノープル博物館(帝国博物館)への50,000金フランの寄付と財宝寄贈(発掘物の一部しか見せていない)を申し出て、引き換え条件として発掘とヒッサルリクの丘を含む周辺私有地の権利を認めることを要求した。

元々、シュリーマンが購入している土地でありその要求は認められ、50,000金フランで和解する。勿論言うまでも無く、寄贈された発掘物は全体のほんの一部に過ぎなかった。

その後もヒッサルリクからは財宝が出土し、今度はオスマン帝国政府の許可を得た上で持ち出した。持ち出せた理由としては、ヨーロッパの名だたる博物館への寄贈であったが、ルーヴルを始めとして多くの美術館・博物館は受け付けなかった。何故なら、寄贈は見せ掛けで、実際は売却交渉を行っていたのだが、シュリーマンの言い値はとても高額で、何処も支払えなかったようだ。

転機

痺れを切らしたシュリーマンは、自らが博物館を設立して展示することまで考えたが、それは我慢。そもそも、博物館の館長なんていうのは似合わない。行動の人シュリーマンは、ヒッサルリクに拘り続けたわけでもない。ヒッサルリクと並行し、各地で発掘を続けた。そして1876年には、ミケーネで『アガメムノンの黄金のマスク』を含む多くの黄金を蔵した竪穴墓を発見した。

シュリーマンなくして、ミケーネ文明の謎どころかその存在自体が解けなかったと云われる。以来、ティレンス遺跡(ミケーネ文明の中心地と考えられている)の発掘がシュリーマンの喜びとなり糧となる。この事により、ギリシア考古学の父とまで呼ばれ称えられる。

ミケーネの発掘成果は世界中から称賛された。このことでシュリーマンに歩み寄ったのは大英帝国。シュリーマンが求めていた財宝の買取には応じなかったものの、『プリアモスの財宝』展示を申し出る。これは、友人となったカールヴァートの仲介とも考えられる。その後も、カールヴァートは色々とシュリーマンを救っているようです。

英国の申し出に応じたシュリーマンは、財宝を英国へ運び、3年間(1877年~1880年)を期限としてヴィクトリア&アルバート博物館で展示された。

名誉市民

英国での展示が終わった頃、シュリーマンは人が変わったように穏やかになった。それは、英国民や英国の考古学者たちより、感謝と賛辞の言葉を繰り返し聞かされ、自分が行ったことが人々を幸せにしていることに改めて気付いたからでしょう。金に困っているわけでもないし、シュリーマンは財宝を独り占めすることなどは止めにした。そして「ドイツ国民」への”永遠の”寄贈を願って、ベルリン国立民族学博物館で永久展示されることになった。

当然のようにドイツ国民からは賛辞の声が鳴り止まず、皇帝ヴィルヘルム1世は直筆の手紙で謝意を示した。そしてシュリーマンは、ベルリン人類学・民族学・先史学協会の会員資格を与えられると共にベルリンの名誉市民となった。因みに、『プリアモスの財宝』がベルリン国立民族学博物館で一般公開されたのは1882年ということです。

以降も、ギリシアを拠点にして世界中で発掘事業に携わって行ったシュリーマンですが、視察旅行先のナポリの路上で突然倒れ、そのまま帰らぬ人となる。1890年12月26日。享年68歳。

まだまだ元気だったシュリーマンの訃報に際し、暗殺説も囁かれたが死因は不明。アテネの第一墓地に埋葬されます。

ところでトロイアの黄金・財宝は、第二次世界大戦中にベルリンへ侵攻した当時のソビエト連邦軍が奪い去った。ソ連軍は、それだけではなく、150万点もの文化財を「戦利文化財」として盗み取った。シュリーマンに人生の飛躍のきっかけをくれたロシア(ソ連)が、シュリーマンの発掘した財宝を盗む。なんの因果かね・・・。ドイツやトルコは、現在までずっとロシアへ返還を要求しているが、ロシアは拒否し続けている。

エジプトでもイタリアでも何処ででも文化財盗難は起きていますが、世界にはまだ、盗難に遭うまでも無く、地層深く眠っている”歴史”が必ずある?かもしれない。そういう夢と真実を追って考古学者や歴史学者は研究を重ねているのでしょう。シュリーマンのような人を否定せず、捻くれた見方もせず、学んだ知識以上に「情熱」と「信念」こそが真実の扉を開ける。ということを、多くの人に伝えて欲しいものです。

史実は、学者や博識者だけのものではない。人類すべての共通資産です。 その事を自らの行動で教えてくれた。シュリーマンは凄い。尊敬するに値します。

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