信長と家康の同盟、その前に”織田・浅井同盟”あり

時を紡ぐ~Japan~

民に対して、「栄えて見せろ」と鼓舞した織田信長

民に対して、「儂の栄を見よ」と誇示する豊臣秀吉

民に対して、「共に栄えよう」と手を取る徳川家康

信長は、民を富ませる事が国を富ませる事であると単純明快に理解していた。無論、信長よりも先に生まれた武将や為政者達の中にも、同じ考えを持っていた人は多数いた筈だ。しかし、信長以前の人達は大きく評価されているわけでもない。

信長は、民に対して新たな物への興味を持たせる事を考えた。「新しい物、物珍しい物ならきっと欲しくなるに違いない」と、単純明快且つ合理的な考えを持った信長は、魅力的な市場の育成に取り組み、商品流通を盛んに行わせることに注力した。いわゆる、経済活性化です。その中心となったのが楽市・楽座。ところで・・・

安土の楽市楽座は、信長主導ではない

楽市・楽座制度そのものは信長の発案ではなく、その初見は天文18年(1549年)の近江・観音寺城城下の石寺、或いは保内町に於ける楽市令とされる(後者=保内が庶民の町で、楽市”メイン会場”。前者=石寺は武家の町で、楽市の”特別会場”であったのではないかと云われる)。
発令者は当時の近江守護・六角定頼。言うまでもなく、自国経済発展の為の政策であり、多くの商人が観音寺城下へ集まった。この観音寺城が建てられていた場所こそ、現在の近江八幡市安土であり、後に信長が本拠・安土城を構え楽市楽座を行った地。

観音寺城の歴史は古く、南北朝時代の1335年(建武2年)には、南朝の北畠顕家軍に攻撃を受けた北朝の六角氏頼が籠城戦を行った記録が残っている(『太平記』)。その後の記録では、1352年の南朝軍との戦いに敗北した六角氏頼と佐々木道誉(=京極高氏)が命からがら逃げ込み籠城していた時期には、「佐々木城」と呼ばれていたことも分かっている。兎に角、当時は籠城戦に強い堅固な城構えだった。

この城を最初に落城させたのは、佐々木道誉の子孫である京極勝秀。応仁の乱に於ける第一次観音寺城の戦い(応仁2年=1468年4月1日)で、当時の城主・六角高頼が京で西軍側で奮戦中の隙を突き、東軍の京極勢が押し寄せて落城させた。ご先祖様(佐々木道誉)の命を救ってくれた城を落とすとは!折角落としたなら、其処を自軍の城に!と色々言ったところで何でもありの応仁の乱。さっさと城は捨てた。落城させられた一報で慌てて戻って来た陣代(城代家老みたいな立場)山内政綱は呆気なく帰城出来て防備を固めた。が、その年(応仁2年)の11月に再び京極軍が攻撃(第二次観音寺城の戦い)。またもや陥落する。この時は、逃走した山内政綱の命で火が放たれ城の多くは消失。それで、京極軍は入城せずに放棄された。

ようやく戻って来た六角高頼は、居城の消失に取り乱す様子も見せずに早速改築。支城や周囲の砦との連携をし易く、頑強な城として蘇らせた。そのお披露目となった三度目の京極軍襲来を見事防ぎ切る。その後も何度も戦火に見舞われた観音寺城下ですが、六角氏は城明け渡しの憂き目を見ずに城を頑強にしていった。

六角氏の衰退

戦国時代にも当然のように堅固な城としての増改築に余念が無かった六角城(観音寺城)ですが、そうなると財政は圧迫される。城を立派に保つことに対して異常な程の執着をしていた六角氏の当主達は、領民虐め(年貢の強要など)をしていたわけではないでしょうけど、交通の要衝であった近江という土地柄、度々攻城戦を強いられた。そういう歴史を繰り返した故に、城増強策に執着せざるを得なかったのでしょう。そして、天文18年当時の当主・六角定頼が思いついたのが楽市。先ずは住民を喜ばせて定住率を上げる。定住者が増える地域に商人を集めて商売をさせ、その”売上税”を納めてもらう。極めて合理的であるが、そういう当たり前のことを現代でもなかなか出来ないのが”勝ちたい!”という思いが強過ぎる政治。勝ちたい思いが強過ぎれば結局暴力的になり、戦争を招いてしまう。そりゃ誰だって戦火の中での暮らしはイヤだよ。住民定着率が下がる。そうすると重税。重税になれば逃げ出す。そして国廃る。

