150人理論
人間が、集団を構成して機能する(相互理解し合えて行動出来る)限界人数は150人程度らしい。
150人を超えると頻繁に会うことも薄れ、あまり印象に残らない相手に対しては、信用に値する相手なのか?助け合う価値がある相手なのか?等々、判断を正しく下そうとする時に迷いが生じるという。
「150人理論」については、ユヴァル・ノア・ハラリ氏が、自著『サピエンス全史』の中で、軍隊を例にとって説かれています。
●30人までの構成とされる小隊長と部下達
●100人までの構成とされる中隊長と部下達
以上の軍隊は親密な関係を基にして上手く機能出来るので、正式な規律(守るべき決め事)は最低限で事足りる。
この程度の人数は、一族で固められた少数集落にも当て嵌められる。150人までの集落であれば、一族の長の下に強く結束出来る。
ところが、150人という限界値を超えてしまえば、組織化を更に明確化し、指揮命令系統も複雑化して、ルール(規則)も厚くしないと集団は忽ち破綻する。軍隊でも、大隊、連隊を正しく機能させる事は簡単ではない。簡単じゃないから上手に機能したら大きな勝利を手に入れられるし、その逆ならば大敗に繋がり立て直すことが困難になる。
創業家の決断
例えば小さな家族経営事業であれば、役員会やCEO(最高経営責任者)や経理部のようなものを置かずとも、家長の下に結束出来るし誰もが食うに困らない程度の繁盛を得ることは可能である。
ところが、繁盛していた小規模事業者が、扱い商品や店舗を拡大したり、店舗数を増やしたりした場合には、思わぬ経営危機に見舞われることは珍しくない。図体が大きくなれば、大きくなった図体に見合う装いに変えなければ亀裂が入るし破たんする。その時(限界値超過時)には、部分的に取り繕うだけではなく、根本から組織改編(改革)出来なければ、その組織を保つことは出来ない。
家内企業、同族企業からのスタートであったにせよ、創業家以外の人達の雇用がなければ機能しない。そして、創業家もそれ以外も全て同列にしてルールを作り直す。当然、経営陣には創業家以外からも加わる。創業家の金庫の中身さえ全て知られることになる。そういうことを忌み嫌うのならば、小規模事業者として踏み止まるしかないし、より大きな発展を望むのならば、多くの人に内部公開(情報開示)するしかない。
内部公開したくなければ、事業そのものを譲渡(株式譲渡)するしかない。
中国と日本の実状
サルやチンパンジー、ライオン、その他には、リーダーが直接見る以外の管理方法(統率方法)がないので、そもそも、集団限界数を超えたりはしない。集団限界数を超えそうな危機的状況(外部からの侵入)があれば徹底的に排除にかかる。
しかし、ホモ・サピエンスは、限界数を超える集団を難なく統率するリーダーや組織をこれまで無限に輩出し続けた。
ホモ・サピエンスのみが大集団を統率出来ているなどと書けば、鳥や魚や昆虫類の中にもそのような集団はあると言われそうだが、それは無視して先へ・・・
中国には、14億に迫る(実際は超えている?)人民が暮らし、共産党の長、つまり国家主席が独裁的に統率している。共産党員は1億数千万人程度で、党員ではないが共産党支持者という人達を入れても3億には及ばないと言われる。その他10億人以上の人達は、けっして共産党を支持しているわけではない。しかし、中国国民であることを望む彼らは、たった一人の党主席が絶対的な権力を握っている共産党政治の仕来り(党則)に従わざるを得ない。共産党が決めたルールに逆らった場合は罪人であることを認めさせられて受刑囚となる。
尤も、何処の国でも、国家国民である以上は法に逆らえば罪人になる。日本でも理屈は同じ。1億2千万人以上の国民が「日本国民」として一つの国家を形成している。議会制民主主義という名の下で、選挙に勝った政権与党の長が1億2千万超の国民の運命を握る。現在の状態で言えば、どんなに自民党が嫌いな人でも、個人的に自民党総裁が嫌いな人でも、日本国民で居続けたいならば自民党主体の議会が決めたルールに従って生きるしかない。
中国よりは言論の自由や表現の自由が認められ、人々は常日頃から好き勝手に政治批判、社会批判を行うが、越えてはならない一線を越えたら罪人として収監される。
大集団=虚実の世界
現生人類が、集団の限界数値を超えても尚、集団を形成し統率し得た理由は、「人間最大の能力である「嘘」吐き能力」を上手に活用出来ているからである(参照記事)。
嘘か真か分からないが、たとえ真実の部分が多くても脚色して物語化出来る。物語はやがて様々な形で伝わり、文字通り「伝説」となる。伝説は「神話」であり、それが信仰となり宗教となる。信仰や宗教に慣れたヒトは、大部族や国家を形成した。企業までも擬人化(法人化)することが出来た。
「法人」として認められた会社は、人格のような「社格(社風)」を持つ。そして、社格に合わない人間は排除される。
「国家」や「地方自治体」にも、それらしいものを求める人たち(いわゆる右寄りとか保守的なヒト)がいて、日本人らしさとか、例えば東北人らしさ、関西人らしさ、(何れも大雑把ですが)のようなものに煩かったりする。そして彼らがイメージする「らしさ」にそぐわないヒトを排除しようとする。馬鹿馬鹿しいが、そういう”らしさ”も虚構の一種。
実体のない虚構を真実のように信じ合い、見えないものを信じあうことに同じ価値観を見出し認め合って、仲間(同志)となる。ヒトは、全く以って不思議な考え方を持つ生き物である。然りながら、虚構というとんでもない武器を手にした時から、ヒトは、破滅(集団破裂)の危機を何度も迎えた。そのことは、集団が大きくなった時のルール改編話で先述した通り。仕来りを変えるのは苦痛だが、それが出来なければ発展はないし、無理な拡張(膨張)により内部崩壊する。
原人類や旧人類が、数万年~数十万年、長ければ百万年以上の自分達の時代をゆっくりと歩んだことに対し、現生人類は数千年の時を物凄く急ぎ足で進み今に至り、この先の千年?いや、たった百年先の時さえも保証されていない。特に、見ず知らずが勝手に友達とか思い合っているインターネット世界に何らかの倫理の執刀を入れない限り、その破滅の時は早まる一方だと考えられる。
中国は、逆にそういうことも警戒してインターネット内の言論統制を行っているのかもしれないが、一度知ってしまった蜜の味をヒトは忘れることは出来ない。例え情報統制下の中国人民であっても、一度でも仮想空間(ネット社会)での自由な叫びの楽しさを知れば、それが許されない現実社会を「破壊したい」という思いへ向かわせる筈。そして、如何に中国共産党が強くても、”統制されていない”フリー・インターネットに触れる事を完全に封じ込めることなど不可能です。
これから数十年の間に、インターネットを自由に使える社会を中国が成せたなら、そして自由政治で14億人(その頃は15億人以上?)を上手にコントロール出来る国家が確立されたなら、本当にそれが出来るなら、中国をモデルにして、7~80億の地球人類が内部崩壊する危機を回避出来るかもしれない。宗教、政治思想に関係ない世界共通倫理の共有化が出来る可能性があるからだ。でも・・・
不肖私には、そんな数十年後~百年後のそういう社会を見る機会がない。それはちょっと残念なので、せめて、10年内に劇的に変わる中国ならもう一回だけでいいから、大連とか上海とか北京とか色々とゆっくり旅行してみたい。結局、不肖私の我欲だ(笑)
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