近江もそういう寸前だったのでしょうけど、楽市令により経済が回復し安土は栄えた。ところが・・・

栄えた場所は、その領主だからこそ栄えたのであって、その栄えは奪っても続くものではない。その事が理解出来ない隣国は、その栄えだけを羨んで奪いに来る。

六角定頼が天文21年(1552年)に逝去し、後を継いだのは善賢(後の六角承禎:大永元年=1521年生)。この当時の六角氏の大敵と言えば三好長慶。そして、長慶の側近・松永久秀です(参照記事)。家督を継いだ善賢は、強大な三好相手にはなかなか厳しい日々が続く。その苛立ちもあってのことか、弘治3年(1557年)に隠居・剃髪。これ以降は承禎と号すことになる。隠居と言っても、実質承禎が指揮し、嫡男義治は承禎の庇護下にあった。

六角と浅井家との因縁

入道したのが功を奏したのか、北近江の浅井久政との戦いに勝利。元々は、京極家の家臣筋だった浅井ですから、六角と佐々木(=京極)の戦いがずーっと続いているわけです(浅井家による京極家に対する下剋上は、隣国越前の朝倉家との共謀とも云われる)。承禎に敗北した久政は従属を約束し、その証として隠居宣言。家督を継ぐ嫡男が偏諱を受けて賢政と名乗り、更に、賢政は六角重臣の平井定武の娘を娶った。この浅井賢政こそが浅井長政です。

浅井久政は、越前・朝倉家の栄華を羨み、六角の楽市を羨んだ。勿論、朝倉とは同盟関係にあり反目はしないけれど、六角の観音寺城下を出来れば手に入れたいと願った。そして攻撃してみたが敗北した。自業自得と言えばその通り。逸話では、元々久政は人望薄く、賢政待望論が渦巻いていた。なので、この敗北は実は浅井の中には好意的に受け取る向きもあり、久政の隠居は、内部でクーデターが起きた為とされる(永禄2年=1559年)。しかし、ダメな父親でも賢政は優し過ぎて完全に隅に追いやることが出来ず、これが後々の仇となる。

浅井家家臣団は、新当主となった賢政の改名を切に願い、それに応じて浅井長政と名乗ることになる。更に、平井定武の娘も送り返され実質上の手切れ宣言を行う。一方的通告に極めて気分を害した承禎に対し、更に追い打ちをかけるように国境の六角側の国人領主達に対して浅井は次々と調略の手を伸ばす。

怒り心頭に発した承禎は遂に進軍。両者は宇曾川を挟んで対峙する(永禄3年=1560年・夏/近江・野良田の戦い)。ほんとかどうかは知らないけれど、浅井勢1万1千。六角勢2万5千。この数字が本当なら雌雄を決する大合戦です。

そして、圧倒的な戦力で緒戦を制した承禎は油断し、その隙を突かれて総崩れ。呆気なく浅井長政の大勝利デビュー戦となった。

この報せで、長政を注目したのが織田信長。早速、織田から(勝利を祝す)使者が向かったとも云われる。当時の信長は美濃・斉藤氏との戦いに苦戦していて、その美濃に対して附かず離れずの六角氏を嫌っていた。その六角勢に対し大勝利を収めた若い武将は、信長にとってある意味、目標ともなった。

観音寺騒動

野良田の戦いに勝って戦国大名として華々しいデビューを飾った浅井長政に対し、承禎の信用は著しく失墜する。この戦い以前から、隠居したくせにいつまでも当主のように振る舞う承禎に対して、一部の者たちは快く思っていなかった。そして大敗北。家中には不満の声が渦を巻いた。

ところで承禎は、義治を子ども扱いしていたわけでもなく、最も信頼していた重臣の一人・後藤賢豊を義治の側近として付けた。が、義治は、何かと小言が多い賢豊を煙たがり避けるようになっていた。賢豊と並び『六角の両藤』と称された進藤賢盛は、何とか両者の溝を埋めようとするのだが・・・

永禄6年(1563年)10月1日。義治は、賢豊と嫡男に対する殺害命令を下し、流石に嫌がった家臣団ではあったが仕方なく選ばれた種村三河守、建部日向守の両名が剣を抜く羽目になり実行された。これは大騒動となり、進藤賢盛以下、多くの家臣達が承禎と義治父子を詰問。身の危険を感じた承禎父子は城を抜け出し逃げ延びた。

家臣団と承禎父子の和解は、次男の六角義定に家督が譲られる事と、いわゆる『六角式目』と呼ばれる家臣団主導の改正条例を義治が承認する形で成立した。が、これにより、六角当主の権限が低下。それに伴い、戦闘力も落ちぶれていった。故に、この後の近江全体に於いても、北近江・浅井家の影響力が極めて高くなっていく。

もう一つの楽市文化

楽市を本格的に始めた最初は六角家。ということはほぼ確実だが(有名じゃない”楽市”が何処かにあるかもしれませんけど)、六角定頼よりは遅かったけれど、永禄9年(1566年)の4月。富士大宮の六斎市を楽市とすることを家臣である富士信忠に命じたのが今川氏真。楽市実施の祝いとして徳政の実施を命じ、兵役免除なども実施した。これもまた、衰退する一方の今川家を何とかしようとした氏真渾身の経済策でしたが、武田や徳川の勢いを止めるような手だてとはならず、滅亡へのカウントダウンは進んだ。が、氏真の政策の良いところは、その後も交流があった家康に引き継がれることにもなった。徳川が築いた江戸文化にも、氏真の思いが少しは入っているのでしょう。

信長と安土

織田・浅井同盟成立

浅井長政と信長の妹・お市の婚姻時期には幾つもの説がある。どれが正しいのかさっぱり分かりません。そもそも、『信長公記』にはお市がほぼ登場しない。まったく、太田牛一は何やってんだか。日本の歴史上、超重要な政略結婚だから、何年何月に輿入れがあったのかは記録が残っていて欲しかった。因みに・・・

長政の嫡男である万福丸(側室の誰かの子)の生年は永禄7年(1564年)が推定ながらほぼ確実とされるのは、『信長公記』に、長政の嫡男が10歳で、(小谷落城後)信長の命令で関が原で磔にして串刺しにされ信長は積年の恨みを晴らしたと記載されているから。因みに、久政と長政の首は京で獄門晒し首にされた。惨い話だ。

と、長政の敗死を先に書いてしまったけど、お市の輿入れ=織田・浅井同盟の成立は永禄10年(1567年)前後と考えられる。それは、長政とお市の間に生まれる長女=茶々の生年が永禄12年(1569年)と記録されているから。そうなると、天文16年(1547年)生まれと云われるお市の方の輿入れは20歳を超えたかどうか辺り。武将の政略結婚的には遅い年齢の婚儀と言えなくもない。尤も、お市の生年も通説であって定かではない。

永禄9年(1566年)に、浅井長政と六角勢は蒲生野で合戦に及び、この合戦前後には六角家中から浅井に寝返る者達が続発し、当然の如く六角は敗北色を拭えず幾らかの所領を残してもらうだけで精一杯。近江は完全に浅井が支配した。そういう中で、信長と長政は同盟する。という事だから、勢いや京への距離も考えると、どちらかと言えば織田が頼み込んで同盟してもらったという印象もある。

承禎父子の返り咲き

何をやってももう浅井に対しては勝てなくなった六角でしたが、永禄11年(1568年)、信長が足利義昭を奉じて上洛をすることに際し、それに反発した三好三人衆側に付いて信長と戦う。が、観音寺城の戦い(=箕作城の戦い)で呆気なく大敗。城を捨て、甲賀へ逃亡して再起を図ることになるのだが、六角家中は、最早、義定での再建は難しいと判断して、再び、承禎と義治に実権が移る。この後の承禎・義治父子は結構頑張った。

織田・浅井同盟の破綻

元亀元年(1570年)。信長は、越前の朝倉義景を攻略するに当たり、徳川家康と浅井長政の参陣を求めた。家康は、それまで信長とは色々あったものの求めに応じて行軍に加わった。そして、信長は妹婿の長政を当然参陣するものと信じて疑わなかったが、浅井は、共に行軍するどころか織田・徳川連合軍の背後を突いて攻めかかる動きを見せた。この事に関しては、信長の妹・お市の報せで発覚したという逸話がある。

まさかの浅井の裏切りで挟み撃ちに遭う寸前の織田・徳川連合軍は、金ヶ崎(現在の敦賀郡金ヶ崎)で朝倉相手に決死の撤退戦を繰り広げ、どうにかこうにか京まで辿り着いた。この戦いには松永久秀が織田方に参戦しているが、信長が京へ下る道程に於いて極めて貢献度が高く、この戦いに於いて久秀と信長の”弾正同盟“は十分に機能していた。更に、木下藤吉郎(=豊臣秀吉)の働きも大きかったという逸話があるが信憑性には欠けるらしい。

長政は裏切ったのか、裏切ったわけではなく参陣が遅れた、或いは参陣要請は無かったのかなどは疑問のまま分からない。兎に角、実際に長政は動いていない。その隙を突いて、父・久政派が勝手にやった事というのが最たる説だが、久政とすれば、何とか実権を取り戻したくて物凄く判断を誤った行動らしい。長政は、信長に対して久政の行動を謝罪してその首を差し出せば何とか収まったことのようにも思えるけれど、優しい息子は、父を追い詰めることをせずに信長と決裂する。

名門・六角の終焉

この年(元亀元年)の夏、現在の滋賀県野洲市乙窪に於いて、落窪合戦と呼ばれる大きな戦が起きる。一方は、金ヶ崎の戦いの後に態勢立て直しを図っていた織田軍であり、もう一方は、観音寺城を追われた後に甲賀で再起を図っていた六角承禎・義治父子。この時の六角軍には紀州の雑賀党や甲賀武士(忍者)や伊勢長島の一向一揆衆などが加わり相当な大軍と化したが、しかし、訓練の行き届いた織田軍とはやはり力の差があった。有力諸将の多くを失った六角勢は完敗。

それでもまだ六角父子は信長に抗い、姉川の合戦から続く一連の織田包囲戦に反織田方で参戦するも尽く敗れ去り、400年以上に及んだ近江の名門・六角氏は事実上終わった。

その後、暫くは本来の遁世生活を送った承禎は、秀吉が天下人となって以降に何故か秀吉に拾われて御伽衆(お話相手、茶飲み友達?)として大坂で過ごし、慶長3年(1598年)3月に78歳で生涯を閉じている。嫡男義治は慶長17年(1612年)、次男義定は元和6年(1620年)まで生きた。敗北続きの武将父子としては、三人とも結構長生きだよね。

信長が、承禎父子の命までは取らなかった理由は、楽市が関係していると思われる。

安土城と楽市

安土城は、安土山にあった観音寺城の支城を取り壊して新たに築城された城と考えられる。多分、増築とか改築ではないでしょう。

安土に本拠を移した信長の課題は、400年以上もの長きに渡って六角氏と共に生きて来た近江の領民たちとどのように打ち解けていくかだった。信長は各地で民と対立し、比叡山や一向衆その他に相当苦しめられた。新たな本拠地とした近江・安土での暴動は起こされたくないのは当たり前。だから、其の地を長く治めて楽市を催していた六角に、知恵の一つも借りたいところだった。当時から近江商人は有名だったでしょうし、彼らとの縁を繋ぐ役目として六角を利用したかったのでしょう。尤も、承禎らがそれに協力したかどうかは分かりません。けれども、安土の領民や多くの商人たちは、楽市の再開を強く望んだ。信長という強力な領主が誕生して戦火に見舞われる心配も減ったのだから、次は楽しんで暮らしたい、儲けたいというのが民の本音。ということで・・・

信長が主導して楽市楽座を始めたと言うより、安定治政の為にはそれが必要だったので六角を真似た。というのが真実だと思います。

商人がより商売し易く、庶民がより楽しく暮らし易い環境を整えようとした信長の楽市・楽座では、武士も町人も分け隔てなく売買が行われた。民が喜ぶような新しい物、物珍しい物は何処にあるのか?信長の答えは明快で「海の遠く向こう側には必ずある」だった。

冒頭にはそのように書いたけれど、本当に信長が「民を富ませれば国も富む」という考えを持っていたかどうかは分からない。民は武力を好まない。信長は武力を好んだ。相容れないのである。信長の楽市楽座は、所詮は、自らのひざ元での一揆を起こさせない為の手段に過ぎず、民を喜ばすよりも自分の喜びを優先していたと思う。所詮信長は、「天下布武」をモットーにして、武力征圧による権力独裁を目指した人だから。

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